カエサルの世界

今年(2019年)1月中旬から「休載中」ということになっているのだけど、まあ、ときどき更新しています。

■漫画三昧(2018年8月)人間失格

2018年09月02日 | ☆読書とか    

 読んだ本(キンドルの無料漫画)を1ヶ月ごとにまとめていこうと思っています。今回は8月編です。


 8月5日~19日に読んだ本です。読んだ順番は、右下から左上ということになります。
 ここでは『鉄腕バーディ』をチェックしてみました。宇宙人の女性刑事が誤って地球人の少年を殺してしまって・・・というようなことから始まるお話。主人公は強くてかっこいいのだけど、ときどき天然ボケの入ってくるあたりがかわいいです。バリバリのボディコンスーツだし、全裸になったりすることも少なくないのだけど、エロい感じにならないところがいいと思います。アニメでも見たことがあって好きだったのだけど、漫画の方が深みがあると思いました。読み返したりできるからかもしれません。


 8月19日~28日に読んだ本です。
 ここでは『人間失格』をチェックしてみました。伊藤潤二によるコミカライズ版なんですけど、あれ、こんな話だったっけ?と思ったので、太宰治の原作も読み直してみました。漫画版には、原作にはないエピソードが書き込まれていますね。お話がわかりやすくなったとも言えますけど、拡大解釈しすぎなんじゃないの?と思えるようなものも少なくありません。伊藤さんはこのようなイメージで『人間失格』を読んだということになると思います。小説でも漫画でも、それぞれの作品をどのように解釈するかは読者の自由なので、みんな違ってみんないいんじゃないかと思います。カエサルも、カエサルなりに感じたことを書いてみたいと思います。

 太宰の『人間失格』は、「はしがき」「手記」「あとがき」という構成になっています。「はしがき」では「葉三の三葉の写真」について語られ、醜い醜いと言いまくるわけですけど、これを誰が書いているのかがわかりません。作者としての「はしがき」としてはおかしいので、葉三自身が書いたものだとすれば、自分自身のことを激しく嫌悪しているということになります。そのイメージのまま「手記」を読んでしまうと、ただひたすらに自己否定しまくっているかのように感じてしまいます。
 「あとがき」を読むと、「はしがき」は第三者が書いたものだということがわかります。そのことをわかった上で「手記」を読み返してみると、自己嫌悪・自己否定というよりは自己弁護に近い文章なのではないかと思えてきました。
 「手記」は、幼少時から周囲との感覚のズレを感じていたというような話で始まります。最初に読んだときは異常な子供だと思っていたのですが、こういうの、誰にでもあることなんじゃないかと思えるようになってきました。成長するにしたがってズレを修正していくわけですが、どこかにズレは残ります。人間というものはそういうものであって、葉三もその一人であったということではないかと思います。
 葉三は、大金持ちの息子で、頭が良くて、美少年です。病弱だったらしいし、幼少時に性的虐待を受けたりもしたみたいなんだけど、道化者として周囲の人々に愛されながら育ち、長じてからは女性にもてまくります。こうした状況を理解するというのはかなり難しいわけですが、「恵まれたが故の不幸」という言い方をすることもできるのではないかと考えています。
 特に、金銭的な環境です。父親と同居しているときは好き勝手に飲み食いできたのに、父親が郷里に戻ると仕送りだけで生活することになります。相当な額の仕送りだったと思われるのですが、それを数日で使い切ってしまうという放蕩ぶりは凄いと思います。まさしく、金の切れ目が縁の切れ目。葉三はここから変わっていくことになるのだと思います。
 葉三は女性から好かれまくるわけですが、そういう経験のないカエサルにはそのことがうまく理解できません。「もてる」というのは、もてない者からすると羨ましい限りなのですが、本人にとってはたいへんなことかもしれないとは思いました。葉三のように相手の好意を拒むことができない性格だと、かなりたいへんなんじゃないかと思いました。でも、金がない葉三の面倒を見てくれる女性が次々と現れるというのは、やはり「恵まれたが故の不幸」なんじゃないかと思います。
 葉三のモデルが太宰であることは間違いありませんが、私小説などというわけではありません。太宰は小説家として成功しますが、葉三は売れない漫画家のままで終わります。24歳のときに60歳近い女中と二人暮らしをするようになり、夫婦喧嘩のようなことをしながら3年が経ったというところで「手記」は終わります。
 「人間、失格。」という言葉は、老女中との生活を始める前、葉三が精神病院に入院させられたとき、退院しても狂人として扱われるであろうことを嘆いてつぶやく言葉です。それほど深い意味のある言葉ではないと思いますが、それをタイトルにしてしまうと、なんか形而上的な意味のある言葉のように感じてしまいます。大袈裟だと思います。そんなこともあって、この作品が太宰の代表作みたいな扱いを受けることもあるわけですけど、それほどのお話ではないんじゃないかと思います。40年以上前に読んだときもそう思ったし、今回もそう思いました。


 8月28日~9月1日に読んだ本です。
 ここでは『ザ・ファブル』をチェックしてみました。第3巻が無料公開になったのだけど、第1巻から読み返してみました。プロの殺し屋が、1年間の予定で休業し、一般人としての生活を送ろうとする話です。
 シリアスでハードボイルドな場面もあるし、天然ボケみたいな楽しさがあります。この2つが、お互いを引き立て合っているという気がします。シリアスな中だからボケが可笑しいし、ユーモラスな場面だからシリアスさが際立つみたいな感じです。
 描写が見事だと思います。やくざの事務所で主人公(殺し屋)が失礼な発言をしてしまうことがあるのだけど、その瞬間、主人公の相棒(若くて美しい女性)が相手の手をとり、目を見つめながら、謝罪します。さりげない所作なのですが、相手(チンピラではない)は怒りを収めてしまいます。ほんの一瞬の場面なんですけど、実に見事な描写だと思いました。こういう場面を描ける作家は、そういないと思います。
 ありとあらゆる場面が面白いと言ってもいいのだけど、主人公がチンピラに絡まれたりする場面は面白いです。弱い振りをして、泣いて謝ったり、逃げたりするんだけど、実は強いのだということがよくわかるのです。ふつうのバトルものだと、次々と強敵が出現したりしてマンネリ化しちゃうことがあるわけですけど、弱い敵とのバトルで主人公の強さを表現するという手法には感心しました。


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