この写真は、世田谷文学館のエントランスに向かって左手に広がる風景。
しかし、なかなか風情のある庭とこの蔵のような建物に入場することはできない。本館は、まったくの現代建築である。
世田谷文学館の、ヘルマン・ヘッセ展を見に行ってきた。
と書くと、ヘッセの作品によく親しんでいるように思われるかもしれないけれど、じつは、かの有名な『車輪の下』さえも読んだことがない。
10年近く前に、随筆集『庭仕事の愉しみ』を買ってきて、そのあと数ページは読んだかもしれないが、ずっと本棚に積まれてホコリをかぶったたままになってる。
作品に接したこともないのに、なぜだかヘッセのことは気持ちに留まっているのだ。
ひとつには、その風貌によるところが大きいのかもしれない。
よく目にするのは晩年のポートレイトで、痩せているけれど弱々しさはまったく感じられなくて、温かさと、冷徹なほどの知性が同居している。そして、植物の繊維で編んだ帽子とか、何個も所有していたという丸い眼鏡、よれよれなのにサマになって見えるシャツやズボン…。それがとてもカッコいいのである。味があるのである。自分の若い息子たちと並んでも、お洒落では断然勝っているし、堂々としている。
浅はかに、単なるファッションとして見ていると思われると困るが、僕としては、なぜこのような魅力的な味わいを持つポートレイトとなりうるのか、それはいったいどこから、いかなるものが作用して起こるのか、それが知りたいのだ。
ヘッセとはその質が異なるが、ポートレイトの魅力的な人物として、例えば映画俳優のジェームズ・ディーンの写真を一枚、眺めるとしよう。
そこには、上目がちで背を丸め、ティーンエイジのいらだちと孤独を一身に背負ったかのような彼がたたずんでいる。
しかし、それだけを見て、彼の本質を判断することはできない。
いつだったか、同じフォトセッションで撮られた、少しずつポーズの違う似たような写真が何枚もあるのを知ったときは、最初に受けた印象をかなり修整しなければいけなかった。
つまり、彼は俳優として、あるいはアーティストとして、自分というものを創作していたのである。もっと平たく言えば、彼のポートレイトから伝わってくる孤独感の何割かは、「自分をどのように見せるか」という、計算によって生み出されたものなのだ。実際問題として、生身のいらだちや孤独感を写真に焼きつけることはなかなか難しいだろうし、それだと偶然の産物となってしまう。
彼はプロフェッショナルなのだ。
彼は、孤独というモチーフを、大衆が手に取って見られるよう、表現しているのである。
ヘルマン・ヘッセが、自分のポートレイトを撮らせるとき、ジェームズ・ディーンと同じことを考えていたとは、それはまったく思わないけれど、写真に撮られることを十分に意識していたことは間違いない。かなりすすんでポーズをとっていたように思われるし、洋服の着こなし、表情にも”慣れ”みたいなものを感じる。余裕がある。
今回の展示のなかにも、魅力的な写真が数点、パネルとなって飾られているが、僕はそのような写真を撮るカメラマンについて知りたいと思った。ヘッセはなんと写真嫌いだそうで、カメラマンを近づけなかったとの記述があったが、ではそんな彼がなぜ素敵なポートレイトを多数残しているのか…? それについては、そこにつづいて書かれていることを読んで、「なるほど…!」と理解できた。しかし、僕が膝を打って納得したその真相を、ここで明かしてしまうのももったいない…。まだご存じない人の、知る愉しみを奪うことにもなる。だから、ここでは伏せておくことにする。
彼の風貌には、その人生と内面が滲み出し、彼でなければ表出し得ない味わいがあるのだろうから、一概に僕が外見だけにとらわれているとは言えないとは思う。まあもちろん、自分と比べても、頭が小さくていいな、とか、鼻が高いとか、あごの線の美しさだとか、ある観点からの彼の造形的優位を感じざるを得ないのだけども。
彼の人生を俯瞰して見て感じたことは、彼は著名な作家であり随筆家であり、水彩画と庭仕事を楽しむひとりの趣味人であり、3度の結婚をした男性、夫であって、子どもの父親である…。これら複数の顔を持っているということだ。それは、世の中で唯一、僕自身も含めて誰もが同じだけ公平に所有している”時間”というものを、人一倍有意義に、余すことなく使っているということなのではないか。
同じだけの時間を、ヘルマン・ヘッセは存分に使い果たし、僕は余らせ、腐らせているのではないか…。
かの文豪と僕なんかを比較するのは、我ながらバカバカしいとは思うが、人間として、なんと恥ずかしいことかと思ったしだいである。
ちなみに、常設展もけっこう面白かった。
世田谷ゆかりの作家の直筆原稿などを中心にレイアウトしてある。
正直言うと、僕は小説はほとんど読まない。小説というものは作家の私的な吐露であるところが大きくて、しかも創作だから、僕にとって忍耐を強いるものだ。まあ、僕の文学的…、というか国語的能力の低さにもよるけれど、かなり気持ちに余裕がないと読めない。
でも、そんな僕でも、小さい頃の「作家になりたい」という夢を思い出させ、また書いてみたいな、と思わせるだけの展示だった。
ヘルマン・ヘッセ展がおもしろかったから、常設展は期待せずに見たけれど、まずまずの拾い物だった。
しかし、なかなか風情のある庭とこの蔵のような建物に入場することはできない。本館は、まったくの現代建築である。
世田谷文学館の、ヘルマン・ヘッセ展を見に行ってきた。
と書くと、ヘッセの作品によく親しんでいるように思われるかもしれないけれど、じつは、かの有名な『車輪の下』さえも読んだことがない。
10年近く前に、随筆集『庭仕事の愉しみ』を買ってきて、そのあと数ページは読んだかもしれないが、ずっと本棚に積まれてホコリをかぶったたままになってる。
作品に接したこともないのに、なぜだかヘッセのことは気持ちに留まっているのだ。
ひとつには、その風貌によるところが大きいのかもしれない。
よく目にするのは晩年のポートレイトで、痩せているけれど弱々しさはまったく感じられなくて、温かさと、冷徹なほどの知性が同居している。そして、植物の繊維で編んだ帽子とか、何個も所有していたという丸い眼鏡、よれよれなのにサマになって見えるシャツやズボン…。それがとてもカッコいいのである。味があるのである。自分の若い息子たちと並んでも、お洒落では断然勝っているし、堂々としている。
浅はかに、単なるファッションとして見ていると思われると困るが、僕としては、なぜこのような魅力的な味わいを持つポートレイトとなりうるのか、それはいったいどこから、いかなるものが作用して起こるのか、それが知りたいのだ。
ヘッセとはその質が異なるが、ポートレイトの魅力的な人物として、例えば映画俳優のジェームズ・ディーンの写真を一枚、眺めるとしよう。
そこには、上目がちで背を丸め、ティーンエイジのいらだちと孤独を一身に背負ったかのような彼がたたずんでいる。
しかし、それだけを見て、彼の本質を判断することはできない。
いつだったか、同じフォトセッションで撮られた、少しずつポーズの違う似たような写真が何枚もあるのを知ったときは、最初に受けた印象をかなり修整しなければいけなかった。
つまり、彼は俳優として、あるいはアーティストとして、自分というものを創作していたのである。もっと平たく言えば、彼のポートレイトから伝わってくる孤独感の何割かは、「自分をどのように見せるか」という、計算によって生み出されたものなのだ。実際問題として、生身のいらだちや孤独感を写真に焼きつけることはなかなか難しいだろうし、それだと偶然の産物となってしまう。
彼はプロフェッショナルなのだ。
彼は、孤独というモチーフを、大衆が手に取って見られるよう、表現しているのである。
ヘルマン・ヘッセが、自分のポートレイトを撮らせるとき、ジェームズ・ディーンと同じことを考えていたとは、それはまったく思わないけれど、写真に撮られることを十分に意識していたことは間違いない。かなりすすんでポーズをとっていたように思われるし、洋服の着こなし、表情にも”慣れ”みたいなものを感じる。余裕がある。
今回の展示のなかにも、魅力的な写真が数点、パネルとなって飾られているが、僕はそのような写真を撮るカメラマンについて知りたいと思った。ヘッセはなんと写真嫌いだそうで、カメラマンを近づけなかったとの記述があったが、ではそんな彼がなぜ素敵なポートレイトを多数残しているのか…? それについては、そこにつづいて書かれていることを読んで、「なるほど…!」と理解できた。しかし、僕が膝を打って納得したその真相を、ここで明かしてしまうのももったいない…。まだご存じない人の、知る愉しみを奪うことにもなる。だから、ここでは伏せておくことにする。
彼の風貌には、その人生と内面が滲み出し、彼でなければ表出し得ない味わいがあるのだろうから、一概に僕が外見だけにとらわれているとは言えないとは思う。まあもちろん、自分と比べても、頭が小さくていいな、とか、鼻が高いとか、あごの線の美しさだとか、ある観点からの彼の造形的優位を感じざるを得ないのだけども。
彼の人生を俯瞰して見て感じたことは、彼は著名な作家であり随筆家であり、水彩画と庭仕事を楽しむひとりの趣味人であり、3度の結婚をした男性、夫であって、子どもの父親である…。これら複数の顔を持っているということだ。それは、世の中で唯一、僕自身も含めて誰もが同じだけ公平に所有している”時間”というものを、人一倍有意義に、余すことなく使っているということなのではないか。
同じだけの時間を、ヘルマン・ヘッセは存分に使い果たし、僕は余らせ、腐らせているのではないか…。
かの文豪と僕なんかを比較するのは、我ながらバカバカしいとは思うが、人間として、なんと恥ずかしいことかと思ったしだいである。
ちなみに、常設展もけっこう面白かった。
世田谷ゆかりの作家の直筆原稿などを中心にレイアウトしてある。
正直言うと、僕は小説はほとんど読まない。小説というものは作家の私的な吐露であるところが大きくて、しかも創作だから、僕にとって忍耐を強いるものだ。まあ、僕の文学的…、というか国語的能力の低さにもよるけれど、かなり気持ちに余裕がないと読めない。
でも、そんな僕でも、小さい頃の「作家になりたい」という夢を思い出させ、また書いてみたいな、と思わせるだけの展示だった。
ヘルマン・ヘッセ展がおもしろかったから、常設展は期待せずに見たけれど、まずまずの拾い物だった。