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犬の眼

『日記』卑しさから清浄なることまで

『グラン・トリノ』のクリント兄ぃ

2009-04-29 19:19:11 | 映画
【警告】
クリント・イーストウッド作品についてネタばれあり
ブライアン・デ・パルマ監督『アンタッチャブル』についても、ひとつネタばれあり

久しぶりに、クリント・イーストウッド主演映画を観た。
(久しぶりといえば、歌舞伎以外の話題も久しぶりだ)

こう見えて、
(見えてはいないけど…)
僕はクリント・イーストウッドファンだ。

…いや、ファンだった、と言ったほうが適切か。
劇場に足を運んだ出演映画は、『目撃』以来、12年ぶりだから…。

たしか、テレビ放映された『ダーティハリー2』なんかを観たりして、徐々にイーストウッドファンになっていったのが、80年代初頭。
(“初頭”なんて言葉を使うほどたいそうなものでもないが)
やっと声変わりをむかえたくらいの思春期の少年が夢中になったのは、やっぱり『ダーティハリー』シリーズとか、『夕陽のガンマン』のような、ニヒルで無口、男くさいイーストウッドだった。

でも、その頃の彼は、そういったイメージから脱却しようとしていたのか、『ダーティファイター』シリーズのようなコメディ路線で、腕っぷしは強いながらも人間としての弱さを持ったキャラクターを演じはじめていた。
しかも、僕が初めて映画館に観にいった『ファイアーフォックス』は、彼としては珍しい戦闘機のドッグファイトをSFXで描いたような作品(ドラマ部分も多い)で、正直戸惑った。

つづいて、シリーズでは自身が初監督した『ダーティハリー4』が、当初のハリー・キャラハンのキャラクターから大きく逸脱した作品になっていて失望…。

クリントの、“常に変化し続ける”という長所が、当時はちょうど過渡期だったのか、せっかくファンとしてせっせと劇場通いしていた僕にとっては、マイナスに働いたとも言える。
『タイトロープ』
『シティヒート』
『ペイルライダー』
『ハートブレイクリッジ勝利の戦場』
『ダーティハリー5』
『ピンクキャデラック』
『ルーキー』
と、どうもどっちつかずな、中途半端な作品群にチケット代を消費してしまう羽目になった。
(80年代という時代性もあったかもしれない)
これらの作品は、自己パロディとしてのイーストウッドを楽しむこともできるが、基本的には中身の薄い駄作がほとんどだった。
一本の映画作品として成り立つものではなく、単なるスター映画、イーストウッド映画である。

当時購読していた映画雑誌のインタビュー記事に、“クリント兄ぃ(あにぃ)”と呼称されていたのを記憶しているし、写真集に寄稿した評論家が、“これからもアカデミー賞には縁がないだろうが、それで良いのだ”などという、擁護なのか何なのかわからないことを書いていた。
これらのことは、彼が単なるB級アクション映画の大スターととらえられていたということで、現実もそうだったということだ。
スターとして映画を作ってきた“弊害”とも言える。

監督として評価を受けた『バード』も観ていない。
これにはいくつか理由がある。
いちばん大きなのは、出演作品でないこと。
(僕自身も、彼を映画作家というよりスターとして見ていた)
つぎに、僕が地方に住んでいたこと。地方都市では、上映される作品が限られる。
そして、ジャズに興味を持っていなかったこと。
最後に、イーストウッド作品を見限っていたこと。とくに、監督作に対して、“冗長で、画面が暗くてわかりにくいシーンが多く、内容的にも人間の弱さをジメッと描いたものが多い”という印象で、評価していなかった。

しかし、いきなりのニュースに驚くことになる。
『許されざる者』の大成功と、アカデミー賞の受賞だ。
じつは、僕が柔軟性がないせいなのか、この作品を観ても、かなり洗練されてはきたが、いままでの監督作品のスタイルやテーマを踏襲しただけで、イーストウッドが激変したようには感じなかった。

ところがところが…。
このあとは出演作にしろ、監督作にしろ(その両方にしろ)、一定以上の評価を得て、果ては再びのアカデミー受賞。ノミネートは常連になっているというすごい状況が続いている。
しかも70歳をとうに過ぎているのに…。

うーん…
昔、評論家がしたり顔で“アカデミー賞とは縁がない”と言いきった相手とは思えない変貌ぶり…
世間がイーストウッドに手のひらを返したのか…?

僕自身は、そのあと『ザ・シークレットサービス』、『パーフェクトワールド』、『マディソン郡の橋』を観て良い感触を持ったが、『目撃』があまり好印象を受けなかったし、僕の個人的な事情もあってまたイーストウッド映画から遠ざかった。

しかし、じつは僕が遠ざかっていたこの期間が、クリントの快進撃の時代だったのだ。
…皮肉だなぁ。

『目撃』が気に入らなかったのは、イーストウッドのクセ、というか、趣味趣向が濃厚な場面があるからだ。
昔から、彼は女性を描くのに、ある種粘着気質である。アブノーマルな場合もある。
正妻以外にも何人もの子どもを持つ彼のことだから、かなりの女性好きと想像されるけれど、そういう私生活の部分が表れているのかどうかは知らない。
でも、作品のなかで、とりたてて女性や、その性を描くことがよく見受けられる。
『白い肌の異常な夜』ではかなり濃厚だし、僕は未見の『恐怖のメロディ』も女性が主役だ。
『ダーティハリー』シリーズでは何人もの女性が襲われ、『4』になるとレ●プ(強●)をテーマにすえている。
『タイトロープ』もアブノーマルな性の世界に入りこみそうになる刑事の話だし、『ルーキー』には、妙に唐突に、クリントが女性にいたぶられるシーンが出てくる。『パーフェクトワールド』にも性的なシーンがいくつかある。『マディソン郡の橋』などは、美しく描いているとはいっても、多くの時間をベッドシーンに割いている。
ほかにもそんな作品が多くある。

『許されざる者』や今年公開の『チェンジリング』のように、女性問題を正面から描くのなら理解できるが、どうも趣味としか思えないような描き方がされている場合があるのだ。

僕はレ●プ(強●)が嫌いのなのである。
伏字にしたいくらいに…。
小学校低学年くらいの頃に、テレビドラマ『Gメン’75』のなかで、進駐軍が女性を襲う場面が出てきたのを目にして以来、僕はトラウマ的にレ●プ(強●)が大嫌いだ。
他人であろうと自分であろうと、映画やドラマであろうと、やらせだろうとなんだろうと、世の中にこれほど嫌なものはない。

出演はしていなかった前監督作『チェンジリング』には、そんなシーンはなかった。
(裸で強制的に水を浴びせられるシーンがあったが、許容範囲だった)
でも、それでもとても後味の悪い、ずっと心に痛みの残る映画だった。
最近のイーストウッド作品には、そんな映画が多いようだ。
『ミリオンダラーベイビー』も、未来に希望はなかった。
『父親たちの星条旗』では、ひどく損傷した死体を明瞭に画像にして、苦痛を喚起した。

そして、今回の『グラントリノ』である。

まず、昔からのクリント・イーストウッドファンとしては、彼が銃撃によって死ぬというのがたいへんなショックだった。
意識はしてなくとも不死身のハリー・キャラハンのイメージを頭の片隅に残しているものだから、無残に殺されるということが信じがたいのだ。
『アンタッチャブル』で、ショーン・コネリーが射殺された時もショックだったけど、今回のクリントはハチの巣にされてしまった…。しかもあの高齢で…。

あの結末には、いろいろな感慨がある。

かつて、法を超越して悪党を撃ち殺しヒーローとなったイーストウッド。
『ダーティハリー』はもちろんだが、『ルーキー』では、悪役ラウル・ジュリアを追い詰め、もはや反撃できない状態になっているのにもかかわらず射殺した。それまでのメジャー作品では、いくら悪党といえども反抗できない相手を殺すことはなかった。「映画が変わった」と僕は思った。
そんなダーティヒーローの元祖とも言える彼が、誰もが「殺したい!」と感じる悪に対して、引き金を引かない…。

その結末に至る以前に、彼は一度実力行使をしている。いままでのイメージでの行動だ。
しかし、それは最悪の結果を引き起こす。
独りよがりの正義が、逆に愛する者に害を及ぼした。

まるでこれまでのアメリカに対する暗喩のようだ…。

彼が涙を流すシーンが印象的である。
個人的にはもう少し感情をあらわにしたほうが効果的だったように思うが、泣かないはずの男の涙は、その心情をよく伝えてくれた。

その反省から、彼は命をなげうって、愛する者を守った。
“死”が彼の武器だった。

これは、かつては政治信条としてタカ派とも言われたというイーストウッドの変化なのか、進化なのか、成長なのか…。それはわからないが、30年来のファンにとっては、目をみはるような変貌ぶりだ。

カッコいい死にざま…
でも、この映画はしかし別の無力感を訴えてくる。
悪党、無法者に、かつては法を超えて対処した。ダーティハリーは連中にマグナムでとどめを刺した。観客は喝さいしたが、状況は改善されなかった。
そして、この映画の主人公は、自分の命を捨てることで悪党に対処した。

でも、現実にはどちらもできないことだ。
現実に生きる僕たちは、どうしたらよいのだろう。
答えはまた先延ばしにされてしまった。

そして、主人公の死に対する涙で映画は終わる。
僕も泣いた。

しかし、彼の死はある意味英雄的で、称えられるものだから良いのだけれど、別の部分で気持ちがすっきりしない。
ずっと残る心の痛みは、後味の悪さは、レ●プ(強●)された少女の、そして、その家族のことだ。
主人公は、彼らの心の平穏を願って死んだ。でも、忌まわしい記憶は一生消えない。
悪党が仮に終身刑になっても、刑務所でほかの受刑者に殺されたりしても、その傷は癒えない。
僕はこの映画のどの部分に救いを求めればよいのだろう…。


クリント・イーストウッドは若い。
(ヘタしたらまだ『ダーティハリー』ができるかもしれないくらい)
その若さの秘密は、こういう刺激を与える映画を撮れるということだろうか。そして、まだ社会に怒っているということだろうか。
(そしてたぶん、女性が好きだってことだと思う)

薬師丸ひろ子の切なさ

2008-09-05 16:16:48 | 映画
久しぶりに薬師丸ひろ子の歌を聴いた。
テレビで、本人が生の演奏をバックに、代表曲を数曲歌ったのだ。

『セーラー服と機関銃』
『探偵物語』
『メインテーマ』
『あなたを・もっと・知りたくて』
『WOMAN “Wの悲劇”より』
などのヒット曲。
ファンではなかったけれど、よく耳にした曲。

井上鑑(いのうえあきら)が編曲して、演奏でも参加していた。
原曲とはかなり違うアレンジだが、もとの曲のイメージを損なってはいなかった。

井上鑑というと、僕にとっては寺尾聡のヒットシングルを思い出す。
でも、僕は寺尾聡という人を知る以前に、コマーシャルで使用された『シャドーシティ』のインスツルメンタル部分を聴いたのが最初の印象だ。
タイヤのCMで、たしか、寺尾聡ではなく、井上鑑というテロップが出ていた。
そして、そのアダルトな雰囲気に、子ども心に(当時小学生)新鮮な驚きを覚えたのだった。

薬師丸ひろ子の声は、あいかわらず伸びやかで透明感がある。
『あなたを・もっと・知りたくて』の途中のセリフも、内心ハラハラしたが、当時と変わらない声だった。
まあ正直、年齢を重ねた彼女の口から、それが発せられるのを見ると、ちょっと不思議な違和感があったのもたしかだけれども。
もちろん、彼女はその年齢において十分に美しく、老けたなどということではない。
でも、あまりにもそのセリフが、幼なすぎた。
僕は薬師丸ひろ子のものとしては唯一、このシングルレコードを持っていたのだけど、当時としても彼女には合わないセリフだったと思う。
曲はまだしも、歌詞が幼稚すぎる。
薬師丸ひろ子を、通常のアイドル歌手という認識で作詞してはいけなかったと思う。

これは映画でも同じことが言える。
僕は、じつは薬師丸ひろ子の映画を、一本もきちんと見たことがない。
だからそれについて何かを論ずる資格はないんだが、あえて言わせてもらうと、彼女は合わない役をやらされていたんじゃないかと思うのだ。
歌舞伎では、その役者のイメージにぴったりする役柄を、“仁(ニン)に合う”と表現するが、薬師丸ひろ子の場合、仁に合わない役が多かったのではないか。
演技の巧拙もあろうけど、彼女は、スターとして大看板として、興行としての映画を引っ張っていくような感じじゃあない。
松竹の羽田美智子も同じイメージがあった。

ときどきそういうことはある。
人気が先に立ち、せっかくの才能を浪費する俳優たち。
海外ではレオナルド・ディカプリオもそうだと思う。

当時の日本映画、とくに角川映画という土壌もどうなんだろうか?
金田一耕助シリーズは、市川崑という監督がいたから良かったが、薬師丸ひろ子の出演作はどうなのか?
もちろん見てないから何とも言いがたいけれど、たとえば、唐突に風祭ゆきのセックスシーンがあったりとか、日本映画独特の“陰な”湿気とでもいうものが漂っている。
当時のメディアミックス的な、大規模な宣伝をして、しかも10代の薬師丸ひろ子をアイドルとして売り出して、低年齢層をターゲットとしているようにみえるのに、作品のテイストがチグハグなんではないか。
エンターテインメントとしてのわりきりがなされていないんじゃないか…。
そんな感じがするのです。

(よく知りもしないくせに、直感だけでいろいろ偉そうに語るのが、このブログの癖。いけないと思いつつ、今日もまたやる…)

でも、薬師丸ひろ子の歌は良かった。
作っているのもそうそうたるメンバー。
来生たかお、松任谷由美(呉田軽穂)、南佳孝ら。

テレビのなかでも言っていたが、合唱が好きだという彼女は、歌唱としては本当にきまじめな感じ。
エモーションとか、パッションとか、エロチシズムとか、
そんな表現とはいっさい縁がなさそうな歌い方。
でも、それがいい。伸びやかで透明感のある声が、切ないメロディに合ってる。
彼女自身もそんなイメージである。
美しい顔立ちだけれども、生々しい色気のようなものはない。
女優は、見るからにエキセントリックな感じの人が多いので、その清々しさが好ましい。

薬師丸ひろ子の歌は切ない歌が多い。
とくにこの番組で歌った曲は、まるで同じ人が作ったような、似たテイストを持っていると思う。
この日、すべてを井上鑑が編曲を担当したから、というだけではない。
もともと同じ切なさが流れていると思う。

今回聴いて、その思いを強くした。
作曲家たちは、薬師丸ひろ子のなかに、その切なさを見ていたのだろうか?
曲だけじゃなく、彼女の顔を見つめていると、ますます溢れてくる。

10代の時に一世を風靡して、でも、芸能界ずれしたふうもなく(本当のところはわからいないとしても)、40代も半ばにさしかかり、それでも美しく清廉な表情で歌うひと…。
20代後半で結婚して、女優としての(とくにスターとしての)盛りともいえる30代を、目だった芸能活動もせず妻として過ごして、しかし結局は離婚に至ったことも、下世話ではあるし他人ごとではあるけども、やはり哀しい気持ちにさせられる。

でもそれだけじゃない。
なんだろう?
この気持ち。

そういえば、10代の薬師丸ひろ子がそれらの曲を歌っていた時代、僕も少年だった。
薬師丸ひろ子の重ねた時間に、僕自身の時間を重ね合わせたことで、溢れ出してくる切なさなのだろうか?
若かった時代、無垢だった時代、希望に満ちた時代…。

最後に、『時代』を歌ってほしかった。
そうしたら、僕のこの切なさも完結したのかもしれない。

裕ちゃんの墓

2008-07-25 17:44:39 | 映画
と、いうわけで(前回の記事を受けて)、命日を前に、僕は初めて石原裕次郎のお墓を訪ねてみた。

『墓参り』という言葉を使わなかったのは、なんとなく、自分のは、ミーハー的な、興味本位の行動ではないかという後ろめたさがあったからだ。
僕は石原家と血縁はないし、どんな次元であれ、つきあいもない。もちろん、生前の裕次郎本人とも面識がない。
墓という、しごくプライベートな空間に、そんな人間が立ち入ってもいいのだろうか、と思う。
裕次郎のファンであることは間違いがないが、それにしたってどの程度のものだろう。…いや、自分を大したファンじゃないと卑下するつもりはない。人に劣らず、裕次郎という偶像に、たしかに依存している部分が僕のなかにある。しかし、相対的に考えて、ファン歴も浅い。映画も数えるほどしか観ていない。
性格的なものもあるかもしれないが、偶像視する一方で、彼のことをけっこう冷めた目で見ている部分もある。その顕著な例が、石原プロだ。
裕次郎がもっとも大切にしていたと思われる石原軍団を、僕はあんまり好きじゃない。
だから、そんな人間が自分の墓に来ることを、彼が嫌がるんじゃないかとも思ったのだ。

そんなこともあって、僕はちょっと気恥ずかしさと、気持ちをうかがうような姿勢で、裕次郎の墓の前に立った。


命日に先だつこと10日あまり。
平日の午後早く、車で裕次郎の眠る、横浜の総持寺に向かった。
わが家から1時間くらいかかったと思う。
駅前にあるから、所在地そのものはすぐに分かるのだけども、一方通行などで車ではちょっと面倒だ。
しばらく迷ったあげく、なんとか、奥に広大な敷地があることを連想させる入口にいきあたる。
少し走り、駐車場の守衛に許可を得る。
「墓参りに来たんですけど…」
そこでも、口はばったい思いを抑えながら、無理にもそう言ってみる。排他的な寺だと追い返されるんじゃないかという恐れもあったから、さも親族のお墓があるかのように装ってみた。
「あ、墓参りね」
守衛の人は、いともあっさりと通してくれた。
僕の心の内はすっかり見透かされていて、それでも「いいんだよ、そんなビクつかなくたって。入んなよ!」と言ってるかのような感じだった。

車をとめて、ちょっと暑いけれどジャケットを羽織った。ネクタイをしてまではこなかったが、せめてもの礼儀だと思った。
きれいな芝、茅葺の門が、雲のない夏空に映える。
建物はどれも巨大。
自分の親父の法事をした寺は、ほんとに古くてこじんまりして、生活感さえあるところだったが、ここはケタ違い。
いろんな寺がある。いろんな人生がある…。

お堂を抜けて、墓地へ向かう途中、あるものが目に入った。
なんと、『裕ちゃんの墓』と書かれた立て看板が、方角を指し示しているのだ!
それが要所要所に数本、手書きも含めて立っている。

『裕ちゃんの墓』!
全部、『裕ちゃんの墓』と書かれている!

石原家の墓、でも、石原裕次郎の墓、でも、裕次郎の墓、でもない。
『裕ちゃんの墓』!

ほかにも著名人が眠っていると聞いていたが、案内板が立っているのは裕次郎だけ。

いったい誰が、どういう意図で書き、立てたのだろう?
墓参りに来るファンのために?
ここはお寺だ。
一檀家のお墓のために案内板を立てるだろうか?
しかも、『裕ちゃんの墓』だ。
『裕ちゃん』はなれなれし過ぎないだろうか?
それとも、石原家、あるいは石原プロからの要請か?
…それも不自然な気がする。
『裕ちゃんの墓』!
ファンによるものなのか?
もしそうなら、『裕ちゃんの墓』にも納得がいく。

どういういきさつなのか、結局は分からなかったのだけども、先日の草津と同様、僕はこの『裕ちゃんの墓』という表記に感動を覚えた。
裕次郎以外にはありえない『裕ちゃんの墓』。
お墓参りがこんなにウキウキするなんてことは、ほかにはないだろう。


その立て看板に案内され、ついに裕次郎の墓に到着した。
ウキウキが、少し神妙な心持になる。ましてや僕は「部外者がぶしつけにもやってきた」というような気持でいるのだから。
案内板に従っていくと、お墓の裏側から回りこむようなかたちになる。
僕は後ろから、青い空に映える、明るい色の墓石を見上げた。
「裕次郎雨(ゆうじろうあめ)」という言葉ができたほど、裕次郎の法要、命日には雨がつきものだ。
でも、その日はとてもいい天気。明るい日差し。
裕次郎の明るさを物語っているよう。その墓に、全く陰鬱な感じを受けない。もし幽霊というものがあって、今、裕次郎がそんな形で現れたとしても、ちっとも怖くない、そう思わせるような雰囲気。
僕の後ろめたさも、少し薄れた気がする。

前に回ると、墓石には、手書きの“石原裕次郎”という文字が彫られている。
ただひとりだけ眠る、裕次郎だけの墓。
その前に、胡蝶ランの鉢植え、きれいに刈り込まれた植栽。紫陽花の花(裕次郎の命日は『あじさい忌』と呼ばれている)。
まき子夫人の言葉が彫りこまれた石碑。墓石の後ろ側には、卒塔婆。甥の石原良純らの名前が読み取れる。
そして、周りを囲む柵の、門柱にあたる部分の石には『裕次郎の墓』という文字が!!
お墓に、そんなことを彫る人がいるのか!?
ずいぶん、対外的な印象を受けた。
もちろん、これも裕次郎の遺志ではなかろう。
僕が持っている写真集では、この部分には何も彫られていなかった。だから後年、誰かが彫ったのだ。
これも、『裕ちゃんの墓』と同様、ファンのためのものだろうか?

なんとなく、石原家や、石原プロの関係者に、
「ファンもお参りに来てもらっていいんだよ」
と、言ってもらってるような気がした。
もちろん、裕次郎も「俺んとこに遊びに来いよ」と言ってるんじゃないかと思った。
僕は「僕みたいなやつでもいいの?」と、聞いてみた。

裕次郎の墓の正面に、何区画かの墓地を隔てて敷地のすぐ外に民家が見える。
そのうちの一軒は、大きな窓からまっすぐ、この墓が見えるような位置に建っている。
ミーハー気分が頭をもたげ、「あの家は、“裕次郎ビュー”だな」と、ニヤリとした。

※追記 後日気づいたのですが、お墓の門柱に彫られているのは『裕次郎の墓』ではなく、『裕次郎』でした。訂正してお詫びいたします。

草津と裕次郎

2008-07-09 17:16:35 | 映画
草津に行った。
滋賀県にも草津という地名があるそうだが、今回訪れたのは、古くから温泉で有名な、草津と言われれば大半の人が思い浮かべる草津のほう(滋賀の人をわざわざ敵に回しかねない言い方かもしれないけども…そんな意図はもちろんないのでご容赦を。ただ『滋賀にも草津があるよ』と言いたかった)である。

ご存知の方が多いとは思うけれど、温泉街の中心に湯畑(ゆばたけ)というものがある。これは6ヶ所あるという源泉のひとつ。畑とはいっても、石の間から温泉の湧き出している楕円形の浅い池のようなもので…、大きさは…ええと?大きさは?…草津温泉の公式サイトに行ってみても書いてなかった。…そう、僕の印象では25メートルプールがすっぽり入る程度だったような気がする。…ただし僕の記憶はあてにならないので実際どのくらいの大きさかははっきり言えない。また、傾斜しているので余計に大きさはつかみにくい。とにかく、硫黄の臭いの湯気が立ちのぼる、湯の花が一面にこびりついて底の白い池なのである。底は白いけれども、お湯を汚濁しているわけではない。流れがあるので湯は透明できれいだ。硫黄によって岩肌が緑青のようなグリーンに変色している部分があり、それがまた湯に清浄な色味を加えている。
池の中央には、横幅いっぱいに七本の木製の樋(とい)が並べられていて(一本の幅は数十センチ)、そのなかを湧き出したお湯が勢いよく流れている。樋の内側も湯の花で真っ白。

湯の花とは、辞書によると『鉱泉中に生じる沈殿物。例えば、硫黄泉では硫黄が沈殿する。』そうで、僕が入った町営の共同浴場『白旗の湯』にも、細かいのがたくさん浮いていた。そう、お風呂では流れがないので、白い湯の花が浮かび、多少湯が白濁している。一瞬、「オヤジのアカか!?」と、たじろいだのだが(垢に似てなくもない)、湯の花だと思いだして、安心して入ることができた。
この『白旗の湯』は、湯畑のすぐそばにあるが、また別の源泉である。かの源頼朝が、鎌倉幕府をひらいたすぐあと(『イイクニツクロウ』の翌年)、ここを発見して湯につかったとか。源氏の白旗にちなんで名づけられたそうだ。
ここのお湯が最高!
僕は公衆浴場が苦手で、今まであまり温泉にも入らなかったが、関東を中心に無名だけれど数ヶ所の温泉には入ってみた。しかし、この『白旗の湯』に入って初めて温泉というものを知った気がした。「それまで入った温泉なんか温泉じゃない!」とまで思うくらい、気に入ったのだ。
しかも、ここは無料ときている。
すばらしい!
草津に感謝。
ただし、ここはとても熱い湯で(あっつくて、僕は最高でも1分くらいしかつかってられなかった)、泉質もきついみたいだから、もちろんみんながぼくみたいに気に入るとは限らない。

いい気持で『白旗の湯』から上がり、湯畑を一周する。
周りは石の柵で囲われていて、草津を訪れた著名人の名が彫られている。
先に挙げた頼朝のほか、日本武尊(やまとたけるのみこと)をはじめ、前田利家、小林一茶から、時代を下って田中角栄まで、各分野の名前がズラリ並んでいる(詳細は公式サイトに載ってる)。
その中でいちばん端に、渥美清の名が…。
それを見て、僕の後ろにいた数人のおばちゃんが柵まで近づいてきて
「あ、渥美清」
と言った。
しかし、次の瞬間、べつのものに気づき、声が変わった。
「あっ、裕ちゃん!!」
もちろん、裕ちゃんとは石原裕次郎のことだ。渥美清の隣が彼だったのだ。
その声の違いは歴然で、渥美清の時は、理性での認識、「渥美清、知ってるよ。寅さんだね」という、いわば知識からの発声だったのが、「裕ちゃん!!」という叫びは、歓喜の声、心からはじけ出たものだった。
渥美清という人物、役者が、裕次郎に劣るということではない。このおばちゃんたちの心に生きているのが裕次郎だったのだ。
おばちゃんたちは、お見受けするに60代後半から70歳を超えたくらいだろうと思うが、40年前にここを訪れた人物の、ただ冷たい石に彫りこまれた字面を目にしただけで、「裕ちゃん!!」という、うれしそうな、好きな人に実際に会ったかのような、年甲斐もなく(失礼ながら親しみをこめてこう言いたい)黄色い声をあげたのだ。そして、その名前に走りよったのだ。
石原裕次郎が亡くなって今年でたしか20年。
それでもまだおばちゃんたちは彼を忘れない。昔と同様、今も裕ちゃんが大好きなのだ。ずっと昔のまま、石原裕次郎はアイドルなのだ。今もその気持ちを忘れない。
おばちゃんたちのその気持ちに触れて、そして、そんな気持ちを与えた裕次郎を想い、なんてすばらしいんだろう。素敵なんだろうと思った。
思いあまって、僕は涙が出そうになった。
自分が裕次郎ファンであることで、僕の感動はいっそう大きくなったのだけども、それだけじゃない。おばちゃんたちの喜び、その光景そのものが感動を与えてくれたのだ。
今も書いていて涙ぐんでくる。
人が、人に喜びを与えるって、こんなにも心を動かすものなんだなぁ…。
現代でも生まれるんだろうか。こんな関係…。
たとえば、はたしてキムタクは、40年後に、ファンにこのような感慨を与えるのだろうか。

そのおばちゃんたちの様子を見、しゃべっていた言葉を聞いて、僕は、草津から帰ったらある場所に行ってみようと思った。
おばちゃんたちは、「裕ちゃんのお墓に参りたいと思っているんだけどね…」と話していたのだ。僕も前から行ってみたいとは思っていた。
裕次郎の墓は、横浜市鶴見区の総持寺にある。僕の家から、本当はそんなに遠くはないのだ。
でも、僕は何となく横浜という土地と相性が悪くて、しかも地図を見ると、そのあたりは駅近くということもあり、道がけっこう入りくんでいるようだ。
それに、檀家以外の人間は入りづらい雰囲気のお寺もあるから、そんなことを考えていて、ついつい行きそびれてしまったのだ。

そういえば、今月17日は、裕次郎の命日である。~つづく~

コネリー去りゆく

2006-04-24 00:27:23 | 映画

『スマステ5』の「世界のニュース」を見ていたら、ショーン・コネリーの映像が流れはじめた。
数年前の映像をランダムに流しているので、「もしかして死んだんか…!?」と、ドキッとしたが、死んだのではなく、引退するとのニュースだった。
「死んだんか!?」と思った時の僕の心の動きが思いのほか大きくて、もちろん自分がコネリーのファンであることは(当然)知っているけれど、その死に対して、そこまでのショックを感じるほどなのだなあ、と思ったしだいである。

引退がニュースになるというのは、かつて一世を風靡した、それほどの大スターだからだが、彼ももう76歳になろうとしているのだから、ふつうに考えればとっくに隠居しててあたり前の年齢だ。
そう考えると、死んだのではないということで安心したのとゴッチャになって、僕はプッと噴き出した。

でも、その時はそんなふうに笑ってすませたのだけど、時間が経つにつれて、だんだんと寂しい気分になってきた。
スクリーンでのショーン・コネリーは、強くて、色気があって、頑固で、大きくて、いたずらっ子みたいで、だからこそ、老けていくということの切なさ、寂しさが如実に感じられてしまう。
彼はそれでも、良い年齢の重ねかたをしてきた。007のショーン・コネリーは嫌いでも、『風とライオン』や『アンタッチャブル』のコネリーが好きだという人も多いと思う。
それでも、近年ガンを患ったりして、本質的に衰えてきているのを見て(そんなこともあって、最近は僕はファンとしては失格だけれど新作をまるで観ていない)、その結果が引退ということになれば、これはまた感慨も深いというものである。
そして、もう残された彼の時間はわずかなのだろうと考えてしまわざるを得ない。
それがとても悲しい。こういう気持ちは、ファンだからということだけではなくて、人生とか、時間というものの切なさを考えさせられることで生起されるものなのかもしれない。
最後の映画が、アニメの吹き替え、というのも、なんか寂しい気がする。

ところで、先日、コネリー主演の『エントラップメント』がテレビ放映されていたのを一瞬だけ見たが、吹き替えが若山弦蔵ではなかった(彼も相当な年齢なのだろうな)。
ショーン・コネリーの声が若山弦蔵じゃないなんて…!
なんでそんな所業ができるのか、不思議でならない。「気でもちがったのか?」とさえ言いたくなるほど、おかしいことだ。
”この俳優の吹き替えには、この声優”という、おきまりの人を「フィックス」と呼ぶらしいが、コネリーのフィックスは若山弦蔵と、法律で決まってる。神様に決められてる。
基本的に、映画は原語で観る主義の僕でさえ、コネリー本人の声よりも、若山弦蔵のほうが合っているのではないかと錯覚することもたまにあるくらい、ピッタリなのだ。
他の声優をキャスティングする担当者こそ、引退しちまえ!

コネリーの写真をネットで探していたら、こんなものを見つけた。

このアジア系の(うさん臭い出で立ちの)人は、世界的に有名なマジシャンだそうだ。名前からして日系だと思う。
この顔の造形の違いは、まるで合成写真のような印象を与えてくるが、実際に彼はコネリーと同席し、手のひらを合わせたんだろうね…!
うらやましいな、妬けちゃうな!
この前書いたように、僕はホモではないのだが(たぶん)、ショーン・コネリーとこんなことができたら、きっと”ポッ”ってなっちゃうと思う。
コネリーの友達がインタビューに応えて話しているのをビデオで見たが、パーティなどでコネリーが会場に入ってくると、女性のみならず、男性までがソワソワしはじめるというのだ。彼ほどの強い男性力(とでもいおうか)があれば、それも納得できる話だ。映画界の先輩、クラーク・ゲ-ブルを評して誰かが「キンタマのぶつかり合う音が聞こえる(ほど男らしい)」という表現をしているのを読んだことがあるけれど、コネリーもそんな感じである(そういえば、顔や演技も似ているような…)。
僕は実の父親がいるけれど、父性としては不在だったような気がする…。男としての在り方を学んだような記憶がない。だから、コネリーのような男に憧れをいだいてしまうのだろうか…?

アートは茶番か?

2005-09-09 11:52:26 | 映画
警告 先入観を植えつける恐れがありますので、フェデリコ・フェリーニ監督作品『サテリコン』を未見の方はご注意ください。

初めて、フェリーニの『サテリコン』を見た。最初の印象として、僕には合わないと思った。
この種の作品に初めて触れるには歳がいきすぎている、ということもあろう。
やはり、中学、高校くらいの、価値観の形成されていない、頭の柔らかな時期に手をつけたほうが良かったのだと思う。
映画に関しては、僕はアメリカ映画、しかもニューシネマ以降の作品に影響を受けているので、『サテリコン』の、舞台芸術のようなセットと、様式的な舞踏、非日常的な衣装やメイク、そして演技には、ほとんどなじみがない。そのあたりもこの映画に入っていくことのできなかった要因には違いない。

ひとつ興味をそそられたのは、この映画、全編を通して、耳ざわりな、嘲るように笑う人々が配置されているのだ。誰かの行動に対して、ほとんど必ずと言っていいほど笑いという反応を差しこんでいる。わずかなシーンを除いて、温かい笑みというものはない。これは作家の、社会に対する嘲笑なのか。それとも、人間とは所詮お互いを嘲りあうものだ、という冷笑なのか…。

まず面白みを感じたのはその部分だが、この作品は、アート、とくに前衛芸術とは滑稽なものだと改めて思うきっかけとなった。

ここで念のため断っておかなければいけないのは、アートと美術は別物だということだ(当然、デザインとも異質のものである)。アートは自己表現だが、美術はそれにも増して論理的でテクニカルな面が強い。アートはほとんどの場合、美術やデザインとは違い、表層的な美しさや調和、社会との融和を追求してはいない。少なくとも僕はそう捉えている。
ただしもちろん、アート、美術、デザインの境界が明確なものであるとは限らない。

誤解を怖れずに言うと、僕は、アートというものは大半がひとりよがりで、わざとらしく、子どもっぽいものだと認識している。自意識過剰であざといものだ。しかも、永遠に未完成である。
だから、そんなものを真面目ぶって、他人に忍耐を強いてまで見せるというのは、傲慢だと言える。
ところが鑑賞者もそれを大真面目に受けとり、一生懸命に作家の意図を読み解こうとする。
そこに齟齬があっても、アートはそれを許容し、広がっていく。

どうもすべてが茶番じみていないか?
僕はそう感じる。
だから、僕はアートに対して憧れに似た感覚を持っていながらも、正面から対峙しようとはしない。斜めに構え、距離をとっている。そして、芸術論をたたかわせている人たちを見ると、幼稚な気がしてならないのだ。そもそもたたかわせるべき芸術論など存在するのだろうか。もしアートがアートとして存在しているなら、他者の意見など無意味なものなのではないのか?
僕は、眉を吊り上げ、見るからに興奮していて、肩に力が入っているようなものは嫌いだ。
熱い魂から発せられるとしても、こちらに届く時には穏やかで自然で、無心を感じさせるものであってほしい。

これを、アートを解さない無神経な人間の戯言と受けとめるか?
確かに、もしかすると僕のアートに対する認識が間違っているのかもしれない。それもあり得る。
または、僕の意識とは別のところにアートは存在しているのかもしれない。
あるいは、僕の嗜好がアートとは相容れないものであるのかもしれない。
僕が無知であるがために作品を読みとることができない、という場合もあろう。

でも、そういういっさいの言葉を越えた、純粋なパワーを持つ作品の存在も信じている。
だからこそ、失望を感じながらも、僕はアートを否定することはしない。
この記事を、アートに対する否定と感じる人がいたかもしれない。
それは違う。これはひとつの解釈である。
アートを否定するならば、このように言及することはないのだ。

Promise Me You'll Remember

2005-09-03 00:22:25 | 映画
※じゃっかんネタバレあり

『ゴッドファーザーPART3』…。
アカデミー作品賞を受賞した前2作の続編としてはもちろん、ひとつの作品としても、とても良い出来とは言いがたいこの映画だが、僕にはある感慨を呼び起こさせる。

公開当時、僕は恋に落ちていた。
彼女の手に触れながら、初めてふたりで見た映画がこれなのだ。
身も世もないほどの、その想いに胸がつぶされそうなくらいの恋だった。
しかしそれは実らず、彼女との関係はその後途絶えた。
いま現在まで、それから一度も会ったことはない。
その断ち切りがたい想いは、僕を何年も苦しめた。
そののち僕は結婚し、彼女のことは心の隅に飴色の記憶として残るだけになった。

やがて離婚したが、そのことでかつて恋した相手が、僕の心に浮上して来たわけではない。
僕は妻を愛していたし、その愛は過去の恋を、文字通り過去に追いやっていた。
妻と別れたいまも、それは変わらない。

でもやはり、ひとり身の今『ゴッドファーザーPART3』を見ると、脳裏に浮かぶのは彼女のことである。
不思議だ。
結婚していた頃には、ここまでの感慨が湧きおこることはなかったのに…。

当時の僕は、若さと純粋を心に宿していた。
まっすぐな気持ちで彼女を見ていた。
自分を見失うくらい、僕の世界のすべてが彼女への恋で埋め尽くされていた。

挿入されているマスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲の調べと、愛のテーマを歌うハリー・コニック・Jr.の歌声…。
映画の最後にこの2曲が流れると、その当時の切ない想いが、さらに僕の胸中に滲み出してくる。
それは、彼女への恋が甦るのではなく、その恋心を抱くことが出来た自分への懐かしさであり、哀しさ、切なさ、憐れみなのである。

いまの僕に、あのような恋は到底できない。
今よりはるかに自分を信じ、未来を信じていた自分だったからこそ、彼女に対して一途な想いを抱くことが出来た。ふるえるくらいの恋を、ぶつけることができたのだろう。
過去は甘美でもあるが、苦果にもなりうる。
それを決めるのは、まぎれもなく現在の僕自身なのであろう。

『スター・ウォーズ』の”?”

2005-07-04 00:27:53 | 映画
警告 ネタバレあり

28年間、くり返し『スター・ウォーズ』を見続けていると、ちょっと違和感や疑問を感じる部分も見えてくる。
アラ探しと言われると困るのだが、ファンとしてのちょっと屈折した愛情表現として、ここでいくつかあげてみる。
ただし、僕は古い世代のファンであり、『エピソード2 クローンの攻撃』と新作の『エピソード3 シスの復讐』は見ていないし(まず、どうも僕にはヘイデン・クリステンセンを受け入れられない。オーランド・ブルームなんかもそうだが、最近の若手俳優の多くが好きになれないんだよな…)、『エピソード1 ファントムメナス』も一度しか見ていないので、それらを考慮した理論展開は出来ない。あくまで『スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望/特別編』を一本の作品として見たときの疑問点を述べるものである。
記事の性質上、狂信的なファンや、夢を壊されたくないファンにはおすすめできない。
※今日は前半部分。後半はまたの機会に。

●R2-D2が再生した、オビ・ワンに助けを求めるレイア姫の映像は、どうやって撮影したという設定なのだろうか。かなり遠くて高い位置にカメラがあるようだ。しかもレイアはカメラのほうを向いていない。たとえ立体画像だとしても不自然だ。ちなみに『ジェダイの復讐(帰還)』では、同じくR2-D2が再生したルークの映像は正面からの画像で、きちんと視聴者(ジャバザハット)のほうを向いていた。

●ルークのおばさんのイタリアンカラーらしきシャツは70年代ぽい模様が入っていて、登場人物のなかでは奇異に映る。

●ダース・ベイダーがレイアに自白を強要する際、薬品を使うのだろうけれど、アナログな注射器がとても異質な印象を受ける。

●帝国軍がルークの叔父夫婦やジャワ族を殺害してまで、血眼になって探しているR2-D2。そしてその重要性を知り、命がけでオルデラーンへ届けようとするオビ・ワンとルーク。それなのに、酒場へ行った時、マスターに注意されたくらいで、その大事なR2-D2を帝国軍がウロウロしている外へ追い出してしまうのはなぜ?

●酒場のシーン。ルークがお尋ね者にからまれて、オビ・ワンがライトセイバーを抜いて斬りつけ、結果としてその騒ぎを聞きつけた帝国軍に嗅ぎつけられてしまう。その直前に検問を受けた時にストームトルーパーにやったように、フォースでその心を操ることは出来なかったのだろうか?

●その場面のあと、何事もなかったように平然と酒を飲み始める酒場の客たち…。物事に動じない荒くれ者というイメージを描写したものとは思うが、封印されていたジェダイ騎士の武器ライトサーバーを目のあたりにしても誰も驚かなかったのだろうか?

●ハン・ソロが賞金稼ぎのグリードを殺すシーン。オリジナル版ではソロの射撃でグリードが爆発したが、特別編では、グリードが先に銃を発射、それが外れてソロが勝ち残る形になっている。これだと、ソロは単に運が良かったとしか言えないのでは?

●特別編でのジャバの初登場シーン。オリジナル版では会話の中に出てくるだけだったが、そこからイメージされる”ジャバ像”からはかなりかけ離れていると思う。暗黒街の大ボスにしてはけっこうハン・ソロに軽くあしらわれていて、あげくにしっぽを踏んづけられたりする始末だ。まったく威圧感や恐ろしさがない。
それに、なめくじの親玉のような身体で、動くのも不自由そうな彼が、どうやってあのような存在にまで昇りつめたのか不思議。

●ルークが救出に行き、レイアと初めて出会うシーン。ルークが「ベン・ケノービも来ている」というと、レイアも嬉しそうにそれに応える。レイアは「ベン・ケノービ」という通り名を知っていたのだろうか?

番外/マーク・ハミルは第一作ではデヴィッド・キャシディも顔負けのアイドル顔だったのに、なぜ『帝国の逆襲』以降はちょっとブサイクになってしまったのだろう。鼻の穴がかなりでかくなってしまっている。

僕は、大きくて力持ちなのにネズミを怖がったり、時々肩をすくめたりするチューバッカが大好きです。

亜流『ムービー・バトン』

2005-06-29 11:53:50 | 映画
ミュージカル・バトンの亜流ですけど、ムービー・バトンってのを作りましたので、やってみませんか?
つまり、今度は映画について答えていただこうという趣向です。

※英語は苦手なので、日本語をエキサイトの翻訳ツールに放りこんで、出てきたまんまの英訳を付けてみます。きっとワヤな英文になっていると思うので、英語が堪能な方、修正を加えながら(海外へも)回していただけると助かります。

ここで言う”映画”とは、単館、ロードショーを問わず、劇場で封切りされた作品ということでいかがでしょうか?ビデオ用に制作された作品は対象外としたほうが良いのではないかと、個人的には思います。

●所有している映画ソフトの本数
(Number of movie software that you own)

約100本。
妻と別れたので、彼女の所有分が減りました。
まだDVDソフトが高価だった頃にコツコツ買いためたということと、貧乏だということもあって、この本数にとどまってるけれど、きっと経済的余裕があったらこの数倍は買ってるだろな…。
いま映画のDVDってバカみたいに安くなっちゃったけど、品質のほうはどうなんでしょう? 大丈夫なのかな…。

●もっとも最近見た映画
(Movie that you saw most recently)

『シザーハンズ』ティム・バートン監督

●最後に買った映画ソフト
(Movie software that you bought recently)

『明日に向って撃て!』ジョ-ジ・ロイ・ヒル監督
『エイリアン』リドリー・スコット監督
『シザーハンズ』ティム・バートン監督
『セントルイス銀行強盗』無名時代のスティーヴ・マックィーン主演作品(380円!)
『フレンチ・コネクション』ウィリアム・フリードキン監督
これらをまとめ買いしました。

●よく見る、または特別な思い入れのある5作
(Five movies you see to a lot, or that mean a lot to you)
※じゃっかんのネタバレあり。先入観を植えつける恐れがあるので、未見の方は十分にご注意ください。

1.『スター・ウォーズ』

9歳の頃、夏休みに『スウォーム』を見に出かけました。しかし、わが田舎では公開されていなかったので、代わりにこの映画を見たのです。それは僕の人生にとって大いなる幸運でした。
ただ、僕のなかでの『スター・ウォーズ』は、『帝国の逆襲』を最後に終わっています。『ジェダイの復讐』でチューバッカがターザンの雄叫びをあげたことを含めて、その伝説に傷がついてしまいました。エピソード1以降の新シリーズは、残念ながらさまざまな部分で僕の嗜好とは合いません。
(ところで、『ジェダイの復讐』については原題どおりの『ジェダイの帰還』に改題されはしましたが、なんか、逆襲とか復讐とか攻撃とか、似かよった題名が多すぎると思うんですけど…)

2.『ゴッドファーザー』

もしかすると、これが僕のオールタイムナンバーワンかもしれません。中学生という感受性の強い時期に出会ったので、僕の意識の奥深くに刷りこまれた映画となりました。その後も何回も何回もくり返し見ています。
コレクターではないのですが、画質の良いソフトを見つけるたびに買っていたら、10年くらいの間に結局3部作のセットが、ビデオ2種、レーザーディスク、DVDの、合計4セットになっていました。
ちなみにDVDの吹替えはひどいです。「グラッチェ!」なんて、マーロン・ブランドがケーシー高峰のようになっちゃってます。

3.『ヒート』

アル・パチーノとロバート・デ・ニーロの競演ということで、過大に期待してしまった作品です。
でも、家で最もよく見る作品となっています。ジョン・ボイトが激シブです。

4.『仁義なき戦い/完結編』

第一作から脚本を手がけてきた笠原和夫が手を引き、高田宏治が担当しています。各人の思惑が交錯した集団劇としての色が濃い前作までの作風とは違い。北大路欣也がヤクザとしてどう”男”を立てるかに焦点が絞られています。

5.『ロング・グッドバイ』

ロバート・アルトマン監督、エリオット・グールド主演のこの映画、あまり話題にはのぼりませんね。フィリップ・マーロウというハードボイルドのヒーローを独自の解釈で描いたこの作品は、大御所チャップリンをはじめ、保守派には不評だったと言われています。
午前三時に猫に起こされ、キャットフードを買いに出かける導入部から、僕の好みです。
一説によると、松田優作のテレビドラマ『探偵物語』の元ネタだそうです。

●バトンを渡す人
(People to whom you're passing the baton)

半分シャレですから、軽々に誰ということも言えません。
それに、僕は映画ソフト購入派だけど(じっくりとくりかえし見たいし、物欲人間だから)、レンタル派のほうが多いのかもしれませんね。そうすると、この質問はちょっと成りたたなくなってしまいます。
それに、ミュージカル・バトンのような世界的なムーブメント(?)なら皆さん食指が動くでしょうけど、こんなバッタもんは相手にしてくれないでしょう。
それでも、もし、やってもいいよ、という方がいらっしゃれば、受けとってください。
なんなら『ブック・バトン』とか『クルマ・バトン(乗り継いできた愛車について)』みたいなものも作りますよ。
(…いや、ブック・バトンは難しいな。個人的にもますますアホがバレちゃうだろし)


※僕みたいなバカが他にも存在するようで、すでに別のムービー・バトンが流通しているみたいです。やはり本家ミュージカル・バトンのようには洗練されておらず、質問が少しずつ違ってる。僕が作ったムービー・バトンのほうが面白いと思うよ(たぶん)。
コミック・バトン(漫画)とかも回っているみたいですね。

好きな人4『マックィーン』

2005-06-09 03:24:05 | 映画


スティーヴ・マックィーン。彼ほど男の理想を体現している人はいない。

自由、孤独、スピード、信念、誇り、強靭な肉体、夢…。

男が憧れるキーワードを、すべて自分のものにしている男。

少年のような心、と簡単に言うが、それは彼のためにあるような言葉。

いくつになっても、斜めから見あげるような目つきで世間に対峙する永遠の不良少年。

パッと見、シワだらけの顔に、そんなに長くもない足。

でもマックィーンなら、そんなことどうでもいい。

ずっと彼のようになりたかった。

最近、”世界一のスーパークール”などと言われて、また人気がリバイバルしているそうだけど、

僕みたいに、憧れてもとうてい手の届かない男への、もどかしさと切なさの表れじゃないのかな。

グーフィの声

2005-05-20 14:46:16 | 映画
どうしてディズニーキャラクターのグーフィとかミニー、くまのプーさん、ティガーはオリジナル版では何十年も同じ声なんだろう?
同じ声優? 調べてはいないけどそんなはずはないと思う。
例えば最初のプーさんは1960年代中頃の公開でしょ? DVDを見たらかなりの歳の人が吹き替えてたから、40歳だったなら今は70代半ば。グーフィなんかもっと昔ですよね。仮に同じ声優だとしても同じ声が出るとは思えないです。
ドラえもんやサザエさんの声優も、お歳とともにかなり声変わりしていたから…。

アメリカのショービジネス界は層が厚くて幅が広いから、同じ声が出せる声優がいるのかしら?
何代にもわたって同じ声の人が存在しているのでしょうか?

※これは余談ですが、セサミストリートのエルモの声を担当しているのは、30歳くらいのがっちりした男の人だそうです。しかも加工していない”生声”らしい。それだけでも「アメリカはすごい!」と思っちゃう。

それにひきかえ、日本でそれらのキャラクターを担当している人は、その独特の喋り方を再現できたことすらない。とくにグーフィは変。本物のグーフィはそこはかとなくおしゃれなのに、日本版グーフィは田舎のとっつぁんみたい。プーさんの声も全然、まったく、まるで違う。オリジナルのプーはあったか味があるけど吹替え版はかなりおつむが弱そう…。
そもそもディズニー版をそのまま再現することがいいのかどうかは、意見の別れることだと思うし、お金をかける気もないんだろうけど、日本のショービズ界の貧弱さ、底の浅さを痛感します。
※日本ではルパン三世の声を、故山田康雄から引き継いだ栗田貫一の例があるけれど、賛否両論ありますね。小池朝雄亡き後のコロンボは石田太郎、銀河万丈ら、同じイメージの声を出そうとしてますが、どうもしっくりこない(それに、そもそもコロンボ役のピーター・フォークはあんな声じゃないです)。新しいドラえもんは大山のぶ代とはまったく違う声みたいだけど。

僕は大人になってからディズニーアニメに接したので、小さい頃から吹替え版を見ている人にとっては、僕の意見には賛同できないでしょうね。そんな人たちの気持ちを害する気はなかったのですが…。

どなたか真相をご存知ですか?

映画追記 あ~け

2005-04-13 13:43:54 | 映画

●『哀愁』ビビアン・リー主演
●『アウトランド』ショーン・コネリー主演
●『赤い波止場』石原裕次郎主演
●『明日に向かって撃て!』ジョージ・ロイ・ヒル監督
●『アポロ13』ロン・ハワード監督
●『嵐を呼ぶ男』石原裕次郎主演
●『暗黒街の顔役』ハワード・ホークス監督


●『イージー・ライダー』ピーター・フォンダ主演
●『E.T.』スティーブン・スピルバーグ監督
●『イマジン/ジョン・レノン』アンドリュー・ソルト監督
●『イレイザー』アーノルド・シュワルツェネッガー主演
●『インサイダー』マイケル・マン監督


●『ウォー・ゲ-ム』ジョン・バダム監督
●『ウォータームーン』長渕剛主演
●『ウォール街』マイケル・ダグラス主演
●『麗しのサブリナ』オードリー・ヘップバーン主演


●『エアフォース・ワン』ハリソン・フォード主演
●『A.I.』スティーブン・スピルバーグ監督
●『エルビス・オン・ステージ』エルヴィス・プレスリー


●『大地震』チャールトン・ヘストン主演
●『オーシャンズ11』スティーブン・ソダーバーグ監督
●『オーメン』リチャード・ドナー監督
●『オルゴール』長渕剛主演


●『カッコーの巣の上で』ミロス・フォアマン監督
●『喝采』グレース・ケリー主演
●『カリートの道』アル・パチーノ主演
●『カルネ』ギャスパー・ノエ監督
●『監獄ロック』エルヴィス・プレスリー主演


●『疵』陣内孝則主演
●『キャノンボール2』ハル・ニーダム監督
●『兇状流れドス』松方弘樹主演
●『ギルバート・グレイプ』ジョニー・デップ主演
●『キンダガートンコップ』アイバン・ライトマン監督


●『狂った果実』石原裕次郎主演
●『グレンミラー物語』ジェームズ・スチュアート主演


●『激動の1750日』中井貴一主演
●『ゲット・ショーティ』ジョン・トラボルタ主演
●『訣別の街』アル・パチーノ主演

映画追記 こ~て

2005-04-13 13:42:13 | 映画

●『恋に落ちたら』ロバート・デ・ニーロ主演
●『恋のためらい/フランキーとジョニー』アル・パチーノ主演
●『子連れ狼/その小さき手に』田村正和主演
●『コットンクラブ』フランシス・フォード・コッポラ監督


●『サウンド・オブ・ミュージック』ロバード・ワイズ監督
●『ザ・シークレット・サービス』クリント・イーストウッド主演
●『ザ・スタンド』ショーン・コネリー主演
●『サタデー・ナイト・フィーバー』ジョン・トラボルタ主演
●『三代目襲名』高倉健主演


●『シー・オブ・ラブ』アル・パチーノ主演
●『シークレット・レンズ』ショーン・コネリー主演
●『シティヒート』クリント・イーストウッド主演
●『十戒』セシル・B・デミル監督
●『ジャスティス』アル・パチーノ主演
●『小説家を見つけたら』ショーン・コネリー主演
●『上流社会』ビング・クロスビー主演
●『昭和残侠伝』高倉健主演
●『新・悪名』勝新太郎主演


●『スカーフェイス』ブライアン・デ・パルマ監督
●『スケアクロウ』ジェリー・シャッツバーグ監督
●『スーパーマン』リチャード・ドナー監督
●『スーパーマン2/冒険篇』リチャード・レスター監督
●『スーパーマン3/電子の要塞』クリストファー・リーブ主演


●『世界を賭ける恋』石原裕次郎主演
●『セブン』デビッド・フィンチャー監督
●『零戦黒雲一家』石原裕次郎主演
●『千羽づる』神山征二郎監督


●『タイタニック』ジェームズ・キャメロン監督
●『タイトロープ』クリント・イーストウッド主演
●『太平洋ひとりぼっち』石原裕次郎主演
●『007/ダイヤモンドは永遠に』ショーン・コネリー主演


●『ちょうちん』陣内孝則主演


●『ディア・ハンター』マイケル・チミノ監督
●『ディアボロス/悪魔の扉』アル・パチーノ主演
●『ディックトレイシー』ウォーレン・ベイティ監督、主演
●『天国の約束』アル・パチーノ主演

映画追記 と~ふ

2005-04-13 13:38:28 | 映画

●『逃亡者』ハリソン・フォード主演
●『12モンキーズ』テリー・ギリアム監督
●『トゥルー・クライム』クリント・イーストウッド主演
●『トワイライトゾーン/超次元の体験』スティーブン・スピルバーグ、ジョン・ランディス製作


●『ナチュラル』バリー・レビンソン監督、ロバート・レッドフォード主演
●『何がジェーンに起こったか?』ロバート・オルドリッチ監督


●『日本暴力団組長』鶴田浩二主演


●『ネバーセイ・ネバーアゲン』ショーン・コネリー主演


●『ノーバディーズ・フール』ポール・ニューマン主演


●『バグズライフ』ピクサー
●『ハスラー2』マーチン・スコセッシ監督、ポール・ニューマン主演
●『花嫁の父』スペンサー・トレーシー主演
●『ハード・ウェイ』マイケル・J・フォックス主演
●『ハドソン・ホーク』ブルース・ウィリス主演
●『ハートブレイク・リッジ』クリント・イーストウッド主演
●『8mm』ニコラス・ケイジ主演
●『バックドラフト』ロン・ハワード監督
●『パピヨン』スティーヴ・マックィーン主演
●『パーフェクト・ワールド』クリント・イーストウッド監督、ケビン・コスナー主演
●『パリの恋人』オードリー・ヘップバーン主演
●『ハリーポッターと賢者の石』クリス・コロンバス監督
●『バリーリンドン』スタンリー・キューブリック監督


●『ビー・バップ・ハイスクール』那須博之監督
●『ビーン』ローワン・アトキンソン主演
●『ピンク・キャデラック』クリント・イーストウッド主演
●『ピンクパンサ-5/クルーゾーは二度死ぬ』ブレーク・エドワーズ監督


●『ファイアーフォックス』クリント・イーストウッド監督、主演
●『ファミリービジネス』シドニー・ルメット監督
●『フィラデルフィア』ジョナサン・デミ監督、トム・ハンクス主演
●『フェイク』アル・パチーノ主演
●『フェノミナン』ジョン・トラボルタ主演
●『風速40米』石原裕次郎主演
●『ブラック・レイン』リドリー・スコット監督
●『プレシディオの男たち』ショーン・コネリー主演

映画追記 へ~わ

2005-04-10 21:14:50 | 映画

●『ペイ・フォワード』ミミ・レダー監督
●『ペイルライダー』クリント・イーストウッド主演
●『ヘルプ!四人はアイドル』ザ・ビートルズ主演


●『暴力脱獄』ポール・ニューマン主演
●『ボディガード』ケビン・コスナー主演
●『ボルケーノ』トミー・リー・ジョーンズ主演


●『マディソン郡の橋』クリント・イーストウッド監督、主演


●『ミザリー』ロブ・ライナー監督
●『ミシシッピー・バーニング』ジーン・ハックマン主演
●『見知らぬ乗客』アルフレッド・ヒッチコック監督
●『身代金』メル・ギブソン主演


●『メッセージ・イン・ア・ボトル』ケビン・コスナー主演


●『目撃』クリント・イーストウッド監督、主演
●『最も危険な遊戯』松田優作主演


●『ヤア!ブロードストリート』ポール・マッカートニー主演
●『山と谷と雲』石原裕次郎主演
●『山口組外伝九州進攻作戦』菅原文太主演


●『夕陽のガンマン』セルジオ・レオーネ監督


●『欲望という名の電車』エリア・カザン監督
●『汚れた顔の天使』ジェームズ・キャグニー主演


●『ライトスタッフ』フィリップ・カウフマン監督
●『ライジング・サン』ショーン・コネリー主演
●『ラスベガス万才』エルヴィス・プレスリー主演


●『リチャードを探して』アル・パチーノ監督、主演
●『リバイアサン』ピーター・ウェラー主演
●『理由』ショーン・コネリー主演
●『略奪された7人の花嫁』スタンリー・ドーネン監督


●『レイジング・ブル』マーチン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ主演
●『レオン』リュック・ベッソン監督
●『レット・イット・ビー』マイケル・リンゼイ・ホッグ監督
●『レッド・オクトーバーを追え!』ショーン・コネリー主演
●『レナードの朝』ペニー・マーシャル監督


●『ロシア・ハウス』ショーン・コネリー主演


●『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』セルジオ・レオーネ監督

※中グロ(・)の有無、漢字の読み方など、表記上の間違いはご容赦を。