【警告】
クリント・イーストウッド作品についてネタばれあり
ブライアン・デ・パルマ監督『アンタッチャブル』についても、ひとつネタばれあり
久しぶりに、クリント・イーストウッド主演映画を観た。
(久しぶりといえば、歌舞伎以外の話題も久しぶりだ)
こう見えて、
(見えてはいないけど…)
僕はクリント・イーストウッドファンだ。
…いや、ファンだった、と言ったほうが適切か。
劇場に足を運んだ出演映画は、『目撃』以来、12年ぶりだから…。
たしか、テレビ放映された『ダーティハリー2』なんかを観たりして、徐々にイーストウッドファンになっていったのが、80年代初頭。
(“初頭”なんて言葉を使うほどたいそうなものでもないが)
やっと声変わりをむかえたくらいの思春期の少年が夢中になったのは、やっぱり『ダーティハリー』シリーズとか、『夕陽のガンマン』のような、ニヒルで無口、男くさいイーストウッドだった。
でも、その頃の彼は、そういったイメージから脱却しようとしていたのか、『ダーティファイター』シリーズのようなコメディ路線で、腕っぷしは強いながらも人間としての弱さを持ったキャラクターを演じはじめていた。
しかも、僕が初めて映画館に観にいった『ファイアーフォックス』は、彼としては珍しい戦闘機のドッグファイトをSFXで描いたような作品(ドラマ部分も多い)で、正直戸惑った。
つづいて、シリーズでは自身が初監督した『ダーティハリー4』が、当初のハリー・キャラハンのキャラクターから大きく逸脱した作品になっていて失望…。
クリントの、“常に変化し続ける”という長所が、当時はちょうど過渡期だったのか、せっかくファンとしてせっせと劇場通いしていた僕にとっては、マイナスに働いたとも言える。
『タイトロープ』
『シティヒート』
『ペイルライダー』
『ハートブレイクリッジ勝利の戦場』
『ダーティハリー5』
『ピンクキャデラック』
『ルーキー』
と、どうもどっちつかずな、中途半端な作品群にチケット代を消費してしまう羽目になった。
(80年代という時代性もあったかもしれない)
これらの作品は、自己パロディとしてのイーストウッドを楽しむこともできるが、基本的には中身の薄い駄作がほとんどだった。
一本の映画作品として成り立つものではなく、単なるスター映画、イーストウッド映画である。
当時購読していた映画雑誌のインタビュー記事に、“クリント兄ぃ(あにぃ)”と呼称されていたのを記憶しているし、写真集に寄稿した評論家が、“これからもアカデミー賞には縁がないだろうが、それで良いのだ”などという、擁護なのか何なのかわからないことを書いていた。
これらのことは、彼が単なるB級アクション映画の大スターととらえられていたということで、現実もそうだったということだ。
スターとして映画を作ってきた“弊害”とも言える。
監督として評価を受けた『バード』も観ていない。
これにはいくつか理由がある。
いちばん大きなのは、出演作品でないこと。
(僕自身も、彼を映画作家というよりスターとして見ていた)
つぎに、僕が地方に住んでいたこと。地方都市では、上映される作品が限られる。
そして、ジャズに興味を持っていなかったこと。
最後に、イーストウッド作品を見限っていたこと。とくに、監督作に対して、“冗長で、画面が暗くてわかりにくいシーンが多く、内容的にも人間の弱さをジメッと描いたものが多い”という印象で、評価していなかった。
しかし、いきなりのニュースに驚くことになる。
『許されざる者』の大成功と、アカデミー賞の受賞だ。
じつは、僕が柔軟性がないせいなのか、この作品を観ても、かなり洗練されてはきたが、いままでの監督作品のスタイルやテーマを踏襲しただけで、イーストウッドが激変したようには感じなかった。
ところがところが…。
このあとは出演作にしろ、監督作にしろ(その両方にしろ)、一定以上の評価を得て、果ては再びのアカデミー受賞。ノミネートは常連になっているというすごい状況が続いている。
しかも70歳をとうに過ぎているのに…。
うーん…
昔、評論家がしたり顔で“アカデミー賞とは縁がない”と言いきった相手とは思えない変貌ぶり…
世間がイーストウッドに手のひらを返したのか…?
僕自身は、そのあと『ザ・シークレットサービス』、『パーフェクトワールド』、『マディソン郡の橋』を観て良い感触を持ったが、『目撃』があまり好印象を受けなかったし、僕の個人的な事情もあってまたイーストウッド映画から遠ざかった。
しかし、じつは僕が遠ざかっていたこの期間が、クリントの快進撃の時代だったのだ。
…皮肉だなぁ。
『目撃』が気に入らなかったのは、イーストウッドのクセ、というか、趣味趣向が濃厚な場面があるからだ。
昔から、彼は女性を描くのに、ある種粘着気質である。アブノーマルな場合もある。
正妻以外にも何人もの子どもを持つ彼のことだから、かなりの女性好きと想像されるけれど、そういう私生活の部分が表れているのかどうかは知らない。
でも、作品のなかで、とりたてて女性や、その性を描くことがよく見受けられる。
『白い肌の異常な夜』ではかなり濃厚だし、僕は未見の『恐怖のメロディ』も女性が主役だ。
『ダーティハリー』シリーズでは何人もの女性が襲われ、『4』になるとレ●プ(強●)をテーマにすえている。
『タイトロープ』もアブノーマルな性の世界に入りこみそうになる刑事の話だし、『ルーキー』には、妙に唐突に、クリントが女性にいたぶられるシーンが出てくる。『パーフェクトワールド』にも性的なシーンがいくつかある。『マディソン郡の橋』などは、美しく描いているとはいっても、多くの時間をベッドシーンに割いている。
ほかにもそんな作品が多くある。
『許されざる者』や今年公開の『チェンジリング』のように、女性問題を正面から描くのなら理解できるが、どうも趣味としか思えないような描き方がされている場合があるのだ。
僕はレ●プ(強●)が嫌いのなのである。
伏字にしたいくらいに…。
小学校低学年くらいの頃に、テレビドラマ『Gメン’75』のなかで、進駐軍が女性を襲う場面が出てきたのを目にして以来、僕はトラウマ的にレ●プ(強●)が大嫌いだ。
他人であろうと自分であろうと、映画やドラマであろうと、やらせだろうとなんだろうと、世の中にこれほど嫌なものはない。
出演はしていなかった前監督作『チェンジリング』には、そんなシーンはなかった。
(裸で強制的に水を浴びせられるシーンがあったが、許容範囲だった)
でも、それでもとても後味の悪い、ずっと心に痛みの残る映画だった。
最近のイーストウッド作品には、そんな映画が多いようだ。
『ミリオンダラーベイビー』も、未来に希望はなかった。
『父親たちの星条旗』では、ひどく損傷した死体を明瞭に画像にして、苦痛を喚起した。
そして、今回の『グラントリノ』である。
まず、昔からのクリント・イーストウッドファンとしては、彼が銃撃によって死ぬというのがたいへんなショックだった。
意識はしてなくとも不死身のハリー・キャラハンのイメージを頭の片隅に残しているものだから、無残に殺されるということが信じがたいのだ。
『アンタッチャブル』で、ショーン・コネリーが射殺された時もショックだったけど、今回のクリントはハチの巣にされてしまった…。しかもあの高齢で…。
あの結末には、いろいろな感慨がある。
かつて、法を超越して悪党を撃ち殺しヒーローとなったイーストウッド。
『ダーティハリー』はもちろんだが、『ルーキー』では、悪役ラウル・ジュリアを追い詰め、もはや反撃できない状態になっているのにもかかわらず射殺した。それまでのメジャー作品では、いくら悪党といえども反抗できない相手を殺すことはなかった。「映画が変わった」と僕は思った。
そんなダーティヒーローの元祖とも言える彼が、誰もが「殺したい!」と感じる悪に対して、引き金を引かない…。
その結末に至る以前に、彼は一度実力行使をしている。いままでのイメージでの行動だ。
しかし、それは最悪の結果を引き起こす。
独りよがりの正義が、逆に愛する者に害を及ぼした。
まるでこれまでのアメリカに対する暗喩のようだ…。
彼が涙を流すシーンが印象的である。
個人的にはもう少し感情をあらわにしたほうが効果的だったように思うが、泣かないはずの男の涙は、その心情をよく伝えてくれた。
その反省から、彼は命をなげうって、愛する者を守った。
“死”が彼の武器だった。
これは、かつては政治信条としてタカ派とも言われたというイーストウッドの変化なのか、進化なのか、成長なのか…。それはわからないが、30年来のファンにとっては、目をみはるような変貌ぶりだ。
カッコいい死にざま…
でも、この映画はしかし別の無力感を訴えてくる。
悪党、無法者に、かつては法を超えて対処した。ダーティハリーは連中にマグナムでとどめを刺した。観客は喝さいしたが、状況は改善されなかった。
そして、この映画の主人公は、自分の命を捨てることで悪党に対処した。
でも、現実にはどちらもできないことだ。
現実に生きる僕たちは、どうしたらよいのだろう。
答えはまた先延ばしにされてしまった。
そして、主人公の死に対する涙で映画は終わる。
僕も泣いた。
しかし、彼の死はある意味英雄的で、称えられるものだから良いのだけれど、別の部分で気持ちがすっきりしない。
ずっと残る心の痛みは、後味の悪さは、レ●プ(強●)された少女の、そして、その家族のことだ。
主人公は、彼らの心の平穏を願って死んだ。でも、忌まわしい記憶は一生消えない。
悪党が仮に終身刑になっても、刑務所でほかの受刑者に殺されたりしても、その傷は癒えない。
僕はこの映画のどの部分に救いを求めればよいのだろう…。
クリント・イーストウッドは若い。
(ヘタしたらまだ『ダーティハリー』ができるかもしれないくらい)
その若さの秘密は、こういう刺激を与える映画を撮れるということだろうか。そして、まだ社会に怒っているということだろうか。
(そしてたぶん、女性が好きだってことだと思う)
クリント・イーストウッド作品についてネタばれあり
ブライアン・デ・パルマ監督『アンタッチャブル』についても、ひとつネタばれあり
久しぶりに、クリント・イーストウッド主演映画を観た。
(久しぶりといえば、歌舞伎以外の話題も久しぶりだ)
こう見えて、
(見えてはいないけど…)
僕はクリント・イーストウッドファンだ。
…いや、ファンだった、と言ったほうが適切か。
劇場に足を運んだ出演映画は、『目撃』以来、12年ぶりだから…。
たしか、テレビ放映された『ダーティハリー2』なんかを観たりして、徐々にイーストウッドファンになっていったのが、80年代初頭。
(“初頭”なんて言葉を使うほどたいそうなものでもないが)
やっと声変わりをむかえたくらいの思春期の少年が夢中になったのは、やっぱり『ダーティハリー』シリーズとか、『夕陽のガンマン』のような、ニヒルで無口、男くさいイーストウッドだった。
でも、その頃の彼は、そういったイメージから脱却しようとしていたのか、『ダーティファイター』シリーズのようなコメディ路線で、腕っぷしは強いながらも人間としての弱さを持ったキャラクターを演じはじめていた。
しかも、僕が初めて映画館に観にいった『ファイアーフォックス』は、彼としては珍しい戦闘機のドッグファイトをSFXで描いたような作品(ドラマ部分も多い)で、正直戸惑った。
つづいて、シリーズでは自身が初監督した『ダーティハリー4』が、当初のハリー・キャラハンのキャラクターから大きく逸脱した作品になっていて失望…。
クリントの、“常に変化し続ける”という長所が、当時はちょうど過渡期だったのか、せっかくファンとしてせっせと劇場通いしていた僕にとっては、マイナスに働いたとも言える。
『タイトロープ』
『シティヒート』
『ペイルライダー』
『ハートブレイクリッジ勝利の戦場』
『ダーティハリー5』
『ピンクキャデラック』
『ルーキー』
と、どうもどっちつかずな、中途半端な作品群にチケット代を消費してしまう羽目になった。
(80年代という時代性もあったかもしれない)
これらの作品は、自己パロディとしてのイーストウッドを楽しむこともできるが、基本的には中身の薄い駄作がほとんどだった。
一本の映画作品として成り立つものではなく、単なるスター映画、イーストウッド映画である。
当時購読していた映画雑誌のインタビュー記事に、“クリント兄ぃ(あにぃ)”と呼称されていたのを記憶しているし、写真集に寄稿した評論家が、“これからもアカデミー賞には縁がないだろうが、それで良いのだ”などという、擁護なのか何なのかわからないことを書いていた。
これらのことは、彼が単なるB級アクション映画の大スターととらえられていたということで、現実もそうだったということだ。
スターとして映画を作ってきた“弊害”とも言える。
監督として評価を受けた『バード』も観ていない。
これにはいくつか理由がある。
いちばん大きなのは、出演作品でないこと。
(僕自身も、彼を映画作家というよりスターとして見ていた)
つぎに、僕が地方に住んでいたこと。地方都市では、上映される作品が限られる。
そして、ジャズに興味を持っていなかったこと。
最後に、イーストウッド作品を見限っていたこと。とくに、監督作に対して、“冗長で、画面が暗くてわかりにくいシーンが多く、内容的にも人間の弱さをジメッと描いたものが多い”という印象で、評価していなかった。
しかし、いきなりのニュースに驚くことになる。
『許されざる者』の大成功と、アカデミー賞の受賞だ。
じつは、僕が柔軟性がないせいなのか、この作品を観ても、かなり洗練されてはきたが、いままでの監督作品のスタイルやテーマを踏襲しただけで、イーストウッドが激変したようには感じなかった。
ところがところが…。
このあとは出演作にしろ、監督作にしろ(その両方にしろ)、一定以上の評価を得て、果ては再びのアカデミー受賞。ノミネートは常連になっているというすごい状況が続いている。
しかも70歳をとうに過ぎているのに…。
うーん…
昔、評論家がしたり顔で“アカデミー賞とは縁がない”と言いきった相手とは思えない変貌ぶり…
世間がイーストウッドに手のひらを返したのか…?
僕自身は、そのあと『ザ・シークレットサービス』、『パーフェクトワールド』、『マディソン郡の橋』を観て良い感触を持ったが、『目撃』があまり好印象を受けなかったし、僕の個人的な事情もあってまたイーストウッド映画から遠ざかった。
しかし、じつは僕が遠ざかっていたこの期間が、クリントの快進撃の時代だったのだ。
…皮肉だなぁ。
『目撃』が気に入らなかったのは、イーストウッドのクセ、というか、趣味趣向が濃厚な場面があるからだ。
昔から、彼は女性を描くのに、ある種粘着気質である。アブノーマルな場合もある。
正妻以外にも何人もの子どもを持つ彼のことだから、かなりの女性好きと想像されるけれど、そういう私生活の部分が表れているのかどうかは知らない。
でも、作品のなかで、とりたてて女性や、その性を描くことがよく見受けられる。
『白い肌の異常な夜』ではかなり濃厚だし、僕は未見の『恐怖のメロディ』も女性が主役だ。
『ダーティハリー』シリーズでは何人もの女性が襲われ、『4』になるとレ●プ(強●)をテーマにすえている。
『タイトロープ』もアブノーマルな性の世界に入りこみそうになる刑事の話だし、『ルーキー』には、妙に唐突に、クリントが女性にいたぶられるシーンが出てくる。『パーフェクトワールド』にも性的なシーンがいくつかある。『マディソン郡の橋』などは、美しく描いているとはいっても、多くの時間をベッドシーンに割いている。
ほかにもそんな作品が多くある。
『許されざる者』や今年公開の『チェンジリング』のように、女性問題を正面から描くのなら理解できるが、どうも趣味としか思えないような描き方がされている場合があるのだ。
僕はレ●プ(強●)が嫌いのなのである。
伏字にしたいくらいに…。
小学校低学年くらいの頃に、テレビドラマ『Gメン’75』のなかで、進駐軍が女性を襲う場面が出てきたのを目にして以来、僕はトラウマ的にレ●プ(強●)が大嫌いだ。
他人であろうと自分であろうと、映画やドラマであろうと、やらせだろうとなんだろうと、世の中にこれほど嫌なものはない。
出演はしていなかった前監督作『チェンジリング』には、そんなシーンはなかった。
(裸で強制的に水を浴びせられるシーンがあったが、許容範囲だった)
でも、それでもとても後味の悪い、ずっと心に痛みの残る映画だった。
最近のイーストウッド作品には、そんな映画が多いようだ。
『ミリオンダラーベイビー』も、未来に希望はなかった。
『父親たちの星条旗』では、ひどく損傷した死体を明瞭に画像にして、苦痛を喚起した。
そして、今回の『グラントリノ』である。
まず、昔からのクリント・イーストウッドファンとしては、彼が銃撃によって死ぬというのがたいへんなショックだった。
意識はしてなくとも不死身のハリー・キャラハンのイメージを頭の片隅に残しているものだから、無残に殺されるということが信じがたいのだ。
『アンタッチャブル』で、ショーン・コネリーが射殺された時もショックだったけど、今回のクリントはハチの巣にされてしまった…。しかもあの高齢で…。
あの結末には、いろいろな感慨がある。
かつて、法を超越して悪党を撃ち殺しヒーローとなったイーストウッド。
『ダーティハリー』はもちろんだが、『ルーキー』では、悪役ラウル・ジュリアを追い詰め、もはや反撃できない状態になっているのにもかかわらず射殺した。それまでのメジャー作品では、いくら悪党といえども反抗できない相手を殺すことはなかった。「映画が変わった」と僕は思った。
そんなダーティヒーローの元祖とも言える彼が、誰もが「殺したい!」と感じる悪に対して、引き金を引かない…。
その結末に至る以前に、彼は一度実力行使をしている。いままでのイメージでの行動だ。
しかし、それは最悪の結果を引き起こす。
独りよがりの正義が、逆に愛する者に害を及ぼした。
まるでこれまでのアメリカに対する暗喩のようだ…。
彼が涙を流すシーンが印象的である。
個人的にはもう少し感情をあらわにしたほうが効果的だったように思うが、泣かないはずの男の涙は、その心情をよく伝えてくれた。
その反省から、彼は命をなげうって、愛する者を守った。
“死”が彼の武器だった。
これは、かつては政治信条としてタカ派とも言われたというイーストウッドの変化なのか、進化なのか、成長なのか…。それはわからないが、30年来のファンにとっては、目をみはるような変貌ぶりだ。
カッコいい死にざま…
でも、この映画はしかし別の無力感を訴えてくる。
悪党、無法者に、かつては法を超えて対処した。ダーティハリーは連中にマグナムでとどめを刺した。観客は喝さいしたが、状況は改善されなかった。
そして、この映画の主人公は、自分の命を捨てることで悪党に対処した。
でも、現実にはどちらもできないことだ。
現実に生きる僕たちは、どうしたらよいのだろう。
答えはまた先延ばしにされてしまった。
そして、主人公の死に対する涙で映画は終わる。
僕も泣いた。
しかし、彼の死はある意味英雄的で、称えられるものだから良いのだけれど、別の部分で気持ちがすっきりしない。
ずっと残る心の痛みは、後味の悪さは、レ●プ(強●)された少女の、そして、その家族のことだ。
主人公は、彼らの心の平穏を願って死んだ。でも、忌まわしい記憶は一生消えない。
悪党が仮に終身刑になっても、刑務所でほかの受刑者に殺されたりしても、その傷は癒えない。
僕はこの映画のどの部分に救いを求めればよいのだろう…。
クリント・イーストウッドは若い。
(ヘタしたらまだ『ダーティハリー』ができるかもしれないくらい)
その若さの秘密は、こういう刺激を与える映画を撮れるということだろうか。そして、まだ社会に怒っているということだろうか。
(そしてたぶん、女性が好きだってことだと思う)