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犬の眼

『日記』卑しさから清浄なることまで

ヘッセのポートレイト

2006-04-26 01:27:57 | Weblog
この写真は、世田谷文学館のエントランスに向かって左手に広がる風景。
しかし、なかなか風情のある庭とこの蔵のような建物に入場することはできない。本館は、まったくの現代建築である。




世田谷文学館の、ヘルマン・ヘッセ展を見に行ってきた。
と書くと、ヘッセの作品によく親しんでいるように思われるかもしれないけれど、じつは、かの有名な『車輪の下』さえも読んだことがない。
10年近く前に、随筆集『庭仕事の愉しみ』を買ってきて、そのあと数ページは読んだかもしれないが、ずっと本棚に積まれてホコリをかぶったたままになってる。
作品に接したこともないのに、なぜだかヘッセのことは気持ちに留まっているのだ。
ひとつには、その風貌によるところが大きいのかもしれない。
よく目にするのは晩年のポートレイトで、痩せているけれど弱々しさはまったく感じられなくて、温かさと、冷徹なほどの知性が同居している。そして、植物の繊維で編んだ帽子とか、何個も所有していたという丸い眼鏡、よれよれなのにサマになって見えるシャツやズボン…。それがとてもカッコいいのである。味があるのである。自分の若い息子たちと並んでも、お洒落では断然勝っているし、堂々としている。
浅はかに、単なるファッションとして見ていると思われると困るが、僕としては、なぜこのような魅力的な味わいを持つポートレイトとなりうるのか、それはいったいどこから、いかなるものが作用して起こるのか、それが知りたいのだ。

ヘッセとはその質が異なるが、ポートレイトの魅力的な人物として、例えば映画俳優のジェームズ・ディーンの写真を一枚、眺めるとしよう。
そこには、上目がちで背を丸め、ティーンエイジのいらだちと孤独を一身に背負ったかのような彼がたたずんでいる。
しかし、それだけを見て、彼の本質を判断することはできない。
いつだったか、同じフォトセッションで撮られた、少しずつポーズの違う似たような写真が何枚もあるのを知ったときは、最初に受けた印象をかなり修整しなければいけなかった。
つまり、彼は俳優として、あるいはアーティストとして、自分というものを創作していたのである。もっと平たく言えば、彼のポートレイトから伝わってくる孤独感の何割かは、「自分をどのように見せるか」という、計算によって生み出されたものなのだ。実際問題として、生身のいらだちや孤独感を写真に焼きつけることはなかなか難しいだろうし、それだと偶然の産物となってしまう。
彼はプロフェッショナルなのだ。
彼は、孤独というモチーフを、大衆が手に取って見られるよう、表現しているのである。

ヘルマン・ヘッセが、自分のポートレイトを撮らせるとき、ジェームズ・ディーンと同じことを考えていたとは、それはまったく思わないけれど、写真に撮られることを十分に意識していたことは間違いない。かなりすすんでポーズをとっていたように思われるし、洋服の着こなし、表情にも”慣れ”みたいなものを感じる。余裕がある。
今回の展示のなかにも、魅力的な写真が数点、パネルとなって飾られているが、僕はそのような写真を撮るカメラマンについて知りたいと思った。ヘッセはなんと写真嫌いだそうで、カメラマンを近づけなかったとの記述があったが、ではそんな彼がなぜ素敵なポートレイトを多数残しているのか…? それについては、そこにつづいて書かれていることを読んで、「なるほど…!」と理解できた。しかし、僕が膝を打って納得したその真相を、ここで明かしてしまうのももったいない…。まだご存じない人の、知る愉しみを奪うことにもなる。だから、ここでは伏せておくことにする。

彼の風貌には、その人生と内面が滲み出し、彼でなければ表出し得ない味わいがあるのだろうから、一概に僕が外見だけにとらわれているとは言えないとは思う。まあもちろん、自分と比べても、頭が小さくていいな、とか、鼻が高いとか、あごの線の美しさだとか、ある観点からの彼の造形的優位を感じざるを得ないのだけども。
彼の人生を俯瞰して見て感じたことは、彼は著名な作家であり随筆家であり、水彩画と庭仕事を楽しむひとりの趣味人であり、3度の結婚をした男性、夫であって、子どもの父親である…。これら複数の顔を持っているということだ。それは、世の中で唯一、僕自身も含めて誰もが同じだけ公平に所有している”時間”というものを、人一倍有意義に、余すことなく使っているということなのではないか。
同じだけの時間を、ヘルマン・ヘッセは存分に使い果たし、僕は余らせ、腐らせているのではないか…。
かの文豪と僕なんかを比較するのは、我ながらバカバカしいとは思うが、人間として、なんと恥ずかしいことかと思ったしだいである。

ちなみに、常設展もけっこう面白かった。
世田谷ゆかりの作家の直筆原稿などを中心にレイアウトしてある。
正直言うと、僕は小説はほとんど読まない。小説というものは作家の私的な吐露であるところが大きくて、しかも創作だから、僕にとって忍耐を強いるものだ。まあ、僕の文学的…、というか国語的能力の低さにもよるけれど、かなり気持ちに余裕がないと読めない。
でも、そんな僕でも、小さい頃の「作家になりたい」という夢を思い出させ、また書いてみたいな、と思わせるだけの展示だった。
ヘルマン・ヘッセ展がおもしろかったから、常設展は期待せずに見たけれど、まずまずの拾い物だった。

『席は確保できませんでした』

2006-04-23 12:17:45 | Weblog
どうしてもチケットをとりたいクラシック(器楽)のコンサートがあって、僕はあいにく発売日に仕事だったので、人に頼んで電話してもらった。
でも、会場のキャパがわずか300人足らずだから、つながらないままアッというまに完売してしまった。
その演奏家は、一般にはまったくと言っていいほど知られていないと思うが、その世界では”プリンス”と呼ばれる海外のスター。だから、そもそも席数300というのは無理がある。それだと、大きめの結婚披露宴程度の規模ではないか。
ファンにとっては、アーティストにそんな間近で接することができるから、大ホールでやるよりも魅力だ。
だから、最初からチケットをとるのは難しいかな、と思っていたのだけれど、案の定の始末である。

仕事から帰ってネットでも探してみたが、めぼしいところは軒並み予定枚数終了。僕はオークションのような場所で手に入れるのは原則的に避けたいので、ヤフオクとか、そういったサイトは確認していない。
そんななかで一軒だけ、ある有名なポータルサイトのチケット予約のページに、残席があるという表示をみつけた!
喜び勇んで、問われるままに個人情報とカード番号を打ちこみ、購入ボタンをクリック。
…ところが、なんと、「席を確保できませんでした」の表示が…!
やり直そうとしても、公演名にバツ印がついて、すでに購入ボタンそのものが表示されなくなっている。
必要事項を打ちこんでいる間に完売してしまったのだろうか!?
いやあ…、それにしたって、カード番号まで打ちこませておいて、それはないだろうという感じだ。
なんか、とても無礼だと感じるし、ネット世界でのセキュリティが危惧されている時代に、無意味に、個人情報、カード情報を流したくないというのが、あたり前の心情だと思う。
チケットがとれないんなら、カード番号なんか教えたりしない。
仮にそのサイトのセキュリティは万全で情報漏洩の危険はないとしても気分が悪いし、システム的な問題として、Mac OSだとス●イウェア(ヘタに検索にひっかかると面倒なので念のため伏せ字にしました)などのターゲットになることはあまりないらしいが、100パーセント無いとは言えないから、そちらのほうにも不安が残る。…もっとも、ス●イウェアが侵入しているなら、いくら僕が信頼しているサイトであっても情報は漏れてしまうのだけど、自分が納得して情報を打ちこんだか否かで、結果に対する気持ちは大きく違うからね。
今回のことは、ちょうど完売のタイミングにあたったとか、ある程度しかたなかった部分もあるのかもしれないけれど、ほかに方法があるはずだ。チケットを確保できてから個人情報の入力に移る、という手順が一番妥当だと思うし、現実にそういうシステムにしているところもあるのだから。

日本の有名プレイガイドはほとんど、ネット上では、まず個人情報、カード情報を入力してからでないと、チケット購入ができない仕組みになっているようだ。
僕の個人的な感じ方なのだけど、チケットぴあだとかイープラスといった、その業界で名の通ったサイトなら、まあたぶん、おそらくは大丈夫なんじゃないか、と、気持ちのなかで妥協できなくもないのだが、今回使ったサイトは、有名なんだけどどことなくうさん臭くて、僕はあまり好きではない(今回の場合、それでも使わざるを得なかった…)。だから余計にイヤな気分になったんだと思う。
そのサイトは、プロ野球新規参入騒動の時にあとからしゃしゃり出てきて、ファンやフランチャイズ候補地の気持ちなど考えずに、自分の商売上の旨味という観点だけから騒動をさらに大きくしたという経緯を持つ会社が運営している。ビジネス上の戦略としてそれでも良いのかもしれないが、経済界にあまり好印象を持っていない僕としては、腹立たしく感じたのを覚えている。
その騒動については、もしかしたら裏でいろいろな思惑、画策、しがらみなどがあって、素人が一概にどうこう言える問題ではないのだろうが、表に出ている部分だけ見たら、対立していたライバル会社よりも、(その件に関してだけ言えば)この会社と、その社長のほうが僕は嫌いだ(まあ、結局はどちらもキライなんだけどね)。

様子の良い身なり

2006-04-20 09:00:35 | Weblog

検索サイト『Google』のトップページを開いたら、タイトルロゴが、画家のミロ風なデザインになってた。
このサイトでは、記念日とか祝祭日、誰かの誕生日、その日に行われているイベントにちなんで、ロゴをそんなふうにアレンジして表示するということをしている。
「ははあ、今日はミロの誕生日なんだな」
と、調べてみると、やはり4月20日は、1893年にスペインに生まれたシュルレアリスムの画家、ジョアン・ミロの誕生日だった。
シュルレアリスムといっても、一般に連想するダリなどの画風とは違って、彼の絵は抽象的な感じである。
ミロの作風について述べることは、またの機会にするとして、彼の肖像写真を見て感じたのは、あの時代にはやはりきちんとした身なりをするものなのだなあ、という(ちょっとズレた)こと。
現代では、楽だとか動きやすさとか、取り扱いが簡単だとか、それはそれで進歩ではあるが、合理的なことばかり優先されていて、服装や身なりの美しさが失われている。服装に気を遣うことは”お洒落”などといって、若者や一部の人にとっての特殊なこととされているようだ。しかもそれにしたって、「美しい」とか「きちんとしている」といったことは二の次になっている。
もちろん、現代の人間である僕から見て、ミロの身なりが”美しく”見えたとしても、もしかすると当時はそれがごくふつうの服装だったのかもしれないし、ほかに着るものがない時代だったのかもしれない(着こなしについて現代の感覚で言えば間違いなく美しいと思う)。
よく古い写真を見ると、ふだんでもスーツを着ていたり、現代では作業着などを着てやるはずの仕事でもジャケットを着用していたりする。先日行ったニューヨークのアメリカ自然史博物館でも、展示物の製作過程の写真を見てみたら、動物の塑像を造るのにワイシャツにベスト、スラックス、髪はポマードできっちり…、という出で立ちだった(撮影用なのかもしれないけれど)。
確かにそういうのは、窮屈で動きづらい。
外出時にはいつもスーツ、というのも肩が凝る。昔の映像のように、みんながみんな、同じ服装に同じ帽子、というのもゾッとしないものだ。楽しくない。
でも、それでも僕は、現代の服装はだらしなくなりすぎてると思う。ユルくなりすぎてしまったと感じる。
だから、ミロの写真を見て、いいなと思う。
先日書いた、漫才師の宮田 陽のことが気に入ったのも、”男前”だというほかに、きっと、髪の毛をポマードできちんと固めていたからだ。彼にしてみれば単なるキャラ作りのためかもしれないけれど、あれが今風のツンツンヘアなら、僕は気に入っていなかっただろう。

初めての歌丸

2006-04-17 02:46:08 | Weblog

今日は、桂歌丸を見に、聴きに行ってきた。
1月に続き、生まれて二度目の寄席だ。今回は国立演芸場である。

地下鉄から外に出る階段を昇り始めたとき、上のほうからドロドロした音が響いてきた。
はっきりとした形のない音だったが、僕はなんとなく直感で、それが何なのか分かった。
政治団体のガイセン車だった。しかも、おまわりさんが怒鳴られていた。
スピーカーで、そこら中の人の面前で、怒鳴られていた。

警察官といえど、単に個人となると何の力もない。
ひとりのおまわりさんにくらべたら、それはガイセン車の人のほうが、よっぽどコネクションとパワーを持っているに違いない。おまわりさんの世界の上のほうの人と、ガイセン車の世界の上のほうの人が、仲が良かったりもするんだろう、たぶん。
それじゃ、イチおまわりさんには、かなうはずもないな…。
そぼ降る雨のなか、大きな音を背後に聞きながら、国立演芸場に歩を進めた。

国立演芸場は、”小屋”という感じの新宿末廣亭とは趣が違う。
確かに寄席らしく、のぼり旗やちょうちんがにぎにぎしいのだけれど、やっぱり”国立”なだけあってか、どこかしら威厳とか格式のようなものを漂わせている。
でも、威厳とか格式といったものが演芸場に必要なのかというと、それは何とも言いがたい。

日曜だからだろう、お客が多い。満員御礼、当日券は立ち見のみである。
立ち見があるってところは小屋っぽいが、最近、指定席制を取り入れたらしい。ところが、完全指定席制ではなく、自由席や立ち見も同時に販売しているものだから、これがけっこう不公平な、ズルい状況になってしまっているのだ。
僕は事前にチケットを予約して買っているのに、僕より前方の席が空いているものだから、指定席券を持たない連中が平気で座っていたりする(自分が見たい出演者だけ見る人がいるから、そんな空席ができる)。なかには、立ち見のはずなのに、舞台近くの通路にずうずうしく腰掛けている人もいた。
立ち見ってのは、ふつう、壁に張りついて見るもんだ。
そういう、ズルいのや不公平なのや、ウロウロする人がいると、僕は気が散って、落ち着かなくてしかたがない。だから、できれば完全指定席制にしてほしいものだ。

やっぱり寄席というところは、お客が一番観たいと思ってる人を、もったいつけて(?)最後までとっとくものだ。
だから、もちろん歌丸はトリに控えている。
初めて寄席に行った時は正月興行で4時間もあったけど、今回は3時間。まあなんとかもつ時間だ。
前回も感じたけれど、生の舞台というのは、テレビとはまるで伝わってくるものが違う。
テレビならつまんなくて、冷笑してしまいそうな出し物、出演者でも、寄席だと何となく面白いものだ。
客観的に見ると、「おいおい、その程度のもんが面白いかい?」というものでも会場は沸くし、僕も笑ってる。
だからこそ、テレビでは売れてなくても、寄席で活躍できる芸人、噺家がいるんだろう。

出演者のなかでちょっと印象に残ったのは、漫才の宮田 陽・昇(みやた よう・しょう)というコンビ。
芸風は昔ながらの王道を行く感じ…、と言えば聞こえは良いが、べつの言い方をすると、ベタでオーソドックスな漫才。
それがなぜ心に留まったかというと、陽(よう)のほうが、漫才師には見えないほどの男前なのだ。
これが、今風の”イケメン”という感じではなくて、頭をポマードできっちり固めた、トラディショナルな(?)バタ臭系の”男前”。
スタイルもまずまずいいし、相方とくらべて衣裳のつくりもどちらかというとモード系。キャラ作りのための黒ぶち眼鏡をとれば、まるでモデルのよう(ただしひと昔前の)なのだ。20年くらい前にメンズクラブなどの雑誌で活躍した田中カールという、たしかドイツ系ハーフのモデル(現在も現役だが、モデルエージェンシーの社長になってる)に似てる。…なんて言っても、知ってる人は少ないかもしれないけど。
そして、ネットでちょっと調べてみたら、彼は僕と同い年。それでいてこのコンビは、去年の漫才”新人”大賞を受賞している。お笑いデビュ-は30を超えてからだそうだ。しかもそのあと、33歳で初めて師匠に弟子入りしている。若い頃、最初はなんと、俳優座に所属していたらしい。正統な役者を目指していたのだ。
僕と同じ歳で、ユニークな経歴を持ち、遅咲きの新人漫才師、そして(ひと昔前の)モデルばりの男前…!
僕はホモっけはないと思うんだけど(たぶん)、なぜか、バタ臭系の昔風男前が好きらしい(今風はキライ)。
そんなこんなで、妙に愛着を覚えてしまったのである。
まあおそらく、テレビでは活躍することはないんじゃないか、とは思うのだが…。

肝心の歌丸が、やっと登場。
その頃にはやっぱりちょっと体力的にツラくなってた。正月の時よりはずいぶん楽だが、やっぱり”一番観たい人”を見るために、2時間くらい待って体力を消耗して、その人が出てきた時にはヘトヘト…、というのは、ちょっともったいない気がする。
でも、おなじみのあの顔が、お囃子にのって出てくると、やっぱりまた気分がググッと盛り上がる。
ただ、テレビの『笑点』を見ていても感じるのだが、昔から細いとは言っても最近の歌丸は本当に痩せさらばえていて、本当に骨と皮…。不謹慎な言い方だけど、「いつお迎えがきてもおかしくない」という感じで、痛々しい。だから、これもまた不謹慎になるが、「早く観ておかねば…」などと思って、チケットをとったのである。
実際の歌丸を見ても、僕はやっぱり「細いなあ、顔もしわしわになっちゃって、心配だなあ」と思ってしまった。
三遊亭楽太郎が、ギャグで歌丸の死についてネタにするのだが、あんまりシャレになっていない…。でもあれは逆説的ないたわりでもあるのかな…? 真剣に大事にされては、かえって死期が近いと言ってるようなもので、失礼に当たるかもしれない。
とはいっても、その体に似合わず、関東のみならず、北海道など地方にも足を運んで、精力的に独演会を含む高座をこなしているから、きっと気力、体力はまだまだ(きっと僕なんか足もとにおよばないほど)あるんだろう。

今回、師匠は、落語ではなく、人情噺というものをやった。
笑わせるのではなくて、泣かすことを想定して作られた噺だ。正直やっぱり、古典落語で歌丸に笑わせてほしかったけれど、その話芸を堪能するという意味では、これもまた面白い。
話の内容も、現代の世の中、そして、いまの僕の状況とオーバーラップされるところもあり、身につまされた。
…またも素人の、自分勝手な評論になってしまうかもしれないけど、前に見た柳家小三治は、古典をやっていながらも、なんとなくアーティスティックな印象を受けた。それに対し、桂歌丸は職人という感じ…。
その根拠ははっきり言えないし、あたってるかどうかは分からないけど。

閉演後、行くとはなしに楽屋口に行ってみると、ちょうど桂歌丸が出てくるところだった。
前座の若い人たちも見送りに出ている。…ちなみに、宮田 陽ももちろん出てきていたが、私服はさらにおしゃれなモード系だった。
これが、ポール・マッカートニーや矢沢永吉クラスのコンサートだと、”出待ち”さえひと苦労。ファンもいっぱいだし、待ってたって見られないことが多いと思う。
でも、落語の世界ではスターの桂歌丸でも、待ってたファンは2、3組。気抜けするくらいいともあっさりと、ご本尊を拝める。もっとも、サインをもらったりするのは、周りが静かな分だけ逆に気がひけてしまうのだけど…。
驚いたのは歌丸が乗り込んだ車。
メルセデスの、シルバーのSクラス、それも最新型である。しかも、ロリンザーのアルミホイルに履き替えている! これが歌丸師匠の車なのだろうか…!?
着物から着替えて、毛糸のカーディガンに老眼鏡、足をさすりながら出てきた”おじいちゃん”にしては、やたらと押し出しの強い車だ。師匠の趣味か? はたまた(よくネタにされる妻の)富士子さんの趣味?
もし私物だとしたら、想像するに歌丸師匠自身は、「あたしゃ車なんてどれでもいいよ。お前さんがたで好きに決めな」とか言って、弟子か付き人の趣味で選んだ車なんじゃないかと思う。
そうじゃなくて、もし自分の好みなら、けっこうイケイケなんだなあ、なんて、イメージも変わるというものだ。

ミスは劣った人間の証?

2006-04-14 22:58:24 | Weblog
世の中には、しょっちゅうミスをする人がいる。
一方で、ほとんどミスをしない人がいる。
仕事でも日常生活でも、その状況はさまざまであるが、例えば仕事の場合ならミスというものは他者の評価から逃れられない。何度指摘されても、叱られても、そして自分でも自覚し、反省して、つぎからはやるまいと心に決めたとしても、ミスをする人は必ずふたたびミスをする…。

ミスをする人は、ミスをしない人よりも『劣った人間』なのだろうか?
ある分野において、「ミスをしない」ということを「能力がある」と定義できるとしたら、”能力的には”劣っていると言わざるを得ない。例えばスポーツ選手や技術者、職人の世界などは、「ミスをしない」ということがプロとしての大前提である。ミスをする人は、これは明確に劣った選手であり、劣った技術者だ。
でも、人間として劣っているのか…?

僕の職場でもミスがあった。
簡単な、つまらないミスだ。
でも、ミスをする人は、そんなミスをくり返す。
そして、ミスをしない人は、頭ごなしに叱りつける。ミスをする人の心情とか弱さとかいったことを、想像もできないし理解もできない。
「なんでこんなことができないのか?」と憤慨し、ただ単に、「とろいやつ」というレッテルを貼ったり、「不真面目」、「集中してない」という判断を下す。
「二度とするな」「反省しろ」と、怒る。
(すっごい鬼の首をとったように嵩にかかってくるやつや、ミスした人を人間的に否定するような輩もいる)
でも、ミスをする人は、やはりそれをくり返す…。
ミスをしない人から見れば、ミスをする人は怠惰な人間だと思うかもしれない。でも、怠惰に振れる人とそうでない人…、この違いからすでに才能であり、能力なのである。

確かに、ミスをする人間は、集中力が足りない場合が多いのだろう。
でも彼らは、それをよく認識しているし、一番苦しんでいるのは彼ら自身だ。
ミスをすまいと思っても、自分の意識の外で、それはまた起こる。
「気をつけているつもりだったのに…」
ミスは、彼が見えていないところをすり抜けて姿を現すのだ。
そして、なぜ自分はこうなのか、しっかりしないのか、と自分を責める。

僕の職場の、ミスをした人も、気の毒なくらい自分に腹を立てていた。
ほとんど泣きそうなくらいだった。
ひとりで興奮して歩き回りながら、自分を否定するようなことを口走っていた。

僕はその気持ちがよく分かる。
僕も同様の(ミスをくり返す)人間だし、ずっと自分を否定して生きてきた。能力の欠けた人間だという自己評価を下してきた。それはすごく辛いことだ。
でも最近、自分の弱さを許さなければ、人間は生きていけない…。
そんなことを思うようになった。
もちろんミスに対して、反省をしたり、努力をしたりすることは忘れてはいけないと思う。ただ、こういうタイプの人は、それにとらわれすぎることが多いので、少し楽観的になったくらいがちょうど良いのではないかと思うのだ(もちろん、ミスしたのにヘラヘラしてるようなやつは論外だ)。
もっとも僕の場合、調子に乗りすぎるから、楽観的になりすぎないように調整することも必要なのだけど…。

一方の、ミスをしない人は優れた人間と言えるのか?
その点だけをとってみれば、もちろん優れていると思う。努力もしているのかもしれない。
でも、往々にしてそういう人は、視野が狭い。相手の気持ちを理解できない。なぜなら、自分に「ミスをするという経験」がないから。言い換えれば、弱い人の立場になったことがないから。
その結果、ミスをする人間を見下し、バカにして嗤う…。そんな人が多い気がする。
そうした場合、この人は優れているとは言えないのではないか?
他者の痛みを知らない無知な人間、鈍感な人間、思いやりのない人間ということになる。
それが職場であるなら、ミスをした同僚の士気をさらに下げ、ひいては仕事の効率を低下させてしまうかもしれない。
それに、「ミスをしない」というのは、どちらかと言えば機械的な能力だ。とても重要ではあるが、創造的な能力ではないし、人間性に直接かかわるものではない。
なかには、とりたてて努力するでもなく、幸運にも天賦の才能みたいにしてすべてがスムーズに出来るという人もいるようだから…。

だから、ミスをする人は、そのことだけで自分を卑下する必要はないと思う。
そして、ミスをしない人は、…それは立派なことだけれども、単にそのことだけで自分が勝っていると思わないでもらいたい。

(でも、ミスをしないなんてうらやましい…。方法があるなら教えてもらいたい)

しかし…、これまで書いた、こういったことは”言い逃れ”なのだろうか?
弱い者が、なんとか存在価値を見出すための悪あがきなのだろうか?
負け惜しみだろうか?
またいずれ書こうと思うが、ニューヨークで感じたことのひとつも、そんな種類のことである。
彼の地では、弱さの言い訳みたいなものは、まったく通用する隙がなかった。
繊細(デリケート)なものに対して、気を砕いてくれるような雰囲気はない。思いやりみたいなものを期待して待っていたら、まるで始まらない。
弱肉強食、というより、弱者は無視される…。

思い返せば、僕もミスばかりしてきた。
しかも、凡ミス、ケアレスミスと言われるようなものばかりだ。
子どもの頃だと、その度に親に叱られるのに風呂の水を何度もあふれさせたり、数学の問題では、解き方は合っているのに、九九の計算を間違っていたり…。洋服屋に勤めていた頃は、ズボンの裾あげをシングルにするかダブルにするか、お客さんに聞くのをたびたび忘れた。デザインの仕事では、念入りに校正したつもりでも、あとから誤植に気づいたりする…。
脳のキャパが狭くて、少々のことでパニックを起こしたり、注意が希薄になるのだろうと思う。あることがらについて、ずっと気を入れておくことができないのだ。
いまでも、人がふつうにできるようなことでもミスをする。それは治らない。
もうあきらめに近い。責任を放棄するようだが、自分の受ける感覚としては”不可抗力”と言ったほうがピッタリくる。
そう考えると、さっきと言ってることが違ってるかもしれないけれど、僕は欠陥のある人間なんだろうなあ、と、卑下してしまわざるを得ないのだ。

ていぱーく

2006-04-07 23:50:12 | Weblog

大手町にある、”ていぱーく”…。
あなどれん。
ナメてかかってたらいけません。
(もっとも、多くの部分がナメられそうな展示なので、期待しすぎてもいけませんが…。基本的に子ども向けだから)

世界の切手のコレクションがスゴかった。
展示のしかたも渋い。

切手ずきなら110円の入場料は安いぞ、たぶん。
(もっとも、僕は優待券で入場したのだが…)

何事も先入観で決めつけず、自分でその場に行き、その前に立ち、経験してみないと、実際のところは何も分からないものだなぁ、やっぱり。
それまでは、セマッこい自分のキャパから絞り出される想像でしかないのだからね。

ていぱーくの切手コレクション、ひろいモノだったよ。

※画像「どんな立派なミュージアムだろう?」と、期待ふくらむレタリング

寝るの最優先

2006-04-05 01:11:45 | Weblog

ダメ。
今日も書けません。
眠いのと…、
だから早く寝たいのと…、
眼の奥が痛むのと…、
そんなこんなで頭がさえないから。
それに、いろいろとやりたいこと、やるべきことが溜まってて、ブログだけ優先させることはできないから。
でも、そんなこと言っても、どれをやればいいか分からなくなって頭の中がごちゃごちゃで…、
だらだらとネット、そして…。
結局は、寝る。

仕事はいつ探すのだい?
iPodに曲を入れて使い始めるのは…?
山積みになっている本を読む日は来るのか…?
部屋を片づけるのは…?
「大人の科学」の付録のプラネタリウムを組み立てる時間は…?
いったい、いつになったら旅の思い出を記すことができるのだろう…?

昨日、『あわ大福』なるものを食べました。
「あわ」って、ひえとか、きびとか、そういう方面の「あわ」です。
何ヶ月か前にあわぜんざいを初めて食べて美味しかったから、あわというものが気になって買いました。
中に入ってるあんは特別うまくはなかったし、もう少しもち米を減らして、あわを増やしても良いと思った…。
たい焼きと、豆乳クリームの入った大判焼き、どら焼きのあんのかわりにプリンが入った『どらプリン』というお菓子も食べました。

宇宙飛行士の野口聡一さんの本を読んでみました。
とくに心に留まったのは、宇宙に出かける前に、やはりというか、「遺書」を書いたのだそうです。
僕もこの間、ニューヨークに行く時、書こうと思った…。
行き先も、そのスケールも全く違うし、だから野口さんと同じような心境かどうかは分かりませんが、僕はやめときました。でも、彼は実際に書いたのです。
これは性格の違いなんだろうか…。

おっと、1時を過ぎました。
寝ます。

歌舞伎と相撲のチケット

2006-04-03 11:08:02 | Weblog
Oh,No!
18代中村勘三郎襲名披露興行、すでに売り切れてるやないか…!?
2日、土曜日、朝10発売開始、でも、僕は仕事だから申し込みはできなかった。
なんとか夜までもってくれないかな~、と願っていたが、ソッコウで予定枚数終了…。

オー、マイガッ!

…そりゃ、まあそうだね。
関東で一日限りの興行、次は博多だっけか? 
追記 その後の情報によると、関東でも何カ所かやるらしい。
博多公演は横須賀より先で、6月だった。博多では僕が観てみたい『連獅子』をやるそうだ!

しかも安い。最高額で5,000円。
会場はよこすか芸術劇場なんだけど、歌舞伎座なら2万はするわな、きっと。

チケットぴあ、イープラス、どちらのウェブサイトでもダメ。
ガッカリ…。

ところで、ネットで見たところ、よこすか芸術劇場って、オペラの劇場でよく見られる、客席が馬蹄型で階層が垂直に重なった造りになっているのだけど、ふつう、その形だと、左右のバルコニー席は桟敷席(ボックスシート)になっていることが多いと思う(よくは知らないけど、たぶん)。でもここは、そのスペースにも普通の座席を配置している。そしてそれは何を意味するかと言うと、「とても見にくい」ということらしい。
桟敷席なら少人数で空間に余裕があるし、よその人とは同席しないだろうから大丈夫だと思うが、だいたい舞台に対して直角に位置するのだから見やすいはずがない。しかも、そんな場所に通常の座席を詰め込んでいるから、ただでさえ見にくいうえに、2列目3列目の人は、前に座っている人が邪魔になる…。

それは、オフィシャルホームページにも平気な顔して明記されている。
いわく、『4階、5階のサイド際の席は、客席の構造上、舞台が見づらいため、座席から身を乗り出し、舞台を見下ろしてご覧いただくようになります』
これはまだマシ(でも2、3列目の人はどうやって身を乗り出せというのか?)。
なんと、『両サイド際の席は、客席の構造上、舞台の半分程度がご覧いただけません。ご了承のうえ、お求めください』などと書いてあるのだ。
”舞台の半分程度”…!?
”ご了承のうえ”…?
どうご了承できるんだろう? 半分も見えなきゃ、そりゃ同じ演目を見たとは言えないよ。テレビの画面を半分隠して見てご覧なさい。その感覚が分かると思うよ。
スゴいね! それで料金は変わらないんだから…。
そもそもの設計がおかしいんじゃないか? 施設の豪華さと、キャパを増やしたいという二つの欲求を、ムリヤリ押し通したという感じなのだろうか。
この施設は横須賀市のものなのかね? 4月から運営は財団法人に移管されたそうだけど、まあどちらにしても、個人的にはどうもそういうのってうさん臭さが拭いきれない。何かを知っているわけじゃないし、べつに批判したり、特別嫌ったりする気はないけどね。「民間のものが立派だ」とは、これもまったく言えないしね。

ところで、大相撲五月場所のチケットはとれたよ!
ネットのチケットぴあで、サクサクッと、な。最近は簡単だねぇ、便利だねぇ…。

…僕はふつう、将来の予定を公表することは、なぜだか分からないけれど何となくイヤで(喋っちゃうと、魔法が解けそう…?)、いつも胸にひっそりと抱えていることが多い(万一不測の事態が起きて、計画がパアになった場合の、気分の落差を最小限にとどめたいというのも理由のひとつか…?)。
それから、僕は時間の重みに耐えられない性分だから、未来のある日にスケジュールが入っているという状態が、けっこう負担になる。そして、束縛されたような気分になる。それが、たとえ楽しみなことであってもだ。逆に楽しみなことであればあるほど、「待つ」ということが困難になってくる。それまでの間の(人生のなかで同じように貴重であるはずの)日々、時間を、おざなりに軽々に過ごしてしまいそうな恐れを持っているのだ。
「心待ちに、ワクワクしながら、一方で精神的な重荷になって」いる。かよわい神経の持ち主だ。
そんなふうだから、年初に歌舞伎を観に行った時も前日にネットでチケットをとったし、ニューヨーク旅行だって、決定からなるべく早く出発した。コンサートなどでありがちな、3ヶ月くらい先の公演を予約する、なんて、気がおかしくなりそうだ。
相撲観覧は来月の半ばだが、それでもけっこうツラかったりする。
ふだんの習性に反して予定をここで発表するのは、おそらくそんな負担を軽減したいという気持ちからなのだろう。

ちなみに、僕がとった席はイス席。
じつを言うと、観に行くかどうか、『購入』のアイコンを押す、ほんとにその瞬間まで迷っていた。
最近、お金を使い過ぎだからねえ。
でも、半ば思考を停止して、「アウッ…」って感じで押しちゃった。
だから、席もどの辺かよく知らない(苦笑)。まあ、正面の席で、後ろのほうだってことは確かめたけれど…。
いや、もちろんマス席で観てみたいよ(体が固いから、座布団に座り続けるのが苦手ってこともあるけど…)。初めての相撲だし、弁当食いながら優雅にね。
でも、マス席は高い!
とんでもなく高い!
朝8時半から、夕方6時まで楽しめる、なんて言ったって、やっぱり高い!
(それに、そこまでつきあえないよ)

でも、楽しみっ。

Just GUCHI

2006-03-31 22:36:25 | Weblog
今日は愚痴だから、読み流してくださってけっこうです。
そもそもグチったところで、状況とかニュアンスとか、絶対に伝わるものじゃないのだから…。

やっぱり最近、確実にイライラが制御できなくなっている。
バイト先の、やけにエラそうに指図したがる年配の社員(悪い人じゃないんだけどね、クセみたいなもんだね…)に言い返したり、同じく職場の20代の若者にカッときて、ちょっとクンロクくれてやったり…。
その若いやつとは、最初仲良くなれそうだな、と思って、いろいろ話しかけたりして、うまくいきそうだったのに、ほんの些細な、ほんのちょっとしたいきちがいから、関係がこじれた…。
…いや、どうかな。結局、僕という人間が好かれなかっただけのことなのかな…? 
まあ、どちらにしろ、僕はケンカ腰になってしまったし、向こうは本音を出そうとはしないし、もう修復できないだろう…。残念だ。

ほかにもそのバイト先では、いろいろ腹が立って、カリカリくる。
まず、そこのトイレの個室はカギが壊れてて、使用中に他の人が入ってこようとしちゃうのだ。
だいたいトイレのカギが壊れたままにしていること自体、無神経だと思うけど(女性も一人いるというのに…。失礼ながら誰もそう思っていないオバちゃんだが)、そんな状況だから、間違ってドアを開けてしまうことも、あるいはしようがないかもしれない。…でもな、ふつうドアを開けてヒトが用を足してたら、きちんと謝るものだろう?
ところが、謝らないやつがいるんだよな…。
僕には信じられないよ。
そういう、デリカシーのないやつばっかりなんだよ。

出入り口で、向こうから来る人を先に通してあげても、会釈のひとつもしてくれない…。
僕が通路を通ろうとしても、どけようともしないやつもいる。それが、こっちは仕事で、むこうは休憩中だったりすることさえある…。
僕が働いている部署に、他の部署から用事があって誰か来ても、誰ひとり「おつかれさまです」のひと言もない…。
荷物を運んでくる出入りの運送業者は、狙いすましたかのように昼時にやってくる。そして、これも挨拶もできないやつがほとんど…。

食堂では、箸の持ち方がひどかったり、肘をついて食べたりするのはまだしも、ほおづえをついて食べたり、ゲームをやりながら食べたりする人がいる…。
まあ、僕だって、テーブルで食事する時、つい足を組んだり、迷い箸なんかをやっちゃったりするから、ぜんぜんマナーは完璧ではないけれど、他人のことはやけに気になるんだよね…。イライラがカゲを潜めていた期間はそうでもなかったけど、今また目についてきた。
僕を含め、給食センターの弁当をとっている人が何人かいて、食べ終わったら、ご飯とおかずの容器、お椀を箱に返却するのだが、自分が食べて持ってきたまんま、ドカッと置いてくやつがいる…。そんなことをしたら、あとの人はもう重ねられなくなるんだよ…、おかずの容器はおかずの容器、お椀はお椀、というふうに別々に重ねないとね。
だからといって、他人が口をつけたお椀を手に取って重ね直してやるのもシャクだ。
こういうのって、年齢には関係ないね。いいトシしたオジさん、オバさんも平気でやってるよ。
僕もこういう細かいこと書くのはイヤなんだけど、もう、そんな状況を目にすると、なんか、ヒステリーを起こしそうなくらい神経に障るんだ…。
「なんでこんなデリカシーのないバカばっかりなんだ!」
と思ってしまう。
僕だってたいしたバカのくせにね…。

イライラするのは、これも「春だから」なのかなあ。
だといいんだけどな…。

イライラがぶり返してきたら、またタイミングの神様にも見離されてしまったようだ。
イライラしてる時って、さらにイライラするようなタイミングで不快なことが起きる(どこかに体をぶつけたり、持ってるものをバラまいたり…)。イライラがなかった時期には、「これまでの経験からすると、ここでこんな嫌なことが起きるんじゃないか…」と身構えるんだけど、何事も起こらなくて、穏やかに過ごせたものだけど、今はまた、それが起こるようになったのだ。

でも、以前と違うのは、イライラすること、腹の立つことがあっても、しばらくすると(家に帰って風呂からあがるころには)忘れてしまっているということ。
ただ、これは進歩したとか楽観的な人間になったとかいうわけではなく、どうやら頭がボケてきたせいらしい…。年齢的なものか…? だとしたらちょっと早いが…。
それから、今の僕には、そんな細かい、しょうもないことで悩んでいるバヤイではない、という状況がある。
もっと深刻な問題、悩みがたくさんあるのだ。
でも、だったら最初から小さいことなんか素通りすればいいのに、いちおう気にはなってしまうところが、イタい。

観たいけど…。

2006-03-29 01:21:56 | Weblog

若貴ブームにげんなりしていたし、その偏狭な精神性や、うさん臭さ、闇の部分が引っかかって、テレビでさえ長いこと相撲を見ていない。でも、朝青龍が活きのいいうちに一度国技館へ足を運んでおきたい。生で、相撲というものを拝んでおきたい。”角界のベッカム”と言われている琴欧州は、僕にはジョン・ベルーシのほうが似ていると思うのだけど、それも確かめてみたい。

能もぜひ観たい。
それも、国立能楽堂で。
あの建物も含めて鑑賞したいのだ。3月のあたまに、「これ観よう」と思う演目があったのだが(といっても、よくは知らないのだけど、感覚的に…)、ちょうど旅行と重なって、行くことができなかった。
座席数が少ないから、予約しないと、ふと思い立ってその日に出かけて行く、なんてことはできない。
できれば暑くならないうちに観たいんだけど、なかなか良さそうな演目とスケジュールが合わない…。

歌舞伎もまた観たい。
初心者の僕も、よくその名を耳にする『勧進帳』を、この夏やるらしい。単発の興行で、松本幸四郎と市川染五郎の親子競演。ずっと『勧進帳』は観ておきたいと思っていた。
でも、同じ月に18代中村勘三郎の襲名披露公演がある。
この前初めて歌舞伎を観に行った時に幸四郎、染五郎親子はいちおう見たし(予想を上回って幸四郎は良かった、でも)、正直言って、どちらかというと今の段階では勘三郎のほうに興味がある。それに、とっくに襲名披露興行は終わっていると思ってガッカリしていたから、絶対見たいのだ。

どうすりゃいい?
ニューヨークに行っちゃったから、お金使うのは当分控えるべきだと思うのだ。
そうじゃなきゃ、全部見に行きたいんだけどねぇ…。

ほかにも、英語も習いたいと思ってるし…。
だって、今回の旅行で、のべ7、8回、ほぼ20年間、英語圏を訪れているのに、僕の英語力ときたら、初回からなんら進歩していないんだから…。

そろそろ車検も近づいている。ほんとは新しい車に替えたいのだけど、無理だなぁ…。
ほんと、世の中、お金を使うことばっかりだ…。
うんざりするよ。

春だから…。

2006-03-27 23:40:15 | Weblog
TROISGROS

これ、「トロワグロ」なんて絶対読めないな…。
フランスの三ツ星レストランだそうだけど、日本では残念ながら(?)小田急と提携している。
そして、その名を冠したパン屋さんも出店している(東京、神奈川だけかな?)。
おそらく、名前ばかりのライセンスショップだと思うけど…(疑)。
でも、そこのレーズンが入ったパン(生地がクロワッサンみたいな、円いやつ)がおいし~!
とくにレーズンパンが好きなわけじゃない。似たようなパンをほかの店でも食べたけど、全然違った。
”トロワグロのパン”がうまいのだ。
3個くらいはペロリといけそうだね。

「春だから」こんなに腹が減るのかな? 食べ物がおいしいのかな…?

それでもって…、今夜も眠くて何にもできそうにない。
ニューヨーク紀行も書けない。
読んでない本もいっぱい。
つけようと思ってる家計簿もつけられない。
部屋も片付かない。
ひとさまのブログにコメントを残せない。
仕事も探せない。
じつは、ずうっと前に買ったiPod shuffleも箱に入ったままだ。

眠いって、とんでもなく困ることだ。
とんでもなく僕を拘束する。

「春だから」だといいんだけどね…。

春になって、暖かくなってくると、体がだるい。
これも困る。
眠くて、だるい。
これは困るよ。

「春だから」だといいんだけどね。

コーヒー!!

2006-03-26 15:26:50 | Weblog

※冒頭、人によっては不快と思われる内容および表現があります。


僕はずっとコーヒーは苦手だった。
味があまり好きではなかったことはもちろん、そのほかの理由としては主に、腹具合が悪くなるのと、お口が臭くなることがあげられる。
とくに、飲むと便意を催させるにもかかわらずそれが粘着質で(具体的な表現で申し訳ない…)、なかなか排便がスムーズにいかない。しかも拭き取りに苦労する…。
お口のニオイは、コーヒーを飲む人と話をしている時に常々感じていたことである。とくに安い缶コーヒー(と、いっても、ミルクの分量の多い乳飲料)を愛飲している人に多い。
蛇足ながら、ドラマなどで喫茶店に入る場面があると、まるで慣用句であるかのように思考の入る余地もなく自動的に「コーヒー」と注文することに、いらぬ憤慨を感じたこともあった。

(こんなことを書いてるとコーヒー愛好者を敵に回すなぁ…。)

まあ、そんなこんなでコーヒーとは縁遠かったのだけども、じつは最近よく飲む。
先だっての旅行でも、「アメリカならやはりコーヒーだろう?」とばかりに、むしろ意識的にコーヒーを飲んだ。
これはやはり、(元)妻に連れられて行ったスターバックスの影響が大きいだろうか…?
以前はたまにコーヒーを飲むとしたら、ほとんど必ずブラックだったのに、そんな僕が、スタバでは(あま~い)キャラメルマキアートなんぞを頼むのだ。
これは味覚の変化なのか?
それもあろう。この間も書いたが、僕はとくにこの季節、無性に甘いものが欲しくなる。スタバでは、黒くて真ん中にマシュマロが入ったクッキーがお気に入りだ。桜のマカロンも試してみた。
…でも、セコい話だけど、外で飲み物(酒を除いて)を飲む習慣があまり身についていない僕としては、あんな小さなカップ一杯が300円から400円するのが、どうも割高な感じがする…。そこで、その違和感を埋めようと、フォームミルクやキャラメルとか、「甘い」といった付加をつけた商品を選んでしまうのではないか…。
もちろん100パーセントそれだけの理由でメニューを選んでいるわけではないけども、僕の心の隅をのぞいてみると、そんな部分もあるみたいだから、我ながら情けないものだ。

デニーズでは、ここのところキャラメルハニーパンケーキをよく食べる。その場合、飲むのは深煎りカフェだ。
正直言えば、ほんとはデニーズはいまいち落ち着かなくて、もっといい店があればと思うのだけど、チェーン店特有のアメリカ的な(?)適度な「そっけなさ」があるし、近場で、僕みたいな庶民にとっては、いちばん合ってる店なのだろう(クレジットカードも使えるし)。それに、そのパンケーキに限っては、けっこう美味い。
ただ、思わず苦笑させられたのは、数回食べて、そのたびに大きさや、のっかっているクリームの状態(柔らかさなど)が違うことだ。作っている人によって変わってくるんだろうな…。しかし、三枚重ねのパンケーキの、一番上だけが大きくて、下になっていて見えない二枚は一回り小さかった時は、意図的な感じがしたし、詐欺まがいでちょっと腹が立った。

僕もずっと若い頃、ファミレスでアルバイトをしたことがあるが、クリームは冷凍で店に届くので、これは解凍に失敗すると、ツノの立たない、だらしないシロモノになってしまうのだ。そしてそれは捨てられることなく(粗末にしないのはいいことだけど…)お客の前に供される…。
それから、いかにマニュアルがあるといっても作っている人はバイトだし、デザート類の”見てくれ”は、作る人のセンスによるところが大きいから、場合によってはデリカシーのないものができあがる。
ふつう、スィーツのソースは、きれいにラインを描いてかけるものだと思うけど、今日食べたのなんか、べっとり一面にかかっていた。作った当人にしてみれば、もしかするとサービスのつもりなのかもしれないけれど、ちょっと美味そうには見えなくなる。
…あ、でも、それで思い出したのだけど、東京ディズニーランドでもミッキーの顔をかたどったパンケーキが食べられるのだが、フロリダのディズニーワールドで食べたそれは、東京と違ってたっぷりテンコ盛りのクリームと五色スプレーチョコで、ミッキーの顔なんか埋まっていて全く見えなくなっていた。
それはそれで、豪快で面白かった。


※画像は、ロウアーマンハッタン、バッテリーパーク近くのスタバ

イライラがふたたび…

2006-03-23 23:10:32 | Weblog

せっかく精神状態が好転してるかと思っていたのに、また元に戻りつつあるような気がする…。もとのイライラ、抑うつ、ネガティブな僕に…。

久しぶりにグラフィックデザインの仕事を受けて、かつて僕を休職にまで追いやったと同種の、いくつかのストレスに曝されたせいか…?
ニューヨークに行き、彼の地で自分のアイデンティティに何らかの影響を受けたからなのか…?
それとも、浪費して、またも経済的に縛られた状態に戻ったからか…?

この数ヶ月の穏やかで前向きな気分は、一時的な躁状態だったのだろうか?
または、本質的な自己改革へのチャンスを与えられたが、すでにタイムオーバーということなのだろうか?

(あるいは、分不相応なニューヨーク旅行の代償か…?)

どうやら、自分の気分というのは、自分で制御することは困難なようだ。例えば、イライラを止めようと思っても、理性ではどうにもできない。僕の精神(あるいは心とか魂、または脳)がイライラを感じなくならなければ、イライラは絶対にそこにある。そこから目を背けていようが、イライラは厳然としてそこにある。

この数ヶ月は、ほとんど無理することなく自然な状態で、イライラを感じずにいた。
しかし、僕の精神(あるいは心とか魂、または脳)が、再びイライラを感じはじめた以上、もう僕は、自然な状態では、穏やかな前向きな気分でいられることはないのだという気がする…。
自分は自分であって自分ではない。
なんとか頑張ってはみるけども(…そう、頑張らなくてはいけないのだ)、なかなかに難しそうである。
残念だ…。

どうする?旅行記と食欲

2006-03-19 14:49:33 | Weblog
ニューヨーク紀行は、どこから手をつけたらいいものか…。
時間ができても、どのように書こうか迷ってなかなか手がつけられない。時系列に書いていくのが簡単だし、分かりやすいとは思うが、そうするとなかなかニューヨークにたどり着かないからまどろっこしいかもしれない。それに、そんなたいそうな長編にしてしまっていいのか、という気もする…。
(きっと、何週間もブログがニューヨークネタで占拠されてしまう)
しかも、最近頭が冴えないので、うまく書ける気がしないのだ。
でも早く書かなきゃ記憶はどんどん薄れていく…。
個人のブログで紀行文はよく目にするが、その人の気持ちばかり空回りしていて、読み手にしてみたらシラケてしまうことが少なくない。僕だって、自分の覚え書き(記録)のようなつもりも含んでのことなので、そんなに深く考えずに書けばいいのだろうけれど、やっぱり面白く読めるにこしたことはない。じっくり細かく書いたほうが、自分自身、のちのち懐古の助けになるしね…。

ところで、先日は『春眠暁を覚えず』と書いたが、もうひとつこの時期毎年やってくるのが、『食いしん坊な僕』である。
ふだんあまり食に執着しない僕が、春を感じる頃になると腹が減ってしようがない。
通常だと、腹が減ってもイコール食事に結びつかないおかしな人間なのだけど、今は食べたくてしかたがない。
いつもなら一人で外食などしないが、ここのところ何回かファミレスに出かけていって、食事をしてる。
しかも、特に甘いものが恋しいので、キャラメルソースのかかったパンケーキなぞを食してる。
そして、食べたそばからまた腹が減る。
数ヶ月前までは、「一日でそうめんひとたば」なんて日がザラだったのが信じられない…。

代償?

2006-03-18 02:21:23 | Weblog
ひとまずシステムをインストールして、設定もしなおし、ホッとしたのもつかの間、新しく書き始めたファイルを保存しようとしたら、今度は外付けハードディスクがマウントしてない…。
そして、どうやってもマウントしない。ユーティリティにかけてみるとエラーが出る。
「このままハードディスクが死ぬと、すべてのデータを失うことになる…」と、青くなってアブラ汗を流し、またも2時間ほど右往左往させられたのだが、ふと見ると、いつの間にかシラーッとマウントされていた…。
どうやらデータも無事だった。

保存だの何だので待つ間、テレビをつけると夜回り先生が出ていたので、つい、パソコンのトラブルがひとまず解決したあとも見てしまった。
そんなこんなで、今日も寝るのが2時を過ぎる…。
ニューヨークへ行く2週間くらい前から旅行を挟んで、その準備と急ぎの仕事などで、ひどい日は2時間も寝ていないことがあったり、ずっと寝不足だった。
ニューヨークから帰って仕事を終わらせて、さあ、寝られるぞ、と思ったら、ここのところのパソコンの不調…。
今日なんか不調に気づく前に、さっさと10時くらいに寝とけばよかった。

そんなことも原因となっているのか、最近朝がつらい。
旅行前は、以前とは人が変わったかと思うくらい起きるのがスムーズだった…。
信じられないのだけど、目覚ましがいらないかというほどで、「そろそろそういう歳かな…」なんて思ったりして…。例えば4時くらいに寝て、8時前に起きるのも平気、って感じだった。
ところが、旅行を境に、もとのお寝坊さんに逆戻り…。
春眠赤ダシのみそ汁…じゃなくて、『春眠暁を覚えず』というから、季節のせいなのかもしれないけれど、ガッカリ。
ニューヨーク旅行なんて分不相応な贅沢をしたから、何らかの代償を払わなきゃいけないってことなのかもね…。

あ~、そうこうしてるうちに3時になっちゃうよ。
もう寝る…!

(ちなみに、『春眠赤ダシのみそ汁』というのは、昔マンガかなにかで見つけて、なんだかずっと記憶に残っているので使ってみた)