歴史作家 智本光隆「雪欠片―ユキノカケラ―」

歴史作家 智本光隆のブログです。

祈念―がんばろう東北―

桜の花に癒され、地震の爪あとに涙し・・・しかしながら確実に仙台の街は復興しております。1歩づつではございますが、前進していきたいと思っております―8年前、被災地からこの言葉をいただきました。今年もまた、春がめぐって来ました。今も苦しい生活を送られている方々に、お見舞いを申し上げます。本当に1日も早い復旧、復興がなされますよう、尽力して行きたいと思っております。

桃山乱戦奇譚紀行第13回―小田原城2 戦国終焉の風景―

2013-11-04 20:45:32 | 桃山乱戦奇譚
かな~り久しぶりですが、桃山乱戦奇譚紀行です。
そして、その最終回で。


さて、その小田原城ですが、
訪れたのはこんな季節の頃。。。







下の写真、よく同構図で見るかもですね。




小田原城は明治維新の後に取り壊され、
残っていた遺構も関東大震災で崩壊。
現在の天守は昭和35年・・・大洋ホエールズ優勝の年(w に再現されたものです。
なお、現在では江戸期の天守を復元する活動を進んでいるとのことですが・・・




天守内部は撮影禁止ですが、
最上部から石垣山方向。あいにくと天気はいまひとつ。
ここに一斉に豊臣の旗が立ったとき、戦国乱世は終わりを告げた・・・わけですね!!




そして帰路。
発掘調査の最中でした。これも完全復元計画の一環か?



さて、桃山乱戦奇譚紀行は今回で終了です。
次回より、、、『神剣の守護者』に関する企画を用意していますので。
再び、お付き合いのほどを!!

桃山乱戦奇譚 天下人の血―そのあとがき②―

2013-10-12 06:14:21 | 桃山乱戦奇譚
さて、それであとがきの続き(前回いつだった?って話なんですがw)


兄である関白秀勝よりも「動かしやすいか?」的に選んだ秀勝ですが、
実は「秀勝」を名乗った「秀吉の子」は3人いたと言われています。
つまり、


1、石松丸(豊臣秀吉長男)
2、於次秀勝(織田信長四男、秀吉養子)
3、小吉秀勝


この3人。
本作の主人公は3代目の小吉秀勝。秀吉の姉。ともの次男で秀吉からすれば甥になります。
なのですが、この「秀勝」なる者達・・・はっきりいえば「よく分からない」


まず、初代の石松丸は長浜城主時代の秀吉の実子と言われています。
もっとも元服前に死んでいるのは、仮に石松丸を秀勝だとすると、
それは将来「名乗らせるつもり」だったことになりますか。


そして2代目・・・於次秀勝は織田信長の四男で秀吉の養子に。
山崎の合戦では総大将となり(『本能寺将星録』のときは出しませんでしたがw)、
戦後は明智光秀の居城である丹波亀山城主になります。
実子のない秀吉の後継者だったわけです。
その二代目秀勝は秀吉の関白宣下と同じ年に、18歳に若さで病没します。


翌年、その名前と居城の亀山城、そして少将の官職までそっくり引き継いだのが、
本作の主人公である3代目・小吉秀勝。
この謂わば「秀勝名跡継承」があまりに自然に過ぎたため後世の一時期、
於次秀勝と小吉秀勝は同一人物という見解さえありました。
つまり、、、織田信長の四男はその後も生き続け、文禄の役の最中まで生存したと。


当初、この「秀勝すり替え」を物語の軸にする案もあったりしました。
メインキャストに蒲生氏郷、細川忠興の信長系大名がいるのは、実はその名残。
最終的には秀勝―関白秀次―太閤秀吉の3者を軸に物語は進みましたが、
で、この小吉秀勝という男、、、


・秀吉の養子になったのは兄の秀次よりも先(当時、兄秀次はまだ三好姓)
・妻は織田信長の姪・お江の方。
・九州征伐で武勲を立てるが、知行に不満を言って所領没収→以後、一時消息不明。
・小田原攻めの頃に帰参して戦後、甲斐国主に。国内では積極的に治世にあたる。
・わずか8ヶ月で岐阜に国替え。
・文禄の役では第九軍総大将(この地位は事実上の総大将)
・巨済島で陣没。

・・・これが大まかな略歴。これで浮かび上がる人物上は聡明な人物?それとも暗愚な男。
実はこの他にも、、、


・豊臣秀勝の家臣だったという、名のある者が見当たらない。
亀山城主就任時も放棄時も、家臣の引き継ぎがない。
死後、岐阜城主となった織田秀信は新規に家臣団を編成している。

・小田原攻め直前に蜂谷頼の旧領・敦賀を得たともいうが、
蜂谷の家臣団はそっくり大谷吉継が引き継いでいる。本当に敦賀城主にはなったのか?


もちろん、豊臣家が現在、存続していないということ。
兄の秀次が後に切腹させられていることなどもありますが、どうも秀吉存命時の豊臣政権が、

「豊臣秀勝という男の存在を、この世から消そうとした」ような印象を受けました。

二代目秀勝もまるで、存在を消されたように三代目に代わりました。
病死かそれとも・・・はよく言われるところですが。
そして、その三代目も文禄の役の最中に急死。
後の秀次事件の顛末を見れば、これはただの陣没かそれとも、、、


このあたり「天下人」豊臣秀吉のダークサイドのような気がします。
穿ちすぎといえば、それまでか・・・・?

桃山乱戦奇譚 天下人の血―そのあとがき①―

2013-08-25 18:52:58 | 桃山乱戦奇譚
さて、今回はまだあとがきを書いていなかったわけですが(もう8月も末ですが)
この『桃山乱戦奇譚 天下人の血』はまず、
「まだ、これまでに描いたことのない時代」ということで話がありました。
もう1度「関ヶ原もの」というのもあったのですが、
その時に同時並行で関ヶ原作が2作くらいあったのかな?


『関ヶ原群雄伝』がその関ヶ原、『本能寺将星録』がそのまんま本能寺の変、
そして『豊臣蒼天録』は大坂の陣です。
大坂の陣とはいっても二条城会見からスタートなので、「関ヶ原後の政局」でもある訳で。
なので、1600~1610くらいが舞台も今回はなし・・・となり。
それでは・・・と考えたのが「秀次事件」です。
天下人・豊臣秀吉の晩年に暗い影を落とし、豊臣政権崩壊の序章ともなった粛清事件・・・これを書こうと!
このあたり、歴群的にもちょっと「空白地帯」っぽくもあります。


えっと・・・確か担当・A田氏はそのまんま、秀次を主人公に推した・・・んだった気がします。
ただ、僕のほうがちょっとイメージ沸きづらかったのと、過去に歴群で秀次主役作品あるということなので、、、
「なら、弟の三代目秀勝は?」となりました。
その前年のNHK大河ドラマにも出てましたので、知名度もけっこう上がっているかな・・・とか考えた(w
隻眼説を採用しようと最初に決めたので、なら伊達政宗も出そうと。
これはやや、ノリで決めたに近い(w
前作、政宗をちょい書き足りなかったのもありましたね。


さて、、、その『天下人の血』なんですが、過去の智本作品と明らかに違う点は、

「主人公が武闘派」「主人公の生まれが武家ではない」

まずこの二点。細川忠興とかかなり武闘派っぽく描いたつもりでしたけど、まあ無骨ではなかったか。
今回、秀勝に関してよ~く言われたのは、
「豊臣蒼天録の松平忠輝に似ている」です。
当初、忠輝よりも直情なぶっちゃけおバカな感じを想定していたのですが、何せ巻がなくてですねぇ。。。
結果的に似ていると言えば、まあ似ているのか?


そしてその出自、
これは、物語を形成して行くにつれて、
「尾張中村の百姓屋で生まれた男」という面が強調されました。
大谷吉勝、細川忠興、そして豊臣秀頼との最大の違いはここです。
前二者はそれぞれ秀吉、信長の「青年将校」的なキャラ付けがありました。忠興は特に。
秀頼様に関してはもう、本人が関白の跡取りですから。


その点、秀勝は関白・豊臣秀吉の甥というのは貴種ですが、その秀吉は元々が百姓出。
しかも、九州征伐後の「空白の二年」を放浪期間として、諸国をぶらぶらとさせました。
そんなわけで智本作品初、「槍一本で道を切り開く、ガチの武闘派」と相成りました。
本音ではこの放浪期間、ちょっと書き込みたいかも。。。


そしてもう一点、これは重要な点なのですが、

「現実には死亡している世界を、主人公が生きる」です。

豊臣秀勝は朝鮮出兵の最中、巨済島にて陣没しています。
本作では片目を失いながら、一命は取り留めました。
これは、「豊臣秀勝がもし、秀次事件まで存命していたら?」という物語です。
まあ・・・その後は話の都合で、秀次事件より前の年で完結していて。。。
でも、これも秀勝の生存が、事件を早めた!というこで・・・苦しいか(w



智本光隆

桃山乱戦奇譚紀行第12回―小田原城 北条五代の府―

2013-08-17 22:09:54 | 桃山乱戦奇譚
さてと、桃山乱戦奇譚紀行も最終地?となる小田原へ。
まず、小田原といえば、、、



北条早雲像。


小田原駅前の北条早雲像。
なお、当人は生前、早雲と名乗ったことはなく、
伊勢盛時が名乗り。
これも少し前まで、長氏の方が一般的でしたよね。


そして、この銅像は明応4年(1495)、
早雲による小田原城奪取作戦の様子。
小田原城主の大森藤頼を騙し、山に鹿狩りのための勢子と称して軍兵を入れ、
千頭の牛の頭に松明を燃やし、小田原へと乱入。
見事、城を奪った・・・という城取り譚です。
同様の話は多く、どこまで真実からは不明ですが、
小田原城は以後、北条五代の居城とし、
関東最大の府となります。










馬出門から場内へ。







城はほとんど復元ですが、けっこう観光客多いです。
それと、前に書きましたが某番組の撮影が(w




平成9年再現の銅門(あかがねもん)






こちらは昭和46年再現の常盤木門。
これをくぐると、いよいよ天守へ!!

桃山乱戦奇譚紀行第11回―築城の天才 秀吉の傑作―

2013-08-09 08:53:29 | 桃山乱戦奇譚
昨日の8月8日は、
昭和88年8月8日だったそうな。
そんで8連敗。
それはそれとして、、、


さて、乱戦奇譚紀行は石垣山の本丸へ。







まあ、本丸は跡地のみなんですが(w よくあることです。
そして、この石垣山城に上って最初にまず確認したいのは、





小田原城の復元天守は写真の中央やや下。
そうなると、当時はもっとこの正面に木が生い茂っていたわけが・・・
ここに来るまでの道のりが長かったですが、意外?に近く見える印象か。





攻防図というか、豊臣方布陣図がありました。
あ、秀勝もいるな(w




城の正面。
ちょうど、こんな季節でした。


さて、かなり夕方だったのでこれにて下山したのですが、
こんなのあった!




石垣山にこの注意板。
狙ったのか!?


下山してぶらりと港へ。



早川港。
早朝にくれば魚市場食堂がにぎわっているそうです。




なんだ、この巨大な小田原提灯!!
なんか灯台だそうで(w