【事故の概況】
[発生日時及び場所]1982年6月24日夜 インドネシア・ジャワ島付近上空
[航空会社及び便名]ブリティッシュ・エアウェイズ(英国航空)9便(BA9便) ロンドン・ヒースロー空港(LHR)発、ボンベイ(BOM)、クアラルンプール(KUL)、パース(PER)、メルボルン(MEL)経由オークランド(AKL)行きボーイング747-236B(G-BDXH)
【事故の経過】
英国からニュージーランドへ向かう長距離フライトの第3レグ、マレーシアのクアラルンプールからオーストラリアのパースへ向かう途上に発生した。コックピットクルーはクアラルンプールで交代し、現地時間の午後8時頃にクアラルンプールを離陸、約1時間半後にインドネシアのジャカルタ付近を高度37,000フィートで通過した。
巡航中に機長が席を立った後、前方が霞んで見えたので副操縦士が着陸灯を点灯し、天候レーダーを確認したが特に異常は見られなかったのだが、操縦室の窓枠を火花のようなものが走るのを確認した。
これは雷雲の中で時折発生するものであり、副操縦士は天候レーダーでは雷雲が観測されてないが、シートベルト着用サインを点灯させて様子を見た。その後も窓枠を火花が走り続けた。
異変を察知した機長が操縦席に戻ったのちも、計器には異常を示す兆候はなかったが、航空機関士が第4エンジンの出力が低下し始めたことに気付いた。このとき、機はジャワ島を縦断してインド洋上に出ていたが、航空機関士が第4エンジンの出火を疑い、機長の指示でエンジン停止させた。
4発機にとってエンジン一発停止は緊急事態ではないが、原因が不明であることから機長はジャカルタへの着陸を検討していたところ、続いて第2エンジン、第1・3エンジンが停止し、4発すべてのエンジンが停止してしまい、ボーイング747は推力を喪失する。
ボーイング747の設計段階では、エンジン4発が同時に停止する確率は「無視できるぐらいの低確率(つまりほぼゼロ)」とされており、マニュアルには「再起動を試みること」となっていた。つまり再起動できなければ墜落しかない。
機長は緊急事態を宣言し、ジャカルタへの着陸を決断、毎分500フィートの降下率で滑空しながら、航空機関士にエンジン再起動を試みることを命じた。油圧システムに支障はなく、発電機も動いていたので計器は点灯していたのだが、機長席と副操縦席の計器が一致しなくなってきて、操縦室は混乱し始めた。
加えて、エンジン停止により客室の与圧が落ち始めたため、酸素マスクが自動降下したが副操縦席のマスクが壊れてしまった。このままでは副操縦士が失神することになり、やむなく降下率を上げたのだが、ジャカルタへの航路上にある中央山岳地帯を超える高度が保てなくなる。
エンジン全停止から12分後、高度は12,000フィートを切り、機長が不時着水を決断しようとした瞬間に、第4エンジンが復活し、その後、すべてのエンジンが復活した。山岳地帯を超える際に第2エンジンが再停止したものの、残りの3発でジャカルタまでたどり着くことができた。
しかし、着陸の際に計器に支障があり、手動着陸となったうえ、窓ガラスが曇って前方の視野がない状態に気付き、機長はわずかな隙間から前方を見て何とか着陸に成功した。
【事故の原因】
到着後に機体を確認したところ、ジャワ島中部のガルングン山噴火による火山灰が原因と判明した。噴火によって上空に噴き上げられた火山灰が風に流され、そこを飛行してきた当該機のエンジンが吸い込み、火山灰がエンジンの燃焼熱で溶けてガラス状になったことでエンジンの排気管が詰まって、不完全燃焼となり停止した。
操縦室窓枠の火花は火山灰の粒子との摩擦によって生じたもので、同じくその粒子が窓に擦れた結果、窓ガラスが曇ったかのような傷が多数出来た。また左右の計器が狂ったのも、ピトー管そのほかに火山灰が詰まった結果であることが判明した。
【再発防止策】
当時の航空機搭載レーダーは水蒸気を観測(雲を観測)するもので火山灰の観測はできず、当該機がこの事態を予測することは不可能であったとされている。対策として、航空路火山灰情報センターが各所に設置され、火山灰情報を提供し、航空便は当該空域を避けて航行するようになった。
日本周辺では1991年のフィリピン・ピナツボ火山噴火により、東南アジア路線が迂回航路を飛び、所要時間が延びた。
また2010年にはアイスランド・エイヤフィヤトラヨークトル火山が噴火し、多量の火山灰が欧州に流れ込んだことから中欧・東欧の大部分が飛行禁止になり、一週間前後の間、欠航が相次いだ。
[発生日時及び場所]1982年6月24日夜 インドネシア・ジャワ島付近上空
[航空会社及び便名]ブリティッシュ・エアウェイズ(英国航空)9便(BA9便) ロンドン・ヒースロー空港(LHR)発、ボンベイ(BOM)、クアラルンプール(KUL)、パース(PER)、メルボルン(MEL)経由オークランド(AKL)行きボーイング747-236B(G-BDXH)
【事故の経過】
英国からニュージーランドへ向かう長距離フライトの第3レグ、マレーシアのクアラルンプールからオーストラリアのパースへ向かう途上に発生した。コックピットクルーはクアラルンプールで交代し、現地時間の午後8時頃にクアラルンプールを離陸、約1時間半後にインドネシアのジャカルタ付近を高度37,000フィートで通過した。
巡航中に機長が席を立った後、前方が霞んで見えたので副操縦士が着陸灯を点灯し、天候レーダーを確認したが特に異常は見られなかったのだが、操縦室の窓枠を火花のようなものが走るのを確認した。
これは雷雲の中で時折発生するものであり、副操縦士は天候レーダーでは雷雲が観測されてないが、シートベルト着用サインを点灯させて様子を見た。その後も窓枠を火花が走り続けた。
異変を察知した機長が操縦席に戻ったのちも、計器には異常を示す兆候はなかったが、航空機関士が第4エンジンの出力が低下し始めたことに気付いた。このとき、機はジャワ島を縦断してインド洋上に出ていたが、航空機関士が第4エンジンの出火を疑い、機長の指示でエンジン停止させた。
4発機にとってエンジン一発停止は緊急事態ではないが、原因が不明であることから機長はジャカルタへの着陸を検討していたところ、続いて第2エンジン、第1・3エンジンが停止し、4発すべてのエンジンが停止してしまい、ボーイング747は推力を喪失する。
ボーイング747の設計段階では、エンジン4発が同時に停止する確率は「無視できるぐらいの低確率(つまりほぼゼロ)」とされており、マニュアルには「再起動を試みること」となっていた。つまり再起動できなければ墜落しかない。
機長は緊急事態を宣言し、ジャカルタへの着陸を決断、毎分500フィートの降下率で滑空しながら、航空機関士にエンジン再起動を試みることを命じた。油圧システムに支障はなく、発電機も動いていたので計器は点灯していたのだが、機長席と副操縦席の計器が一致しなくなってきて、操縦室は混乱し始めた。
加えて、エンジン停止により客室の与圧が落ち始めたため、酸素マスクが自動降下したが副操縦席のマスクが壊れてしまった。このままでは副操縦士が失神することになり、やむなく降下率を上げたのだが、ジャカルタへの航路上にある中央山岳地帯を超える高度が保てなくなる。
エンジン全停止から12分後、高度は12,000フィートを切り、機長が不時着水を決断しようとした瞬間に、第4エンジンが復活し、その後、すべてのエンジンが復活した。山岳地帯を超える際に第2エンジンが再停止したものの、残りの3発でジャカルタまでたどり着くことができた。
しかし、着陸の際に計器に支障があり、手動着陸となったうえ、窓ガラスが曇って前方の視野がない状態に気付き、機長はわずかな隙間から前方を見て何とか着陸に成功した。
【事故の原因】
到着後に機体を確認したところ、ジャワ島中部のガルングン山噴火による火山灰が原因と判明した。噴火によって上空に噴き上げられた火山灰が風に流され、そこを飛行してきた当該機のエンジンが吸い込み、火山灰がエンジンの燃焼熱で溶けてガラス状になったことでエンジンの排気管が詰まって、不完全燃焼となり停止した。
操縦室窓枠の火花は火山灰の粒子との摩擦によって生じたもので、同じくその粒子が窓に擦れた結果、窓ガラスが曇ったかのような傷が多数出来た。また左右の計器が狂ったのも、ピトー管そのほかに火山灰が詰まった結果であることが判明した。
【再発防止策】
当時の航空機搭載レーダーは水蒸気を観測(雲を観測)するもので火山灰の観測はできず、当該機がこの事態を予測することは不可能であったとされている。対策として、航空路火山灰情報センターが各所に設置され、火山灰情報を提供し、航空便は当該空域を避けて航行するようになった。
日本周辺では1991年のフィリピン・ピナツボ火山噴火により、東南アジア路線が迂回航路を飛び、所要時間が延びた。
また2010年にはアイスランド・エイヤフィヤトラヨークトル火山が噴火し、多量の火山灰が欧州に流れ込んだことから中欧・東欧の大部分が飛行禁止になり、一週間前後の間、欠航が相次いだ。