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ジャッキー・チェンの辛亥革命

2011-10-15 21:10:21 | 日記




10月22日から開催の「第24回東京国際映画祭」で、特別オープニング作品に、ジャッキー・チェンが30億円をかけて制作した、辛亥革命「1911」の上映が決まりました。(ジャキーチェンと言えば、2011年4月、総資産260億円と言われる財産を家族には残さず、その全てを不幸な人の為に使う事を公言したため、日本では全部日本に寄付するのかと誤解もされましたが、その個人資産の内300万香港ドル(約3200万円)と、チャリティーイベント費約2億7000万円は実際に東日本大震災への支援に向けられまました。)



1997年出版のアメリカ人のアイリス・チャンのロングベストセラーの日本語版が10年間もの間、出版阻止されたかつての時代と比較すると、民主党政権の日本は随分自由な社会になったのでしょうか。

いいえ、日本は昔から自由ですよ、表面的にですが。中国こそ、台湾の国民党創設者でもある孫文を英雄視した、ブルジョア的香港映画を、国民に積極的に自由に見せるなんて、随分大胆に表現の自由に踏み入りました。抗日映画でない革命映画が中国中に広められている事実をどのように解釈するべきなのか正直わかりません。そういえば、スマップのコンサートにも台湾女優を参加させるなど、日本文化や台湾文化に対する当局の姿勢が変化しています。

映画では、日本にあまり触れていませんが。孫中山は、あまりにも有名な親日的な象徴の一つです。辛亥革命に至るまでの日本との親密な関係は、第二次大戦後は『触れてはいけない過去』になったという人もいました。今回は、日本との関係改善や震災支援の視点がどこかに隠れているのでしょうか。政治に期待できない時代でも、民間友好の流れが実ることに期待したいです。


 辛亥革命はフランス革命に範をとり、ワシントンを理想としたブルジョア革命でした。しかし、革命の基盤をになったのは東京で、大正デモクラシーの自由な日本の時代に、中国留学生は2万人を越え、当時の日本留学生の間で革命思想が浸透して、在日中国人留学生が辛亥革命の実質的な主力となりました。

辛亥革命援助のため中国に渡り、孫文の亡命さえかくまった犬養毅に、孫文から入閣の際に宛てた手紙(1923年9月大震災後)の内容は、当時日本の本来進むべきであった政治の道を指し示しており、その孫文の先見性には、驚かされます。孫文のアドバイスに沿っていれば、おそらく、少なくともアジアと日本との不幸な戦争について回避できただけでなく日本は敗戦国にはならなかったという人もいます。大東亜の野望に憑かれ韓国併合・中国侵略でアジアの人心を失う道ではなく、日露戦争で勝利しヴェルサイユ会議で人種差別撤廃の主張を世界で最初に提案する日本は、アジアの尊敬を保ち続けるべき国でした。

 犬養毅への手紙に先立って、同年1月に孫文は「孫文・ヨッフェ共同宣言」を上海で発表し、ソビエトとの連帯を鮮明にし、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告を打っていました。

「思いがけなくも、日本には遠大な志と高尚な政策がなく、ただ武力的な欧洲の侵掠的手段を知るだけで、遂には朝鮮を併呑する挙に出て、アジア全域の人心を失うようになったのは、誠に惜しむべきことであります。・・・・・
そもそも将来の世界戦争は、言う者の多くは、必ず黄色人種と白色人種との戦争であるとか、あるいは欧洲とアジアとの戦争であるとか言っていますが、私は敢えて、それは違う。それは必ず公理と強権との戦争であろうと断ずるものです。・・・
思うに支那革命が一旦成功すれば、ベトナム、ビルマ、ネパール、ブータンなどの国々、インド、アフガニスタン、アラブ、マラヤなどの民族が必ず中国の後に続き、欧洲を離れて独立するからです。・・・
ところが日本政府は、この事を察することなく、之に引きづられて、反対しているのは、自殺と何ら異なるところがないのです。
 
もともと日本の明治維新は、実に支那革命の前因であり、支那革命は実に日本の明治維新の後果であり、この二者は、もともと一貫したものなのです。それによって東亜の復興を図ったならば、その利害は相同しことなのです。その密接なことは、もともと、そのような状態にあるのです。日本はどうして、中国革命に対して、欧洲の武力主義をとり、わが国を嫌い、わが国を害するのでしょう。・・・
日本がなおもロシアを興国としないならば、ゆくゆくは必ず水陸両面の央撃を受けるだけでしょう。英米の海軍は、すでに日本より強いこと数倍です。しかもロシアの陸軍は今日に於いては、実に天下に冠たりということを、知らないわけには、いかないのです。・・孫文は「革命いまだならず」と言いのこし1925年死去します(革命尚未成功 同志仍須努力)
 その後、孫文が期待をかけた犬養毅は満州事変後の1931年についに日本国の首相になりますが、暴走する軍部の意向に反した満州事変の平和的解決へのその努力もむなしく、1932年五・一五事件で日本帝国海軍の青年将校達に暗殺されてしまいます。ここから日本の歴史はいっそう泥沼に入っていきます。
1931年9月の満州事変後、日本関東軍による満州国領有計画は変更されて、辛亥革命で中国の権力を失った清王朝の皇帝を日本は担いで満州国の建国を宣言させました。犬養毅の暗殺後の1932年9月15日には日本帝国海軍出身の斎藤首相のもとで日本政府は満洲国の独立を承認します。(斎藤実内閣が調印した日満議定書では満州国の領域内における日本権益を尊重、満州国の国防と治安維持のために日本軍は無期限・無条件で駐屯、日本軍駐屯の経費はすべて満州国の負担、鉄道・港湾など交通機関の管轄・新設もすべて日本に委任、満州国政府の官吏に日本人を任命することが規定されました。)

 アジアの欧米列強植民地をその支配から独立させ、日本の中国権益の生命線であり大東亜共栄圏の要とされた満州国は、実態は日本関東軍の軍事下に置かれた植民地的傀儡政府であることが国際連盟のリットン調査団(イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ドイツの5か国参加)により明らかにされ「満洲の非武装・日中両国の「不可侵条約・通商条約」等の妥協案が1932年10月にしめされます。そして国際連盟は日本傀儡政権の「満州の独立は認めない」という勧告案を1933年2月24日国際連盟総会に提出し賛成42ヶ国反対日本1ヶ国、棄権1ヶ国で国際連盟が勧告を可決すると、日本の松岡洋右以下の日本代表団は国際連盟からの脱退を表明し、国際連盟の議場のその場を即刻退場してしまいます。日本は当時、不戦条約を結び国際連盟に結集していた世界中の国々から乖離する道を自ら選択しました。(1934年にはソ連の加盟で加盟国数が60カ国にも達した国際連盟でした。アメリカはモンロー主義から参加はしませんでしたが、実質的に関与していました。)まだ経済的に日本が追い込まれた時代でもありませんでした。琉球や朝鮮半島や台湾に留まらず、日本は欧米のように植民地を拡大したかったのだと言う人もいます。日本の国際連盟脱退行にも影響されてヒットラー・ドイツが国際連盟を脱退していきます・・。(孫文の懸念した自殺行為の道を日本は突き進んだともいえますねJ。孫文が最後の神戸で訴えた東洋王道の干城に日本は成れなかったのです。そして西洋覇道の鷹犬として中国侵略に進んで行きますP。


 当時は世界恐慌下でした。日本国内では関東大震災と東北飢饉が発生しました。東北三陸沖地震で(1500人以上の死者行方不明も1500人以上)が発生、1933年から1935年にかけた東北飢饉では娘の身売りが広まり栄養欠食児童が続出します。1929年から1931年に日本の海外輸出は76.5%減少、海外輸入は71.7%減少しました。1931年の国内の失業・半失業者は約400万人にもなり、戦前珍しかったストライキも2415回に達したと言われます。

東北出身者が多かった陸軍の皇道派の青年将校や兵士達は昭和維新の気概で1936年に2.26のクーデターを起こします。政府は戒厳令を出し一旦はクーデター兵士と妥協を図ろうとしましたが、昭和天皇の怒りをかったため、天皇勅命の鎮圧が断行され陸軍皇道派には極刑が下されます。

 世界恐慌でしたが、1933年日本の綿製品輸出は世界一を達成し、日本は貿易大国に向かっていました。しかし、保護貿易へと世界の枠組みが変わって行くなかで日本は、貿易政策に行きづまり、中国大陸に活路を求めたのだと見る人もいます(中国経済は銀本位制で世界恐慌の影響をまだ受けていませんでした。)(当時、日本は西欧の真似をして朝鮮半島等に植民地を拡張し始めます。しかし、その背景には、常に米英の援助と策略がありました。石油資源等もほとんどアメリカ経由での輸入でした。日清戦争は英国の援助で日露戦争はアメリカのユダヤ資本の援助で勝利したとも言われます。しかし、この米英の戦略の背景に気づかなかった日本軍は、本来同盟すべき中国に武力侵略して英米をも敵に回してしまうのでした。一方、その背景を見抜いた中国は、米英と国際連盟加盟国に連合したまま、その後抗日の道を選びます。)

 日本は満州の軍事制圧・傀儡政権樹立を進める一方で、急速に日本の資本を満州に投下し、日本産業の中国大陸進出を実現して行きます。満州国は実質日本の一部のように開拓し、満州は近代産業国に生まれ変わります。1934年から1943年まで大連からハルビン間を運行する特急アジア号は当時東洋一の最速130キロと欧米の高速鉄道にも負けないスピードを誇りました。しかし、一方で日本は、満州の中国農民の労働者化を急速に強制的に進めました。1940年には131万人にも達した満州の中国人労働者でしたが、そのうち42万人は強制労働に従事させられたと言われています。また日本は密貿易にも手を染め関東軍が膨大な利益をあげました。もともと満州に蔓延る阿片・モルヒネ・コカインの取引や麻薬製造さえ進めて国際連盟では批判を浴びました。(当時、満州だけでなく、まだ日本軍とは深刻な対立をしていなかった毛沢東軍の地域で栽培されたアヘンさえ、関東軍の特務機関は毛沢東軍から買い取って、利益を得ていました。)

 日本政府は1936年8月「満州開拓移民推進計画」を決定し20年間で500万人の日本人を国内から満州に移民させる計画を発表しました。2.26事件の鎮圧を期に軍部勢力の政治的圧力は増大し、日本政府の満州進出・移民計画の発表でさらに日本関東軍は勢いづいていきました。国際連盟を脱退して世界で孤立したかに見えた日本でしたが、ドイツもイタリアも日本に続いて国際連盟を脱退し日本に連帯します。1936年11月にはソ連と対立するドイツとの間に日本は防共協定を結び翌年にはイタリアがこれに加わり、日独伊の三国は結束しました。


 1937年7月7日に北京西南方向の盧溝橋において、ついに日本軍と中国(南京政府)は軍事衝突事件を起こします(中国では、満州事変と同様に日本軍側の自作自演と言われています。一方日本では、共産工作委員の陰謀説まで出されて日本軍の行為を免罪しようと画策もされたと言われました。)

 しかし、事実として、盧溝橋事件は日本が当時、満州事変で進軍した中国東北の瀋陽はほど遠く、北京近郊の中国軍の覇権領土内での事件でした。義和団事件後の外国軍「駐兵権」を盾に、当時、日本の関東軍は中国軍の目の前の北京近郊の豊台に軍を駐屯させました。中国の強い抗議も無視し、1936年には1800人から5800人に日本軍の駐留部隊が増強されました。満州を廻る日本軍の占領で対立した日中間はいつ本格的な衝突が起きてもおかしくない状況になったと周辺の列強諸外国は見ていました。

 事件が発生する1937年7月の初頭に豊台の日本駐屯軍は挑発的な軍事演習を中国軍の目の前の北京近郊の盧溝橋で始めたのです。自作自演行為が後に証言されて関東軍の謀略が明らかになった満州事変の柳条湖事件とは違い、戦後も明確な事実関係は未だに未解明ですが、日本軍が演習で軍事挑発して中国軍の介入をあおった客観的事実は明確でした。それは決して偶発事件ではありません。日本陸軍参謀本部第一部長の石原莞爾は日本軍は「豊台に兵を置くことになりましたが、之が遂に本事変(「支那事変」)の直接動機になつたと思ひます」(「石原莞爾中将回想応答録」参謀本部作成)と支那事変の根本原因について冷静な意見を残しています。石原莞爾らは満州事変では関東軍の自作自演行為の謀略の首謀者の一人であったことが判明しています。)

 しかも、事件後すぐに中国側の申し出により盧溝橋事件は7月11日に日中間の停戦協定が成立したのですが、盧溝橋事件に抗議した抗日・排日・反日活動が中国全土で発生します。7月29日には日本軍が中国人に作らせた傀儡政権「冀東防共自治政府」の保安隊が日本軍による誤爆を契機に日本側に叛乱をおこし特務機関長細木繁中佐以下の日本人居留民260名を殺害する通州事件が発生します。

 上海では8月9日、日本の大山中尉ら2名の殺害事件が発生します。上海市租界の諸外国が参加していた6カ国の国際委員会は支那側に日本への謝罪と停戦協定を守るように勧告しますが、上海では盧溝橋事件に反発した国民党軍約3万人が国際共同租界の日本人区域を包囲します。国民党軍は日本軍の上海上陸に備えて揚子江の呉淞鎮と宝山に約1千名の中国軍を配置します。一方、上海の日本領事は国際委員会を通じて、中国軍の撤退を要求します。しかし上海市長は中国は既に盧溝橋事件(満州事変)で日本から侵略をうけているとの声明を発表するにいたり、8月12日に上海の日本海軍は、日本の陸軍省に30万人の兵力派兵を要請します。8月13日に日本軍が租界地を出て中国保安隊を射撃したことを契機として国民党軍が日本軍陣地に対し発砲を開始するにいたり上海事変が起こります。上海では4ヶ月間の市街戦が行われ日本軍にも多くの犠牲者がでますが、大量に増強派兵された日本軍は国民党軍を全面撤退させ11月には上海を完全制圧しました。
 
 当時、日本の近衛内閣は、「支那軍の暴戻(乱暴)を膺懲(こらしめる)し…」と日本国内で政府の声明が発表されます。シナの横暴をこらしめるため、中国・国民党政府の首都・南京に日本軍が侵攻することになり、8月15日には南京空爆が開始されます。9月には天皇さえも「中華民国の反省を促し速に東亜の平和を確立」すると強弁するに至りました。「盧溝橋事件」「上海事変」「通州事件」など、日本国内では全ては、シナの乱暴行為として大報道され、その「こらしめ」を理由に「支那事変」と称した戦争が開始されたのです。そして中国大陸に日本から大軍の派兵を得て勢いづいた関東軍は、上海の制圧に留まらず南京にも戦火を拡大していきました。
 
 国民党の首都南京には、日本軍は1937年8月から空爆を3カ月間も続け12月13日ついに日本軍は南京を陥落します。その際の南京侵軍行為(略奪と殺戮の野蛮さと捕虜等の虐殺)についての報道が南京大虐殺事件として、世界に流れました。欧米を中心とした国際社会から日本は、一斉に非難を浴びることになります。しかし、日本国内では、その非難報道は情報統制されて報道されず、日本は、単に支那事変を理由として1940年に開催予定であったアジア初の東京オリンピックと札幌冬季オリンピックを1938年に開催返上します。翌年1939年には満州国とモンゴルとの間の国境線をめぐって日本軍とソ連軍が衝突するノモハン事件が起こり第二次ノモハン事件では日ソともに大きな被害を出して休戦にいたりますが、戦意を煽るため大本営発表は日本の勝利報道ばかりで、日本側死傷者や撤退責任者の自決等の情報が伏せられました。

 日本が防共協定を結んだドイツは、ナチスの再軍備・大軍拡路線で第三帝国(千年王国)を築くために日本に続いて国際連盟を脱退し1939年にはポーランドに軍事進軍します。同じく日本と防共協定を結んだイタリアもスペイン内戦干渉・エチオピア軍事侵略を図り国際連盟を脱退します。そして日本とドイツとイタリアの三国は改めて1940年に日独伊軍事同盟を結びます。その結果、アメリカの経済制裁の強化が実施され、それに反発した日本は1941年にマレー半島のイギリス軍とハワイのパールハーバーのアメリカ軍に同時に先制奇襲攻撃して、アメリカ・イギリスを中心とする国際連盟に結集する連合軍を敵に回した第二次世界大戦へとドイツ・イタリア等とともに突き進んで行きます。
 
 最終的に日本が敵とした国際連盟を中心にした連合国軍側への参加国はフィンランド侵攻で国際連盟を除名された社会主義国ソ連も参加し47カ国に達します。)孫文が犬養毅に指摘したようにアメリカ・イギリス・ソ連側は当時の国際世界における圧倒的軍事力を有していただけでなく第一次世界大戦後、不戦条約を結んで結集した圧倒的多数派でした。経済面でも1938年の統計ではアメリカ・イギリス・ソ連の工業生産だけで当時の世界の工業生産の60%が占められていました。

 なお当時の軍国主義下の日本では、五・一五の犬養毅日本国首相暗殺の犯人であった日本海軍将校達は、全員恩赦で釈放され、満州や中国北部で枢要な地位につき、日本官邸だけでなく中国を血に染めて行く指導者となっています。

 ジャッキー・チェンの映画にも出てくる中国女性革命家の秋瑾も日本との関わりが大きい一人です。離婚し二人の子を中国に残し日本留学、東京に来て青山実践女学校に学び中国人留学生と交わるうち、秋瑾は革命思想を抱き中国の革命組織に入会しました。帰国後革命運動を行い密告により1907年7月紹興軒亭口の刑死場で斬首、処刑されたのは、まだ三十一歳の若さでした。彼女に卑怯ものとしていわゆる「死刑宣告」された日本留学生の一人でもある魯迅の書物にも名が出てきます。秋瑾は詩人でもあり、中国女性解放運動を歌う行動の女性であり、その後の中国革命運動の精神的支柱の一つとなりました。(秋瑾赴日本,加入同盟会,被推为评议部评议员和浙江主盟人,翌年归国,在上海创办中国公学。 “女侠”秋瑾:为革命流过血的中国妇女。)

秋風起兮百草黄   秋風之性勁且剛    能使羣花皆縮首    助他秋菊傲秋霜   

秋菊枝枝本黄種  重樓疊瓣風雲湧 秋月如鏡照江明  一派波敢搖動

 昨夜風風雨雨秋 秋霜秋露盡含愁   有葉畏搖落  胡鳥悲鳴繞樹頭 

自是秋來最蕭瑟 漢塞唐關秋思發 塞外秋高馬正肥   將軍怒索黄金甲

 金甲披來戰胡狗  胡奴百萬囘頭走    將軍大笑呼漢兒   痛飮黄龍自由酒  


秋瑾処刑辞世の辞(84年上海映画より)
秋風秋雨愁殺人


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