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犬の眼

『日記』卑しさから清浄なることまで

嘲笑(わら)えば?

2006-10-15 15:07:33 | Weblog
求職広告
(就職評論家とやらが『面接で”自分語り”はやめろ』と書いているのを何かで読んだ。あいにく僕は合理的なビジネスマンじゃない。自分を語る以外に何を語れようか? だから自分を語る)

下記条件に合致する仕事を求めます。
ただし、妥協する準備はあります。100パーセントを望みません。

その前に、まずプロフィールを掲載します(ブログ上に詳しいプロフィールもあり)。

名前:非公開

国籍:日本

住所:東京都(条件が合えば転居も可能)

性別:男性

年齢:38歳

健康状態:日常生活は、ほぼ支障なくこなせる。頭痛、胃痛、肩こり、眼精疲労あり。


職務履歴:紳士服の販売、グラフィックデザイナーなど、数種類の業種、職種を経験。若干の個人事業、フリーの経験もあり。ひと様に向けて取り立てて述べるような職歴はなし。

できること:素人に毛が生えた程度のグラフィックデザイン。実績のまるでない文筆業。やる気がなかなか起きないイラストレーション。どちらかと言えば、クリエイチブな思考の持ち主。

性格:公正を期する。潔癖。ただし、精神的に弱いので、実行できているかというとそれは難しい。飽きっぽい。

趣味:趣味と言えるほどのものはないが、旅行が好き。最近の志向は、落語、歌舞伎など、日本の伝統文化に向いているが、欧米文化にも興味が強い。物事を深く掘り下げることはあまりない(そうしたい気持ちはあるのだが…)。

※ここから条件に入ります。

希望年収:400万円以上。理想は1000万円以上。どうしても難しい場合、条件によっては300万円くらいでも良い。それ以下は不可。

希望就業時間:始業は10時以降を望みます。終業は8時以前に。残業は、のっぴきならない状況がある場合、少しくらいならかまいません。常態化した残業は不可。早出は拒否します。

休日:土日以外の週休二日制を望みます。最低でも一日は、平日に休みが欲しいです。そのほか、年末年始、盆以外に年二回、7日間以上の長期休暇がとれることが条件です(逆に、お盆休みは必要ありません)。それから、急用による突然の休みという事態も出てくると思います(もちろん、当日にいきなり休むというのは、急病か不幸でもない限りありません)。就業中も持ち場につきっきりではなく、ある程度自由な休憩などの裁量が認められるような職種が希望です。

職種:営業はおそらくできません。肉体労働も得意ではありません。車の運転も苦手です。とくに資格も持っていません。また、時間に追われたり、同時にいろいろなことをしなければいけない職種は、過剰にストレスを感じるので僕には耐えられそうにありません。そのほか、単調な作業や、機械の操作なども精神的に難しそうです。日中でも眠くなることがあるくらいなので、夜間の仕事は無理です。

職場:人との関わりがうまくいきません。今までも、最後まで人間関係が良好に終わった職場は皆無です(強いて良い方向に解釈するなら、ことなかれ主義を嫌い、本音で接しようとすることの表れとも言える)。だからなるべく同僚は少ないほうが望ましいです。孤独にはかなりのところまで耐えられます。
完全(実質的にパーフェクトな)分煙、あるいは禁煙が必須です。
できれば屋内中心の仕事で、エアコン完備を求めます。

掃除:自分の持ち場以外の掃除はなるべくしたくないので、業者に委託している職場が良いです。掃除に熱中してしまう面も持っていますが、それだけに逆に日常的な掃除が大嫌いです。
ただし、清潔な職場を求めます。

電話:電話を受けるのは大の苦手です。

倫理的、社会的に誠実で、誇りが持てるような、そして、安定した職業(または企業、団体)、職種を求めます。雇用主は、雇用者(社員)に対し隷属的な意識をもたないこと。
制服(洗濯代含む)や交通費などのコストを社員に負担させたり、社員向けの販売などで社員から利益を得ようとするような企業、団体は拒否します。
強制的な転勤は拒否します。そしてそれによって立場が悪くなるようなことがあってもいけません。
その企業、団体の長、あるいは大きな権力を有する立場の人物、もしくはそこに属する多数の人間が、特定の宗教、政治、思想を持ち、あるいはその種の団体に属しているような企業、団体、職場は拒否します。そこまででなくとも、人間的に偏った人たちよりも、柔軟で視野の広い同僚と仕事ができることが理想です。

真鶴の空

2006-08-05 20:40:57 | Weblog

ピーヒョロロ。
僕はトンビが好き。
トンビの鳴き声が聞こえる土地で育ったから。

湘南の砂浜でハンバーガーを食べてたら、降下して来たトンビに後ろから襲われた。
なんとか、ハンバーガーは無事だった。

このトンビは、神奈川県は真鶴の漁港の上空に群れ飛んでいたうちの一羽。
もう何ヶ月か前の写真です。
なぜいまさら…。

ほめるだけでええんか?

2006-07-10 23:03:41 | Weblog
昨日の補足みたいになっちゃうけど、例えば、小さい子どもってのは「泣いてあたりまえ」「騒いであたりまえ」な生き物で(それは僕も知ってる)、親としては日常のことだからマヒしちゃってるのかも…。
先日、スーパーで、店内をバタバタ走り回ってる子どもがいて、もちろん親はいるようなんだけどほったらかしで…。
そしたら、買い物に来てた白人のおじさんが、すれ違いざまにその子をひっつかまえた。
そして、「オカーサン、ドコ!? オカーサン、ドコ!?」と、子どもに詰め寄る。
子どもは中途半端な笑いを浮かべながら何にも言わず、逃げようともがいてる。
結局、その人は子どもを離して、それで終わっちゃったんだけど、そのあと、”オカーサン”じゃなくてオトーサンがその子を抱いているのを見た。そしたら若いオトーサンで、平気な顔をしてやがった。いきなり子どもを抱いているってことは、叱られたのを知っているからだろうに、それなのに…。
子どもが走りまわったり、暴れまわったりするのはふつうのことだと思ってる(まあ確かにそう)。
家でそうなんだから、それがあたりまえ、子どもはそういうもんだと思ってる。
だから、それをとがめられるのはおかしい、とも思ってるんじゃないか?
僕も正直、子どもが騒いだり、周りに迷惑をかけているのは気分が悪い。だから注意することもあったけど、こと日本では、第三者も含めて、僕のほうが白い目で見られる。自分たちだって迷惑がっていたくせに、行動に移した僕のことを批難する。
でも、スーパーで見かけた白人のおじさんの反応のほうが、やっぱりふつうなんじゃないだろうか…?
僕も、そのおじさんも、なにも子どもをとって食おうとか、ぶん殴ろうとか思っているわけじゃない。
子どもに罪はない。
その親に腹を立ててるのだ。
そして、期待はしてないけど、ほんのちょっとでも、改めてもらうきっかけになってくれたらと、頭の隅っこで思っているのだ。
同じ騒いでても、しつけようと努力している親と、そうでない親とではえらい違いだ。
きちんとしつけようとしている親なら、こちらも忍耐強く我慢しようとか、協力しようという気になるが、最近の親ときたら、おざなりな小さな声で「●●ちゃん、ダメよ~」くらいにしか注意しない。いや、それはまだましなほうで、自分のことに夢中でまったく子どもが眼中にないヤツも多い。昨日も書いたように、それが教育だと思って叱らない親もいる…。
僕は子育ての実績もないし、ボンクラのロクデナシだから黙ってるが、本当だったらそんな親は説教してやるとこだ。
確かに、そこには腹立たしさという負の感情もおおいにある。
でも、そういう親をたしなめてやる、叱ってやる年長者が、本来いるべきだと思うのだ。それはもちろん僕ではないんだけど、現代はそんな人がほとんど…、いや、まったくいない。
子育てはごくプライベートなことだが、一方でとても社会的なことでもある。
極端なことを言えば、育て方を間違うと、その子はヒトラーにもなりうるし、テッド・バンディみたいな犯罪者への途をたどることもあるんだから。
ちょっとおかしな例えだったかもしれないけれど、だから子育てについては「ウチのことなんだからあんたに関係ないじゃないの」という反論は納得しがたいのだ。

あんまり時間をかけず、推敲もしてないから、もし理論が破綻してたり極端だったりしたらご勘弁…。

ほめて育てる?

2006-07-09 19:55:31 | Weblog
近年の教育というのは、「子どもの権利を尊重しよう」「褒めて伸ばそう」というのが流行してるようだ。
場合によっては「叱ってはいけない」という人もいる。
でもそういうのは、分別があって人格者で、人間として優れている人が実践するならともかく、どうせ有象無象のロクでもない連中が、ヘタにうわっつらだけを鵜呑みにして我流でやっちゃうんだろうから(なんとなくイメージが良いしね)、結果、子どももロクなモンにはなりゃしない。
もうすでにそんな弊害が現れているんだと思う。
ガキどもは自分の権利を当たり前に主張するばかりで他人のことはおかまいなしで、いや、それどころか他人を見下してバカにしているし、叱られたことがないので自分が優秀だと思いあがってる…。
昔なら、そんなにご立派な親じゃなくても、とりあえずひと様に迷惑だけはかけないようにと、最低限の”しつけ”をやってたんじゃないだろうか?
それが今じゃ、叱っちゃいけない、なんて思ってるもんだから、子どもが騒いだりとかしててもほったらかしだ。
本屋で見かけたんだけど、小さい子どもがグズってやかましくているのに、親はそれを見ているだけだった(子どもが自身で非を認めてくれるのを待ってでもいるのだろうか?)。…いや、まあそこまでは許容範囲だったのだが、その子は売り物の本に顔をうつ伏していたので、本がよだれまみれになっちゃってるのだ。
ちょっと、自己中心的すぎる…。
そういう親は、自分ら親子しかこの世にいないとでも思っているのかな?
子育てのためなら、何でも許されるとでも?
確かに、子育ては社会的なことでもあり、協力すべきだとは思うが、それを周りに強要するのは違うんじゃないか?
それに、最低限のことをきちんとしつけないで、自分の子がロクな人間にならなくても構わないんだろうか…?
ぼくもロクでもない有象無象だし、子どもを持ったことがないからエラそうなことは言えないが、やはり不思議だ。

自分の気持ちって?

2006-06-25 12:58:40 | Weblog
日本がブラジルに負けたのは、携帯電話の情報提供サービスで知った。

はっきり言ってしまうのは気がひけるが、自分の正直な気持ちなのでしかたがないからはっきり言ってしまうと、日本代表の試合にはあまり興味がなかった。
サッカーというスポーツそのものも大好きというわけではないし、このブログでもたびたび書くけども、そもそもスポーツ全般に対して冷淡な人間である(運動音痴だからってこともあるのだろうが、観るのもさほど好きではない)。それに加えて、イベントとか祭りみたいに、大勢がひとつことに向かって熱狂するという状況が苦手なので、ワールドカップだけでなく、オリンピックなども、まったくと言っていいほど観ない。
さらに、日本代表というのは日本人だから、どうしてもその人物の性格的なニュアンスが伝わってくる。悪く言えば卑近な生々しさがあり、それに、僕は最近の若者はたいがい好きじゃないから、そんなことからもあまり応援する気にはなれないのだ。
ここでも何度か書いたけど、サッカーがうまいだけでは、そして、日本人だというだけでは、その人を支持できない。自分なりに何かしら人間的な好感を持てないとダメなのである。
また、素人の目ではあるけども、スポーツ観戦という視点で見たら、日本のゲームは面白いとは思えない。それはやはり、ブラジルや、ヨーロッパの強豪の試合を観るほうが圧倒的に楽しい。身体能力にしても技術にしても、見る”価値”がある。語弊、誤解があるかもしれないが、ヴィジュアル的にも全然違うし、広義な意味での”エンターテインメント的な”部分が勝っているのだ。中田英寿が言っている「プロ意識」みたいなものも、そういう意味を含んでいるのではないかと想像する。
昨夜、前半だけ観たドイツ対スウェーデン戦は面白かった。

そういうわけだから、日本がブラジルに負けても、自分はかえってせいせいするんだろうくらいに思っていたのだが、ところが、第一報に接してみると、わずかではあるが、自分の心の中にポッと灯ったのは、意外にも”残念”という気持ちだったのだ。
これにはちょっと驚いた。
ホコリをかぶっている僕の無条件の(悪く言えば盲目的な)ナショナリズムも、死んではいないんだろう。

そこでちょっと思うのは、最近の若者(と言うとすごく自分が年寄りくさい気がするけど…)はクールで無機質、人間的な暖かみを感じられない人が多い(と思う)のに、一方で、ほとんど勝ち目のないブラジル戦に対して、どちらかというと浪花節的なナショナリズムを熱くぶつけることができるのだろう、ということだ。
しかし、それが純粋なナショナリズムなんかじゃなく、フーリガンみたいな、自分の私的なストレスや不満のはけ口なんだとしたら、ちょっと危険だと思う。実際、クロアチア戦のあとの騒ぎは、サッカーというものから離れているようなそんな印象を受けた。

まあそれはさておき、僕個人としては、日本の敗退に自分でも思いもよらない感情の動きが起きたことに興味をそそられたのである。
前にもちょっと触れたことがあるけれど、(少なくとも僕の場合は)自分が何かに際して、どのように感じるか、どのような気持ちを抱くか、というのは、実際にその時になってみなければ分からないということだ。
自分の気持ちは知ってると思いこんでいるから、事前に分かりきったようなことを言うことが多い。例えば、僕が先日体験したバンジージャンプなんかでも、人それぞれ、経験する前には「あんなもの、おれは平気だよ」とか、「怖くて漏らしちゃうかも…」などといろいろなことを言えるが、しかしそれは、全部予想、あるいは想像にすぎない。僕も、飛ぶ前にハーネスなどをつけて準備して、階段を昇っている間は平静を保っていたが、ジャンプ台まで来たら、理性では平気なつもりなのに、まるで本能で制御されているかのように心臓がバクバクし始めたのである。

だから、少なくとも僕は、自分で経験、実際に接してみない限りは、物事を断定するのを避けることにしている。
自分の気持ちさえ予測不可能なのだから、ヘタな想像に従って、チャンスをフイにするのももったいない。
ただ、もちろん、それには逆の目もある。
予想していたのとは違って自分に失望することもあるのだ。

3、2、1

2006-06-14 21:12:12 | Weblog

あれから後(って、どれから後?)、初めて経験したことが2つ3つ増えた。

”あれから後”じゃなくて、かなり前に整体を受けたのだが、そういえばそれも初体験だ。
受けてしばらくは、持病の頭痛がなくなったので、「こりゃあいい!」と感動した。
でも、体がだんだん整体を受けた感覚を忘れていって、やがて頭痛が戻ってきた。効果があったのは3ヶ月くらいだ。とはいっても、以前に比べると頭痛の頻度は下がったような気がする。良かった。

文楽を観てみた。
文楽とは、人形浄瑠璃のことだ。
とても平たく言えば、人形劇だ。
劇としては、歌舞伎の人形版といった感じだ。
でもじつは、文楽のほうが人気があった時代があり、文楽の演目を歌舞伎でとりあげるようなことも多いらしい。
歌舞伎のような「見得」を、人形がきっていて面白かった。
人形を操っている人は、素顔をさらしているのだが、不思議なくらい感情のない表情をしている。なかには、たまにチラチラ客席を見ているような人もいたけれど、たいていの人は、どこを見ているのか、見ていないのか…、分からないくらいに、人間的な生の意識が消えてしまっている。観客としてもまったく目障りにならない。
不思議だ。
国立劇場で観たのだが、歌舞伎や落語に比べて、会場の雰囲気が落ち着いていた。客の年齢層もかなり高かった。

バンジージャンプをしてみた。
某遊園地でのことだ。
ついこの前までは、「絶対にやらない、絶対にできない」と思っていた。
あんなもの、安全かどうか信用できない。
世の中、いろんな企業、メーカーが、いい加減なことをやって事故を起こしている。遊園地の遊具に限っても、けっこう事故のニュースを聞く。
だから僕はそんなことは絶対しないつもりだった。
…でも、やった。
厄払い…?
自分のなかで何かが変わるかも…?
アドレナリンが放出して、快感かも…?
”初体験”そのものを目的に、ということもあった。
だけど結果として、…たいした変化はなかった(苦笑)。
快感も無かった(ハーネスが締めつけられてキンタマが痛かった…)。
ただ、塔の上の、ジャンプ台みたいな”先っちょ”に立つと、やっぱり怖かった…!
それを知れただけでも、面白かった。
あんな場所で、怖くないほうがおかしいと思う。
飛び降り自殺するんでもない限り、通常では絶対にあり得ない状況だもの。
あそこで平ちゃらだったら、かえって危険だ。
”痛み”と同様に、”怖い”というのも、人間が身を守るための大事な感覚なんだろうから。
それで、しばらく上で怖がっていたのだけども、そんな自分とはべつの自分がふっと現れて、考えるのを遮るように体を宙に向かってふわりと倒していった。
だから僕としては、まだ「飛ぼう」と決めていないうちに飛んでしまったように思う。
落ちる瞬間は、目を開けられなかった(くやしいぜ!)。
ワイヤーに吊られて、ぶらんぶらんしている時、地上からほかのお客さんの歓声が聞こえてきた。どうやら外国人らしく、おおげさに喜んでくれるので、何となく得意な気分になった。飛んだ甲斐があったと思った。
しかし、地面に降りて自分が飛んだ高さを見上げたら、「なんかたいしたことないなあ…」っていう感じだった。
僕は自分のしたことは過小評価する癖がある。
いや、遊園地のバンジージャンプなんて、実際たいしたことないんだろう。
海外の、すごい高さの自然の峡谷なんかで、ただ単に足に紐を結んで飛ぶような、本当に命知らずなバンジーに比べたら(たまに死者も出る)、屁みたいなもんだ。
でもな、それにしたって、もう少し自分を褒めてやっても良かろうに…。
…どうなんだろう? 自分では気づかない何かが、バンジーによって変わったんだろうか?

プレイバック…

2006-06-11 17:05:18 | Weblog
今日は、ほかに書こうと思うことがあったのだけど、始めてみたら調子が出なくて書き進めないので、やめにした。
だから…、と言っては失礼だが、山口百恵のCDを買ったことを書いてみようと思う。
僕は小学校に上がるか上がらないかの頃、山口百恵のファンだった。
恥ずかしながら、壁に雑誌の付録のポスターを貼って、朝起きたら挨拶をしていた。
さらに恥ずかしながら、その頃の百恵は10代後半だったと思うけど、自分と歳がいくつ離れているか計算して、”結婚”なんてことまで視野に入れていた(失笑)…。だから、噂の友和との関係には、やきもきさせられたものだ。
当時は小さい子供だったから、清楚で落ち着いたお姉さんというイメージで見ていたのだが、40を目前にした今の僕の眼で写真を見ると、何とも初々しくて可愛らしくて、でも、においたつような色気があって驚かされる。
そんな10代の娘に、『あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ』なんて歌わせていたレコード会社やプロデューサー、作詞家などのオヤジ連中は、確信犯的で、しかもヘンタイチックという気がする。

その『ひと夏の経験』に代表される、初期の百恵の曲は、現代の耳で聴くと、音はチープで、歌詞も乗りきらず(当時としては衝撃的なんだろうけれど)けっこう説明的でぎこちない。
自分でもどんな印象を受けるか想像できなかったのだが、懐かしさでもなく、切なさでもなく、案外サラッと耳を通り過ぎた。その頃の記憶はよみがえってきたし、確かにまぎれもなく僕の好きだった百恵なのだが…。
それが、『横須賀ストーリー』あたりから、曲としても歌唱としても落ち着いてくる。安心して聴ける。
でも、じつは僕は、ちょうどそのあたりから百恵ファンの度合いを薄めていった。彼女自身のイメージも変わってきたからだ。つまりそれは、陳腐な表現ではあるが、彼女が”大人になった”ということなのだろうか…。
『秋桜』や『いい日旅立ち』になると、ある種のオーラみたいなものを漂わせている。さだまさし、谷村新司といったソングライターの功績と見るむきもあるかもしれないが、個人的には絶対に山口百恵の歌唱に限る。

楽曲としては確かに後期に佳作があるかもしれない。でも、やっぱり僕にとっての山口百恵は、ぽってりとした唇から白い八重歯をのぞかせてあどけなく笑う、デビュー当時の百恵である。パーマをあてて、挑発的なまなざしで『ロックンロールウィドウ』(アレンジがちょっとツェッペリンっぽいと初めて気づいた)を歌ったりとか、『曼珠沙華』の百恵ではない(嫌いなわけじゃないけど)。

(話は逸れるが、いったい何人の人が『プレイバックPART2』によって、”真っ赤なポルシェ”を買ったんだろうか? でも僕は、百恵ファンといえども、ポルシェ911、とくに930ターボなら絶対的に黒がいいと思っているので赤は買わない)

今の僕の年齢でいうと…、デビュー頃の百恵だと、年齢だけを見たら確実にロ●コン(僕はロ●コンは大キライ!)になってしまうはずだが、気持ちとしては全然そうではないのが逆に不思議だ。
なぜだろう?
もし…(もしなんてなまやさしいもの?)、僕は気がつかなかったんだけど、当時男たちがそういう目で彼女のことを見ていたのなら、ちょっと腹立たしい気がするな…!

日本で、山口百恵ほど復帰を望まれたスターはいない。それでも彼女は決して家庭を離れることを選ばない。マスコミへの露出さえ拒んでいる。自分の信念を曲げない、芯の強い人である(決して再結成をしなかったビートルズと似たものを感じる。…といっても、ジョンの死後、3人で新曲を出したからそうとは言えないか…?)。
いま現在僕は”百恵ファン”とは言いがたいが、僕が山口百恵を思うとき、初恋の人を思い出すのと同じ感情が胸にあるのだ。

相撲! その2

2006-05-28 17:52:23 | Weblog

一週間のご無沙汰である(すみません…)。またもMacが不調、今日は外付けハードディスクから起動している。ついこの間OSを入れ直したのに、今回はダメになるのが早かった。いかんな、Mac…。

それはさておき、相撲観戦の続きを書こうと思いつくことを書き出してみたら、きちんと文章として構築するには分量が膨大になりすぎた。これだと大長編になってしまう。
だから、いつもの”困ったときの箇条書き”ということで、そのまま書き連ねてみようと思う。

『力士のぶつかる音』
映画『007は二度死ぬ』では、ジェームズ・ボンドが相撲観戦に行く(といっても、任務の中で。その当時は蔵前国技館)。
ボンドはまず、支度部屋の横綱佐田の山を訪ねる。ボンド役ショーン・コネリーに「サダノヤマ?」と声をかけられた佐田の山(本人出演)は、少し照れくさそうな感じでそれに応える。そして付き人に席まで案内させる(なぜ横綱が諜報員の世話をするのかは分からない)。
そして、取り組みの場面、立ち合いで力士がぶつかる時に、「ガツッ!」というくらい、すごい音がする。僕がテレビで相撲を見る限りでは、そこまでの音は聞いたことがない。でも確かにあれだけの体躯を持つ力士がまともにぶつかるのだから、それだけの音がしても不思議ではない。だから僕は、本当にそんな音がするのか、ナマで聞いて確かめたかったのだ。
しかし、2階の後方の席で聞く限りでは、そんな音はしなかった。ぶ厚い脂肪に吸収されて、音はそんなに出ないのだろうか。

『外国人力士』
話には聞いていたが、モンゴルからやってきた横綱朝青龍を筆頭に、現在の角界は外国人力士の花盛り…。今回優勝したのも、モンゴル人の白鵬だ。彼らはまだまだ若いから、これからも長い期間、時代を担っていくことになるのだろう。そして、観戦して驚いたのは、モンゴル人ばかりではなく、ロシア、エストニア、グルジアそしてブルガリアといった、白人系の力士もかなりいるということだ。
昔、白人力士といえば、ショボイ感じの人ばかりだったような印象だけど、今いる連中はけっこう強いようである。旧ソ連系の国情の安定しない国が多いようだから、かつての白人力士(カナダなどの出身)と比べて胆力みたいなものが違うのだろうか?
純血主義なんてことを言うつもりは毛頭ないけれど、相撲界がこうまで外国人力士に席巻されているを目の当たりにすると、国技として、さすがに寂しいような気はする。強い日本人力士は出てこないんだろうか? 高見盛などは人気があって、勝っても負けても見てて面白いけど、やっぱりもうちょっと強くないとな、なんて思う。
とくに、モンゴル勢はすごい。こうなるとモンゴル相撲って、日本の大相撲より強いんじゃないかとさえ考えてしまう。騎馬民族として戦いに長け、かつては大陸を征服した先祖を持つモンゴル人。身体能力はすごいものがあるんじゃないだろうか。そういう素地を持つモンゴル人が、ぞくぞく日本に上陸したら、やがて日本人力士なんか追い出してしまうんじゃないだろうか。

ところで、実物を見て(遠かったけど)、角界のベッカム、琴欧州はやはり(というか、もちろん)ベッカムには似ていなかった。さりとて、ジョン・ベルーシにも、”少ししか”似ていなかった。歳をとって、顔がポッチャリしてきたら、もっと似るかもしれない。

『朝青龍』
僕は詳しくは知らないんだけど、今知ってる限りでは、朝青龍はけっこう気になる力士だ。もちろん、ただ一人の横綱で、しかもモンゴル出身ということで露出が多いからってこともあるが、イキが良くて、(やり過ぎのところも多々あるみたいだが)いい意味で”やんちゃ”なところがあると思う。
この”やんちゃ”という言葉、よく不良とか若い頃にワルさをしてきた人のことをやんわりと表現する時に使うけれど、僕はそういう使い方には賛成できない。僕は原則的にワル自慢は嫌いだ。人に迷惑をかけたことは恥じるべきであって、おもしろがってとりあげることではない。”やんちゃ”というのとは本来意味が違う。だから個人的には暴走族だったりしたことで有名な千代大海は、(今知る限りでは)あんまり好きになれない。

以前書いたように、僕はそんな朝青龍が”イキの良い”うちに、相撲を観たいと思っていたのだ。
先日述べた”伝統文化としての相撲を鑑賞する”という側面のほかに、相撲という格技を見に行くというよりも、朝青龍を観に行く、ということがさらに重要だったのである。
ところが、ご存知のように朝青龍は場所が始まってすぐに休場ということになってしまった。
しかし僕は(観戦に行く場所にもかかわらず)テレビを見てなかったから、それを知らないで国技館に出かけたのである。電光掲示板の休場の枠に、「朝青龍」の文字を見つけた時の僕の気持ちを察してもらいたい。
自分の目を疑って、何度も何度も見直したものだ。
…朝青龍を見に来たのに!
じつは、以前に、五月に相撲観戦に行くことをここで告知した時に、最後に「朝青龍、観られるかな…?」という一文を書いたものの、思い直して消しておいたという経緯があった。いつも、なぜか悪い想像をしてしまうクセがあって、「休場しなきゃいいがな…」なんてことが頭をふとよぎったのである。歌丸の落語を見に行く時も休演が心配だったが、その時は大丈夫だった。でも今回は悪い予感が当たってしまったのだ。
でも、朝青龍はまだ25歳(思ったよりかなり若いのでびっくりした)。また観られる機会はあるだろう。
(くやしいから『朝青龍弁当』を食べてやった!)

『祭り』
相撲はそのしきたりや礼式、マゲ、まわし、行司の装束、国技館の建物などの意匠、先日書いたような神社や神道との類似点、歴史の古さなどから、そして裸の男衆が汗をとばしてぶつかり合うということから、祭りの雰囲気が感じられる。荒っぽくて無愛想な男が仕切る世界であり、観客の熱狂も合わせて、会場はまさに祭りのような空気が漂っていた。

『客席』
枡席というのも”祭り”のイメージを盛り上げるものだが、値段がべらぼうに高いので、ちょっと意味合いが違ってくる。”とても贅沢な見せ物”という感じだ。そこに陣取るのは、日本髪を結った妙齢の(?)お姉さんや、何の商売をやってるのかと勘ぐりたくなるようなドレス姿の女性とか、お大尽風のオジさんとか、さすがン万円を支払って観戦している人たちだなあという風体である。
そうかと思えば、いい席に座っていた中年の男女が、後から客を連れてきた案内係に促されて席を立ち、グルッと大回りして、べつの空いてる枡席に座るのを目撃した。きっとその連中は、枡席のチケットなんか持っていないのに、空いている席を渡り歩いて観戦しているのであろう。なんてセコいヤツらだ…。

ついでに言えば、イス席だって高い。一番安い席でも3,600円だった。あとは9,000円くらいの席である。
これじゃ気軽に見には行けない。人気が下落するのもしかたないかもしれない。
こうしたらどうだろう。枡席に金を出せる人は少しくらい値段の違いなんか気にしない連中だろうから、ちょっと値上げをし、その分、一番安いイス席をせめて1,500円~2,000円程度に抑える。そうすれば子どもだって、僕みたいな庶民だって、たまには相撲鑑賞ができるんではないかな。

そんななか、安い席には外国人客が多く来ていた。なかには外国人力士の私設応援団みたいな人もいて、その力士の取り組みでは旗を振り、声援を送っていた。力士も気づいたふうではあったが、そこはしきたりの厳しい相撲界のこと、まさか手を振り返すわけにもいかない…。何の反応も返さず、そのまま引き上げていった。

でも、この日、何となくの印象だけど、客席の声援の多い力士のほうが、ことごとく負けたような気がする。
高見盛しかり、琴欧州しかり…。
三役の取り組みになると、番狂わせな勝敗には、興奮した客が座布団を投げる。
テレビではおなじみの光景だったが、実際見ると(想像するよりも)あれはとても危ない。後ろからくるくる旋回しながら飛んできた座布団が、いきなり年配の女性に当たり、びっくりしているというところも目にした。
あれはほんとに危ない…。投げる快感も分からなくはないが、絶対やらないほうがいい。

かつては、花道を通る力士の体を、観客がパチパチ叩く光景が見られた。
でも今は、女性警備員がガードしていてその場所には行けないようになっていた。
インタビューなどで、相撲取りは一様に、客に叩かれるのが嫌だと言っていたから、その気持ちに配慮したのだろうか。

『物言い』
相撲には、行司という立派な専任の審判がいる。 木村庄之助、式守伊之助といった立行司を最高位に、由緒正しい行司家から経験を積んだ行司が土俵にたつ。
ところが、それにもかかわらず、微妙な判定に対しては、土俵下に控えている元力士からなる勝負審判が物言いをつける。
つまりはクレームをつけるのだ。
僕が観た日も何度か物言いがつけられた取り組みがあった。
5人の審判が土俵上にのそりのそりとあがってきて、行司を取り囲む形で協議が始まる。
当然審判は元相撲取りだからでかい。行司は一人だけ小さくて、周りから見下ろされているような感じである。
「(立行司は)軍配の差し違え(判定ミス)の責任を取って切腹するための短刀を持っている」くらいだそうだから、権威とプライドを持っているはずなのに、今まで裁いていた対象であるはずの親方衆からクレームをつけられるのだから、これはバツが悪かろうし、釈然としないとも思うし、表情を見ていると、どうも落ち着かないふうである。まるで先生に叱られている生徒のような感じだ。
僕の席からはもちろん声は聞こえない。
正面席なので、行司の顔ははっきり見える。その周りを黒装束(紋付)の大男が取り囲み、仁王立ちしたまま微動だにせず、向かい合って協議をしている…。
とても不思議な光景だ。
常人なら、スポーツの判定を協議する場合、どうしても身振り手振りが入ったり、口調に熱が入ったりすると思うのだけど、この人たちはほとんど無表情なのである。
相撲界というのは、こういう細かいところまで、想像の及ばない世界なのだろうなあ…。

ちなみにこの日の審判長は元大関増位山だった。協議結果をアナウンスするためにマイクを持っているのを見たら、「増位山、歌ってくれよ!」と、思わず声をかけたくなった。彼は『そんな夕子にほれました』というヒットを持つミリオンセラー歌手でもあるのだ。
でも正直、千秋楽を(久しぶりに)テレビで見た時、審判長が元横綱千代の富士だったので、「ああっ、増位山もいいけど、やっぱり千代の富士を見たかった!」と思った。

『呼び出し』
呼び出しって、もっと上手かったような記憶があるのだけど、なんか調子が外れている気がした。気のせい?
ちなみに、呼び出しの人の名前って、ただ単に”秀男”とか、”次郎”とか、そんな感じなのだ。
とても軽い扱いの、馬鹿にしたような名前だと思った。

『横網』
ところで、両国国技館は両国じゃなくて墨田区横網1丁目にある。
そしてこれ、信じられないことに横綱(よこづな)じゃなくて、横網(よこあみ)なのだ!
よく漢字を確認してみてほしい。
僕もてっきり、というか、すっかり、というか…、絶対に”よこづな”だと思いこんでいた。
それを初めて知ったとき、「へえ!」って思うよりも、なんか意地悪されたような気がした。絶対に素直じゃない、屈折したものを感じた。
どういう由来があるのか知らないが、相撲の会場である両国国技館があるのに、”よこづな”じゃなくて”よこあみ”…。
何だよ、それ…!
今からでも遅くない、地名を横綱(よこづな)変えたほうがいいよ。

『観戦後』
地図を見ると、近くにいくつもの相撲部屋があるようだし、芥川龍之介文学碑もあるそうなので見てみたかったが、時間がなくてすぐに帰った。ちょっと残念…。

『テレビで観戦』
その後、千秋楽をテレビで見た。相撲をテレビで真剣に見るのは10年以上ぶりのことだ。白鵬と雅山の優勝決定戦にもつれ込む熱戦…、僕は素直に手に汗を握り、勝負の緊迫感に息をのみ、そして感動した。
いつもスポーツや格闘技に対して冷淡な僕も、たまにはこういう気持ちを抱くこともあるのだ。
まだ21歳の白鵬の優勝。モンゴル相撲の横綱だったという、彼のお父さんも観戦に来ていて、その姿が映し出された。
僕はこういうのを見ると、「親孝行な息子さんだなあ…。立派に育って成功した息子を持って、幸せなお父さんだなあ」と、何の他意も持たずに感動する(ただし、白鵬に嫌なイメージを持っていないから)。
そして、全く親不孝で、全くだらしない息子である我が身を思い、すこし涙ぐむのだ…。

ブログの合間に。

2006-05-21 16:44:28 | Weblog
今朝、表に出たら、初夏のさわやかな日差し、気持ちの良い空気に、さすがの僕もウキウキ…。どこかへ出かけたい気分になった。
でも、今日は予定としては、長らく書けないでいたブログにあてるつもりでいた…。
しかし、部屋へこもっているのも良い天気がもったいない。
こんなときはどうしたらいいんだろう?
晴耕雨読と言うとちょっとニュアンスが違うけど、そういう感じが理想ではある。
けれども、いきなりの予定変更には、僕の精神は融通が利かない、追っつかない…。
どこへ出かけたらいいかも、突然には思いつかない。

とりあえずフトンを干して、パソコンに向かった。

…そうしたら、なんとしたことだろう。
モニターに向かったとたん、風船がしぼむみたいに、あるいは、花が枯れていくみたいに、良い気分はあれよという間に消えていってしまったのだ。
数分のうちに、だるい、重い心持ちに変わってしまった。

これはなんなのだろうか?
パソコンって、それほど良くないものだということか。
電磁波の影響? それとも、機械という無機質なものに対する拒絶反応?
確かに、自然の気持ち良さに比べたら、機械とか電化製品なんて卑小で薄暗いイメージはある…。

結局、そのあと出かけるでもなく、ブログをするでもなくだらだらと過ごして午後も遅くなってしまった。
(おっと、前回とおんなじこと書いてる…。悪い兆候だね)
僕は、最近は以前にも増して、取捨選択というか、二者択一というか、決断し、何かを選ぶことができない。優柔不断なことこのうえない。とくに、今日みたいに臨機応変な対応というのがことさらに苦手だ。
そして、迷ってるあいだは何も事が進まないということだから、これはすごい時間のムダになる。
結果として、陽光も、ブログも、良い気分も、何も得られないどころか、失うものばかりだ。

それで、今はこうしてブログに向かっているわけだけども、こんな出だしでは、このあと何を書いたってつまんなくなってしまいそうだ。
だから、一度ここで切って、また新たに書き直す事にする。

(ということで、『相撲! その1』を書きました)

相撲! その1

2006-05-21 16:36:19 | Weblog

前に予告した通り、先日、相撲を見に行ってきた。
大相撲五月場所、もちろん、両国国技館だ。
僕にとって初めての相撲観戦である。
前にも書いたかもしれないけれど、僕がよくテレビで相撲を観ていたのは、輪島、北の湖、貴ノ花の時代から、千代の富士が引退する頃まで…。
そのあとは、オヤジは好きだったけど大嫌いな息子たちの若貴ブームが来てしまったし、大人になるにつれて相撲界の暗部というのも見聞きするようになると、なんか嫌になってしまい、ずっと遠ざかっていた。今だってテレビも見ていない。

でも最近、落語、歌舞伎などを鑑賞するなかで、これも日本の伝統文化である相撲も、一度ナマで観ておきたいという気持ちが強くなってきたのである。
つまりどちらかというと、スポーツとか、(僕が苦手な)格闘技というよりも、そういった視点からの鑑賞と言える。

相撲は、なんと、朝9時頃から観戦できる。
もちろん、まだマゲも結っていない、子どもみたいな力士の取り組みから始まるのだけど(行司だって足袋もはかず、裸足でやってる)、それを含めると、午後6時まで、たっぶり9時間は楽しめる。
でも僕は、寄席の4時間でも意識がもうろうとしてきたくらいだから、そんなにもつきあってられない。一番楽しみな結びの一番を、元気なままで迎えたいから、せいぜい頑張って十両の取り組みが始まる3時くらいから入場することにした。

この前の国立演芸場に歌丸を見に行った時と同様の雨模様。
また雨男がぶり返して来たのか…。
両国までは家から2時間近くの道のりがある。ほとんど行く機会のない方面なので、余計に遠い気がする。
JR両国駅は、改札を出ると、化粧まわしを締めた力士の肖像が額装され掲げられているし、外に出たところにはちょっとかわいらしい感じの石の力士像があったり、ちゃんこ料理屋が軒を並べていたりして、いやがうえにも観戦気分が高まる。
そして、すぐ目の前に両国国技館があり、色とりどりのノボリがはためいている。
国技館のすぐ裏手、駅から行くと右奥に、江戸東京博物館があって、皆そちらに向かっていくし、そちらから人が流れてくる。僕も何気なくそっちに歩いていったのだが(僕は通常、付和雷同することはめったにない)、歩けど国技館に入れるところがない。結局、雨に濡れながら国技館の建物の周囲をぐるりと回って、ほとんど一周したところに正面入り口があった。
両国駅から来たなら、向かって右へ行ってはいけない(苦笑)。

正面木戸でチケットをもぎってもらって入場。
ここの係の人は、元関取の親方衆だそうだ。有名な人がいることもあるそうである。
でも、館内の係員も元力士らしかったけど、彼らは接客が本職ではないから、くちゃくちゃガムを噛んでいたり、そもそも圧迫感のある体格だし、態度も良いとは思えない。ところどころに案内所があって、彼らが腰掛けているんだけど、どことなく威圧的で声をかけがたい。熱狂的な相撲ファンならまだしも、僕のような人間にはちょっと違和感…。元力士以外にも、案内係の女の人は感じが良かったが、たっつけ袴(というらしい)姿の男性スタッフもあんまり態度は良くなかった。

木戸をぬけると、今度はセキュリティチェック。そのへんはニューヨーク並みになってる。とは言っても、おざなりに、形ばかりのものだから、あんまり効果はないんじゃないかな。

いつもながら、そんな批判的なところから始めてしまったけれど、場内に入り、土俵を見下ろすと、何とも言えない、静謐で凛とした空気が伝わって来た。
土俵上につり下げられている屋根の形状や、紋を染め抜いた幕などが神社を思わせるのか、礼式や威厳を感じさせるのだ。
会場のちょうど真ん中に土俵が位置していて、四方から観客の視線が集まっている。その中央の空間に、神がかりなパワーが集約され、凝縮されて宿っているかのような、そんな印象を受ける。

(その2へつづく)

扉の向こうはまた扉。

2006-05-14 15:06:46 | Weblog

本気で書けば3時間もかかるかと思うと、なかなかブログに手がつけられない。

そろそろ、きちんとした仕事に就きたいのだが、そうは問屋が卸してくれない。
僕の年齢とスキル、それに人間性を考えれば、無理からぬことではあるのだけど…。

この暗い扉が開く時がいつか来るのだろうか…。

この写真は、ニューヨークで泊まったホテルの部屋のドアを、内側から撮ったもの。
なんか、とても陰気で、ただならぬ気配さえ漂うが、実際はこの写真ほど不気味ではない。
創業は1919年だそうだけど、まさかその当時のままとも思えないが、古いことは古い。
どことなく、旧式の冷蔵庫を思わせる、曲面を描いた意匠の板は、何度もペンキで重ね塗りされていて、漆喰のような質感になっている。

この写真を見ていると、『バートンフィンク』のジョン・グッドマンが、いきなり入ってきそうな気がする。

…あれ? 何を書こうとしてこの話を始めたか、忘れてしまった。

最近、以前に比べて仕事がさほど辛く感じなくなった理由のひとつに、仕事をしている間の記憶がぼやけている、ということがある。
いまだって、その瞬間、瞬間は、「イヤだなあ」と思いながら仕事をしているのだけど、あとで思い返してみたら時間も早く過ぎたような気がするし、辛かったような気がしない。
これはきっと、記憶が消えている、もしくは記憶がとんでいるからに違いない。
決して精神的に強くなったということではないと思う。

いいのか悪いのか、よく分からないことだ。

…あ、また何を書こうとしたか忘れた。

とにかく、アルバイトをやりながら仕事を探そうと思っていたのに、数か月経ってもこう着状態だから、また以前のように焦燥感がわき起こってきた。そして、そのことが気持ちをかき乱し、かえって何かを行動に移すことを妨げる。
今日だって、やろうと思えばいろいろとやることはあるのだけど、思考がまとまらずにすでに3時になろうとしている。これじゃ、前とおんなじだ…。

手の届きそうな扉…、すぐそこに見えているのに、なかなか開くことはできなかった…。
やっとこさで開いたのに、またつぎの扉に出くわして戸惑ってる。

なんとか街

2006-05-09 02:24:08 | Weblog

地方から出てきた人間である僕にとって、東京の街って、それぞれ独自のカラーがあって面白い。
オフィス街とか、繁華街とか、工場地帯とか、そんな大きな区別ではなく、もっと専門化、細分化されていて、しかも、通りを一本隔てて、くっきりと境界があるからすごい。
ちょっと調べたところ、有名な秋葉原の電気街、合羽橋の道具街、神田の古書街のほか、
浅草橋の問屋街、
お茶の水の楽器街、
小川町のスポーツ店街、
田原町の仏具店街、
御徒町の宝飾専門店街、
日暮里の繊維街、
上野のバイク街、
飯田橋の印刷街、
西荻窪のアンティークショップ街などなど…。
細かく探せば、もっともっといろんな”なんとか街”が出てくるんじゃないだろうか。
例えば青山界隈はブティック街と言えなくないし、骨董通りというアンティーク街もある。環八の世田谷界隈はカーショップ通りって感じだ。
もっと言えば、銀座はクラブ街、新宿歌舞伎町はフーゾク街、渋谷円山町はブティックホテル街、吉原はソー●ランド街なんじゃないかな…? 確かにそういうのは地方にも似たような場所があるけど、規模やレベルが全然違うよ、きっと。

地方はたいてい、ひとつだけ大きな街があって、そこに何でも雑多に詰めこまれている。
キャパが限られてるので選択肢が少ないし、欲しいものがもしそこになかったら、それはどこにもないってことだ。
だから東京はとても便利なんである。「あれが欲しかったらそこに行けばいい」という街がある(銀座や新宿のような総合的な街も存在するし)。
東京しか知らない人はあたり前だと思ってて、そんなこと意識したことないでしょう? 
あなたはある意味とても恵まれているんですよ。

確かに現在、アホな行政やデベロッパーや、そんな連中にのせられて視点のズレた地元民もふくめての再開発とやらで、思いのほかあっさりとそんなカラー(と歴史)が消えて、オセロの駒をひっくり返すみたいに、ひとつ、またひとつと画一化された街に変わっていってる。
それでもまだ、地方には見られないそういう東京の面白さは残っているんだなぁ。
だから早いとこ、東京を楽しんでおいたほうがいいよ。地方からきた人間である僕が提唱いたします。

闘争心のあるひと、ないひと。

2006-05-08 01:09:48 | Weblog
皆さんもおそらくご存知の、某人気ランキングNo.1ブログの記事に触発されて(触発ってほどたいそうなものでもないけど…)、僕がいつも感じてる疑問を書いてみようと思った。
最初にひとこと断っておくが、今日書く記事は、僕のまったくの個人的な考え方、感じたことを記しているのであって、決してその善悪、優劣などを決めつけるものではない。その点はご承知おき願いたい。

そのブログの記事は、ボクシングのK兄弟と、その試合の酷さ(八百長だと断じている。僕は見てないから何とも言えないけど)、マスコミの姿勢について批判している。
僕も詳しくは知らないんだけど(だから先入観でものを書くのは良くないかもしれないが)、ちょっとテレビで見た限りではK兄弟とそのオヤジは、生理的に受けつけないタイプだ。ここに実名を書くのもあまり気分が良くないし、検索に引っかかって彼らを支持する人が来られても支障があるのでイニシャル扱いにした。
そしてやはりそのブロガーと同様、なんで人気があるのか分からない。
もしあんな親子が近所に住んでたら、めちゃめちゃうっとおしいと思う。絶対に品行方正な人たちではないんじゃないかと思うので、何らかの迷惑を被ることが予想される。…いや、きっと歩いているのを見るだけでも威圧感を覚えるだろう。
なぜって、僕にはチンピラにしか見えないからだ。
例外はあれど、ボクサーの多くがそんな感じだ。例えば、チャンピオンも数多く輩出している某有名ジムが、同時にソー●ランドを経営しているというようなことが、業界の性格を象徴的に物語っているようにも思える。つまり、堅気の世界とは言いがたい雰囲気があるということだ。

ボクサーは、スポーツというより、もともとのきっかけはケンカ好きで好戦的、強くなりたいという意識からボクシングを始める場合が多いんではないか。僕だってボクシングそのものは決して嫌いなわけじゃないし、強くなりたいという願望はやはり持っているので、若い頃は「ボクシングやろうか…」などと考えたこともなくはない。
でも、ボクサーは強くなって功成り名を遂げても、人間的に洗練されたふうには見えないことが多い。チャンピオンでさえ、違法行為で捕まることもある。
言うなれば、”名の上がったワル”という感じだ。
そりゃあもちろん、トップクラスのボクサーは、すごい練習を経て、凡人には想像もできないテクニックを持っているんだろうけど、でも、そのモチベーションが「ケンカに勝ちたい」ということからきてるんでは、個人的にはかなり違和感がある。
いや、当然、そういった、ご清潔ではない、荒ぶる闘志がボクシングの大きな魅力のひとつだってことも理解できるが、僕にはどうしてもガラが悪く見える。
このブログでもたまに書くけど、僕は人を判断する時に、「何ができるか、何をなしたか」ではなく、「どのような人間性なのか」を重要視する。だから、ボクシングが強いからなどというだけでは、その人を支持することはできないのだ。これは他のスポーツのみならず、どのジャンルのことでもあてはまる。

僕は闘争心、競争心に乏しい。
世の中、そして人生、ただでさえ過酷な競争、闘いを強いられるのに、なぜわざわざ好き好んでしなくても良い闘いをするのだろうか…? しかも肉体的な闘いなんて、もっとも一次的、原始的な本能に基づくものなのではないか。現代にもそれは必要なのか? これは格闘技そしてスポーツ全般に言える。
もちろん、趣味とか楽しみ、身体的および精神的鍛錬のためにという理由でなら理解できるが、しかし彼らは生業とし、ショーとしてそれを行う。生活の中心にそれが置かれている。本来は、護身のためとか、家族に危険がおよんだ時に緊急回避的に使用されるべきことだと思うのだが、彼らは日常的に闘っている。
これは僕なんかのような牙をもたない、かよわい羊のような人間と違って、闘志が有り余っているのだろうか。
猛りたつ魂を抑えきれないのだろうか?
彼らの目はとても挑戦的だ。常に闘いを挑んでいる。そのはけ口として、ボクシングという擬似的な闘争へと向かわせるのだろうか。
言うまでもなく、闘争本能が、戦争や、殺人、私的な暴力といった非道な行為に向けられることを思えば、擬似闘争というのは至極理性的ともとれるのだが…。

ボクシングやスポーツを観て喜ぶ人たち、K兄弟のファンである一般の人たちは、なぜそれらを支持するのだろうか? 自分の闘争心の向かうべきところを持たないから、代替行為としてそういった競技に熱狂するのだろうか?
僕なんかからすると、自分より絶対的に強い人、はるかに身体的優位にたつ人の存在は、動物的な怖れを抱かずにはいられないから、脅威であって、好ましからざることとしか思えない。
もし仮に、K兄弟とどこかで接することがあって、例えばの話、何か侮辱的な扱いを受けたり、自分の大切な人に危害を及ぼすようなことがあったとしたら、僕にはそれに対処し、大切な人を守り通す自信はない…、いや、間違いなく無理だろう。そういう圧倒的な力の差の前には、理屈とか法など何の意味もない。
人間は”考える葦”なんだろうけれど、考えない、原始のままの動物的な部分も確かにあって、この文明社会においても、弱肉強食がまかり通っている。
肉体的能力の差は、やはり現代でも人対人の優位性を決定する重要な要素だと思うのだ。そして例えばボクシングが強ければ、他の人間を制圧することができる場合が多い。それは実力を行使しなくとも、精神的な圧力(威圧感)みたいなものを持ちうる。
僕は他人を明らかに自分より優位に感じたり、人に制圧されたりはしたくない。だから、絶対にかなうはずのない相手に対して、なかなか無邪気な好意を抱くことはできない。それは、テレビの中のプロボクサーとて同じことなのだ。同じ理由で、武術、格闘技全般が苦手である。まあ、たまに観て興奮を覚えることもなくはないが(子どもの頃はプロレスなどもけっこう観ていた。ミル・マスカラスや、テリー・ファンク、スタン・ハンセンらが活躍していた時代だ)、のめりこむほどではない。なぜみんなあんなに好きなのか、(皮肉でも嫌味でも何でもなく)知りたいくらいだ。

ちなみに、元ボクサーの赤井英和は相当なワルだったらしいけど、僕が見る限りにおいては今のところ気持ちの良い人物に思えるし、僕の父親にも似てるし、自分自身も似てると言われたことがある、というようなこともあって、だからけっこう好きである。

ひとつ見れば同じこと

2006-05-04 13:11:11 | Weblog
例えば芸術家は、なぜ同じような作品を創りつづけるのだろう?

どういうことかというと、先日ここで話題にした画家のミロについてちょっと調べたら、似たような絵ばかり描いているということにあらためて気づいたのである。
もちろんミロだけではない。
有名な画家は誰も、同じような作品ばかりを残している。
ピカソのように、「青の時代」だとか、キュビズムに移行したりとか、作風がガラッと変わる人もいるけれど、同時期には同じテーマ、同じ技法で描いている。
違った画風を同時に使い分ける人はあまり見かけない。

これは画家に限ったことではなくて、彫刻家、音楽家、前衛芸術家、小説家、デザイナー、映像作家などにも同様のことが言えると思う。
表層的に見てとか細かい部分に変化はあっても、本質的には同じことばっかりやっている。
受け手側も飽きないのだろうか?

また、もっと視野を広くとると、一般の人たちの趣味、趣向にもそれはあてはまるかもしれない。
例えば服装ひとつをとっても、トラディショナルが好きな人、アバンギャルドが好きな人、ブランドものが好きな人、古着が好きな人、和風、アメリカン、エスニックなどなど…。
自分が意識しているかどうかは別にして、たいていはその人それぞれのアイデンティティに沿ってまとめられている。
どっちつかずの人もいるけれど、違うジャンルのスタイルを明確に使い分けることはしないはずで、どっちつかずの人は、どっちつかずのスタイルというアイデンティティを持っている。
ライフスタイル全体を見ても、エリート志向の人もいれば、「オレの人生はロックンロールさ!」なんて人もいる。それは様々だけれども、やはりその方向性は、ある程度定まっているものだ。

でも僕は、それをちょっと不思議に感じる。
そして、うらやましいとも思う。

同じことばかりやってて飽きないものなのか、という疑問と、ひとつのものに打ちこむことができ、思考がぶれないという強さや安定性に対する羨望が、同時に湧いてくるのだ。
もちろん、芸術家とかクリエイターの場合、世に出るためには他との差別化、ひと目でその人と分かるような独自性が必要だ、ということも理解できる。
だからもしかしたら、そういう社会的、戦術的な意味で、意図的に同じような作品を創り出している場合もあるかもしれない。
また、作品に高い完成度を求めるなら、同じテーマをくり返して探究していく必要もあるだろう。

しかしやっぱり、よく飽きないな、と思う。
そして、だからこそ、飽きっぽい人間である僕は、何事も成功しないし、人間としても流動していて完成せず、”強さ”を手に入れることができないのだろうかとも思う。
また服装の話になるけども、僕は和装にも興味があるし、アルマーニとかいったブランドものも好きだし、粗野なカウボーイスタイルみたいなものにも憧れを持っている。オーセンティックなきちんとしたトラッドも良いと思う。あるいはまた、そんなことにはとらわれずに、自分の人間性が自由に服装に滲み出せばそれで十分だという意識もある。
まったく志向が一定しないのだ。
あれもいいし、これも好き、という、悪くいえば八方美人的な傾向が強い。
でもそれは、本人からしてみたら八方美人ではなくて、「良いものは良い」という気持ちなのである。
世の中には、ありとあらゆる、それぞれ特長を備えた事象が存在しているのだから、ひとつの方向に決められない。どれかに絞れ、なんてことは難しいのである。

それに僕は、ニュートラルでいたいと思う人間だ。偏ってしまうのを避けたい。
それは、自分の方向を明確にすることによって突き当たる困難に対しての恐怖心も含んでのことなのだが、広大無辺な世界にいて、ほんの米粒みたいな知識しかもっていない小ちゃな存在でしかないのに、そのなかだけで固まってしまうというのがもったいないという気持ちもある。
自分が知らないところに良いものが存在してる可能性はとても高い。ある物事に接して、それが気に入ったとしても、もしかしたらそれは、そのジャンルではレベルの低いものだったりするかもしれない。本物ではなく、本物の模倣にすぎないのかもしれない…。

…これは難しい。
しっかりとした自己を確立したい、明確なスタイルを持ちたい、という思いも強く持っているから…。
まあ、冷静に、客観的に判断すれば、まず最低限のアイデンティティを確立することが先決なのだとは思う。まずそこに到達しないと、何も始まらないのだろう。
とにかく、緩く、無為に流動し続けているだけの僕なんかでは、問題にもならないには違いない。

彼の時間、僕の時間

2006-04-28 21:23:23 | Weblog
前回の記事で、『同じだけの時間を、ヘルマン・ヘッセは存分に使い果たし、僕は余らせ、腐らせているのではないか』と書いた。
そのあと考えてみたのだが、ほんとうに”同じだけの時間”なのだろうか…?

「僕は時間を余らせ、腐らせている」という表現をしたけれど、その言い方だと誤解を招くかもしれない。もしかしたら、たっぷりとした時間、ゆったりと流れる時間がありながら、それを無為に使い捨てにしているというふうに受け取られたおそれがある。
でもそうではない。
本人は時間が足りないと感じている。
焦っている。
僕の人生には時間が足りない。
何をする時間もない。ある日に何かをしようとしても、すぐにその日は終わり、少しもはかどらない。

ぶくぶくと膨張した、脂肪細胞のような時間…。
そのくせ、大きいわけではなく、外側から見るとせせこましいくらいに小さい。
酸素の足りない薄い空気のような時間…。
あるいは、ブチブチちぎれる粗悪なゴムのような時間…。
ヘルマン・ヘッセの、濃密で、しかも長尺な時間と比べて、僕の時間はそんな感じだ。

そう考えると、時間は、同質、同量の、絶対的な概念ではなくて、やはりひとりひとり違ったものなのではないかと勘ぐりたくもなる。
そしておそらく、実際に違うものなのだろう。
密度だけでなく、尺にも差があるに違いない。
時間も、平等に与えられたものではないのだ。