未だ失業中の身だ。
そろそろ二年にもなる。
ブログなんて書いてる身分じゃないのは自覚しているが、就職活動にも望みが薄い(…いや、望みは、限りなく無きに等しい)。いきおい、パソコン依存症気味の怠惰な毎日に陥っている。
生産的なことはいっさい、やっていない。
金(かね)の工面(早い話、借り入れだ)も万策尽きて、今後のことを考えると恐怖しか湧いてこない。
こういう状況にあって認識したのは、意外にも僕はかなりの楽天家、それも相当無責任な楽天家であるということ。
(“能天気”と言ったほうがよいのか)
ふつうの感覚の持ち主なら、ここまで追いつめられれば、いやでも行動を起こし、日々の糧を得る努力を始めるだろうと思う。たとえ自分の意にそぐわないことでも…。
ところが僕は、返すあてのない借金であっても、とりあえず生活費が工面できているうちは、安穏としているのである。
これは、自分で客観的に見ても、おかしい。
感覚が尋常じゃない。麻痺してるとしか思えない。
そして、金が途絶えたいま、呆然としている。
抑うつ状態になっている。
じつは、この状況は以前にも経験したことがある。
数年前に同じ状況になり、その時は家族の援助によってもちなおした。
同じ失敗をくりかえしているのだ。
どうやら…というより、まぎれもなく、僕はこの世界で実生活を営む能力に欠けている。
抑うつ状態と言っても、うつ病などといったような病気じゃない。
病気の人は、能力がないわけではなく、病気だから能力が発揮できないだけだ。
僕の場合、もともと能力が備わっていない。
前回のうつ状態の時は、自分でもうつ病などの精神疾患を疑ったりもしたが、家族から経済的支援を受け、借金の悩みが晴れたとたん、うつはきれいさっぱりなくなった。
文字どおり、肩が軽くなった。
“肩の荷が下りる”というのは比喩表現じゃない、と思った。
現実に、肉体的に、肩が軽くなる。
ようは、金の問題なのかもしれない。
でも、僕には金を稼ぐすべがない。
肉体的にも、精神的にも、ひどくぜい弱で、何の技能も持っていない。
すべての元凶はそれだ。
もちろん僕自身から起こっていることなのだ。
誰かから再び援助を得ることも、望めない。
僕の家族は、金持ちではないのだ。
ほかに頼る人もいない。
抑うつが、深く重くなる…。
そんなときにふっと頭をよぎるのは、幼いころの記憶であるかもしれない。
それも、具体的な記憶ではなく、漠然とした断片…。
例えば、
家にこもりきりの日々のなか、暗い室内から、ふと陽光のあふれる戸外をのぞき見る。
光が、空気を柔かな橙色に輝かせている。
対比するような空の青。
その光の温度、匂いが、僕の脳内をめぐり、幼児だったころに感じた同じ温度、同じ匂いの記憶をさぐりあてるのだ。
その瞬間に僕は、生まれ育ったふるさとの家に帰る。
またべつの瞬間には、カーテンから漏れる西日が、幼い頃、家族との外出のおりにバスのなかで感じたのと同じ日のように思える。
屋根や地面を静かに叩く雨音も、僕を子どもの頃にひきもどす。
風の匂いが、裏山をのぞむ庭にたたずむ少年の僕を思い出させる。
これらは、僕自身が感傷ぶってわざわざあぶり出している記憶ではない。
ふとしたはずみに、ぽんと出てきてしまうのだ。
頭のなかからこぼれ落ちるように僕のそばに現れ、僕をハッとさせるのだ。
じつを言うと、僕は故郷にあまり芳しい記憶はない。
対外的にはかなり早い時期から孤立した少年で、いわゆるいじめをうけたことこそあるが、楽しく大事にしたい思い出など数えるほどしかない。
そればかりではなく、夢想的なところもあり、どこか別の世界に出たいという気持ちが強かった。そしてそののち、現実に故郷を捨てた。
しかし、それから10数年たって、自分自身も、在郷の家族ともにさまざまな出来事を経て、年もとり、いまこんな状況にあると、故郷が自分にとってまたべつの意味を帯びてくるのも確かである。
ただ、両親が離婚し、生まれ育った家にはいまは誰もおらず、僕が精神的なよりどころとできるふるさとというものは、現実世界には存在しなくなった。
だから、いま異郷の地でときおり噴出する記憶の断片をつなぎあわせようとして現在のあの場所に戻ったとしても、その記憶を現実のものとして完成させることはできないのだ。
そうなると、ますます記憶の断片にすがるしかない。
今度は僕自身が意図的に記憶の入口にあるドアをこじ開けて、古くて暗い部屋をまさぐっている。
可笑しいことに、今ろくな食生活ができず日常的に空腹の状態だからだろうか、食べ物の記憶がまっ先に見つかる。
“おばあちゃんのおはぎ”
いまは亡い祖母の、手づくりのおはぎが美味しかった。
子どもの草鞋くらいあるかと思うほど大きい。小さい頃の記憶だから誇張されているのかもしれないが、とても食べでがあった。
つぶが原形をとどめているもち米。あんこは甘すぎず、手でじかにつかんでもくっつかない程度の硬さだけど、乾燥してはいない。
絶妙なおはぎだった。
でも、誰ひとりその味を継承する人がいなかった。嫁である僕の母も受け継がなかった。
自分でも何度か作ってみようとしたが、だめだった。
売っているものは、まったく、あの味にはほど遠い。
つまりは、もう二度と食べられない、ということ…。
甘い物の思い出なら、何年か前にここで書いた大判焼き(東京でいう今川焼き)がある。
これは、郷里の商店街の甘味店で売っていたもの。
僕が世界一おいしいと思っていた大判焼きだ。
僕が小さい頃には、愛想の悪い、ムスッとして恐いオヤジが焼いていた。
最近帰郷した際に久しぶりにのぞいてみたら、やはり愛想の悪い、ムスッとした男が店をやっていた。
でも、昔いたオヤジとは違う。
その男も、“オヤジ”と呼んでいい年齢だと思うが、昔いたオヤジがそうであったような、畏怖と信頼をこめた“オヤジ”という呼称は、似つかわしくない感じの男だった。
話をしたわけではないが、職人カタギを感じられなかった。
その証拠に、その男が焼いた大判焼きは、世界一の大判焼きではなかった。
もう二度と、世界一の大判焼きは食べられない。
その店がある商店街は、僕が生まれた地方都市の中心部にあるのだが、家からはかなり離れていて、行くのに路線バスで1時間近くかかった。
そのため、年に三回、学校の休みに行けるだけだった。
その地方でいちばん大きなデパートがあり、そういう“華やか”な場所に行くために、小さい頃の僕はよそいきのきれいな服を着て帽子をかぶり、真新しい靴を履いて出かけるのだ。
僕は乗り物酔いがひどかったが、それでも毎回わくわくして出かけたものだ。
田舎のバス停で待っているところからがもう楽しみのうちで、20分前に行ってバスを待った。
バスに乗っているあいだも、車窓からいろんなものを見て楽しんだ。
大人になったいまなら、単なる移動手段として以上に感じることはあまりないと思うのだが、当時は遊園地のアトラクションにまさる楽しみだったのだ。
車窓から望む風景のなかで、妙に印象に残っているのが、とあるビルである。
そのビルは現在は壊され、あとにはマクドナルドが建っている。
僕と弟は、「もうすぐデパートにつく目じるし」として、そのビルを覚えていた。
ブロック塀のブロックをくりぬいて枠だけにして積みあげたような、あまり見かけない外壁だったから記憶に残っていたのだ。格子模様になったブロックのすき間から、その内側にある窓が見えかくれしていた。
そして、●●物産という看板が、ビルの横にくっついていたように思う。
社名をネットで調べてみたら、いまも現存するようだが、ウェブサイトに当時の写真などは載せていなかった。
検索してみても、そのビルの画像は見あたらなかった。
最近、なぜかそのビルの姿が頭にうかんで離れない。
縁もゆかりもない会社の、何の変哲もないネズミ色のビルが、幼い頃の思い出に結びつくと、大切な記憶の映像になるものなのか。
いまの僕の状況…
唐突に現れる記憶の断片…
記憶の部屋に残された思い出の数々…
現実にはもう二度と目にすることのできないそれらの画像を、僕はどんな思いで眺めればいいのだろう。