神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

キリスト教 賛美歌「あなたは真理を受け入れる人になるべきだ」 イエスキリストの再臨をどのように扱うか

2020-05-26 23:50:47 | キリスト教賛美歌

キリスト教 賛美歌「あなたは真理を受け入れる人になるべきだ」 イエスキリストの再臨をどのように扱うか

自分自身の道を選びなさい
真理を拒んだり聖霊を冒瀆せずに
無知にならないで、傲慢にならないで
聖霊の導きに従いなさい
イエスの再臨
真理を受け入れる全ての人にとって
大いなる救いだ
イエスの再臨は
真理を受け入れられない人を罪に定める
Oh…

真理を渇望し、求めなさい
あなたのためになる唯一の道だから
真理を聞いてもそれを鼻であしらう者は
とても愚かで無知だ
イエスの再臨は
真理を受け入れる全ての人にとって
大いなる救い
イエスの再臨は
真理を受け入れられない人を罪に定める
Oh…真理を受け入れる
Oh…真理を受け入れる

神への信仰の道を軽やかに歩みなさい
勝手に結論を下さずに
神への信仰において、いい加減にならないで
神を信じる人は敬虔で謙虚であるべきだ
真理を聞いても勝手に結論を下したり
真実を罪に定める者は傲慢だ
イエスの再臨は
真理を受け入れる全ての人にとって
大いなる救いだ
イエスの再臨は
真理を受け入れられない人を罪に定める
キリストを信じる者には
他人を呪ったり咎めたりする資格はない
あなたは理性を備え、真理を受け入れるべきだ
イエスの再臨は
真理を受け入れる全ての人にとって
大いなる救いだ
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

[東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


朗読 聖霊が諸教会に語られた御言葉「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」

2020-05-25 19:33:01 | 朗読

朗読 聖霊が諸教会に語られた御言葉「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」


全能神は言われます「イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。……しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、その到来に気づかないままである。イエスがすでに白い雲(イエスの霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降りてきて、終わりの日に彼が作る克服した者たちの一団のもとに今ではいることに人は気づかず、虚しく彼を待っているだけである。人はこのことを知らない。」

[東方閃電]全能神教会は、イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 


ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(その2)

2020-05-24 20:00:00 | 天の国の福音

ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(その2)
2019-08-07

その後、映画の主人公である()シャオイーがこのように語っている場面を観ました。「なぜ中国共産党は全能神教会を人間の組織だと言うの?なぜ受肉された神様には触れないの?『言葉は肉において現れる』のこともそうだ。中国共産党は全能神が表した真理を恐れているからさ。共産党は知ってるんだ。全能神の信者はみな『言葉は肉において現れる』を読んで全能神を受け入れたって。だから全能神教会が人の手によって創られた、人による組織だなんて言いふらすんだ。終わりの日のキリスト・全能神の出現と働きを隠して、この男性に注目を集めようとしてる。人々が神様を信じて従うのを止めさせるものだ。それが本当の目的だよ。事実を捻じ曲げ、神様が働きをなさる教会を人間の組織だと言う。そんなの神様の教会を弾圧するための言い訳さ。中国共産党はとことん狡くて邪悪だよ。」

その瞬間になってようやく、中共政府がいつも「全能神教会は人間の組織である」と主張する理由がわかりました。これは、中共が全能神教会を抑圧するための口実であり、その悪しき動機が隠されていたのです。映画の抜粋シーンを観た後、刘(リュウ)さんから3つの聖書の言葉が送られてきました、「そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。」(ヨハネの黙示録13:6)「この時代は邪悪な時代である」(ルカによる福音書11:29)「全世界は悪しき者の配下にある」(ヨハネの第一の手紙5:19)

刘(リュウ)さんはこのように話してくれました。「アダムとエバが神の御心に背いて善悪の知識の木の実を食べたため、人間は堕落してサタンの支配下で生きるようになり、サタンの邪悪な道を歩み、神に抵抗しています。全世界がサタンによって支配されてきたと言えます。ですから、この堕落した人類は、神の働きが到来してもいつも非難し、拒絶し、抵抗しています。主イエスが現れて働かれた時と同じです。この時もユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人がローマ政府と共謀して主イエスを十字架にはりつけにしました。終わりの日には、神の働きを為さって真理を伝えるために出現される全能神は宗教界からも中共からも非難と抵抗を受けられます。しかしサタンがいかに猛威を振るおうと、いかに神の働きを妨害して覆そうと、神の羊たちは皆神の御座の前に戻ります。これは神の権威によって決定されます。噂を流して神を非難し冒涜する人々は永遠に救われないのです。この点は疑いの余地がありません。神が世界を洪水で滅ぼし、ソドムを焼き尽くされた事実や、ユダヤ人がイスラエルから追放され、世界各地に離散した事実から、神の性質が聖く義にして、不可侵であることがわかります。神に抵抗する者は誰しも、神の義なる罰を受けなければなりません。一方、世界から拒絶され、非難されるほど、神の働きが為される可能性は高く、なお一層求めて吟味すべきものであることもわかります。真の道は古くから迫害を受けてきたためです。」刘(リュウ)さんの話はあまりにも反論の余地がなかったため、私は完全に納得しました。

それから刘(リュウ)さんは、『いのちの入りについての説教と交わり』の次の一節を送ってくれました、「真の道を吟味する際、特にウィキペディアに頼る人々がいます。彼らは『ウィキペディアに書かれていることは正確だ!』と言いますが、よく考えてみてください。ウィキペディアとは何でしょうか。この世のものに過ぎません。堕落した人間に書かれていないでしょうか。サタンの悪の力の一部ではありませんか。そこには真理があるでしょうか。そこに真理はありません。神に仕えるものではなく、神を畏れることは決してなく、神に証しされたグループではありません。どうしてそれを信じるのですか。嘘だらけのサイトです。嘘を広めています。サタンの政府が捏造する噂や嘘なら何でも、ウィキペディアは広めています。従って、嘘を広める組織ではありませんか。中国共産党が捏造する噂なら何でも、彼らが全能神教会の信用を傷つける手段なら何でも、ウィキペディアに掲載されます。つまり、ウィキペディアはサタンが嘘を広める道具で、サタンが人を欺く道具ではないでしょうか。それなのにどうして人々は真の道を調べるときウィキペディアを信じるのでしょう。この人々は何を血迷っているのか。この世が義であり公正であると信じているのでしょうか。政府や宗教界が『これが真の道だ』、『これが真の神だ』といった意見や主張を述べれば、この人々はその道と、その神を信じるでしょう。政府や宗教界が『これは真の道ではない』とか、『この神は本物ではない』と言えば、この人々はその道もその神も信じないでしょう。彼らは誰を信じるのかと言うと、政府を信じ、宗教界の言葉、宗教界の牧師や長老の言葉を信じています。ではこのような人は本当に神を信じているのでしょうか。彼らは神を信じていません。真理を認識しないため、神を信頼せず、神が本物であると信じず、神が真理であることを認めません。それ故に、そのような人が真の道を分析しようとすれば、サタンの嘘や噂を耳にするなり麻痺してしまうでしょう。この人は知的でしょうか。いいえ、違います。混乱しているのです。私の神への信仰には一つの原則があります。もし神であるならば、真理を伝え、人間を救うことができるはずです。それができれば私は信じます。私の神への信仰は揺らぎません。私たちが神を信じるのは真理を頂くためではないでしょうか。真理を得ることは、神を得ることです。真理を得なければ、あなたの信仰は失敗であり、何の役にも立ちません。真理を得て初めて、神を得ることができます。真理を得ずに、神を得ることはできません。」

この話の一節を読んだ後、私は何だか恥ずかしくなりました。どの言葉も自分に向けられていたように感じて、こう思いました。「そうだ、ウィキペディアはこの世のものであり、その内容も堕落した人類によって書かれている。彼らは神を知らず、真理を持たず、神によって証しされた集団ではない。彼らが広めているものはあまりにも不純物だらけじゃないか。神への信仰と真の道の吟味において、俺はこの道に真理があるかどうかを確かめるべきだ。神のみが真理であり、道であり、いのちであり、神の働きのみが真理の表現なのだから。以前の私は、全能神の御言葉が真理であることは理解していたが、未だに中国共産党の噂や、権威があるとされるサイトに支配されていて、全能神の働きを吟味しようとしなかった。本当に愚かだった。中国共産党は全能神教会についての噂をたくさん捏造してきたし、ネットのプラットフォームは見境なく無分別にそれらを公開し、あちこちに転載している。それらが人々に及ぼす害は深刻だ。幸いにも、神が兄弟姉妹を通じて私を助け、導いてくださったおかげで私は惑わされていない。そうでなければ、主の再臨を迎えるチャンスを逃していただろうな。」

私は刘(リュウ)さんに尋ねました。「どうして神はこれらの噂が存在し、ネット上に溢れ、神の信仰者を欺いて害を及ぼすのを赦しておられるのでしょう。」

刘(リュウ)さんは、私が読むために神の御言葉の一節を送ってくれました。神の御言葉にはこうあります。「大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている『脱穀場』だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの『悪い者』が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より)

刘(リュウ)さんはこのように話してくれました。「全能神の御言葉から、神が働かれる間にこれらの噂の存在を許されているのは神のご厚意と知恵によることが分かります。神の国の時代の働きは、神の人類救済のための経営計画を完了させるためのものです。神は、神を心から信じている人々の集団を神の国に招き入れ、偽の信仰者や空腹を満たすためにパンを求めるだけの人々を暴き、排除されます。主の信仰者は数多くいます。真の信仰者か偽の信仰者であるか、毒麦か麦であるかはどのように証明できるでしょうか。これらの噂は、神が人々を暴く働きを為さる道具の役割を果たしてきました。これは、神の知恵と全能性を十分に示しています。ある人が真の信仰者か否か、麦か否かは、この噂の嵐の中で暴かれるでしょう。これは脱穀場をきれいにするという神の働きであり、神の終わりの日の働きを受けた人は皆、この試験に合格しなければなりません。ここから、神の働きはまさに本物であり、非常に実際的で賢いことがわかります。終いには、サタンさえもその心と口と目が納得を示し、神の義を称えるようになります。」

神の御言葉を読み、兄弟の話に耳を傾けたところ、私は急に目が覚めて、神への感謝の気持ちがこみ上げ、自分のそれまでの歩みを思い出しました。絶望のふちに沈んでいた私を困難から救い出し、希望に満ちた米国という地に足を踏み入れるチャンスを与えてくださったのは神でした。そうして私は真のキリスト教徒になり、自由に神を崇拝しています。神の終わりの日の働きが私のもとに到来したとき、ウィキペディアの記事を盲目的に信じたためにサタンの噂の犠牲になるところでしたが、神が慈悲と恵みをかけ、兄弟姉妹を通じて思い出させてくださったおかげで、神の働きを求め、吟味して、救いのチャンスを掴むことができました。今では毎日神の御言葉を読み、神の働きを経験しています。兄弟姉妹と協力して神の国の福音を広めています。神の国の福音を広めるという本分を尽くすことができ、大変光栄に思います。神に感謝します。全能神にすべての栄光あれ。

ウィリアム、米国

 

 


ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(その1)

2020-05-23 21:08:03 | 天の国の福音

ネット上の話を鵜呑みにして、主のお迎えのチャンスを逃しかけた私(その1)
2019-08-07

今日、ネットワーク情報が発達したこの時代、多くの人々はインターネットのプラットフォームを信頼し、そこからの情報を物事の善悪を測る基準とみなしています。しかし、ウェブやプラットフォーム上の情報が本物で客観的かどうかを見分けることは滅多にありません。真の道を探究することに関して、この記事の著者はインターネット上のあらゆる報道や情報の真偽を見分けることができなかったために主をお迎えするチャンスを危うく逃しそうになりました。以下はウィリアムの体験談です。

高校を卒業後、私は生活費を稼ぐために就職しましたが、いつも壁に突き当りました。その後、友人に騙されてネズミ講にはまり、抜けられずにいました。絶望に陥りそうだったとき、寝室の隅にある聖書が目に留まったのです。聖書を読み進めることで、目に見えない創造主の存在を信じるようになりました。そこで、天地万物の創造主に静かに祈り、「どうか苦しみから救ってください。自由に神を崇拝できる、希望に満ちた場所に導いてください」とお願いしました。まさかそれから1カ月も経たないうちに、渡米する機会を得るとは思いませんでした。神が助けてくださったのだとわかり、心からとても感謝しました。

2016年10月、私は米国のニューヨーク市に来て、比較的良いと思った中国系の教会で洗礼を受けてキリスト教徒になりました。しかし、一年以上にわたって教会の集会に参加しても、宗教儀礼をいくつか学んだだけで、神と聖書に対する知識は文字通りの意味を超えることはなく、私の霊のいのちも全く成長しませんでした。それでも教会はキリスト教徒の家だと思っていたので、教会に通って集会に参加し、一度も欠席することはなかったのです。

2018年3月のある日、ある姉妹の家で終わりの日の神の働きを説いた刘(リュウ)兄弟に出会いました。何度か彼の話に耳を傾けるうちに、これまで聖書では理解できなかった多くの真理や奥義を理解しました。たとえば聖書の創造や、受肉とは何か、救われるとはどういうことか、救いとは何か、終わりの日の主の再臨への対応の仕方、真のキリストと偽キリストの違い、神の働きと人間の働きの違いなどです。それまで聞いたことのないこのような側面の真理を聞いたおかげで、実に視野が広がり、集会からはいつも多くのことを得ました。あるとき、交流中に、刘(リュウ)さんが聖書に書かれていないたくさんの言葉を読みました。私はその出所を知りたかったので、彼に尋ねると()、「これらの言葉は終わりの日のキリストである全能神の発言だ」と答えました。全能神の御名を聞くなり、私は少しそわそわし始めました。それまでに聞いたことがある批判的なプロパガンダが何度も心に浮かんだためです。その集会の間は話を聞くことにほとんど集中できず、途中で「用事がある」という口実でその場を去りました。
アパートに戻った後、私は落ち着けず何度もベッドの中で寝返りを打ちました。全能神教会の兄弟姉妹との集会の場面が心に浮かぶ一方で、牧師や長老の言葉、テレビのニュースで放送された噂も耳に鳴り響きました。ひどく狼狽し、誰が正しく、誰が間違っているのか、誰の言葉に耳を傾けるべきかわかりませんでした。その後、スマホを付けて、非常に信頼していたサイトであるウィキペディアで検索をしました。そこで全能神教会に関する人騒がせな記述を読んだ時、ねずみ講から抜け出せなかった失意の日々を思い出さずにいられませんでした。刘(リュウ)さんと連絡を取り続ければ、騙されるかもしれないと心配になりました。そこで、真理を探究するチャンスを捨て去り、全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す準備をしました。しかし彼らとの付き合いを全て思い起こしてみると、「彼らの品行、生き方、雄弁さはどれを取っても立派で、悪い印象を残したことはなかったな」と感じ、躊躇しました。その時、刘(リュウ)さんからたくさんのメッセージやいくつかの映画や動画が送られてきましたが、私はどれも見ませんでした。礼儀として、「刘(リュウ)さん、もう何も送らないでくれませんか」というメッセージを送ると、すぐに返信が来ました、「ウィリアムさん、送ることに別に意味はありません。ただじっくり吟味してから、決断してくれるように願っているだけです。神は、神の働きを受け入れることを誰にも強制されません。私は自分の尽くすべき本分を尽くしたいだけです。そうしないと良心が落ち着きませんし、兄弟姉妹のいのちに責任を持たないことになります。」彼の言葉はとても誠実でしたが、噂に騙されていた私の心はそれでも動きませんでした。以後、二度と彼のメッセージに返信することはなく、尚も全能神教会の兄弟姉妹の連絡先を全て消す気でいました。私と共に学んでいた姉妹のエラにこの決意を伝え、彼女は私の話を聞くと、「主の再臨を迎えることは大変なことだから、真剣に受け止めるべきだわ」と、自身の考えを話してくれました。また、「結論を急いだり、簡単に諦めたりしないで、主にもっとお祈りして、神のお導きを求めるのよ」としきりに勧められましたが、彼女の言葉を聞いて、途方に暮れてしまいました。

このような経緯で、私は跪いて神に祈り、このように求めました、「主よ!私は今、非常に当惑しています。東方閃電の道に耳を傾けた後、私は確かに多くの真理や奥義を理解し、彼らがいい人たちだと感じました。しかしどうして世界で最も権威あるウィキペディアに、東方閃電に対して批判的なプロパガンダが書かれているのでしょうか。全能神教会は神の教会ではなく人間の組織であると書かれています。ああ、神よ!間違った道を歩んでしまうのではないかと不安です。サタンの罠にかからないよう私を導き、お守りください。」お祈りをして大分心が落ち着きましたが、よくよく考えてからもまだ心配でした。前に通っていた教会の、仲が良い年長の姉妹に自分の考えを伝えました。私の話を聞いて、彼女はこのように話してくれました。「ウィリアムさん、どんなことになっても、神の御前では心を静めて、何度も祈りましょう。そうすれば聖霊があなたを啓いて、人や出来事や物事を通して語りかけ、導いてくださいます。」翌日、教会に行く途中で姉妹は次のような話を聞かせてくれました、「主の信仰者の1人が危機に遭った時、神に救いをお願いしました。神は救いのチャンスを三度与えられましたが、彼はその内どれも掴まず、毎回、『結構です。私は主に祈ってきました。主が私を救ってくださいます』と言いました。死に際になってようやく、これら三度のチャンスは神が彼を救わんとして与えられたものだったのだと悟りました。自分でチャンスを掴まなかったために、死んでしまったのです。」この話に私は深く心を動かされ、「そうだな。主がチャンスを与えてくださったときは、注意して、掴み取らないと」と思いました。教会に到着した後で再び主にお祈りし、「どうすべきか教えてください」と懇願しました。説教を聞いたとき、道中で姉妹から聞いたものと同じ話を牧師が不意に語りました。その瞬間、私は心底驚きました。「すごいな。一日に二人から同じ話を聞くなんて。主がこのような状況を通して俺にどうするべきか教えてくれているのか。」主に大変感謝いたします。私は東方閃電を求め、調べ続けることを決意しました。

その後、ネット上で刘(リュウ)さんと連絡を取り、自分の疑問を伝えました。「刘(リュウ)さん、あなたがこの前話してくれたことにはある程度納得します。どこも間違っていないと思います。ただ、全能神教会に対しては中国共産党政府が非難しているだけでなく、ウィキペディアまで批判的なプロパガンダを掲載しており、趙という名前の人物が設立した人間の組織であるという記述があります。この件についてはっきりと理解できないので、この側面の真理について教えて頂ければと思います。」

それを聞いた刘(リュウ)さんから「赤の家庭教育」という映画の抜粋シーンを送られ、一緒に観ました。映画の主人公であるシャオイーはこのように語りました。「なら教えてよ、キリスト教の創始者は誰?カトリックを立ち上げたのは誰だい?創始者はパウロかな?それともペテロ?ユダヤ教はどうだろう?モーセが創ったのかな?バカバカしいと思うでしょ?…キリスト教の各派が、本当に人間の手によって創られた組織だって、そう思ってるの?そんなにバカげた話はないよ。主イエスが現れなかったら、信者や従者は存在しなかった。キリスト教も生まれなかった。それが事実でしょう?使徒たちだけで教会を創るなんて無理だ。確かに人々を率いたのは使徒のペテロやヨハネだったさ。だからって、キリスト教は使徒たちが創ったことになるの?全能神教会は全能神の出現と働きで創られた。全能神が明かされた真理から、神様の声を聞いた人たちが、集まってできた教会だよ。聖霊に用いられる人が、全能神に自ら証しされ、教会の先導者となった。恵みの時代の使徒たちや、律法の時代のモーセのように、神様に用いられたんだ。神様に選ばれた人々に水を注ぎ、彼らを導くために人の本分を尽くす。…全能神が現れなければ、全能神教会は誕生しなかったはずだ。それは紛れもない事実だよ。…全能神の信者はその名において祈りを捧げる集会で語りあうのは全能神の御言葉だよ。…教会の信者が信じるのは全能神だ。そしてその御言葉のとおり、聖霊に用いられる人に従っている。それが事実だ。」次に、主人公の妹の()シャオルイが全能神の御言葉と神の国の時代に全能神が発布された行政命令を読みます。神の御言葉にはこうあります。「神が用いる人が行う働きは、キリストや聖霊の働きに協力するためのものである。この人は、人間の間にあって神により立てられ、神により選ばれた者全員を率いるために存在する。また、その人は、人間が協力して行う働きをするよう神に立てられている。…しかし、神が用いる人は神により整えられた人であり、ある種の素質を備え、人間性を持ち合わせているのである。そういう人は聖霊により前もって整えられ、完全にされており、聖霊によって全てが導かれ、特にその働きについては聖霊により指導され、命じられる─そしてその結果、神に選ばれし者らを導く道からは逸れることがない。なぜなら、神は確実に自らの働きに責任を持ち、神は常に自らの働きを行うからである。」

「教会の仕事や事柄に関し、神に従うことは別として、すべてのことについて聖霊に用いられている人の指示に従うべきである。ほんのわずかな違反も受け入れられない。絶対的に順守するべきであり、正誤を分析してはならない。何が正しいか、間違っているかはあなたには関係がない。あなたは全面的に服従することだけを気にかけなければならない。」

全能神の御言葉を聞き、主人公シャオイーが言ったことは正しいと思いました。神の現れと働きがなければ、私たち人間には教会を設立する術はありません。旧約の律法の時代、ユダヤの信仰者はモーセが率いていましたが、ユダヤ教がモーセによって創始されたと言える者はいません。ペテロやパウロも当時教会を指導しましたが、カトリック教やキリスト教がペテロやパウロによって創始されたと言える者はいません。今は神の国の時代です。全能神の御言葉は、聖霊に用いられる人が用意され、教会を指導すべく神によって起こされていることを明確に示しています。それはちょうど律法の時代にヤーウェが、当時のイスラエル人を導かせるためにモーセを起こしたのと同じです。全能神教会は聖霊に用いられた人によって設立されたと言う人がいれば、それは実に間違っています。

ウィリアム、米国

 

 


質問3

2020-05-22 11:30:15 | 天の国の福音

質問3.私たちは主を信じてきて、主の御名を守ってきたわ、普段から聖書を読み、主に罪を告白してきた。謙虚で、寛容で、他人を愛していて、慈善活動を行い、寄付を施し、全てを犠牲にして主のために働いて、福音を広めているわ。私たちは主の言葉を実践し、道に従ってないって言うの?信仰は持ったこともなく不信心者だったなんて、なんてことを言うの?聖書でパウロはこう言ったわ。「わたしは主イエス戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)だから私たちは、主の賞賛を得るはずじゃないの、主が来られたら天国へと引き上げて下さるわ。


解答: 多くの信者はこう思ってます。主の御名を守り、聖書を読み、祈り、集い、全てを犠牲にして努力していれば、真の信者であると、そのように主を信じれば、天国へと引き上げられると考えているのです。神を信じることは、人々が思うほど簡単でしょうか?このような信じ方で、神様の承認を得られるでしょうか?によって、罪に定められたパリサイ人たちもそのような信じ方ではなかったですか?彼らはよく祈り、懸命に働き、福音を広めるため遠く旅したこともありました。主の非難を買い、呪われてしまったのでしょうか?聖書を読む人はわかります。パリサイ人はよく聖書を読み、よく祈り、神様の働きを広め、よく耐え忍び、他人を愛した。外から見れば、信仰が深そうで、本物の信者のようでした。ですが実際は、神様を崇めず心に神様の居場所はありませんでした。信仰において、神様の言葉に真理を求め、御心を理解することにはせず、神様の言葉を実践したり、従ったりすることも少なく、聖書と神学の理論を普及させることに力を入れていました。宗教的な儀式ばかりに固執し、他人から崇拝されるように自分自身を立てたのです。何年もそんな信仰を続け、神様のことは知らず、従順かつ敬虔になることもありません、従って、主イエスが働きをした時、彼らは真理を求めずに、思い込みや想像だけで推し量ったのです。主イエスの説教が意味深く、主の働きがどれだけ権威と力を持っていようが、彼らは学んだりせず、徹底的に主を拒み、非難し、十字架に磔にしたので、彼らは呪われ、罰せられました。パリサイ人の信仰は、真の信仰だと言えるでしょうか?神様はパリサイ人の信仰を受け入れましたか?主イエスは認めなかっただけでなく、「偽善的な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。」(マタイによる福音書 23章)そう非難し、呪ったのです。そうではありませんか?パリサイ人たちは思い込みや想像だけで、天の曖昧な神を信じました。真理を表された、受肉された主イエスを信じることなく、真理に飽き、真理を忌み嫌い、神様を信じながら、拒んでいたのです。

 では今の宗教界はどうでしょう。多くの牧師や長老たちは主の御名を守っていて、それによって祈り、聖書を読み、主の為ならすべてを捨てて努力します。しかし全能神が裁きのために真理を表す時、思い込みや想像で神の働きを定義づけ、聖書の御言葉や働きの範疇を超えるものは異端だと考えています。彼らは全能神の御言葉は真理だと知っているのに、探し求めようともせず、全能神の噂や嘘を広め、中傷し、非難し、冒涜しているのです。信者が真の道を探すことを制限するどころか、証をしようとする人たちを逮捕させています。どうですか?こんな長老たちは、主イエスを拒んだパリサイ人たちとどう違うんでしょうか?どちらも真の道を知りつつ、拒んだのでしょうか?どちらも真理を忌み嫌う、神の敵ではないでしょうか?ということは、主を信じてその御名を守り、努力し、信仰深く見せようとしても、主の言葉を実践し主の道に従っているわけではなく、主に仕える真の信者ではないということです。信仰深そうでも、心の中で主を崇めて、従順であるとは限らないですし、真理を理解し、主を知っているわけでもありません。主を信じているのに真理を求めず、神様の言葉を体験しないのであるなら、何年も、主を信じていようが、どれだけ主の為に努力していようが、主の賞賛は得られません。これは特に宗教指導者たちです。主のために努力しますが、未だに全能神を徹底的に非難しています。これだけで、彼らが邪悪な人々だという証拠になります、彼らは終わりの日の働きで、反キリストと暴かれたのです。彼らは呪いと懲罰を受けるでしょう。主イエスが言った通り、「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:22-23)終わりの日の全能神の御言葉も明確です。全能神は言われる。「わたしは、あなたの大いなる努力がどれほど賞讃に値するか、あなたの資格がどれほど素晴らしいか、どれほど忠実にわたしに従っているか、どれほど名高く、あなたの姿勢がどれほど改善されたかは問わない。あなたがわたしの要求した物事を行わない限り、あなたは決してわたしの賞讃を得ることができないであろう。そうしたすべての考えや打算は出来るだけ早く捨て、わたしの要求を真剣に扱い始めるように。さもなければ、わたしはあらゆる者を灰にしてわたしの業を終えるか、せいぜいわたしの長年にわたる業と苦難を無に帰するであろう。なぜなら、わたしの敵と、邪悪の臭気を持ちサタンに倣う者をわたしの国すなわち次の段階に入らせることは出来ないからである。」(『言葉は肉において現れる』の「過ちは人間を地獄へ導く」より)神様の言葉は、不変の真理です。信者たちが神の賞賛を得られるかは、どれだけ働いたか、どれだけ苦しんだかに左右されません、御言葉を実践するか神様に従うか次第です。だがパウロは、「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。……」といた。(テモテヘの第二の手紙 4:7-8)これはパウロの考えや想像で、神様の言葉や真理とは一致してません、神とは反対です。

 真の信仰を持つのはどういうことか、どうすれば神様の承認を得られるのか?この質問は本質的なものです。神様への信仰が救いをもたらし、神様の国に入れるかに関係しています。これまでは、主のために働くことを重視しました、そうすれば、再臨された時に、主の国に入れると思っていたからです。しかし今は間違った信仰の道だと、皆さんはご存知です。神様への真の信仰が何であるか、また神様の承認を得るのにどのようにすべきか、宗教界には誰も知りません。終わりの日のキリスト、全能神は、信仰の真理を明らかにし、「真の信仰とは何か?」についてはっきりと話されています。全能神は言われる。「神を信じている人はたくさんいるが、神への信仰とは何を意味するか、神の心に従うためには何をしなければならないかを理解している人はほとんどいない。人々は『神』という言葉や『神の働き』のような語句はよく知っているが、神を知らないし、ましてや神の働きなど知らないからである。それなら、神を知らないすべての人々がでたらめな信仰に取りつかれているのは無理もない。人々は神への信仰を真剣には受け止めない。なぜなら神を信じることは彼らにとってあまりにもなじみのないものであり、あまりにも不慣れなことだからである。これでは、彼らが神の求めに応えることなどできない。言い換えれば、人々が神を知らなければ、神の働きを知らなければ、神に使われるには適さないし、ましてや神の望みに応じることなどできない。『神への信仰』とは神の存在を信じることを意味し、これは神に対する信仰の最も単純な考えである。さらに、神の存在を信じることは、真に神を信じることと同じではない。むしろそれは強い宗教的含みを持つ単純な信仰である。神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。しかし、人々はしばしば神に対する信仰を、何か単純で取るに足らないものだと考える。このような形で神を信じる人は、神を信じることの意義を失っており、最後の最後まで信じ続けるかもしれないが、神の承認を得ることは決してない。なぜなら、彼らは間違った道を歩んでいるからである。今日でも、文字上でだけ、空しい教義上でだけ神を信じている人々がいる。彼らは自分たちの信仰には本質がないことや、自分たちが神の承認を得られないことに気が付かず、依然として平安と神からの十分な恩恵を願って祈っている。わたしたちは立ち止まって次のように自問するべきである。神を信じることは本当に地上で最も容易なことなのだろうか。神を信じることは神から十分な恩恵を得ることでしかないのだろうか。神を信じているが神を知らない人々、神を信じているが神に反抗している人々は本当に神の望みを満たすことができるのだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

 「あなたは神を信じることとは、苦難を受けること、または神のために多くの事を行うこと、あるいは自分の肉の平穏のため、自分にとって全てのことがうまくいき、全てが快適であることのためだと思うかも知れない── しかし、神を信じるためには、こうした目的はいずれも人間が持っていてはならないものである。あなたがそのように信じているのであれば、それは誤った見方であり、あなたは決して完全にされることはない。神の行い、神の義なる性質、神の知恵、神の言葉、そして神の驚異とはかり知れない性質は、全て人々が理解すべきことである。そうした理解により、個人的な要望、及び自分個人の希望、心中の観念を取り除きなさい。これらのことを排除してはじめて、あなたは神の要求する条件を満たすことができる。このことを通してのみ、あなたはいのちを得、神を満足させることができるのである。神を信じることとは、この値なき人々の群れを通して神の行いと栄光が表出されるために、神を満足させ、神が求める性質を実際に生き抜くためのものである。これが、神を信じるための正しい観点であり、あなたが追求すべき目標でもある。あなたは、神を信じるための正しい観点を持ち、神の言葉を得ることを求めなければならない。あなたは、神の言葉を食べ飲みし、真理を実際に生き抜き、とりわけ神の実際の行い、遍く全宇宙において為される神の素晴らしい業、また、神が肉の内に為す実際の業を見る必要がある。実際の体験を通して、人々は神がどのように自分の業を彼らの上に行うのか、また、彼らに対する神の意志は何であるかを理解することができる。これらの全てはあなたの堕落したサタンによる性質を排除するためである。あなたの中にある汚れと不義を払拭し、誤った意図を取り除けば、あなたは神への真の信仰を育むことができる。真の信仰を持つことによってのみ、あなたは神を真に愛することができる。あなたは、神への信仰を基礎としてのみ、ほんとうに神を愛することができる。神を信じずに神を愛することができるだろうか。あなたは神を信じているのだから、それについては考えが混乱することはないはずである。ある人々は、神への信仰が自分に祝福をもたらすことを見るとすぐに活力に満ちる。しかし、精錬で苦しまなければならないと知るとすぐに全ての精力を失う。これが神を信じることだろうか。結局、神への信仰とは神の前での完全無欠の服従である。あなたは神を信じているが、まだ神に要求している。また、捨てきれない多くの宗教的観念がある。諦めきれない個人的な利益がある。そして、依然として肉の祝福を求め、神があなたの肉を助け出し、あなたの魂を救うことをねがう── これらは全て誤った観点を持つ人々が表すことである。宗教的信念を持つ人々は、神を信仰してはいるものの、性質を変えることや、神に関する認識を追い求めず、自分の肉の利益のみを追求している。あなたがたのうち多くの者は、宗教的信念の域に属する信仰を持っている。それは神への真の信仰ではない。神を信じるためには、人々は、神のために苦しむ心と、自分自身を捧げる意志を持っていなければならない。この二つの条件を満たさない限り、それは神への信仰とはみなされず、彼らは性質における変化を達成することはできないであろう。心から真理を求め、神に関する認識を求め、いのちを追い求める人々だけが、神を真に信仰している者である。」(『言葉は肉において現れる』の「完全にされる者は精錬されることを体験しなければならない」より)

 全能神は信仰の奥義と真理を明かしました。大勢が信じますが、真の信仰が何であるかだけでなく、神様もその働きも、知らないのです。このような信仰は、賞賛を得ることのない、混乱した信仰です。全能神は信仰の真意を明確にされています。「神への真の信仰とは、神はすべてのことに支配権を持つという信念に基づいて神の言葉と働きを経験することを意味する。堕落した性質から解放され、神の望みに応じ、神を知ることができる。そのような道程を経てのみ、神を信じていると言える。」本物の信仰について明確に話してます。神を信じる人は、実際に御言葉を信じます。それは御言葉を実践し、御働きを体験することです。これが真理を理解し、神様を本当に知る方法です。これぞ神様への本物の信仰なのです。宗教界では、どう主のために働き苦しむかしか話しません、御言葉をどう実践するかは話さないのです。ですから、長く信じても真理を理解できず、神様を知ることもできません。そんな風に信じていて、どうして認めてもらえるでしょう。主イエスは言われた。「その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。」(マタイによる福音書 7:22)次に何と仰いましたか?「そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」(マタイによる福音書 7:23)自分の意思に従い、神様のために犠牲を払い、働いても、御言葉を体験しようとせず、このような信仰は神様の賞賛を得るどころか、神様によって非難されています。宗教界の信者の頃を振り返ると、御言葉を実践することも、体験することもせず、罪を犯して悔い改め主に赦しを請う、それだけでした。問題が起これば主に祈り、助けを求めました、聖書の御言葉をいくつか覚えて守り、規則に従ってさえいれば、主を信じている。ただ熱心に犠牲を払い、主のために働けば、主を強く信じていると思った。自分は主を愛し、主に忠実でいる、主が再臨された時には、間違いなく天国に行けると思った。これは、私が全能神を受け入れ、その御言葉を読むまで続きました。「神に付き従う者の多くは、ただ、どうして祝福を受けるかや、どうして災いを避けるかということだけに気をもんでいる。……そうした人々は、神に付き従うことにおいて、ただ一つの目的しかもっていない。その目的とは祝福を受けることである。このような人は、その目的に直接関係しない他の一切のことにわざわざ注意を払うことができない。彼らにとって、神を信じるということは、祝福を受けることが最も正当な目的であって、それが信仰の価値にほかならない。その目的を果たすことができないことには、全く心を動かされない。今日神を信じている人々のほとんどは、そういう状態である。その人たちの目的や動機は、もっともらしく見える。神を信じると同時に、神のために費やし、神に身を捧げ、本分も果たすからである。青春を犠牲にし、家族や職を捨て、故郷から遠く離れて何年も懸命に働くことさえある。……このことの中に、これまで認識されていなかった問題を発見する。それは、人間の神との関係は単にむき出しの利己心によるものだということである。これは恵みの与え手と受け手との関係である。簡単に言うと、雇われ人と雇い主の関係のようなものである。雇われ人は雇い主から報酬をもらうためにだけ働く。こうした関係に愛情はない。ただの取引があるだけである。愛し愛される関係はなく、施しとあわれみとがあるだけである。理解はなく、抑圧された憤りと欺きだけがある。親しみはなく、越えられない溝があるだけである。物事がこういう状態に至ったとき、誰がこの傾向を元に戻せるだろうか。この関係がいかに絶望的なものになっているかを、どれほどの人がほんとうに理解できるだろうか。祝福を受ける喜びの中に浸っているとき、神とのそうした関係が、ばつの悪い、見苦しいものであるとは誰も想像できないはずである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の経営の中でのみ人は救われる」より)全能神は問題の核心に入り、人の本性を明らかにします、神との取引を求むのです。私は信仰の動機があまりにも不純だと気づきました、祝福や恵みや報酬、天国に行くことを求めていたのです。祝福さえあれば、どんな苦しみでも耐え、どんな代償をも払うつもりでした。しかし御言葉を実践せず、神様を知ろうとしなかった、結果として、私の人生は真理と関わりのないものになった、何年も信じてきたのに、主の認識はこれっぽっちもありません。私は、自分の信仰は主の賞賛を得ることができ、再臨の時には、天国へ引き上げられると思っていました。私は本当に恥知らずでした。神様は人類の贖いと、救いのために2度受肉されました、真理をもたらすためにされたのです。彼らが神様の言葉を彼らの命として受け入れ、罪の束縛から解放され、従順になるようにされたのです。御心を理解しておらず、真理だけでなく、神の認識も求めなかった、私は恵みと報酬だけを、求めていました。何かを犠牲にしたとしても、それは天国での祝福と引き換えでしかありませんでした。神をどう信じていたのでしょう?どう神様を愛し忠実だったのか?神様と取引をしようとしました。神様を利用し、騙そうとした。全能神の御言葉による裁きで、自分がどれほど、堕落させられていたかわかりました。利己的で狡猾で、人間らしさもない、卑劣な悪人で自己中心的でした。御前にふさわしくありません。神様は創造主で、私は創造物です。私が神様を信じ、すべてを犠牲にする、それが本分です、それが創造物としての責任です。理性も良心もありませんでした、何かを犠牲にしたり苦しんだのは、神様との取引のためでした。私は祝福が欲しかったのです。神様を騙したこの私の信仰、神様から憎まれるはずです。私のような、悪魔的なものは天国へいざなわれるわけがない。私は、御前に跪き、悔い改めました、神様がどのようにされ、最終的にどうなろうと、神様の計画に従います。仕えるだけでも、真理を追い求め、本分を全うします。全能神の裁きや刑罰や試練を、体験することで、信仰の考えは変わりました。真理を追い求め、実践し始める、徐々に正しい道を歩み始めました。これが全能神の裁きを体験した結果です。全能神に感謝をします。

 全能神の裁きと刑罰を体験した後、私はやっと、どれだけ堕落させられていたかに気づきました。私はあまりにも、傲慢でした。見た目は福音を広め、苦しみを耐え、聖書について語り、内容を覚えているようでした。神様を知っていると思って、私は傲慢に、振る舞っていました、実際は神様に祈ったり、真理を求めてなかったのです。私はひたすら、思う通りにやりました。主の再臨については特にそうでした。自分の考えや想像で、神を聖書に限定したのです。御言葉や働きは聖書の中にあり、外にあるとは、思っていませんでした。主を信じる人は、聖書を守ろうと頑なに信じていて、守らなければ信じられないと、その結果、全能神の働きに触れても、調べたりはしませんでした。しかも長老たちに従い否定しました、神の御前にありながら、傲慢で理性を失っていました。私の行動は、信仰だったでしょうか?ただの悪でした、主イエスを拒んだパリサイ人たちと私は、どう違うのでしょうか?

 全能神の御言葉を目にしたのです。「あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。」(『言葉は肉において現れる』の「真心で神に従う者は確かに神のものとされる」より)「聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。……このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)全能神の言葉が、心に刺さりました、その裁きは、私の本性と本質を暴いたのです。私は神の怒りと、神の義なる、威厳のある性質を感じました。恐れで震え、悪事を恥じ、跪きました。主を信じてきたのに、こんなにも傲慢で、自惚れていたのか?なぜ神様への畏敬がなかったのか?神様の働きと自分の考えが合わないとそれを裁き、否定しました、真理を求めることは一切しなかったのです。信じてはいても、神様を拒む傲慢な人間でした。この態度は神様の性質を侵しました、神の慈悲と救いがなければ、とっくに地獄に送られていた。神様の声を聞き、神様の裁きを受け入れる機会はなかったでしょう。私は本当に、神様によって救われたんだと感じました。この時、私はこれまでにないくらい、自分を呪いました、私は決めました。神様がどのように裁き、罰し、試そうとも、神様に従おうと。御言葉を読み続け、神様の裁きと刑罰を体験することで、真理が理解できるようになりました。神様を裏切る、自分の本性も、理解を深めていて、神様の聖なる性質と、義なる不可侵な性質について、少しは判っています。無意識のうちに、神様への畏敬の念が生まれていました、以前より腰が低くなり、傲慢で自惚れることも減りました。壁に当たれば、意識的に自分を否定し、真理を求められるようになりました、自分の性質は少しずつ変わっていきました、これが御言葉による裁きと刑罰を体験した結果です!今では、信仰とは何か、理解できるようになりました、信仰の本当の価値と意味を理解しています。恵みの時代の信者も、果たせなかったことですね。恵みの時代信者の大半が、パウロを模範にしました、御名を否定するより、牢獄を望むほどでした。このような信仰は、私たちを変えることができるでしょうか?神様に従い愛することは、どうでしょう?最終的にこんな信仰で、サタンを打ち負かせますか?神様は満たされますか?神様は真理を表し、実践を求めますが、なぜでしょうか?人の命の性質を変え、サタンの影響から救うためです。そして人は神を知るのです、まさに神様への信仰が成せることです。でも信者の大半は、犠牲さえ払えば、主の再臨の時、天国へと引き上げられると思っています。神様は人に働きかけます。人は神様の働きを広め、その過程で苦しみ、そしてこう言います。「わたしたちは立派に戦いぬき、走りつくしました。私には義の冠が待つばかりです」と、これは神様が求めていることでしょうか?これは御心でしょうか?こんなふうに理解してるなら、神様を誤解していませんか?

 真の信仰とは何か、皆さんも理解できましたか?終わりの日の裁きを経験していなくても大丈夫ですか?御言葉の裁きと刑罰を体験しなくても、神様を知ることはできますか?神様を信じていても、御言葉を実践せずに、御心を理解し、神様に従い、礼拝することは?ということで、私たちが神様を知り、自分の性質を変えたいのなら、全能神の働きを受けることが極めて重要です。全能神は言われた。「人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知らず、神を満足させることができるようになる生き方をしていなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか。……神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神──全能神の名の下に分類されるだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

『神への信仰』の映画台本から