風景の記憶絵

「まちの風景の記憶」を絵にしましょう。みんなが語り部、そして絵描き・・これは、まちのカタチメモリアル事業の記録です。

渋川の古地図

2009-01-10 22:05:15 | 歴史をひもとく
2008-1-10

 草津渋川地区は、以前は田んぼばかりだったと地域の大勢の方々はお話をしてくださいます。
 
  写真の古地図は、明治6年(1873)6月の「地券取調総絵図」です。明治6年なので近江国栗太郡渋川村となっています。赤い線 中山道・橙色 屋敷・黄色 田地・水色 川池です。

 図の説明によりますと(「古地図に描かれた草津」草津市発行・草津市街道文化情報センター編集)、村域はほとんど条里制におおわれ、隣村との境界も条里の線に沿って引かれている。開発が条里に基づくものであることが知られる。
 水系も完全に条里に従っていることがわかる。北の一ノ坪と二ノ坪の間を条と並行に走り、両岸に堤防のある川が葉山川で、渋川集落の北部から同じく条に走るのが伊砂々川であり、その他の細流もすべて条里に沿う。これらは人工的に改編されたものと見られる。また、葉山川両岸の溜池も一坪分ないし半坪分で、渋川集落北端の溜池も七条八里の一ノ坪にあたる。いずれも皿池で、条里施行時またはそれ以後に灌漑用水のために造成されたのではなかろうかと考えられる。
 渋川集落は伝承によれば、慶長年間(1596~1615)中山道整備のとき、南の矢倉村と同様に、街道沿いに移転されたというが、地割りから旧集落の痕跡は明らかではない。
 明治13年(1880)刊の『滋賀県物産誌』によれば、面積97町2反、戸数94軒、人口450人で、耕地は87町(水田率98%)、米1203石を産し、すべて農家であったが、街道沿いのため油商・造酒屋・飲食店を兼業とするものがいた。つまり当時はなお草津宿の延長としての性格があった。

 地元のかたのお話によると、この古地図の実物はかなりの大きさのもので、伊砂砂神社に保管されているのだそうです。
 
 

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