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犬の眼

『日記』卑しさから清浄なることまで

現実的な線

2006-05-05 03:59:55 | CAR
マセラティへの懺悔をした舌の根も乾かぬうちから、こんなことを書くのも心苦しいが、これから挙げるのは、購入の候補として考えている車である。
フェラーリが欲しいとかいった大それた気持ちは、胸の奥にしまい込んでおくことにする。人生に、ひとつケリをつけるのだ。ありていに言えば、自分を見限り、夢をあきらめたことになる。
だから、候補に挙げている車は現実的な選択をしている。まあ、それでもかなり頑張らないといけないのだけど、なんとか手の届く車を選んでいるのだ。

それから、一台をのぞき、中古車は対象から外した。
新車なんて贅沢、と思われるかもしれないが、それにはいくつかの理由がある。まず、中古車を買うのは、たいへんな労力を要するのだ。一台ごとに状態が違っているから、価格と照らし合わせながら、あちこちのディーラーを巡って必ず実車を見て比較検討しなければならない。しかも、すぐに決めないと売れてしまうから、じっくり考えている暇がない。数多く出回っている車種だと、その作業はさらに面倒になる。フェラーリやマセラティなどのような特殊な車なら個体数が少ないから、かえって中古車としては探すのが楽だ。それに、探す作業も楽しい。
中古車は信頼できる店を選ぶのがとても重要になってくるのだけど、それを見極めるのはとても難しい。
ヘタな店から買ってしまうと、とんでもない不良車をつかまされることになりかねない。その点、新車ならほとんど問題がないのだ。
それに、先日書いたように「余裕もないのだから、趣味性の高い、手のかかる車はもうあきらめて、(僕なりの最低限のこだわりは残しつつも)お金がかからず快適な、道具として便利な車を選ぶ」としたら、そのような一般的な大衆車は趣味性の高い車と違って、どんな人が所有していたか分からないという不安もある。オーナーから愛情を注いでもらっていたかどうかも怪しいものだ。マセラティなんかだと、少なからず同好の士という意識が働くけれど、大衆車にはそれがない。変なやつだったら嫌だな、と思う。僕は潔癖性気味だからなおさらだ。
それから、大衆車はコストをかけていないので、長く乗るには耐久性にも問題があるかもしれない。僕も必然的にこれから何年ものローンを組んで乗ることになるのだから、もってくれないと困るのだ。手のかかるのを嫌って好きな車をあきらめたのに、妥協して選んだ車が壊れたりしたら意味がないのである。
また、新車なら車検まで3年の猶予がある。中古車だと登録からすぐに手放したのものでもない限り、たいてい2年以内に車検をとらなくてはいけない。そうすると、初期費用がかさむことになってしまう。

新車にはそんな利点がある。

以前欲しいと言っていたローバーミニはやめることにした。
いい車なんだけど、ハンドルがとても重いこと、中古車として不安が拭いきれないということ、何度か見に通っていたショップの店長が気に入らなかったこと(担当の販売員は良かったのだが…。同じようなことを先日書いたが、またべつのショップである。店長というのはどうしようもないな)、それに、やはり残念ながら僕のキャラクターにそぐわないんじゃないかと思ったのが理由だ。粗雑な僕にはちょっとオシャレすぎるかも。

プジョー206


最有力候補だったが、試乗してみると、アクセルが軽すぎる。ふわふわだ。それに反応が鈍い。踏み込んでもそれが動力に伝わるのがワンテンポ遅れる。僕の使い方だと状況によっては、それが危険に繋がるようなこともあるかもしれない。
また、206はプジョーの下位モデルなので、全体に造りが安っぽい。内装も質感が良くない。それでも輸入車のなかでは割安だし、デザインとかブランドイメージは悪くないから、完全に候補から外すことはふんぎりがつかない。
この車はもうすぐ生産終了となり、後継車はひとまわり大きくなってしまうので3ナンバー仕様となる。デザインも僕は好きじゃない。
チャンスは残りわずかだ。

プジョ-206CC


基本的に、オープンカーが大好きだ。輸入車のオープンカーで、しかも電動のハードトップ付き…これはたのしい! おまけに4人乗りでこの価格というのは破格である(メルセデスのSLKの半額以下)。さらに、確か5ナンバーに収まってる。こんなお買い得な車も、今を逃すと、そろそろ生産中止になるから、本当は迷ってる暇はない。
しかし、これも試乗してみたけれど、やっぱりアクセルに違和感がある。206よりはましだが、全体的にチープな感じは否めない。低価格だから眼をつむるべきか…。もっとも、それでも僕には少し予算オーバーなのだが(汗)。
ボディカラーは、カタログで見た限りでは「プジョーに黒なんて…」と思っていたが、実物を見たらそれがすごく良かった。

日産ティーダ


以前の僕なら考えられない選択である。
保守的な、国産車。完全に道具としてとらえての候補だ。まあ、僕はTOYOTAは絶対に選ばないだろうから、ティーダという車のどこかに、僕のスタイルに合う部分を見つけたのだろう。
そして、乗ってみたら非常に良かった。快適。運転しやすい。初めての車なのに、まるでずっと自分のものであったかのようにリラックスできる。アクセルも適度な重みがあり、走りもスムーズ。「モダンリビング」というコンセプトにたがわず、室内のデザイン性と質感は高い。とくにシートは最高である。いい車だ。
でも、道具としては素晴らしいが、愉しさを与えてはくれなさそうだ。コストパフォーマンスに優れていて、プジョーとくらべたら段違いにお買い得だと思うのだが、所有することに喜びが感じられない。
でも、捨てがたい車である。

アルファロメオ147


唯一の中古車、しかも趣味性の高い、以前の僕がセレクトしそうな車だ。でも僕は、アルファロメオはあまり趣味ではなかった。だからこのコンパクトな147は、ある意味妥協を含んだ選択である。
とは言っても、そのデザインはかなり気に入っているし、試乗してみたら愉しい車だった。
ただし、いくら近年改善されているといっても、イタリア車、そして中古車はやはり不安だ。予算も少しオーバーだし、選ぶコンセプトからも外れてる。
これまでイタリア車、ドイツ車、日本車と乗ってきたから、おかしな理由だけど、つぎはイギリス車かフランス車が順当な線だという気持ちもあって(アメ車には適当な候補がない)、よほど有力な理由がなければ、この車を選ぶ可能性は低い。でも、このなかでは一番僕の性格に合ってるかもしれない。

マツダ・ロードスター


覚えている限り、おそらく10数年ぶりにマニュアル車を運転した。それがこのロードスターだ。
もともと運転が得意ではないこともあって、操縦はぎこちなかったけれど、プジョー206のオートマ車なんかと比べものにならない、スポーツカーらしい走りが愉しかった。反応が良くて、グイグイ走ることができる。
僕は乗ったことを後悔した。なぜなら、欲しいという気持が湧いてきてしまったから…!
値段が安いから、内装はプラモデルみたいな部分もあるが、ボディはすごくしっかりしている。遊ぶのに最高の車だ。外観は、前のロードスターはあまり好きではなかったが、今度のはデザインも気に入ってる。
しかし、ソフトトップで2シーターというのは、あまりにも実用的でない。それにATもあるけれど、これはやはりマニュアルで乗りたい。そうするとなおのこと実用には向かない。本当に走るためのオモチャである。
これに乗ったせいで、またも気持がぐらついている。(運転はヘタくそだけど)やはりオープンカーやスポーツカーに乗りたい…!

スマート


ずっと前から気になっている車である。色もこの配色がいい。小さいながら、国産車のようにかわいいだけでなく、洗練されている。
でも、座席は広いものの、ふたり乗りで、トランクも狭い。これも用途が限られる車だ。小回りが利いて便利な部分もあるけれど、ファーストカーとしては厳しいだろう。それから、ミッションがちょっと特殊で、クラッチペダルはないが、坂道発進はマニュアルと同様、ハンドブレーキを引いての操作が必要となる。それがかなりの減点である。

こうやって候補車を挙げてはみたが、車を買える身分ではないことも自覚している。だから、買わないという選択もあり得るのだ。念のため、その点も書き加えておく。

僕のマセ。

2006-05-03 12:19:15 | CAR

”マセ”というのは、イタリアの車、マセラティのことである。

僕はこのブログでは、個人を特定できるような情報はなるべく出さないようにしてきたが、今日はひとつ明かしてみようかと思う。
それは、マセラティに乗っていたことがある、ということだ。
10年以上前に、20代も半ばを過ぎてから、生まれて初めて購入した車がマセラティだった。
もちろん、新車なんか買えない。中古も中古、すでに絶版のモデルの、10数年落ちの中古車である。
でも、当時の気持ちとしては、新車のモデルよりも、僕が買った車のほうが好きだった。決して金がないからとかいった妥協などではなかったのだ。

ただ、今思えば、マセを買ったことはやはり”若気の至り”というほかないと思う。
イタリア車、とくにマセラティは壊れる、というのは定説みたいに言われていたし、そのことを含めて、税金だとかもろもろ、維持がたいへんである。TOYOTAのディーラーに勤めていたという人に、なかば嘲笑ぶくみで、「やめたほうがいいんじゃないの?」と忠告されたこともある。
僕は、お金があればそんなことは、好きな車を所有するためには問題ではないのだが、結果としては、自分の甲斐性がなかったということに尽きる。
しかも、今考えると本当に恥ずかしく、反省と後悔の気持ちで胸が苦しくなるほどなのが、当時、まだ結婚前だった妻の存在がなければ、その車は所有できなかったということである。もちろん、直接購入資金や維持費を出させたことはないけれど、家計全体のことを考えれば、無意識的にでも、明らかに”あて”にしていたことは間違いない。依存していたと言わざるを得ない。
若い僕にしてみれば、「今に倍にして返してやるから」という感じだったのだろうけど、結局はそれは自信というより、根拠のない、妄信だったのだ。
ずっとこのブログを読んでくださっている方がいるとすればご存知の通り、その後は経済的困窮、そして結婚生活の破綻という途をたどる…。考えてみると、マセラティの購入が、象徴的にではあるにせよ、その端緒、元凶だったのかもしれない。

しかしもちろん、マセラティには何の罪もない。
そして、マセはいい車だった。

僕のマセは黒の222Eというモデルなのだが、ビトゥルボ系と呼ばれるシリーズ特有の、少し角ばった形をしている。ボーラやメラクといったスーパーカー世代のモデルとも全然違うし、現在のマセラティはフェラーリ傘下となり、スタイルに面影を残していない。
しかし今見ても、だんぜん僕のマセのほうがいい。
現行モデルのようなスポーツカー然とした感じではなく、一見地味で、昔の国産車と間違えそうなデザインなのだが、よく見ると、例えば横から見たフォルムはまるでサメのようで、うちに秘めた熱情をクールな外観に隠しているかのようだ(ちなみに、マセラティオーナーである作家、北方謙三は、それをサメではなく『羊の皮をかぶった狼』と表現している)。
後継モデルではバンパーあたりのデザインが変わって、その”サメのような”精悍さが薄れてしまったので、もともと流通量の少ないマセラティであるが、僕のマセはますます希少性の高い車と言える。

”ビトゥルボ”というのは確かターボの意味で、この222Eもターボチャージャー装備である。
僕は、感覚やイメージ的なところを優先させてしまう質(タチ)だし、機械が苦手なのでそういった類いのことは詳しくないが、スペックは車を判断するための必須事項だろうから、ちょっと書き出してみようと思う。
222Eは1987年に誕生。”E”というのは日本仕様車につけられるコードネームとのこと。
全長×全幅×全高はそれぞれ、4155×1714×1255ミリ。
エンジンは、水冷V型6気筒SOHC3バルブ、水冷式インタークーラー付ターボチャージャー。排気量2790cc。
パワーは、225HP/5500r.p.m。
トルクは、37.0kg-m/3500r.p.m。
トランスミッションは4段ATだ。
ネコ・パブリッシングの本に掲載の資料を丸写ししただけなので、正直僕にはちんぷんかんぷん…。本当は、ここに書いたことくらいは意味を理解しておかなきゃとは思うのだが、パワーやトルクとなると読み方さえ分からない。きっと、”まっとうな”車ずきからしてみたら、僕みたいなヤツにはイライラしてしまうんだろうな…。
でも、運転すると、ターボがどんなものかだけは、体が覚える。
昔で言う「どっかんターボ」というやつで、アクセルをグッと踏み込んだら、ひと呼吸のタイムラグがあったあと、いきなりギュン!と加速するのだ。文字通りシートに体が押しつけられて、快感が体をつき抜ける(陳腐な表現だけど、ホントにそんな感じ)。
ある雨の日に、信号待ちをしていて、青に変わったので発進しようとしたら、おそらくアクセルを踏みすぎたのだろう、一瞬、リアタイヤがなかば空回りして、後ろからせっつかれるような形になり、車体が斜めになった。反射的にカウンターをあてて、車体を左右に振りながらもなんとか無事に発進することができた。
購入する際にディーラーの営業から、「パワーがあるから気をつけろ」と注意されていたことが起きたのだ。
タイヤはミシュランだったのだが、そろそろ交換してもいい時期に来ていたこともあり(それに、マセのサイズのミシュランは近所では売っておらず、しかもバカ高い…)、それを機にブリジストンに替えた。ただ、グリップは良くなったと思うけど、デザインがマセに合わなかったというミソがつく…。

それから、良きにつけ悪しきにつけ、ビトゥルボ系マセラティと言えば、そのインテリアが話題にのぼる。
僕のマセはベージュ(白に近い)の本革シートで、表革とスウェードのコンビになってる。そして、ステアリングホイールをはじめ、各所につややかなウッドが使われていて、ダッシュボードにまで貼られた革とのコンビネーションが美しい。
計器類、スイッチは整然と並べられ、真偽のほどは定かではないが、カルティエ製と言われる時計が、中央に据えられている。
このインテリアを、「いやらしい」と感じる人もいるかもしれない。それに、細かいことを言えば、手入れも大変だ。
でも、シブめの外観との対比が、いい味わいを醸し出していると思う。僕には品悪くは感じられなかったし、すごく好きだ。

じつはこのマセ、まだ手元にある。

愛する車なのに、経済的破綻、離婚、失業、精神の不調など、(自業自得はいえ)人生の苦難の怒濤のうねりのなかで、数年前に当然のように廃車(登録抹消)となり、何年も風雪にさらされ、サビが浮いてすでにボディが腐りはじめ(最初の三年間は大丈夫だったのだが…)、ボロボロの状態にしてしまった…。
だから本当は、”愛する車”なんてセリフは、ちゃんちゃらおかしくて、言ってはいけないことなのだ。
まるで根をはった雑草みたいになって置きっぱなしになってるマセのことを想うと、とても辛い。
そして、その辛さゆえに眼をそむけてきたようなところがある。でも胸の中では、妻に感じるのと同質の罪悪感を抱かずにはいられない。
僕のマセは、確かに細かい不具合はあったが、エンジンそのものは元気だったし、とても良い子だった。
一般的なマセラティの評価からすれば、奇跡のような個体だったのではないだろうか。
それなのに、だらしない親のせいで、屍をさらしているような始末になっている。
もちろん、まだ状態のいいうちに売ることも考えたが、そこは昔から評判の悪いイタリア車、引き取り手は見つからない。希少車とは書いたけれど、それはつまり、一般的には人気がないということでもある。これがフェラーリなんかだとまだ道があるのだろうけど、マセラティは知名度さえ低い。タダでもいいから、と思っても、自走できないから引き取ってもらうのにもかなりの費用がかかるのだ。
スクラップにするのは忍びない。できれば、(パーツとしてでもいいから)どこかでまたふたたび走ってくれれば、とも思う。
それに、頭の隅で、「いつかは僕が復活させたい…」ということが捨てきれないでいた。
たぶん、そのためには最低でも200万くらいはつっこまなければいけないと思う。だからどうしても無理だったのだけど、そんな生半可な未練が、かえってアダになってしまったと言える。今となっては、どんなにお金をつぎ込んでも、復活できる見こみは少ないと思う。
以前、マセラティの世界ではその名を知られたショップに電話をしてみたが、そこのオーナーにも叱られてしまった。無理からぬことだ。マセを愛する人にとって、僕のしてきたことは、許されざる所業だろう。
その店が近ければ良かったのだが、遠方にあるので、自走できないということもあるし、宙ぶらりんになったまま、また月日が過ぎた…。

なぜ僕が、マセのことを書こうと思ったか…。
それは、最近、車を買おうかと、なかば本気で考えるようになったからである。
ちょこちょことディーラーに出かけては車種をしぼり込む作業をしていたが、そんななかで、新しい車にかけるお金を用意できるのなら、マセを復活させることが可能だとしたら、そちらに使うべきだろうか…。そう思ったのだ。
でも、最初に書いたように、マセラティの維持は難しい。
マセは意外にロードクリアランスが低いので、底を擦ってしまいやすいから、おいそれとどこへでも出かけられない、ということもある。
そもそも、車の購入を考えはじめた当初は、「余裕もないのだから、そういった趣味性の高い、手のかかる車はもうあきらめて、(僕なりの最低限のこだわりは残しつつも)お金がかからず快適な、道具として便利な車を選ぼうか」というところから始まった。
しかし、それにしたところで、客観的に見れば無謀なことである。
定期収入ができたとはいっても、しょせんはアルバイトだ。金額もたかが知れている。
これは僕の”消費依存症”が発症しているのだろうか…。
それに、若気の至りならまだいいが、この歳になっては、何の言い逃れもできない。
同じ失敗をくり返すのか…!?
しかし、冷静に状況を判断できる自分がいるにもかかわらず、そこに歯止めがかけられない…。
なんなのだろう、このおかしな力は…?

それに、使い勝手が良くて値段の手頃な車は、どうしても造りがチープな場合が多い。確かに、最近はコンパクトカーでも質感の高さが売りになっているような車種もあるが、基本的にはスポーツタイプの車が好きだということもあって、徐々に気持ちがズレてくるのだ。
そんななか、マセのことを思い出すにつけて、
「いい車だったなあ」
「復活させてやりたいなあ」
「罪滅ぼしをしたいなあ」
という気持ちが湧き出してくるのである。
今日この記事を書いたのは、ひとつの懺悔という意味もあるのだ。

いまもマセは、じめじめとした暗い木陰で、創傷の痛みに耐えながら、孤独な眠りをつづけている。

ガソリンが減った…

2006-01-29 02:58:51 | CAR
渋滞は、はまるまいと思うほどドツボにはまる時がある。
今日(正確には昨日)なんか、まさにそう。
給料日あとの土曜日(って実際関係あるのかな…)、しかも東京地方は抜けるような青空…。
こりゃお出かけ日和だ。

そのうえに、朝、早めに出ようと思っていたのが、ついブログを書くのに手間取ってお昼近くになってしまった。そうしたら家を出てすぐ下の幹線道路に降りたところからすでに流れが悪い。
でも、そこで焦って、裏道に入ったりしたのが運のつき。いつもにも増しての大渋滞に出くわした。
そんな時、よく知りもせずにさらに横道にそれたりするからバカを見る。
結局、行き止まりやら一方通行やらで、くるくる回らされて、もと来た道に…。

しかも今日は悪いことに、地元の『だるま市』とやらが開催されているらしい。どうやら、それが大渋滞の元凶だ。
僕は吸い寄せられるように、そっちへ向かっていたことになる。わざわざ混むほうへ、混むほうへと走っていたわけだ。

そんな感じで、今日は運転に関してすべて裏目に出たこともあって、空いてる時なら50分くらいの道のりが、2時間もかかってしまった。
そんな時は、前方の車の動きがいちいちカンに障る。
「おい、ちゃんと信号見てんのか?」
「スッと行けねえのか、スッと…!」
「車間距離を開けすぎだよ!」
なんてことを、腹の中でブツブツ言ってる。

でも僕はもうイライラしたり怒ったりするのはこりごりだから、無理にも空なんか見上げて、「ああ、雲ひとつないねえ」「のんびり行こうよ」と自分に言い聞かせている。
僕もけっこう大人になったもんだ(苦笑)。
最近、怒りを表出させてしまった場合、つまり、例えば電車の中で腹の立つヤツがいて、たまりかねて注意したりした時(それでも、昔みたいにいきなり怒鳴ったりしない)、なんか自分でも意外なほど後悔するのだよ。まるで自発的な行為ではなかったかのように、僕自身が驚いてしまうのだ。
そう、キューブリックの『時計仕掛けのオレンジ』の主人公…、あんな感じに似ているな。

それで、渋滞をかいくぐって、環八(カンパチ =環状八号線。東京にある環状道路の呼び名)をずっと通ったのだけど、ふだん郊外に住んでいるから、都心はやっぱり通っている車からして違うなあ、なんておノボリさんみたいなことを思っていた。
とくにあのあたりは車屋さんが多いから、新車が出ても反応が早いんだ。田舎ではまだほとんど見かけないレクサスの新車なんかも通っているし、ベンツなんか掃いて捨てるほどいるし、ポルシェだって10何台も見た。アルファロメオもかなり走ってる。さすがにランボルギーニは見かけなかったけど、フェラーリも珍しくない。

貧乏だから痛いほど分かるけど、品川ナンバーとか、(環八が通ってる)世田谷に住んでるだけで金持ちだよね。駐車場の賃料だって、僕が住んでるこのへんと比べたら、おそらく5倍くらいはするんじゃないか? 田舎に行けばアパートが借りられる金額だもの。
しかも大変だろうね。まわりがいいクルマに乗ってると、つい自分も、ってことになるだろうから…。人間の意識ってそんなもんだ。「我が道をいく」ことのできる人なんかほとんどいないよ。無意識にでも、どうしてもまわりの影響を回避できない。
ホントは世田谷みたいに道が複雑に入りくんだ場所は、コンパクトなクルマのほうがいいんだよ。軽で十分じゃない? それなのに、現実には山道が多くて出かけるのに必ずクルマの必要な田舎のほうが軽自動車をよく見かけたりする。

確かにね、クルマを買う場合、僕も絶対にまわりの環境を気にして選ぶだろうなとは思う(それと自分のスタイルや生活状況なども)。例えば自然の豊かな場所で乗るなら、グリーンの車は木の色と同色だから沈んでしまうんじゃないかとか、同じ理由で、空が広い場所や海の近くだと、明るいブルーは映えないだろうとか…。明け方、朝、昼、夕方、夜…、時間や天気、季節でもまるでイメージが違ってくるし…。車と環境のコーディネイトだよ。

今日の僕はいったい何を言いたいんだろう…。
ともかく、もうちょっと便の良いところに住んで、クルマも欲しいな、ってことかなあ。

ミニ vs ポール

2005-12-09 20:54:17 | CAR

イギリスの服飾デザイナー、ポール・スミスが98年頃に内外装を手がけた、1500台限定のミニの特別仕様車がある(写真の車とは違う)。
今いちばん現実味をおびて買いたいと思っている車が旧型のミニなのだが、当初、ポール・スミス・エディションには食指が動かなかった。
なぜって、ブランド的な格が違いすぎて、アンバランスだと思ったから。
もちろん、格が上なのがミニ。
ポール・スミスも悪くはないけど、モードというのはどうも軽薄で、しかも流動的で安定しないイメージがあるから(それは良さでもあるのだけれど…)、40年もの長きにわたり、不変のデザインを守り通したミニのリアリティとパワーにそぐわない気がする。時間の重みっていうのは、抗いがたいイメージを築き上げるものだ。

個人的なポール・スミスの印象というのは、『若い連中にバカ売れしているブランド』っていう感じだ。今は違ってきてるかもしれないが、僕がアパレル業界にいた10数年前、自分が在籍したブランドが、月にせいぜい1千万円程度の売り上げの時に、ポール・スミスの旗艦店では1億を売り上げていたからだ。
そのせいもあって、”自分のアイデンティティも確立していない”若者が盲目的に飛びつくブランド、という、マイナスのイメージができあってしまったのだ。
本当のポール・スミスがどんなものなのか、実際はよく分からないのだが、こと日本国内でのイメージづくりには成功したとは言えないのではないか。
日本の代理店とライセンス契約を結び、商品をチェックし、ポール・スミス自身もよく来日して、各店舗を視察して指示を出していたそうだけど、バカ売れするものだから、なかには本国を通さず、日本の会社が勝手にデザインしたものも混じっていたらしい(これナイショ)。
売らんがために、ブランドの本質を歪めたようなショップ展開をしていたなら不愉快である。僕はそのブランドのありままの姿を見て、吟味したいのだ。

話が逸れるが、僕はつねづね、『ライセンス商品は合法的なニセモノ』だと言ってる。
みんな、自分がバーバリーやラルフ・ローレン、イブ・サンローランなどを着てると思いこんでいるかもしれないが、じつは名前だけを使わせてもらっているだけの商品、あるいは、そっくりに作られた別物(言うなればコピー商品)だったりする。
こだわらない人は気にしないだろうけど、そのブランドのイメージや歴史、そしてオリジナルの着心地などを求めているなら、注意したほうがいい(品質そのものは一長一短。日本製のほうが優れている部分ももちろんある)。
”本物”が着たいなら、インポート(輸入)ものを買うこと(両方扱っているショップも多い)。
ただし、ちょっとややこしいのは、本物であっても、縫製を他国に発注している場合。例えばアメリカのブランドが、アジアなどの国々で作らせている商品もある。
現実問題として、それらの国での縫製は(技術的に未熟なのか、意図的にかは分からないが)あまり良くない。しかし、本物であることには違いない。まあ、そのへんのところは買う人の判断しだいだろう。

それで、ポール・スミスの話題に戻るが、ミニのポール・スミス・エディションは、いじりすぎず、奇をてらわず、それでいてポール・スミスらしい味つけがなされており、単に車のデザインとしてはまとまっていて悪くない仕上がりだ。ポール・スミスという名前がなければ、かなりの有力候補と言える。
ただ惜しむらくは、ミニに乗る、という必然性を浸食している気がすること。
確かに外観はまぎれもなくミニなのだが、この車に乗るということの何割かは、ポール・スミスというブランドに乗るということになってしまう。
そして、僕が思うそのブランドイメージは(悪いとも言えないけど)、あまり良くない。僕に合うとも思わない。
しかし、それは日本国内だけのイメージなのだろうか?
本当のポール・スミスのブランド・イメージをご存知の方がいたら、解説していただきたいくらいだ。
もっとも、イギリスや世界でのイメージがすこぶる良くても、僕がミニを運転する日本で芳しくなければ(対外的に理解されないので)意味をなさないのではあるが…。

先日にひきつづき、夢

2005-12-08 21:25:14 | CAR

車、理想の組み合わせ例。

用途に合わせ、一度に3台以上の車を所有するのが夢です。

例1.
●フェラーリF355ベルリネッタ
●ジャガーE-Type
●メルセデス・ベンツCクラス
●レンジローバー
●ミニ
●ジムニー

例2.
●メルセデス・ベンツSL500
●ロールス・ロイス・シルバーシャドウ2
●BMW3シリーズ
●メルセデス・ベンツGクラス(ゲレンデ・バーゲン)
●ミニ
●ジムニー

例3.
●フェラーリ360スパイダー
●タテ目でメッキバンパー、ホイールキャップ、60年代から70年代頃の大きなメルセデス(写真のようなイメージ。カブリオレでないほうがいいかな…)
●マセラティ・クワトロポルテ(先代)
●ジープ・ラングラー(角目)
●スマート

例4.
●フェラーリF355ベルリネッタ
●メルセデス・ベンツ300SLロードスター
●レンジローバー
●ミニ
●ジムニー

車欲しいな…。

2005-12-04 01:38:09 | CAR
かなり本気で欲しいもの。
(が、もちろん今は買えない)

順不同(思い出した順)

※原則としてノーマルに限る。

●ポルシェ930(911)ターボ/黒
●ロールスロイス・シルバーシャドウ2
●ミニ(オールドミニか、でなければ97年以降の旧モデル。クーパーまたはケンジントン、あるいはメイフェア、もしくは40thアニバーサリー)
●メルセデス・ベンツ300SL・ロードスター
●メルセデス・ベンツ280SL(タテ目、パゴタルーフ)
●メルセデス・ベンツ500SL(R107)
●メルセデス・ベンツSL500(現行モデル)
●名前は知らないけど、6、70年頃のタテ目のメルセデスで、フロントバンパーがダブルになっていたりするでっかいやつ。黒やえび茶のような濃い色か、アイボリー。
●メルセデス・ベンツ300T
●メルセデス・ベンツGクラス(ゲレンデバーゲン)
●スマート
●フェラーリ・デイトナ/紺
●フェラーリ・テスタロッサ/赤
●フェラーリF355/赤
●フェラーリ360スパイダー/絶対的に黒
●マセラティ・ビトゥルボ
●マセラティ222E
●マセラティ・クワトロポルテ(先代)
●ランボルギーニ・カウンタック/白
●ランボルギーニ・ミウラ
●プジョー206CC
●ジャガーE-Type
●ジャガーXJ-S
●アストン・マーティンV8ヴォランテ
●MGB(メッキグリル&スポークホイール)
●レンジローバー(モデルチェンジ前のもの)
●トヨタ・ソアラ(現行モデル)
●メッキバンパーの頃のコルベット
●先代のコルベット
●60年代頃のマスタング
●クライスラー・グランドワゴニア
●ジープ・ラングラー(角目)/赤
●シボレー・ブレイザー

欲しいもの17『フェラーリ』

2005-06-02 21:29:20 | CAR

さて、17回目を迎える『欲しいものシリーズ』だが、今回でひとまずお開きにしたい。
またいずれ書くだろうとは思うが(明日にでも書くかも?)、ここらで区切りをつけておこう。
ワンクールおつきあいいただいて、ありがとうございました。

ラストを飾るのはフェラーリ。
もし誰かに「欲しいものは何?」と訊かれたら、まっ先に挙げるであろうモノ。この10年あまり、「欲しい、欲しい」と騒ぎ続け、恋いこがれてきたにもかかわらず、遠い彼方に鎮座して近づくことも出来ない存在…。それがフェラーリである。

ルイ・ヴィトンやエルメスなどと同じく、少々お金があったくらいでは所有することのはばかれる、至高の自動車ブランドだ。
世の中には、借金で苦しもうが、収入の大半を注ぎこもうが、周囲の白い目に晒されようが、この車を所有する悦びにとり憑かれたファンも多い。
僕はしかし、そうした人たちのことを、悪しざまに言うことは出来ない。
僕自身が、その泥沼にはまらぬとも限らないからだ。
相応しくなくとも、似合わずとも良いから、人に笑われようともオーナーになりたいと言う気持ちは強い。

実用性の全くない、維持費を含めて莫大な出費を強いるこの車に、なぜそこまでの魅力があるのか?
高性能とよく言うが、それは”速く走る”ということに関してだけ贈られる賛辞である。
それなら僕のような、運転技術も未熟、スピードにもそれほど関心のない人間までを虜にする秘密はどこにあるのだろう…。
モータースポーツの輝かしい業績、独裁的な創業者と伝説の数々、ため息の出るような美しいデザイン、限られたものだけが到達できる華麗な世界への憧れ…。そのどれもが正解のようで、どれもが違っているような気がする。
それを追求し始めたら、紙面がいくらあっても足りないかもしれない…。

かつてはよくフェラーリを見に行った。
御殿場にはフェラーリ美術館があり、足を運んだ(入場料がちょっと高い…)。これが個人のコレクションだというから驚く。
東京都現代美術館でフェラーリ展があった時にも、見に行った。いくら人気があるといえども、これがポルシェなら一般の美術館で展示されることなど考えにくい。
フェラーリはいつも、車ではなく、美の対象として称えられている。

もちろんディーラーにも足しげく通ったものだ。
フェラーリの場合、商談の最終段階にならないと試乗はさせてくれない。だから、外観を眺めたり、座席に座ってみる程度だが(エンジンルームは見てもよく分からない)、座ることさえ許さない店もあった。
おしなべて輸入車のディーラー、とくにイタリア車を扱っているところは無愛想である。上得意になれば対応も違ってくるのだろうが、僕のような冷やかし程度では、お茶さえ出してくれないのだ。
そんなディーラーには、ノーマルのマフラーを取り払い、社外マフラー(フェラーリが作った純正ではないもの)を取り付けてエンジンをかけ、けたたましい爆音をとどろかして没我の境地に陥っているお客の姿もある。彼らはさらにシートを取り替え、ホイールも替えてしまう。
ジャガー、メルセデスの記事にも書いたが、フェラーリのような気高い車に手をかけるとは、僕からすれば悪魔の所業と言わざるを得ない。神聖な操を毒牙にかけるようなものだ。
自己顕示の道具と考えている人や、高性能なマシンとしてフェラーリに魅せられている人には、逆に僕の考えを理解できないのだと思う。それは仕方がない。
しかし、品格を保ったエキゾーストノート、ミニマムだが上質な内装、ピニンファリーナがデザインしたボディライン…。ノーマルの状態で、パーフェクトである。


左/355 右/テスタロッサ

ただし残念なのは、近年のフェラーリのデザインが、必ずしもパーフェクトと言えなくなってきているということだ。
この数年、新しく発表されたフェラーリのなかに、僕が気に入ったものはない。
360モデナが出た時には、ショックさえ覚えたものだ。
その後、360スパイダーが発売され、黒を見たときにはすごく気に入ってしまい、それ以来360を認めることが出来たのだが、後発の車種には好きなのが見当たらない。エンツォ・フェラーリも実車で見たが、いいとは思えなかった。

だからメルセデス同様、好きなフェラーリは過去に存在する。
以前、このブログにもとりあげたフェラーリ・デイトナ(いちばん上の写真)。これはすでに30年以上が経過したモデルであり、実際に所有することは難しい、憧れの存在である。
ディノとか、512BBとか、328とか、すばらしい車は数々あるが、現実的な選択肢としては、バブル期に一世を風靡したテスタロッサ(写真下右)や、それまでのフェラーリに比べてぐっと扱いやすさを増した355(同左)をあげたい。
テスタロッサは逸話には事欠かないが、おもしろいところでは、「片側をジャッキアップすると、リアウィンドウが割れる」などという噂がある。真偽は分からないけれど、それくらい平べったい車だということだ。
355はテスタロッサのような押しの強さはなく、こじんまりとして品がある。あまりに暴れ馬よりも、僕にはこれくらいがちょうど良い。硬派なフェラーリファンからすれば物足りないかもしれないが、実際に所有することを考えると、最も気に入っているフェラーリだ。
(ただ、実用性が災いして初心者のオーナーが増え、フェラーリのなかでは”カローラ”扱いされているのが難点)
しかし、これだって街を走れば、いやでも周囲の視線を集めてしまう。そのあたりはやはり、フェラーリの血統そのものなのだ。

書きたいことはまだまだ尽きないが、このへんで終わりにしておく。
最初にも書いたけれど、実は僕は、フェラーリが自分に似合うとは思っていない。それでも欲しい気持ち、少しでも伝わっただろうか。

サブいね…

2005-05-30 21:26:50 | CAR

今日はどないしたんかな~。
だーれも見に来てくれまへんな~。
(アクセス解析上では2人だけ!)
まあ、もともとアクセス少ないブログですけどね…。
追記 これを書いてからいっぱいコメントいただきました。

ずうっと清水圭のサイト見てました。
(じゃっかん関西弁なのはそのせい)
べつに彼のファンじゃないけど、僕と同じくスティーヴ・マックィーンファンだと知ったので。

でも、いろいろ読ませてもろうて、僕とは好みが異なるけど、
センスがあるし(僕もアメリカンな感じは嫌いじゃないけど、この性格には合いませんから…)、
それより何より、人生を楽しんどられますな。
あやかりたいわい。

シリーズには入れませんでしたが、この車も好きです(写真)。
マセラティ・ビトルボ・スパイダー。
たぶん、もう20年くらい前の車です。今はフェラーリの傘下になって全然イメージが変わってしまいました。
僕はこっちのマセのほうがいいです。
詳しくは語れませんが、マセラティには個人的な思い入れもあります。

欲しいもの9『メルセデス』

2005-05-28 20:21:57 | CAR

昔、知り合いだった女性が、ベンツが好きだと言った。
それを聞いて「なんでやねん!」と思った。
いかつくてガラが悪くて、品のない車だと思っていたからだ。
事実、僕が生まれ育った地方都市では当時、ベンツオーナーといえばズバリ”ヤクザ”を意味した。
しかし、上京して、いたってノーマルな人たちがベンツに乗っているのを目の当たりにして、また、その歴史や品質を知るにつれて徐々にそのイメージが変わっていき、いまでは僕も好きな車のひとつである。

でも、東京だろうがどこだろうが、依然としてその筋の人たちが選ぶのがベンツであることも変わりがない。しかし、80~90年代の、ばかでかくて威嚇的で、”いかにも”な風体のSシリーズから比べれば、現在のSシリーズはかなりマイルドになっている。ほかのシリーズもボディラインが丸みを帯びて、柔らかい印象だ。
メルセデス・ベンツ・ジャパンも、かつての悪いイメージを払拭したいらしい。その一環として、一般的な『ベンツ』ではなく、『メルセデス』という呼称を用いており、ユーザーにもそれを浸透させたい意向のようだ。
それに呼応したわけではないが、僕も『ベンツ』という呼び方はどうも嫌いで、なるべく『メルセデス』を使うようにしている。イメージの変革はまず呼び方から…。些細なことに思えるかもしれないが、個人的には大切なことだと思う。
ただ、『メルセデス』というのは、ちょっと気どって聞こえる。評論家の徳大寺有恒のように『メルツェデス』などというのは例外としても、いまのところまだちょっと口はばったい感じは拭えない。

メルセデスが好き、と言ってもそのすべてを受け入れているわけではない。
現行のラインナップの大半には、あまり触手が動かない。
最高の品質を追い求める孤高のメーカーだったメルセデス・ベンツも、今ではTOYOTAのようにコストに気を遣い、無数の車種、グレードを送り出すようになっている。
そのなかで、いいと思えるのはSLクラスと、Gクラス(ゲレンデヴァーゲン)くらいだ。
Cクラスには肩の力が抜けた上質感があると思うが、僕には合いそうにない。
スマートという車は好きで、買い替えるなら最有力の候補なのだが、純粋なメルセデスではないということで、今回は番外だ(スマートには、僕は密かに『タキシードで乗れるスモールカー』というキャッチコピーをつけた。かわいいだけでなく洗練されていて、あらゆるシーンに違和感なくなじむ車だと思う)。

SL、ゲレンデヴァーゲンともに、1000万円以上する車なので、芸能人やらお金持ちの御用達である。
でも、彼らは単純に『ベンツだから』という理由で乗っている場合が多いのではないか。ステイタスの誇示のために選んでいる。
これでは車がかわいそうだ。愛着を持って乗ってもらいたいものだ。モデルチェンジしたからといって、すぐに新しいのに飛びつくのではなく、車を愛おしんでもらいたい。
とくにゲレンデは、オフローダーとして、ずっと頑丈で無骨であり続けてきたモデルだ。しかし、乗り心地とか流行を偏重する現在、そろそろフルモデルチェンジしそうな気配を感じる。今でも十分に贅沢な車なのだから、あのごつごつしたイメージは残しておいて欲しいな。


左から/現行のSL500/G500long(ゲレンデヴァーゲン)/280SL/500SL(107型) ※上の写真は300SLガルウィング

現行のSLとゲレンデも大好きだが、もっと魅力的なメルセデスは、過去に存在する。
その代表的な車種が300SL(一番上の写真)だろう。
先日とりあげたジャガーE-Typeとならぶエレガントな車である。ジャガーを女性とするなら300SLは男性的だ。市場価格はおそらく3000万円を下らない、まさに憧れの車である。
後継のSLもそれぞれ魅力を放っている。タテ目の280SLはリアのデザインも素晴らしい。
107型SLは長い間販売され続けた人気車だった。映画にもよく登場する。実はこの車、4年ほどわが家に居た(昔の彼女が忘れられずにベンツを選んだ、ということは決してない)。所有者は僕ではなかったが、よく運転した。ちょうど今、ヴィンテージとまでいかないけれど適度に枯れて、しかも優雅さをたたえており、旬な車種だと思う。余裕さえあれば(こればっかりだが)、グレー、濃紺、ホワイトの三色揃えたいくらいだ。
ジャガーのところでも触れたが、この素敵な車(107型)をも極悪仕様にしてしまう輩がいる。エレガントな車をわざわざ威嚇的に変えるのはなぜだろう? 買ってきた絵画に自分で描きたすやつはいない。デザイナーがせっかく素晴らしい仕事をしたものをおかしな方向へねじ曲げる理由が分からない。自分仕様にカスタマイズしたい気持ちは分からなくもないが、その余地はないと思う。

腹立ちついでに、自動車税のことにも触れよう。東京都は数年前から「自動車税のグリーン化」と銘打って、「新車新規登録から一定年数を経過した環境負荷の大きい自動車は税率を重くする」ことになった。当時はまだメルセデスを所有していて、もちろん中古で購入してすでに15年選手だったので、かなり値上がりしたように記憶している。年に一度の支払いだから、けっこう家計を圧迫するのだ。
この税制は環境のためということだが、不必要な買い替えを促進することになり、結局環境に負荷をかけるはめになるような気がする。しかも、車に愛着を持って大事に乗り続けているような人に負担を強いる。
これはおかしい。どこかが歪んでいるとしか思えない。

SLの他にももちろん、古いメルセデスにはいい車がたくさんある。質実剛健と言われたメルセデスだが、今乗るととてもおしゃれだし、現行メルセデスに比べても存在感は勝っている。しかも丈夫。「20万キロは乗れる」といわれるのがメルセデスなのだ。
(日本車のようにメンテナンスフリーというわけにはいかないが)

欲しいもの5『ジャガー』

2005-05-27 22:27:46 | CAR

ジャガーE-type(写真下/モノクロ)ほどエレガントな車はなかなかない。
それも初期型のロードスターとなると、垂涎もののスタイルだ。フロントもサイドも、リアもデザインに非の打ち所がない。

曲線の美しい車を、よく女性に例えるが、アメリカ生まれのコルベットを「セクシーダイナマイト」、イタリアのフェラーリを「情熱的」とするなら、イギリスのジャガーE-typeは「気ぐらいの高い淑女」といったところだ。
ジャガーXJS(写真上/カラー)は、その血統を受け継いではいるが、やや俗な味つけ…。しかしそれでも、気軽に人を寄せつけないオーラを放っている。

ところが、日本にはこの車、合わないことこのうえない。
イギリスとは土壌が全然違うのだ。
いつも思うけれど、日本の風景というのはクルマ殺しである。もちろん日本にも美しい自然があり、田園風景があるが、こと街並に関して言えば、「ひどい」のひと言だ。
いい車が映える街は、ごく一部を除いて無いに等しい。
そんなところが、いいデザインの日本車が出てこない一因となっているのではないだろうか。

Jaguar E-Type

だからかどうか知らないが、日本人はこのエレガントな車たちにとんでもない仕打ちをする。
「そんなの個人的な見解だ」という反論があるだろうけれど、これらの車はノーマルの状態で最高に美しい。にもかかわらず、ドレスアップなどと称して、余計なものをくっつけたり、パーツを替えたりするのだ。
個人の勝手と言われればそうなのだが、タマ数の少ない希少な車であるだけに、そういうのを見るにつけ、がっかりしたり、やきもきしたり、腹が立ったり…。

ジャガーE-typeは、もともとはレースで活躍していたということもあって、レース仕様に改造してしまうエンスーも多いとか。
XJSの場合は、その筋の人が乗るのだろうか、極悪仕様にして、エレガントの名残りもない車体ができあがる。
重ねがさね、個人的な感想で申し訳ないが、その車たちがかわいそうに思えて、悲しくなる。

今回、写真を探したが、まったくと言っていいほど出てこない。
XJSのほうは、あるにはあるのだが、悪人仕様のいかついのばかり…。
しようがないのであまりいい画像ではないけれど、この写真(上/カラー)を載せた。
(これもホイールを替えている。スポークホイールというのはまだましだが…)

日本人って(もちろん僕も含めて)、エレガントとは縁のない民族なんでしょうか…?

新たな快楽のススメ

2005-02-09 09:55:52 | CAR
僕が生きてきたなかで、一番気持ちよかった瞬間(とき)…。
僕は気分屋で、その時々で気持ちがくるくる変わるから一概には言えないけれど、いま思い出すのはあの時のことです。

最初に言っておきますが、僕はセックスはそんなに好きじゃない。
身体が生理的に欲するときはどうしようもないのですが、性欲に煩わされるのは嫌いなんです。
それに、相手がいることですしね。なかなか手放しで気持ちよくはなれません。
だから、『人生で一番気持ちよかった瞬間』は、セックスとは無関係です。
期待したならすみませんでした。

それは、晴れた南国の空のもと、
オープンカーを走らせて風をきっている瞬間(とき)です。
7年前、ハワイのマウイ島、隣には妻がいました。

ワイレアという地区のフォーシーズンズホテルに滞在したのですが、そこで車を借りて走り出したのは、同じマウイ島でもラハイナとかカアナパリといったにぎやかな街ではなく、海岸線と山に挟まれた、緑と光と鳥の声があふれる穏やかなワインディングロードです。

あんな心地よさはほかにありません。
前に書いていた日記サイトにも、オープンカーについてかなりの紙面を割いて書きました。

ハワイは良かった。マウイ島は最高でした。
ショッピングやグルメはないけれど、自然の中で柔らかな空気を吸い、魂の洗濯をしました。
オープンカーは、その快感を何倍にもふくらませてくれたのです。

いまはもう売ってしまったので無いのですが、その旅行のあとオープンカーを買いました。
その車は年式がとても古かったので屋根は電動ではなく、重たい金属の屋根をふたを開けるように取り外すタイプでした。だから大人の男がふたり必要で、妻とでは開けることができませんでした。
結局、その車を持っている間、一度だけしか屋根をオープンにできませんでしたが、その時は軽井沢をドライブしました。ハワイに負けず劣らず、気持ちよかったですよ。

だから、僕は
『オープンカーをお買いなさい』と言いたい。
ご家族が多かったり荷物の多い方は、なかなか難しいのですが、もし都合がつくならば、オープンカーをお薦めします。
合わない人には合わないかもしれませんけれど、新しい快楽が広がるかもしれませんよ。

ロールス・ロイスで肉まん

2005-01-15 00:30:37 | CAR
車の話が続きますが、僕はロ-ルス・ロイスが結構好きです(もちろん持ってはいない)。
「フェラーリにロールス・ロイス? 成金趣味だねえ」
なんて思われてもしかたないですが、当然、僕が正統派の乗り方をしてもロールス・ロイスは似合うわけがありません。なにしろ、イギリスの貴族のために造られた車なのですから。
アメリカあたりでは、おっしゃるように富豪がもとめる車で、ニューヨークのプラザあたりのホテルに乗りつけるロールス・ロイス、まさに富の象徴といえましょう。
さっきまで、学生時代の恩師に電話で説教食らっていた身としては、何とも口はばったい高貴な名前であります。

それから、現在新車販売されているロールス・ロイスは、アール・デコ調といいましょうか、妙なデザインで好きではありません。アウディTTがヒットしてから、その流れを汲んだデザインが車業界を浸食していますが(とくにキャディラックの惨状は目も当てられない)、あのようなテイストは主流として大々的に広まってしまうと、その存在意義を失います。
それに、新しいロールスは価格的にも高すぎるし(数千万円)、何とも力が入ってしまってて、いただけません。
逆に60年代以前の個体は、すでにヴィンテージカーとかクラシックカーの世界ですから、これまた次元が違ってきます。左の写真のロールスも古いタイプですが、フロリダで純白のを見かけました。気高いオーラを発していて、一緒にいた白人の老夫婦もそれを見てため息をついていました。

デザイン、価格的にもよろしいのは、70年代から80年代初期にかけて販売された、
シルバーシャドウ というタイプです。前時代のグラマラスなボディラインから、直線的なデザインにモデルチェンジされていますが、何ともちょうどいい色気を残した車です。写真右(クリックしてください)は74年式のシルバー・シャドウです。
これはえび茶色だと思うのですが、正統派のシルバー、白や黒、濃紺などにくらべて、何とも肩の力の抜けた味があります。しかも、カジュアルな中にヨーロッパのエレガンスが香るボディカラーと言えるでしょう。
そして内装は貴族仕様ですから、もちろんウォールナットとタンレザーの贅沢な作り、しかし、シンプルで地味なほどで、悪趣味とはほど遠いデザインです。
中古車市場で、現在おそらく400万円から600万円くらいで手に入るのではないでしょうか。数千万の車が、30年落ちとはいえ、日本車クラスの値段で買えるのです。思ったより安いでしょう?



僕ならこの車をブルージーンズでラフに乗ります(補色の組み合わせだから合うんですよ)。もちろん自分でガンガン運転するのです。コンビニにこの車でのりつけて、肉まんなんかを買いに行くのです。これが、シルバーのロールスだとアホですけど、えび茶だとポップで、キッチュな感じがしませんか? まなじりを決して本気になって乗ってはこちらが潰されてしまいます。あくまでもシャレで乗る、これがミソです。

ただ、シャレにならないのは維持費。車両価格は安いけれど、この車を所有し続けるには莫大なお金がかかると聞きます。僕が見学に行った中古車ディーラー(日本唯一の専門店だそう。ちょっと怪しげな雰囲気だが、僕に説明してくれた人は丁寧だった)によれば、年間最低100万円は見といてくれ、とのことでした。それとは別に、どこが壊れても目の玉が飛び出るくらいかかるそうです。そして、燃費がリッターわずか
3キロ。最近はリッター30キロを超す車も出ていますから、10分の1にしかなりません。省エネ車が一回の給油ではしるところを、十回給油しなければいけないのです…、と、思ったらさにあらず。燃料タンクが巨大なので、名古屋あたりまでは東名でノンストップで行けるそうです。

苦労は目に見えてますが、魅力いっぱいのシルバー・シャドウ。
僕は絶対に買えないので、みなさんいかがですか?

削除されたコメント!

2005-01-14 17:46:27 | CAR
さっき、知らない女性のブログに初めてコメントを入れて、しばらくしてもう一度訪ねたら、速攻で削除されていた。
ブログでのプライバシーについての記事だったのだが、それを心配しておきながら、鮮明な顔写真を掲載していたので、老婆心だけどその点を指摘するようなコメントを送ったのだ。自分としては単純な親切のつもりだった。
余計なお世話と感じたのかもしれない。若い女性のブログだから、僕の思慮が足りなかったかと反省もするが、とくに無礼な文面でもなかったと思うし、押しつけがましいブログ論などをぶったつもりもない。
それなのに、
汚いものかのように削除されてしまっては、あまりいい気もしない。

まあ、そのことについてはそんなに気にしないことにする(先方の自由だしね)。
ネット世界では、この程度のことは日常茶飯事だろうし、恥じらい多き女性について、
僕の無知がたたったのだと解釈しよう(ブログ怖いから辞めるわ、なんてことになっても困る。とりあえず詫びのコメントを入れておいた)。

いま僕は、このようにブログ中を
サーフィンして、面白いブログ、交流の持てそうなブログを探している(暇人だ)。
しかし、今回の明らかな拒絶に接してみて、価値観の違いや”そり”の合う合わない、あるいは縁みたいなものの存在をあらためて感じる。実生活ではイヤというほど味わうものだが、一部の悪意に満ちた人間の存在を除けば、ネットではほとんど感じたことはなかった。
そして、価値観という観点からすれば、僕は完全なる
少数派だということを思い出した。

 
※世界を代表する二社

車を例にとると、イタリアにフェラーリという名車がある。抜群の知名度を持ち、誰もが憧れる超高級車だ。
しかし、誰もが買いたいかというと、それは違う。これも完全な少数派の車である。
もちろん、買う人の経済状況を選ぶ車だということが一番の要因だろう。でも、購入可能な人間なら買うかというと、これも違う。その独特なデザインや操縦性などの面からも、とても乗りにくく、使いにくく、さらに維持しにくい車なのだ。
一方で
TOYOTAというメーカーがある。マーケティングやコスト計算に長けており、そつのない、絶対売れる車を生産する会社である。そのデザインや操作性は、最大公約数的な、万人に(というか、ターゲットの層に)受け入れられるものとなっている。僕はいままでこのメーカーを、ただ味気ない機械を作る会社と見ていた。つまり、フェラーリ派の人間なのだが、今ではちょっと見方を変えている。
TOYOTAは、車のデザインやブランドイメージ、それに、面倒な維持に煩わされたくない人へ向けてのメーカーなのだ。そして、大半の人がそれを望んでいる。TOYOTAが売れるのは、多数派のための”ブランド”だからだ。
優等生的な企業イメージを先行させ、個々の車には『煩わしいブランドイメージを持たない』というブランドイメージを構築しているのである。

日本中の消費者が僕だったら、TOYOTAは潰れるかもしれない。よく考えるとそうはならないかもしれないけれど、僕がまったくTOYOTA車に興味がないのは事実なのである。現在生産されているTOYOTAは100%買わない、といって間違いない。
そしてそれは、僕が日本ではあきれるほどの少数派であることを意味する。
これは単に車の趣味という問題にとどまらない。それはやはり、その人の価値観を反映するものだからである。
TOYOTAの車を好む人とは、おそらく根本的に違っており、そりが合わないはずだ。
今日、僕を拒絶した女性はおそらく、
「TOYOTAを好む人」だったのだ。

どけどけ!バカヤロメ!!

2005-01-12 10:23:32 | CAR
僕は毎日、出勤する妻を駅まで車で送り迎えしている。
離婚協議中のわりには仲の良いことかもしれない、第三者的には…。
でもこれには、「体力もないのに、連日歩けば20分かかる道のりを行き、満員電車に詰めこまれて往復2時間も通ってる彼女の苦労を軽減したい」という面ももちろんあるけれど、「たいへんな思いをしている妻を想像すると、僕自身がまた情緒を乱してしまう」とか(意味が分かるだろうか?)いうこともあるし、結局、オット失格の負い目のようなものも働いているのだと思う。

駅の手前までくると、車一台しか通れない道を抜けるのだが、今朝そこで、前の車に思いきりクラクションを鳴らしつけてやった。道のど真ん中で、ハザードも出さずにいきなり止まって、人を降ろそうとしはじめたからである。後続車の迷惑を考えない非社会的な所業だ。こいつには以前から三回ほど同じことをやられている(車種を覚えているのだ)。仏の顔も三度までだ。


「おととい来やがれ、てやんでい!」
などと鼻をすすって終わればいいのだが、僕は悩みはじめる。
家に帰り、怒りがおさまると、まず妻に詫びのメールを入れる。結婚以来、いつもイライラ、カッカしている男と一緒にいて苦労してきたのは彼女なのだ。しかも出勤前ならなおさら気分も悪い。


※写真はノーマルのメルセデス・ベンツS500L
そしてつぎには自己嫌悪に陥る。
もちろん、抑制のできない、理性を欠いた行為に対してもだが、さらに別の理由がある。
まず、公正さをもって行動したのか、という点。
「ノーマルのセダンだから、サラリーマンのオヤジだろう。たいしたことないよ」
無意識にでもそう思っていなかったか? つまり、人を選んでいないか、ということだ。
これが黒塗りスモークガラスのメルセデスSクラスなら、そんなことをしたのか、と自問する。
力なく「していない…」と答えるしかない。
ヤクザ者や、自分より腕力の勝る好戦的な相手には噛みついていかないだろう。
無意識の怒りの爆発といっても、たいていはそんなことを気持ちの奥底で計っているものだ。
もう、そこの時点で、所詮しっぽを垂らして眼をそらしている負け犬なのだ、僕は。

『命がけでないのなら、感情にまかせて他人を攻撃するな』
僕は近年、こんなモットーをかかげている。
相手が例えばヤクザ者で、最悪の状況を想定して、それでも行くなら、行け、という意味だ。
それでなければ、今朝のオヤジに申し訳が立たない。まったく公正でない。
(ヤクザは怖い。あなたがよほどパワフルなコネクションを持っていないとしたら、ゆめゆめ「なんとかならァ」とは思ってはならない。ほとんどの場合、警察はあてにならない)
怖い相手にはなびく、弱肉強食の世界だとしたら、人である意味がない。確かに現代社会も、本質的には原始からのそうした動物的な原理に司られているけれど、そこを理性で制していかなければならない。
『人生には命がけで戦わなければならない時がある。だが、それはハザードを出さない車に遭遇した時ではない』

本日の名車『デイトナ』

2005-01-09 20:17:27 | CAR
フェラーリ・デイトナ

この写真をアップすることを思いついた時、スペックやデータを書き連ねることも考えたが、どうせ本やネットをひっくり返して得た知ったかぶりに過ぎないので、知ってる限りの好きなことを書く。
デイトナとは愛称で、正式名称ではない。他の車同様、無機質な数字とアルファッベトだけの車名がついているのだが、300番台であったのは確かだと思うのだけど、覚えられない。345だったかな…(調べないぞ)。
この車に出会ったのは、僕の世代のご多分にもれず、漫画『サーキットの狼』の中でである。確か口ひげの、柄の悪そうなヤツがドライブしていた(たぶん)。このエレガントな車にそぐわないことこのうえない。
次にこの車を目にしたのは、80年代、アメリカのテレビドラマ『マイアミ・バイス』である。
これを見た僕は、この車のとりこになった。抜群にクール(80年代ぽい表現でしょ)だったからである。
濃紺か黒のソリッドなボディカラー(DVD持ってるから、どっちかは見れば分かるが)にスポークホイールで、オープンタイプ。フェラーリだと「スパイダー」と呼ぶのだっけ?最高にカッコよかった(仕様が違うし、やはり本来のエレガントさとはかけ離れているが)。





ところが、広く知られているようだが、このドラマのデイトナはフェラーリではない。コルヴェットで作られたレプリカだそうだ。アメリカの映画やテレビではレプリカ使用が常識らしい。それでも、この車はいい。いつか手にしたいと夢見ている。…いや、もちろん現在3000万円近くすることや、維持が大変だということは十分承知している。…レプリカでもいいかな。プラモで我慢しとくか…。
※写真のデイトナは、山梨県にある、富士山を望む自動車博物館(詳細は失念)のなかの一台。