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そよ風に乗って

過ぎ去った思い出や、日々の事を
そっとつぶやいています。

これでちょっと一区切り

2016-11-06 00:11:07 | 私の事

人が死んだあとは

思い出してくれる人の思い出の中で生きるそうですが

確かにね。

 

私と姉が亡くなったら、両親の事を思い出す人はいなくなる。

それで、終わり なのでしょう。

 

そうやって、遠い 遠いご先祖様から、命と思い出が次々と

受け継がれながら

今日に繋がっているのだなと思うと、、大切な命ですね。

 

父は次男でしたが、長男は幼いうちに亡くなったので

一人っ子の跡取り息子でした。

でも胸の病で退職したあと、死を悟りながら最後の数年を母との共通の趣味だった

ギターの教授となり、関西スペインギター同好会を設立して

ギター界の発展のために、尽しました。

それは、家族を養うための仕事でもありました。

 

第二回、西日本ギターコンクールを主催しました。

コンクール直前に父は亡くなり

母は病床に有ったので

父方の祖母と、小学生の姉二人が代わりに出席。

祖母がサポートされながら賞品を授与したそうです。

前列右端には友人の小原安正氏がおられます。

 

小原さんのお名前は、子供の頃に聞いて記憶に残っているほどですから

父が亡くなった後も、周りの大人たちの話の中に名前が出ていたのでしょう。

9号の機関誌ギタリストに載っている小原氏の追悼文の書き出しです。

  

そして最後はこのように締めくくっておられます。

お二人の遺志に私は続こう。

愛情に、火となって燃えよう。

そして、あかあかとギターの灯を揚げよう。

それがお二人と、人類のものであるように心から希って。(1951.1.23)

 

そして、すでにギタリストとして活躍されておられたかたでしたが

その後も、沢山のギタリストを育てられて、

そのとおり、火となって燃えられた素晴らしいギタリスト人生を送られています。

 

ギタリスト5号の記事の中で演奏会情報によると

父のギターアンサンブル第6回定期演奏会が 昭和24年、11月10日に

神戸教会で行われています。

両親と11歳の上の姉、そして生徒さん6名が演奏しています。

 

上の姉だけ、親の手ほどきを受けてギターが弾けました。

6歳年上ですから、6年も多く親といられたのですものね。

先に生まれた者の特権ですね。

 

上手くまとめられないまま

これでちょっと一区切り。終わりにします。 

親の話はまた別の形で書く事があるかもしれませんが。

 


昭和24年、西日本ギターコンクールの事

2016-11-04 23:16:24 | 私の事

 

父の発行した、機関紙ギタリストの話の続きをしたいと思います

機関誌から父母の足跡を見ているのですが

足跡の一つは西日本のギターコンクールを2回開催したことです。

そして2回目の開催直前に父は亡くなってしまいました。

昭和25年1月発行(5) の機関誌ギタリストの

第一回西日本ギターコンクール の特集記事です。

昭和24年11月20日(日) 大阪櫻宮公会堂で行われています。

 

参加者、記念写真が載っています。

記録では

入賞者発表のあと、参加者招待慰労茶話会が、大阪梅田阪急喫茶で行われ

入賞者発表演奏会が11月21日(月) に京都市 YMCAホールで開催されています。

主催は、京都ギター音楽同好会です。

そして、入賞者の発表放送。12月12日(日)にBK(大阪)より全国中継放送。

 

と、コンクールのあと、入賞者たちは演奏発表の場を与えられています。

そして小さい囲み記事にはこのような話が載っています。

2位入賞の亀井和夫氏が出身地の岡山県で

新聞社や放送局、各種文化団体に盛大な歓迎を受けたとのこと。

 

コンクール開催の為に主催者として父は奔走したと思います。

父の残した業績として今さらながらですが、誇らしく思います。

 

神戸に住んでいた父が発行した機関紙ギタリストが果たした役目は

日本のギター愛好家の交流を図り、ギタリストたちの活動を伝え

楽譜や写譜の販売を手掛け、

そしてコンクールを開催してギタリストたちの腕を磨かせたのだと思います。

敗戦後の神戸で音楽の火を灯そうとした父の話。

 

読んでくださって有難う。m(__)m

 


私のファミリーヒストリイ③・・機関紙ギタリストで知る父の足跡

2016-10-31 23:01:11 | 私の事

 

手元にあるのは、父が設立した関西スペインギター音楽同好会発行の

機関誌ギタリスト5号と9号です。

1~8号までは父が発行し、9号は両親が亡くなった後に発行して頂いた

最終特別号になっています。

(左、9号本誌最終特別号、昭和26年3月10日発行、 右、5号、昭和25年1月発行)

色あせています。いつ誰に渡されて持っているものなのかは覚えていません。

今回、資料として、読んでみると、大変興味深いものがあります。

父は余命を知って、わずか2年の間でしたがクラシックギター界の発展に役に立ちたいと

命を燃やしたのではないかと、そんな思いが伝わってきます。

 

まずは5号ですが、この号は、武井守成(もりしげ)氏の急逝された記事と

第1回西日本ギターコンクールの記事特集です。

記事によると

武井守成氏は「ギターの父」と仰がれた、偉大なギタリストにして作曲家で

昭和24年(1949年)12月14日に急逝されました。60歳でした。

 

武井氏については、インターネットで名前検索して頂くと、詳しく知ることができますし

ユウチューブで作曲されたギター音楽も聴くことができるので、ぜひ聞いてみてください。

 

そして、父が武井氏の作品集第1号の出版にかかわり

18曲が曲集となって頒布されています。

この曲集の為の写譜が武井さんの最後の仕事となったそうで、

令嬢からのお便りとして載せられているので知ることが出来ました。

そして氏の随筆 〇アルアンブラの思いで、〇作品番号 の2点も載っています。

最後に書かれた随筆が父の機関誌ギタリストであったことは光栄です。

(5号、1面)

 (武井氏ご令嬢から寄せられたお便り) 

武井氏の最後の仕事の様子を書いて頂いています。

 (武井氏の作品集頒布を知らせる内容の記事。武井氏自ら写譜されて

筆跡が青写真として窺える と書いてありますね。)

  

父は事業部として、楽譜の頒布もしていたことを知りました。

両親は私が6歳の時に相次いで亡くなりました。

思えば、あの頃は父が座敷の大きなテーブルで

いつも書き物をしていた姿を思い出します。

 

次回は、父が主催の西日本ギターコンクールについて、

ギタリストの内容から書きたいと思います。

 

 


私のファミリーヒストリー②・・母とギター

2016-10-25 11:51:16 | 私の事

 

母はギタリストでした。

生まれ育った私の家は、終戦前夜に焼夷弾で焼かれたあとに

建て替えられた、平屋建ての小さな家でしたが

その後一部屋建て増した洋間が玄関を入ってすぐのところにできていました。

 

思い出す風景。

それは母がその部屋でギターの練習をしている姿です。

私は、ギターの聞こえる庭で一人で遊んでいました。

口の中には風船ガム。もう味もしないけれど、時々ぷーっと膨らませます。

ぱちんと割れたガムが顔にクシャンとくっ付きます。

それを再び口の中に戻して、口の中でのおもちゃでした。

 

トイレに行きたくなると、そのガムを母に預けに行きます。

母はギターを弾きながら、口を私の方に付きだして、口移しにガムを預かってくれます。

そして、用が済むと、ふたたび口移しでガムを受け取ります。

 

今の時代、そんな事をしたら、親の虫歯菌が付くからだめよ、と言われるのでしょうね。

母は譜面を見ながら難しそうな曲を弾いていました。

私は邪魔しないでおとなしく庭でおままごとをしていたのでしょう。

思い出す母との情景です。

 

父はサラリーマンでしたが、亡くなる3年前に退職してギターの教授になり

関西スペインギター同好会を設立して、

ギタリストと言う機関誌を発行していました。

父はすでに、体を壊していたのです。

亡くなるまでの数年間、コンクールを2回開催しましたが

2回目のコンクールの準備に奔走して本番の時には亡くなっていました。

 

最後のギタリストの機関誌は、父の追悼の号として

発行されています。9号でした。

その機関誌で、父の思い出を語って下さっている方々の文で

私の知らない父の姿を知ることが出来ました。

ギターの普及に最後の命の火を灯した。そんな人だったようです。

母は、その数か月後に亡くなり、二人の追悼号になっています。

また・・・・

 


私のファミリーヒストリー・・母と地震

2016-10-24 07:35:51 | 私の事

 

先日、都知事、小池さんの定例記者会見のテレビ中継が始まって間もなく、

鳥取地方の地震速報が入り、やがて画面が地震情報に切り替わりました。

 またしてもマグニチュード6の大きな地震。いったい日本は・・・・・ と不安になりました。

 

 前回の記事で、若くして亡くなった両親の記憶を綴ってみたくなったと書いたのですが

さて、何から書けばいいのかと考えていた所でした。

 

母の記憶で私の脳裏に残っている映像の1枚に、地震の情景が有ります。

ある日地震で家が揺れました。

とっさに母と一緒に、縁側から外に飛び出したことが有るのです。

庭から、揺れる家を見ていました。少し大きな揺れだったのでしょうね。

その時の、母が家を見上げている姿が、なぜか忘れられない情景として記憶に残っています。

 

日中でした。姉たちは学校に行っていたのでしょう。

そこにいたのは母と、祖母と私だけだったと思います。私は4歳か5歳頃と思います。

 

母は東京生まれですが、一家は大阪に転居していました。

最近になって改めて知った事ですが、

それは関東大震災(1923年)により、母の父親(祖父)の仕事関係がダメージを受けたので

大阪に転居して活動の場を移したということらしいです。

祖父はピアニストでしたが、その後50歳で亡くなっていますから

祖母たちから聞いたことがあるだけの人です。

脳溢血で突然だったと聞かされていました。

ネットで検索すると、祖父の事を研究して下さってる方がいてビックリしました。

一昔前、図書館の人名事典で調べたことが有るのですが大したことは書かれていませんでしたが

インターネットは本当に有り難いですね。

 

今にして思うと、あの時の母は、地震の記憶がよみがえっていたのではないかと

思いました。そんな風情が私に焼き付いて残っているのかもしれません。

そして関東大震災の時、母は何歳だったのかと計算してみると5歳でした。

それから、大阪に住んでいたのですからもう大阪人でしたね。

 

女学校は当時の大阪府立堺高等女学校を卒業していますが

父と知り合って恋愛結婚するのは、その頃

石原マンドリン合奏団に入団し寺門渓村の門下生となってギーターを習っていたそうで

そこが二人の共通点でした。

両親はギターで結ばれた と周りから聞かされていたのは、それゆえなのです。

何故ピアノではなくギターなのか。

それは一つ年上の姉がピアノを選んだので母はピアノを姉に譲ってギターを習ったのだと

その伯母から聞いたことが有ります。

父親が家にいる時はピアノを弾かせて貰えず、

二人で練習するのは時間的に無理だったと言っていました。

 

手元にある数少ない資料で、私のファミリーヒストリーを たぐり寄せてみます。