西彼杵半島の外海地方には、黒崎、出津にいまだカクレキリシタンの信仰を伝える集落がある。九州のカトリック布教は、周知のとおり1549年に始まるが、外海地方でのイエズス会の布教活動が本格化するのは、領主大村純忠とイエズス会の関係が密接になった1570年頃のことであるといわれる。

その後厳しい禁教の時代を経て、明治維新後にキリシタン禁令高札の撤廃(1873)があり、パリ外国宣教会が新たに長崎を拠点に、カトリック布教を開始した。
長崎周辺には、江戸時代の禁教期間にも、独自の信徒組織を擁して、キリシタンの信仰を維持した集落が存在することは、長崎外国人居留地に赴任してきたパリ外国宣教会のプチ・ジャン神父のもとで1865年に発見された。
しかし、彼らが維持してきたキリシタンの信仰は、16・17世紀の日本での布教方針が「適応政策/アコモダティオ」により、日本人の習俗に合わせたものであったこと、長年の潜伏期間に司祭の指導もなく、本来のカトリック信仰とはかけ離れたものに変化していったことなどを要因として、19世紀のカトリック信仰とは相当異なるものであるとみなされた。
そのためパリ外国宣教会は、発見されたカクレキリシタンの存在意義を、16世紀以来のキリスト教伝道の成果として華々しく宣伝しつつも、彼らをふたたび正式なカトリックの教えに導くために、再改宗の手段を模索した。
外海地方での改宗事業では、パリ外国宣教会のド・ロ神父等の社会救済・授産事業などの効果もあって、多くのカクレキリシタン信徒がカトリックの洗礼を受け、新たに入信した。
その一方で、カクレキリシタンの習俗は秘密裏に維持しながら、先祖代々檀家として世話になってきた仏教寺院との関係も断ちがたく、仏教徒として生活することを選択したカクレキリシタン信徒もいた。
さらには、カトリックにも入信せず、仏教寺院とも距離をとって生活する、本来のカクレキリシタン信徒としての生活を選んだ人々も、少数派ではあったが、存在したのである。今日、カクレキリシタンとして信仰を維持しているのは、この第三番目の人々の子孫と、仏教徒でもカクレキリシタンを先祖代々の習俗として踏襲している人々である。
カトリックへの改宗事業がはじまった1865年、カクレキリシタン信徒の間で、「野中騒動」と呼ばれる紛争が起こった。
出津の集落において、カトリックへの改宗者と反改宗者の間で対立が生じ、それまで信仰の代表者であった改宗者側の世話役宅から、信仰対象として先祖代々受け継がれてきた聖画が反改宗者等によって盗まれた事件が発端で、互いに刃傷沙汰に及んだというものであった。
この聖画はその後長崎県が委託を受けて管理したが、1945年8月の原爆投下により、現物は消失された。複製は長崎県歴史文化博物館が所蔵している。(Oka)