神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

人との繋がりを主の意図に沿ったものにする方法—4つのヒント

2020-04-15 11:05:50 | 天の国の福音

人との繋がりを主の意図に沿ったものにする方法—4つのヒント


対人関係の問題は多くの人々にとって頭痛の種となります。そして対人関係は、クリスチャンが人生を通じてしばしば直面する問題でもあります。主イエスは、私たちが互いに調和し、自分と同じように他の人を愛することを求めておられます。そして多くのクリスチャンが、その主の教えを実践しようとします。けれども現実的には、私たちの人間関係には多くのぶつかり合いや誤解が生まれ、互いの関係がぎこちなくなり、崩れてしまいます。これは誰にとっても辛いことです。では、互いに調和できない原因は何でしょうか。主の意図に沿った人間関係を、私たちクリスチャンはどう築けば良いでしょうか。これは私自身もこれまで困難を覚えてきた問題です。私を神様が導いて下さったことに感謝します。その後、私はある本の中に解決を見出すことができました。その経験と私が理解したことをここでご紹介します。
1.誰に対しても公平・公正でなくてはならない。感情や好みで対応してはならない。

イエスは言われました:「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイによる福音書 5:46-48)この主の言葉から、クリスチャンは人生において、神様の言葉に沿った接し方をするよう求めておられます。自らの感情により、好んでそうしなければなりません。 私たちがどう周囲の人たちと接するかを考えてみると、自分たちに利益になったり助けになったりする場合は、相手に対して嬉しかったり感謝したりします。ところが、相手に傷つけられた場合、不愉快になってその後無視したりします。自分が好む相手であれば、その人に近づき、誘い込んだりします。好まない相手であれば、無視して近づきません。相手が高い地位にある人であれば、こびへつらい、ご機嫌を取ろうとします。地位も権力もない相手であれば、拒んで軽んじます。自分が好感を抱いている相手が自分の欠点を指摘した場合は受け入れることができます。けれども、そうでない相手が同様のことをしたならば、受け入れることができず、自分を義とし、言われたことに憤慨さえして相手に敵対し、攻撃したりします。これらはどれも、自分の感情や好みで接しており、公平に接していないことの例です。これはまた、未信者の接し方でもあります。クリスチャンがこのように接したならば、未信者と同じ道を歩んでいるのであり、主を信じる者と言われる価値はなく、そのような者は神様の意図に沿った行動ではありません。主を信じる者として、私たちは主の教えを実践しなくてはなりません。自分を愛するように、他の人たちも愛さなくてはなりません。優れた人間性を持ち合わせていれば、神様を純粋に信じ、真理を愛し、自分の好みに合うかどうか、気性、性格に合うかどうか、普通の兄弟姉妹か教会のリーダーであるかどうかに関係なく、心から、分け隔てなく接するべきです。相手に寛容と愛を示すべきです。欺いたり差別したりしてはなりません。このようなことを守って初めて、神様の意図と一致するのです。

2.相手の欠点を正しく指摘し、腐敗した部分を明らかにする。気まぐれに決めつけたり裁いたりしてはならない。

イエスは次のように言われました:「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイによる福音書 7:1-2)このイエスの教えにより、私たちはみなサタンに堕落させられた者だと理解することが出来ました。私たちの堕落した性質はみな同じなのです。周りの人々が傲慢さやうぬぼれ、利己主義や卑しむべきサタンの性質を現わしたならば、私たちも同様の性質を現わしかねないということです。私たちも周りの人たちと同じような欠点を持っているのです。周りの人たちより優れている訳ではないのです。もし欠点や腐敗によって相手を裁いたり決めつけたりするならば、私たちは真に傲慢で自分を知らなすぎるということなのです。ですから、周りの人たちがどのように堕落しているか、どのような罪を現わすかにかかわらず、私たちは正しい接し方をし、勝手に裁いたりその人をどのような人か決めつけたりしてはいけないのです。イエスが罪人に対してどのように接したか、聖書に書かれていることを思い出してみてください。「パリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、『先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか』。…イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』。」(ヨハネによる福音書 8:3-11参照)この句から、サタンによって堕落させられ、罪に生きる人々の痛みと無力さを、イエスが理解していたことが分かります。イエスは人間の弱さに哀れみを感じられたのです。私たちの堕落が露わになったり、罪を犯したりした時に心から悔い改めるなら、神様は悔い改めて私たちが変わる時間を下さいます。我達もイエスに倣い、他の人の欠点や堕落した部分を正しく示さなければなりません。進歩という観点から、他の人たちを見なければなりません。これは、クリスチャンがその人生の中で、他の人たちに接する際の原則でもあります。もし私たちが他の人に厳しい姿勢を取り、あれこれと細かいことにこだわり、勝手に裁いたりするのであれば、そして、相手がどのような人間かを決めつけて、欠点を見てどうしようもない人間だと結論付けるのであれば、それは傲慢とうぬぼれによる腐敗した性質によって接していることになります。あなたがそのような事をするのであれば、神様の意図に沿ってはおらず、周りの人たちと正常な関係を持つことはまず出来ません。

私の経験をいくつか紹介したいと思います。私たちの教会には、ご主人が未信者であるために集会に間に合うように来ることができない姉妹がいました。私はこの姉妹と何度も話しをしましたが、彼女は否定的な生き方をして信仰は弱いままでした。私はそのことに酷い怒りを感じ、彼女のことを、心から神様を信じることが出来ない人と決めつけました。もう彼女のことを助けることもサポートすることもしなくないと思いました。その後、聖書の中の次の言葉を読みました。「食べる者は食べない者を軽んじてはならず、食べない者も食べる者をさばいてはならない。神は彼を受けいれて下さったのであるから。他人の僕をさばくあなたは、いったい、何者であるか。彼が立つのも倒れるのも、その主人によるのである。しかし、彼は立つようになる。主は彼を立たせることができるからである。」(ローマ人への手紙 14:3-4)私はとても恥ずかしくなりました。私は自分が打ちのめされ、否定的で霊的に弱っていた時のことを考えました。神様は兄弟姉妹の気持ちに触れて、彼らが何度も私のところへ来て神様の言葉を読むようにされました。彼らは私と交わり、自分たちの経験を分かち合い、そうすることで私を助け、支えようとしました。神様の言葉による導きがなければ、私は揺るぎなく立っていることはできなかったのです。私自身に自慢できるものなどなかったのです。そしてこの姉妹はその時、ご主人の妨害により、集会に来ることが出来ませんでした。その姉妹を、愛の心をもって私は助けなければならなかったにも関わらず、彼女の生活に配慮してあげることができませんでした。私は彼女を避け、純粋に神様を愛してはいないと決めつけたのです。自分自身を考えた時、私は自分が非常に傲慢だと感じました。この姉妹のことに、愛と寛容を持って対応していませんでした。私のしたことで神様の意図に沿ったものは何一つありませんでした。それに気づいた私は、神様の前に罪を悔い改めて言いました。「私は喜んでこの姉妹を助け、支えようと思います。その後私は、愛の心で神様の言葉をこの姉妹に伝え、自分の経験と理解したことを伝えました。何度か彼女と交わりを持つうちに、彼女はご主人からの束縛から解放され、徐々にその状態は改善されていきました。この経験から、兄弟姉妹がどのような欠点や弱さを持っていても、そしてどのような堕落を示しても、心から神様を信じ、過ちを犯した時に悔い改めるなら、神様は変わる機会を与えて下さることを学びました。ですから、私たちも愛をもって他の人々を助け、赦し、神様の要求に沿って一人ひとりに接しなければならないのです。決して気まぐれに人を決めつけたり裁いたりしてはいけないのです。これが、公平に、そして神様の意図に沿って人に接するということです。

3.他の人たちを過大評価しても、過小評価してもいけない。他の人たちの長所から学び、それによって自分の弱さを改善しなさい。

聖書は次のように言っています。「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。」(ピリピ人への手紙 2:3)神様は一人ひとりに違う力量、能力と長所を与えられました。それ故、他の兄弟姉妹に謙虚な心で接し、相手の長所も短所も、正しく見なければなりません。他の人を過大評価しても、過小評価してもいけません。他の人の長所を吸収し、自分の短所を補うべきです。もしも、自分の力や力量、能力が理由で他の人たちを見下し、どこまでも自分を過大評価し、その結果自己顕示したり、自慢したり、他人を裁いたり、軽んじて傷つけたりするならば、それは私たちの傲慢とうぬぼれで堕落した本性に支配されているということです。クリスチャンがそのように生きるべきではありません。例えば以前私は、一緒に働いている姉妹よりも自分の方が優れているといつも思っていました。そのために彼女を見下していました。私たちが一緒に働く時は、意識的であれ無意識であれ、私は自己顕示し、私の心はプライドに満ちていました。私の堕落した性質故に、神様が私を嫌うようになり、私から顔を隠すようになってしまったのです。私の魂は暗くなり、落ち込みました。私は働きの中で、自分では見つけることのできない明らかに問題といえることが多く発生するようになる一方で、その姉妹の働きは徐々に向上していきました。私はイエス様の次の言葉を思いました。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイによる福音書 23:12)この時私は、自分がそれほど傲慢であるかを知りました。私は自分が分かっていませんでした。私の働きがある程度の結果を生み出していたことも、私が問題を見つけることが出来たことも、聖霊の働きだったというのが事実です。それでも私は、神様の栄誉を自分のものとし、非常に自己満足し、自分に感心していました。兄弟姉妹を見下していました。私にはまったく分別がなかったというのが実際のところです。同時に、私は心の中の執着を捨てる必要があることを分かっていました。姉妹の長所から得るものを吸収し、自分の短所を補うようにすべきでした。それができて初めて、神様は喜ばれ、私のいのちも成長を続けるのです。私はそれを実践し始めました。理解できない問題がある時は、その姉妹に助言を求めました。私が問題に直面したならば、彼女と話し合いました。そうする中で、私は彼女が、私にはない多くの長所があることに気づきました。私はとても恥じ入りました。そしてまた、私の短所を補うように、神様がこの姉妹と共に働くようにされたのだと分かりました。私たちに神様が託された働きを、協力して行うことを神様は望まれているのです。徐々に、私と姉妹の関係は改善され、私は再び聖霊の働きを受けることができました。

4.自分の考えに合致しない考えを他の人たちが持っていると気づいた時には、その人のことを見てばかりいてはならない。むしろ自分を意識して真理を実践しなければならない。

イエスは言われました。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイによる福音書 7:3-5)私たちが他の人達と接する時、摩擦や偏見は避けられません。そのような時、相手が間違えているとむやみに考えて、いつも相手が間違えていると決めつけてはいけません。むしろ神様の前に出て、神様の言葉の中に真理を求め、自分の問題はどこにあるのかを見つけることができるようにすべきです。神様の意図が理解でき、自らの堕落した性質を理解できたならば、相手の立場に立って物事を見ることができるようになります。私たちは他の人たちを理解できるようになり、共感できるようになり、忍耐深くなります。そうするとき、自然に相手に対する偏見が激減するのです。

この点に関して、私は意味深い経験をしました。一緒に働いたある姉妹が、教会の働きに対して、私が重荷を負っていないと何度も指摘したことを覚えています。けれども、私はそれを神様からのものと受け取ることができなかったばかりか、この姉妹が故意に私のあら探しをして私を生きづらくさせていると疑いました。私の中に彼女に対する偏見が膨らんでいき、もうこの姉妹と働きをしたくないと思うようになりました。私は神様の言葉を読み、神様の意図を探りました。そして、私は自分の傲慢でうぬぼれたサタンの性質に支配されており、この姉妹の助言を受け入れることができなくなっていたことを知りました。そして彼女に対して疑い深くさえなっていました。それが原因で、彼女との正常な関係が持てなくなっていたのです。同時に、日々私が出会う人々や出来事、物事はすべて神様によって指示され、定められていることを知りました。神様が、これらのことを事細かに用意され、それによって私を変え、救おうとされたのであって、その姉妹が意図的に私にたいして面倒を起こそうとしていたのではなかったのです。私は神様に従い、自分の心の中の執着を捨て、彼女の正しい助言を受け入れることを学ぶ必要がありました。その後、私は神様の前に出て、自分を省みました。姉妹の助言を通して、確かに自分が教会の働きの重荷を担っていないことに気づきました。私はリーダーが用意した働きをし、自分が更に良い働きをしようと考えたことはありませんでした。神様の意図が理解できてからは、神様の要求に従って物事を進めました。私は前向きに、そして束縛されずに自分の堕落をこの姉妹の前で明らかにし、神様に対してもっと多くの責任を与えて下さるよう願いさえしました。何かあれば、どうしたらもっと教会の益となることができるかを考えるようになりました。このように実践することで、この姉妹との間のかつての誤解は解けていきました。私たちは霊的に繋がり、かつての調和を取り戻すことができました。

実践に関する4つの原則は、私が自分の経験から学んだことです。私は、神様の言葉がクリスチャン生活の導きの光であることを真に経験しました。神様の言葉は私たちにとって羅針盤です。神様の言葉による導きがなければ、私たちは進む道はありません。私たちがすべきことは神様の教えを実践し、全ての人に対して公平であることです。そうして初めて、私たちは真の人間らしさを生きることができ、他の人達と強調することができ、他の人に益をもたらすことができ、神様に満足していただき、褒めていただくことができるのです。神様の導きに感謝します。全ての栄光は神様にあります!

 


世界は大災難に見舞われている--私たちは大患難の前に引き上げられるのか

2020-04-14 11:43:17 | 福音を証しするシリーズ

世界は大災難に見舞われている──私たちは大患難の前に引き上げられるのか

 


 今日、世界各地で大災害がますます激化しつつあります。ニュースは飢饉や地震、洪水、旱魃の記事であふれています。あなたは、主の再臨の預言は成就されたのになぜ私たちは主に迎えられていないのだろう、と心の中で考えたことはありますか?このようなことが続くなら大艱難が到来したとき、私たちも大災害に陥ることにならないでしょうか? 主は私たちを一体いつ天の御国に引き上げてくださるのでしょうか? 

携挙されるとき、私たちは実際に空中に引き上げられるのか

 主の信者の多くは聖書の次のような言葉を読んでいます。

「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(テサロニケ人への第一の手紙 4:17)

 信者は主が来られたとき空中に引き上げられ、主にお会いすることを待ち望んでいます。ところが実際は、この言葉は主イエスのお口から発せられたのでも、ヨハネの黙示録にある預言でもありません。使徒パウロの言葉にすぎないのです。主の来臨のお迎えに関して、パウロの言葉を信頼することは正しいのでしょうか? パウロの言葉は主の御言葉を表せるのでしょうか? 終わりの日の主がどう到着され、主を信じる者をどう神の国に連れて行かれるかということは、神ご自身の働きです。パウロは、主に代わってお告げを広めている使徒にすぎません。パウロはこのようなことをどうして知っていたのでしょうか? 主の到来をお迎えすることはとてつもなく重要な事柄であり、私たちにとって唯一正しいのは主イエスの御言葉を信頼することです。主イエスはこうおっしゃっています。

「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 6: 9–10)

 ヨハネの黙示録には次のような預言もあります。

「また、聖なる都、新しいエルサレムが、……神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、』」(ヨハネの黙示録 21:2-3)

「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」(ヨハネの黙示録 11:15)

 これらの預言の中にある、「天から下って来る」、「神の幕屋が人と共にあり」、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった」といった言葉は、神が地上に神の国を打ち立てるであろうことと、神が人のために用意された終着点も地上にあることを示しています。天に引き上げられたいという私たちの強い願望は、自らの観念や想像から生じているのではありませんか? そしてそれは、神から離れた道を歩くことになるのではありませんか?

       実際には、神が人々を空中に引き上げると言われたことはありません。それは神の働きの事実から確認できることです。神がはじめに土のちりで人を作ってエデンの園に置かれると、人はそこで暮らし神をしかるべき方法で崇めました。ノアの時代に神は、ノアとその家族が洪水を免れるよう彼らを空中に引き上げようともされませんでした。その代わり、地上での箱舟作りという実際的な行動をとるよう、ノアに命じられたのです。その後律法の時代に、人々は神の律法を破ったがために処刑される危険にさらされました。神は罪の贖いの供物を得るために人々を空中に引き上げるようなことはされず、神ご自身が肉となって地上に来られ、ここで人間のために自ら十字架に架けられ人間を罪から解放されました。こうしたことから、地上で人間を救うため、また人間が生活し、神を崇める中で導くために、神が絶えず働いておられることがわかります。空中に引き上げられたいという私たちの強い願望は、神の御心と明らかに食い違っているのです! 

大患難の前の携挙とは何か

 皆さんの中には、「携挙される」ということが実際にどういうことかわからない、という人もいるでしょう。このことを理解するために、まず神がどんな御言葉を発されているのか見てみましょう。神はこのように言われています。

「『引き上げられる』とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。『引き上げられる』とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「第百四章」より引用)

この御言葉は、携挙されることは、私たちが想像するように空中に引き上げられて主にお会いすることではないと述べています。むしろ、神の声を聞いたあとにその新たな働きを受け入れて従えることと、子羊の足跡にぴったり歩調を合わせること、神が地上に来られて働きを行われるときにその御前に出ることを意味するのです。これが唯一の真の携挙です。主イエスが贖いの働きをされるために来られたときと、まったく同じなのです。ペテロもサマリア人の女性、ヤコブといった者も、主の御言葉を聞いたときはその声を聞き分けて、この方が来臨される救世主であると判断しました。その結果、恵みの時代に主の救いを受け、全員が主の御前に引き上げらました。 終わりの日に主の再来をお迎えし、神の現在の働きを受け入れる者はみな、子羊の足跡を追う者であり、主の御前に引き上げられる者なのです! 

どうすれば大患難の前に携挙されるか

 では、主をお迎えして大災難の前に携挙されるためには、一体どうしたらよいのでしょう? このことは、はるか昔に聖書の中で主イエスが次のように言われたときに預言されています。

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書 16:12–13)

ヨハネの黙示録の第2、第3章には、預言が再三登場します。

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

第3章20節でもこう述べられています。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」

神の御言葉はこう告げています。

「神の足跡を探し求めている私たちは、神の心と、神の言葉、神の発する声を探り求める必要がある。神の新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところには神の現れがあり、神の現れがあるところには真理と、道と、いのちがある。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より引用)神の御言葉は、私たちが主をお迎えしたいなら、神の働きと御言葉を探求することが鍵となると語っています。今日教会に向けた聖霊の御言葉がどこにあるのか、今日神の現れと働きがどこにあるのかを探すことほど重要なことはありません。もし私たちが自分から神の足跡を探そうとせず、神の声を聞くことを重視もせず、その代わり空の雲をぼんやりと見つめて、主が来られて自分を空中に引き上げられるのを無為に待っているとしたら、そうした思いは空想になるのではないですか? そして永遠に主をお迎えできず、最終的に神に携挙されるチャンスを逸することになりはしないでしょうか? 

 では主の足跡はどこにあるのでしょう? また神はどこで御言葉を発されているのでしょう? 今日全能神教会だけが人類に対し公に、主がすでに再来されていることを証ししています。つまりそれは、終わりの日の受肉した神である、全能神なのです。全能神は何百万語もの御言葉を述べられ、多くの真理と奥義を啓示されるともに、私たちのために神の六千年の経営計画や受肉の奥義、聖書の奥義を明らかにされています。さらにまた人を裁き、本性を暴く御言葉を述べられ、サタンの手による私たちの堕落と私たちのさまざまなサタン的な本性について真実を明らかにされています。私たちは神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れることにより、自らの堕落に気づくと同時に、自分の示す一切のものが傲慢、わがまま、下劣さ、不誠実さ、ずる賢さといったサタン的な性質で、良心と理知が欠けていることを自覚するようになります。私たちは神の御言葉を完全に確信し、後悔にうちのめされて神の御前にひれ伏し、神の義で聖なる性質についていくらか認識を得ます。すると私たちの中で神への畏敬と服従の念が生じ、全能神によって表される全てが真理で、人々を清め変えることができることを心の内側から確信するのです。

 今日、全能神の御言葉は人類の間で広がっています。キリスト教のさまざまな宗派に属していても、真の信者で真理を心から愛する多くの人は、神の声を聞いて神の御言葉により覚醒し、その御座の前に戻っています。そうした人々は神の御言葉の水と糧を浴びて、こうした御言葉にいかに権威と力があるのかを悟り、全能神は主イエスの再臨であると判断しています。彼らは大艱難の前に携挙される人々なのです!全能神の御言葉を読みましょう。

「わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の『オリーブ山』に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、『ユダヤ人の息子』ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた『赤児』である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。」(『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より引用)

 この神の御言葉を読んでどう思いますか? 胸が踊りませんか? 創造主が人類全体に対して話されていることだと思いますか? 神はすでに再来したと、神が私たちに今証言されていると思いますか? あなたがどう思おうと、私たちの前には差し迫った課題があります。思慮深い処女となり、全能神が語られた御言葉に耳を傾け、先入観をもたずに終わりの日の神の働きを探求しなければなりません。大患難の前に携挙される道は他にないのです!

ベッキー、アメリカ


ワーシップソング 「国籍と民族の観念を打ち破り神の現れを求めよ」英語MV 日本語字幕

2020-04-13 11:33:23 | 合唱

 

ワーシップソング 「国籍と民族の観念を打ち破り神の現れを求めよ」英語MV 日本語字幕
国籍がどこであろうと
あなたはそこから踏み出し
自分自身を乗り越えるべきだ
そこから踏み出すべきだ
束縛から脱して
被造物の視点から神の働きを見よ
そうすれば、あなたは
神の歩みを制限しないだろう
打ち破れ、打ち破れ
国籍と民族の観念を
そして神の現れを求めよ
打ち破れ、そうすれば
あなたは自分の考えに束縛されず
神の現れを喜んで迎えられる
さもないと、永遠に暗闇の中にとどまり
決して神に認められないだろう
神の現れを求めよ!
神の現れを求めよ!

今では、多くの人が
神が特定の国や民族に現れることなど
ありえないと思っている
神の働きの意義はなんと深遠だろう
そして神の現れはなんと重要だろう!
人の観念と思いでどうして
それを測ることができるだろう
打ち破れ、打ち破れ
国籍と民族の観念を
そして神の現れを求めよ
打ち破れ、そうすれば
あなたは自分の考えに束縛されず
神の現れを喜んで迎えられる
さもないと、永遠に暗闇の中にとどまり
決して神に認められないだろう
神の現れを求めよ!
神の現れを求めよ!

神は全人類の神であって
いかなる国にも所有されない
神はその働きを計画どおりに行い
どんな形式や国にも縛られない
おそらくあなたはこの形式を
想像したことがないだろう
あるいは、その形式へのあなたの態度は
拒絶かもしれない
あるいは、神が現れる国や民族は
差別されている国かもしれない
だが神は知恵を持っている
神は偉大な力と真理、そして性質により
神と心を一つにする人々の群れを
神が完成させる人々の群れを勝ち取った
征服され
あらゆる試練や患難に耐え
最後まで神に従うことができる者たちの群を
打ち破れ、打ち破れ
国籍と民族の観念を
そして神の現れを求めよ
打ち破れ、そうすれば
あなたは自分の考えに束縛されず
神の現れを喜んで迎えられる
さもないと、永遠に暗闇の中にとどまり
決して神に認められないだろう
神の現れを求めよ!
神の現れを求めよ!
神の現れを求めよ!
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

もっと見る

「新しい生活をほめたたえよ」英語の賛美歌 日本語字幕

ゴスペル音楽「私たちの人生は無駄ではない」神のくすしきみ恵み【A Cappella MV】


イエスによる奇跡

2020-04-12 08:40:12 | 天の国の福音

イエスによる奇跡


1)五千人に食事を与えるイエス

弟子のひとり、シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大ぜいの人では、それが何になりましょう」。イエスは「人々をすわらせなさい」と言われた。その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。そこで、イエスはパンを取り、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、「少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい」。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。(ヨハネによる福音書 6:8-13)

2)ラザロの復活が神を褒めたたえる

こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。(ヨハネによる福音書11:43-44)

主イエスが行った奇跡の中から、この2つの奇跡のみを取り上げたのは、ここでの論題を証明するには、この2つで十分だからである。この2つの奇跡は極めて驚異的であり、恵みの時代における主イエスの奇跡を代表するものである。

まず、2つのうち最初に挙げた聖句「五千人に食事を与えるイエス」を検討する。”

「五つのパンと二匹の魚」とは、どのような考えであろうか。五つのパンと二匹の魚は、通常何人前に相当するであろうか。通常の人間の食欲に基づいて計算すると、これはわずか二人前として十分な数である。これが、五つのパンと二匹の魚の最も基本的な考えである。しかし、この聖句では、五つのパンと二匹の魚が何人に与えられたと述べられているであろうか。聖句には、「その場所には草が多かった。そこにすわった男の数は五千人ほどであった。」とある。五つのパンと二匹の魚に対して、五千人は大きな数だろうか。この人数が極めて多いことには、どのような意味があるのだろうか。人間の視点から見て、五つのパンと二匹の魚を五千人で分け合うことは不可能である。なぜなら食べ物と人数の差が大きすぎるからである。各人がほんのひとくち食べたとしても、五千人に十分な量とは言えない。しかしここでは、主イエスが奇跡を行い、五千人全員が満腹になっただけでなく、更に残ったものがあったのである。聖句には「人々がじゅうぶんに食べたのち、イエスは弟子たちに言われた、『少しでもむだにならないように、パンくずのあまりを集めなさい』。そこで彼らが集めると、五つの大麦のパンを食べて残ったパンくずは、十二のかごにいっぱいになった。」とある。この奇跡により、人々は主イエスの身分と地位を理解することが可能となり、また神に不可能なことはないことを知ることができた。人々は、神の全能性は真実であるということを理解したのである。五つのパンと二匹の魚で、五千人前として十分であったが、仮に食物が全くなかったとしたら、神は五千人に食事を与えることが出来たか、というと、当然可能だったであろう。これは奇跡であったため、人々は必然的にこれが理解不能であると感じ、驚異的で、謎であると感じたが、神にとって、こうしたことを行うのは極めて容易なことであった。これは神にとって普通の事であったとしたら、この奇跡を採り上げて解釈するのは何故か、というと、この奇跡の背景には、それまで人間が知らなかった主イエスの旨があるからである。

まず、この五千人は、どのような人々であったかを考えてみよう。この五千人は主イエスに付き従うものであっただろうか。聖句によると、この者達は主イエスに付き従うものではなかったことが分かる。この者達は主イエスが誰であるかを知っていたか、というと、知らなかったことは確実である。少なくとも、この者達は目の前に立っていたのがキリストであるとは知らなかった。あるいはそのうち数名は、イエスの名前と、イエスがそれまでに行った業についてのみ、何かしらの知識があったか聞いたことがあった可能性がある。この者達は主イエスについて、それまでに聞いた話から好奇心を抱いていただけであったが、この者達が主に付き従っていた、ましてやイエスを理解していたと言えないことは確実である。主イエスがこの五千人を見た時、この者達は空腹で、お腹いっぱい食べることしか考えられなかったので、主イエスはこうした背景から、この者達の望みを満足させた。主イエスがこの人々の望みを叶えた時、主の心には何があったであろうか。空腹を満たしたいとしか考えていなかった人々に対する主の態度は、どのようなものであったであろうか。この時、主イエスの考えと態度は、神の性質と真髄に関連するものであった。空腹を満たすことだけを望む五千人がイエスの目の前にいた。この人々は、イエスに対する好奇心と希望に満ちていた。この五千人に対し、主イエスはこの奇跡でこの者達に恵みを与えることだけを考えた。しかし、イエスには、この者達が自身に付き従う者となるであろうという期待はなかった。なぜなら、この者達は単に楽しく食事を摂って空腹を満たしたいと望んでいただけであったことを知っていたからである。そこで、イエスはそこにあった五つのパンと二匹の魚を最大限に活用して五千人に食事を与えたのである。イエスは、もてなしを受け、奇跡を見たいと望んでいたこの者達の目を開き、この者達は受肉した神が実現可能な物事を、自らの目で見た。主イエスは有形物を使用してこの者達の好奇心を満たしたものの、イエスはこの者達が食事をしたいと望んでいただけであったことを心で知っていたので、イエスは言葉を述べることも、説教をすることも一切なく、単にこの者達に奇跡を起こして見せただけであった。イエスは、自身に心から付き従っていた弟子達と同様にこの者達を扱うことは、全く出来なかったが、神の心の中では、全ての被造物は自身が支配しており、また神は、自身が見る全ての被造物に対して、必要に応じて神の恵みを享受させた。この者達は、パンと魚を食べた後でさえも、イエスが誰であるかを知らず、またイエスのことを理解しておらず、イエスに関する何らかの具体的な印象も感謝の念も持っていなかったにもかかわらず、それは神が問題とされることではなかった。神はこの者達に対し、単に神の恵みを受ける素晴らしい機会を与えた。一部の人々は、神は自らの業について原則に従っているので、信者以外を見守ることはなく、また特に信者以外には神の恵みを享受させなかった、と言う。それは事実であろうか。神の目にあっては、神自身が創った被造物である限りにおいて、神はそれらの被造物を支配し、配慮する。神はその被造物に対して様々な方法で与え、計画を立て、様々な方法で支配する。これが神の万物に対する考えと態度である。

パンと魚を食べた五千人には主イエスに付き従う意図はなかったが、イエスはこの者達に対して厳格ではなかった。この者達が食べて満腹になった後、主イエスがどうしたかを、あなたがたは知っているだろうか。イエスはこの者達に説教をしたであろうか。主はこの奇跡を行った後、どこへ行ったであろうか。聖句では、主イエスがこの者達に何か言ったとは述べられていない。イエスは、奇跡を起こした後、静かにその場を去った。それでは、イエスはこの者達に何か要求したであろうか。その時、嫌悪感があったであろうか。その時、要求も嫌悪感もなかった。イエスは、ただ単に、主に付き従うことの出来ないこの者達のことを、それ以上気遣うことを望まず、この時にイエスの心には痛みがあった。神は人間の堕落を見、また人間から拒否されていると感じたので、神がこのような人間を見、共にあった時、主は人間の愚鈍さと無知のために悲しみ、心を傷め、こうした人々から出来るだけ早く立ち去ることを望んだ。主の心には、こうした人々に対する要求はなく、こうした人々を気遣うことを望まず、特にこうした人々に労力を費やすことを望まず、また主はこうした人々が神に付き従うことが出来ないことを知っていた。それにもかかわらず、こうした人々に対するイエスの態度は、極めて明瞭であった。イエスは単にこうした人々に対して親切に接し、恵みを授けることを望んだ。このように、神が支配する被造物すべてに対する神の姿勢は、親切に接し、与え、養うというものであった。主イエスは受肉した神であったため、イエスは全く自然に神の真髄を示し、こうした人々に親切であった。イエスは、憐れみと寛容さの心をもって、こうした人々を扱った。この人々が主イエスをどのように考えていたかによらず、またどのような結果となるかによらず、イエスは、あらゆる被造物を万物の創造主としての立場に基づいて扱った。イエスが示したのは、例外なく神の性質であり、神の中にある物事や神の存在であった。そうしたわけで、主イエスは静かに何かをし、静かに立ち去ったが、これは神のどの性質であろうか。これは神の慈愛であると言えるだろうか。神は無私であると言えるだろうか。これは普通の人間にも出来ることであろうか。それは明らかに不可能である。本質的には、主イエスが五つのパンと二匹の魚で食事を授けた五千人の人々は、どのような者達だろうか。この者達は神と融和できる人々であったと言えるだろうか。この者達は全員神に対して敵対していたと言えるだろうか。この者達は神と融和できる人々ではなく、この者達の本質は絶対的に神に敵対していた、と確実に言うことができる。しかし、神はこの者達をどのように扱ったであろうか。イエスは人間の神に対する敵対心を取り除く手法を用いた。その手法とは、「親切」である。つまり、主イエスはこの者達が罪深き者達であるものの、神の目からみれば、神の被造物である。ゆえにイエスはこれらの罪深き者達を親切に扱った。これは神の寛容さであり、この寛容さは神自身の身分と真髄により決定される。したがって、神が創った人間のうち、これができるものはおらず、これができるのは神のみである。

あなたがたが神の人間に対する考えと姿勢が真に理解でき、それぞれの被造物に対する神の気持ちと気遣いを真に理解できた時、あなたがたは創造主により創られた人間ひとりひとりに対する神の献身と深い愛情を理解できるであろう。それが理解できた時、神の愛を表す際に2つの言葉を用いるであろう。その2つの言葉とは、何であろうか。それは「無私」であると言う人々と、「博愛」である人々が居る。これら2つのうち、「博愛」は神の愛を表す言葉として、最も不適切である。この言葉は、人間の寛大な考えと感情を表すために人間が用いる言葉である。わたしは「博愛」という言葉に強い嫌悪を感じる。なぜなら、その言葉は、いかなる原則にもよらず、無差別に慈善を行うことを指すからである。この言葉は、愚かで混迷している人々の過度に感情的な表現である。神の愛を表す時にこの言葉が用いられる場合、必然的にそこには冒涜的な意図がある。神の愛を表すにあたり、より適切な2つの言葉があるとわたしは考えるが、その2つの言葉とは何であろうか。最初の言葉は「計り知れない」である。この言葉は示唆に富むものではなかろうか。2番目の言葉は「広大」である。わたしが神の愛を表す時に用いる、これら2つの言葉の背景には、真の意義がある。「計り知れない」を文字通り理解すると、物事の数量や可能性を指すが、その物事がどの程度の大きさであるかは問題とはならない。それは、人間が触れたり見たりすることのできる物事である。それは、その物事が存在し、抽象的なものではなく、またそれが比較的正確であり、現実的であるという感覚を与えるからである。それを平面で見るか、三次元の視点で見るかは問題ではない。その物事の存在を想像する必要はない。なぜなら、それは実在する物事だからである。「計り知れない」という言葉で神の愛を説明すると、神の愛を定量的に計測しているような感覚になるが、それと同時に神の愛は、定量的には把握不可能であるという感覚を与える。神の愛は定量的に計測可能であると言うのは、それが実体の無いものでも、伝説の中で生み出されたものでもないからである。神の愛は、むしろ神の支配下にある万物により共有されているものであり、様々な規模において、様々な側面から、全ての被造物が享受しているものである。人々は神の愛を見ることも触ることもできないが、万物の生の中で神の愛が少しずつ明らかにされるにつれ、その愛は万物が必要とする物事といのちをもたらすようになり、万物は自分達が常に享受している神の愛を数え上げてそれを証しするようになる。神の愛は定量化不能であると言うのは、神が万物に施し、万物を育む奥義は、万物に対する神の思い、特に人間に対する思い同様、人間が計り知り難いものであるからである。すなわち、創造主が人間に注いできた血と涙を知る者は居ない、ということである。創造主が自らの手で創った人間に対する愛の深さや重さを理解できる者は居ない。神の愛を「計り知れない」と説明したのは、その愛の広さと、その愛が存在するという真実を人々が理解することに資するためである。またそれは、「創造主」という言葉の実際の意味を人々がより深く理解し、「被造物」という言葉の真の意味を一層深く理解することができるようにするためである。「広大」とは、通常どのような意味であろうか。この語は、海や宇宙など、一般に広大なものについて用いられる。宇宙の広さや静かな深さは、人間の理解を超えるものであり、人間の想像力を刺激し、驚きをもたらすものである。その神秘と深遠さは、目に見えても手の届くものではない。海は果てしないもののように思われ、その神秘と包容力を感じるなど、海はその広さを連想させるものである。ここで「広大」という言葉を用いて神の愛を説明したのは、この理由による。この語を用いたのは、神の愛がいかに尊いかを理解し、神の愛の深遠な美しさと、無限の広がりを持つ神の愛の力を実感する上で役立てるためである。この語を用いたのは、人間が神の愛の神聖さ、神の愛により示される神の威厳と、侵害不可能な存在を感じ取る上で役立てるためである。あなたがたは、以上の説明で神の愛を説明する言葉として「広大」が適切であることについて納得したであろうか。神の愛は、「計り知れない」と「広大」という二つの語に相応しいことに間違いはないかと言うと、明らかに間違いない。人間の言葉のうち、神の愛に相応しいもの、神の愛の説明に比較的類似するものは、この二語だけである、と言ったら、あなたがたは頷くであろうか。あなたがたが神の愛を説明するよう求められたとしたら、この二語を用いるであろうか。あなたがたはこの二語を用いることができないであろう。なぜなら、神の愛に関するあなたがたの理解は平面的なものに限られており、立体的なものに進化していないからである。したがって、あなたがたに神の愛を説明するよう求めたとしたら、あなたがたは言葉足らずと感じ、言葉を失いさえするであろう。本日議論したこの二語は、あなたがたにとって難解であったり、わたしの意見に全く同意できないものであったりするかも知れない。そうした反応は、神の愛に対するあなたがたの理解が表層的で狭い視野での理解であることを示すものにほかならない。神は無私であると前述したが、この「無私」という表現を覚えているであろう。神の愛は無私としか説明できない、と言えるであろうか。そうした説明は、範囲が限られているのではなかろうか。あなたがたはこの問題を更に検討し、何らかを得るべきである。

以上が、最初の奇跡から理解できる神の性質と神の真髄である。この物語は人々が数千年にわたって読み続けてきたものであり、あらすじは簡明であり、人々はこの事象を容易に理解できる。しかし、この簡明なあらすじから、一層尊い物事、すなわち神の性質、神の中にある物事や神の存在を読み取ることができる。こうした神の中にある物事や神の存在は神自身を表し、神自身の思いが表出されたものである。神が自身の思いを表出する時、それは神自身の心の声の表出である。神は、神を理解可能であり、神を知って神の旨を理解する人々が居ることを願い、また神の心の声を聴き、積極的に神の旨に沿うよう協力できる人間が居ることを願っている。したがって、ここで検討した主イエスの業は、神による無言の表出であった。

次に、ラザロの復活が神を褒めたたえるという聖句について検討する。

あなたがたは、この聖句を読んで、どのような感想を持つであろうか。主イエスが行ったこの奇跡の意味は、この前に検討した奇跡よりもはるかに重大である。なぜなら、死人を墓から蘇らせること以上に驚異的な奇跡は存在しないからである。主イエスがこのような業を行ったことは、この時代において極めて意義深かった。神は受肉していたので、人々は神の物理的存在、神の実際的な側面、わずかな神の側面しか見ることができない。たとえ一部の人々が神の性格や神が持っているであろうと考えられる力を見て理解したとしても、主イエスがどこから来たか、主の真髄は何か、自分達が見る以上にイエスが行うことのできる物事が何かを知る者は誰も居なかった。そうしたことは人類にとって未知であった。こうした事柄の証拠を求め、真実を知ることを望む者が大勢居た。神は、何らかの業を行い、神の身分を証明することが出来たであろうか。それは神にとって極めて容易であった。神はいつでもどこでも、何らかの業を行い、神の身分と真髄を証明することが出来たが、神は計画通りに、段階的に業を行った。神が無分別に業を行うことはなく、神は最適な時期と機会が到来するのを待って、人間が目の当たりにするのが最も有意義な業を行った。こうした方法により、神の権威と身分が証明された。それでは、ラザロの復活は主イエスの身分を証明出来るものであっただろうか。その点について、「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた。すると、死人は…出てきた。」という聖句を検討する。主イエスがこの業を行った時に言ったのは、「ラザロよ、出てきなさい」のひと言であった。その後ラザロが墓から出て来たが、これは主のひと言で達成された事であった。この時、主イエスは祭壇を作ることも、それ以外の業を行うこともなかった。主は、そのひと言を述べただけであった。これは奇跡と呼ぶべきであろうか、それとも命令と呼ぶべきであろうか。それとも、これは何らかの魔術であったのだろうか。これは表面的には奇跡であると言うことができ、現在の観点から見ても、奇跡だと言えるであろう。しかし、無論これを、魂を死人から呼び戻す呪文とも魔術とも呼べないことは確実である。この奇跡は、創造主の権威を実証する、ごく普通の些細な証明である、というのが正しい。これは神の権威であり、能力である。神には、ある者を死なせ、その魂を身体から出してハデスその他の然るべき場所へ還らせる権威がある。ある者がいつ死ぬか、その者がどこへ向かうかを決めるのは、神である。神は、こうした事柄をいつでもどこでも行うことができる。神は人間や物事、空間、場所の制約を受けない。神は望むままに事を行うことが出来る。なぜなら、あらゆる物や生き物は神の支配下にあり、あらゆる物が神の言葉と権威により生き、死ぬからである。神は死者を復活させることができるが、これもまた、神が時間と場所を問わず、いつでも出来ることである。これが、創造主のみが持つ権威である。

ラザロを死から復活させるなど、主イエスが業を行った時、イエスは、人間やサタンに対して、人間の生死など、人間の全ては神によって決められているということ、そして神が受肉している場合であっても、目に見える物質的世界も、目に見えない霊的世界も、依然として神が支配していることを、人間とサタンに対して証明し、知らしめることを目的としていた。これは、人間の全てはサタンの支配下にはないことを、人間とサタンに対して知らしめるためである。またこれは神の権威の啓示であり、証明であり、さらに人間の生死に関する事柄は、全て神により支配されていることを全てのものに示す手段である。主イエスによるラザロの復活のような業は、創造主が人間を教え導くひとつの手段であった。これは、神が自身の力と権威を用い、人間を指導し、人間に対して施す、実際の行為であった。またこれは創造主が言葉を用いずに、創造主が万物を支配しているという真理を人間が理解できるようにするための手段であった。さらに、これは神による以外に救いは存在しないということを、実際の業により人間に対して伝える手段であった。こうした神が言葉無しで人間に教えを授ける手段は永遠に続く。こうした教えは消える事がなく、人間の心に色あせる事のない衝撃と啓示が与えられる。ラザロの復活は神を褒めたたえた。神に付き従う者すべてに、それは大きな衝撃を与えるものである。ラザロの復活により、この出来事を深く理解する人々すべての心に「人間の生死を支配できるのは神のみである」という理解と認識が定着する。神にはこの種の権威があり、また神はラザロの復活により人間の生死に関する自身の権威を示したが、これは神の主要な業ではなかった。神は無意味に業を行わない。神が行う業には、その全てに貴重な価値があり、その全てが不朽の宝である。神は、ある者を墓から復活させることを主要ないし唯一の目的や事項として業を行うことはない。神は、無意味なことは一切行わない。ラザロの復活は神の権威を証明するに十分である。またそれは主イエスの身分を証明するに十分である。主イエスがこの種の奇跡を繰り返されることがなかったのは、このためである。神は、神自身の原則に従って業を行う。人間の言葉で言うならば「神は業の重要性に配慮されている」と言えるであろう。すなわち、神が業を行う時、神はその業の目的から外れることがない。神はこの段階において行いたい業が何であり、完遂したい業が何かを知っており、自身の計画に厳密に従って業を行う。腐敗した人間がこうした能力を持っていたとしたら、その者が考えることは、自身の能力を示し、高い能力を持つことを他人に知らしめ、他人を服従させ、支配して滅ぼす方法のみであろう。それはサタンに由来する邪悪であり、腐敗と呼ばれる。神には、そうした性質が無く、またそうした真髄も無い。神が業を行うのは自己顕示のためではなく、人間に対してより多くの啓示と導きを授けるためであるため、聖書においては、この種の業はごく僅かしか見られない。それは、主イエスの能力が限定されていたことを意味するものでも、その種の業を行えなかったことを示すものでもない。それは、単に神が行おうと思わなかっただけである。なぜなら、主イエスがラザロを復活させたことには、極めて現実的な意味があり、また受肉した神の主な業は、奇跡の業を行うことでも、人間を死から復活させることでもなく、人間に対する贖いの業であったからである。そうしたわけで、主イエスが完遂した業の大部分が、人々に教え、施し、助けることであり、ラザロを復活させたような業は、主イエスが行った業のうちごく僅かであった。さらに、「自己顕示すること」は神の真髄には含まれていない、ということも出来るだろう。したがって、それ以上の奇跡を示さなかったのは、故意に制限していたためでも、環境的な制約のためでも、無論能力が不足していたためでもない。

主イエスがラザロを死から復活させる時、主が使った言葉は「ラザロよ、出てきなさい」というひと言だけである。主はそれ以上の言葉を用いなかったが、そのことは何を意味するであろうか。こうした事柄は、死者を復活させることを含めて、神があらゆる事を言葉により実現可能であることを示している。神が万物と世界を創造した時、神はこれらを言葉により創造した。神は言葉で命じ、すなわち権威ある言葉を用い、その言葉通りに万物が創造された。創造は、このようにして行われたのである。主イエスが述べたこのひと言は、天地と万物を創造した時に神が述べた言葉と同じであり、主イエスの言葉には神と同じ権威、創造主と同じ力があった。万物が神の言葉により形成され、存在したのと全く同じようにして、主イエスの言葉によりラザロが墓から出たのである。ラザロの復活は、受肉した身体により証明され、実現された神の権威であった。この種の権威や能力は、創造主と、創造主が形あるものとなった人の子のものである。神がラザロを死から復活させることにより、人間に啓示された知識は、その事実である。この件の検討は以上である。次に、下記の聖句について検討する。

『言葉は肉において現れる』より

 


復活後のイエスによる弟子達に対する言葉

2020-04-11 19:48:52 | 天の国の福音

復活後のイエスによる弟子達に対する言葉


八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20:26-29)

またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。」(ヨハネによる福音書21:16-17)

これらの聖句により述べられている事柄は、主イエスが復活した後に、弟子達に対して行った業と言葉である。まず、復活の前後における主イエスの相違点について検討する。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わりないであろうか。この聖句には、復活後のイエスに関する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた。」という件が含まれている。この時の主イエスは肉にある存在ではなく、霊の存在となっていたことは明らかである。なぜなら、主が肉の限界を超越し、扉が閉ざされていたにもかかわらず、主は人々の前に来て自身の姿を見せたからである。これが復活前の肉にあった主イエスと、復活後の主イエスの、最大の相違点である。その時の霊的存在の外観と、それ以前の主イエスの外観には何ら相違はなかったが、その時のイエスは人々にとって見知らぬ人と感じられるような存在となっていた。なぜなら、主は死から復活した後に霊的存在となり、従前の身体と比較すると、その霊的存在は人々にとって謎めいた理解し難い存在となっていたからである。またそれが原因となり、主イエスと人々との間に、一層の隔たりが生じ、人々はその時の主イエスが一層不思議な存在になったと感じた。人々のこうした認識と感覚により、人々は、目に見えず触れることの出来ない神を信仰していた時代へと、突如として戻された。そうしたわけで、主イエスの復活後、主が最初に行った業は、全ての人々がイエスを見て、イエスが存在することと復活したことを確認させることであった。さらに、そうした業により、主と人々との関係は、主が受肉して業を行い、人々が見て触れることのできるキリストであった時の関係に戻った。このように、ひとつの結果として、十字架にはり付けられた主イエスが死から復活したこと、および人間を贖う主イエスの業について、人々は確信を持った。また別の結果として、主イエスが復活後に人々の前に現れ、人々が主を見て触れることができるようにしたことにより、人々の心には恵みの時代が定着した。この時点以後、主イエスが「失跡」したので、人々は従前の律法の時代に戻ることが出来なくなった。しかし人々は主イエスの教えと業に従って生活を続けた。このようにして、恵みの時代の新たな業が正式に始まり、これ以後、律法に従っていた人々が正式に律法時代から新たな時代へと移っていった。以上が、主イエスが復活後に人々の前に現れたことの意義である。

主は霊の存在であったとすると、なぜ人々は主に触れ、主を見ることが出来たのであろうか。それは主イエスが人間の前に現れたことの意味に関連する問題である。これら2つの聖句について、何か気付くことがあるだろうか。通常、霊の体は見ることも触れることも出来ず、また主の復活後、主イエスの業は既に完了していた。したがって理論的には、主が復活前の姿で人々の前に再び現れ、人々に会う必要は全く無かった。しかし、主イエスの霊の存在がトマスなどの人々の前に現れたことにより、その意味が一層具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれた。主がトマスの前に現れた時、疑念を抱いていたトマスに自身の手に触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言った。この言葉や業は、主イエスが復活した後に伝えたい、行いたいと思ったものではなく、主が十字架にはり付けられる前に伝え、行いたいと思っていたものである。十字架にはり付けられる前の主イエスが、トマスのような者に関して理解していたことは明らかである。このことから何が分かるであろうか。復活後のイエスは、復活前のイエスと変わらなかった、ということである。主の真髄は、変わっていなかった。トマスの疑念は、この時始まったのではなく、主イエスに付き従っている時分からあったものだが、主は死から復活して霊的世界から、復活前の外観、性質、そして肉にあった時の人間に対する認識で戻って来た。故に主イエスはまず最初にトマスのこところへ行き、自身のわき腹をトマスに触れさせて復活後の主の霊的存在に触れさせるだけでなく、主の霊的存在に触れて実感させ、トマスの疑念を完全に払拭させたのである。主イエスが十字架にはり付けられる前、トマスは常に主がキリストであるということに疑念を抱き、信じることが出来なかった。トマスの神に対する信仰は、トマスが見ること、手で触れることが出来ることのみに基づいていた。主イエスは、この種の人間の信仰について、よく知っていた。この種の人々は天の神のみを信じ、神が送った肉にあるキリストを受け容れることが出来なかった。主イエスの存在と、イエスが真に受肉した神であることをトマスに理解させ、信じさせるため、イエスはトマスに対し、手で自身のわき腹に触れさせた。主イエスの復活の前後で、トマスの疑念に異#なる点はあったであろうか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊的存在がトマスの前に直接現れ、トマスに自身の身体に残された釘あとを触れさせる以外に、トマスの疑念を払拭することは誰にも出来なかった。そうしたわけで、主イエスがわき腹と残された釘あとをトマスに触れさせてからは、トマスの疑念は消え、トマスは主イエスが復活されたことを真に知り、また主イエスが真のキリストであり、受肉した神であったことを理解し、信じるようになった。この時トマスに疑念はなかったが、キリストに会う機会を永遠に失ってしまった。トマスはキリストと共にあり、キリストに付き従い、知る機会、そしてキリストにより全きものとされる機会を永遠に失ってしまった。主イエスの現れと言葉により、疑念を抱いている者の信仰に対する主の結論と審判が下された。主は自身の言葉と業により、疑念を抱く者に対して、天の神のみを信じ、キリストを疑う者に対し、そうした者の信仰や、疑念を抱きつつ付き従うことを好まないということを伝えた。そうした者たちが神とキリストを完全に信じるようになる時、それは他でもない、神の大いなる業が完了した時である。もちろん、大いなる業が完了した時は、そうした者たちの疑念に対する審判が下る時でもある。その者たちのキリストに対する態度により、その者たちの運命が決められ、そうした頑なな疑念の結果としてその者達が得るものは無く、頑固さゆえ、そうした者たちの希望は報われない。そうした者たちの天の神に対する信仰は幻により育まれており、またそうした者たちのキリストに対する疑念がそうした者たちの神に対する実際の態度であるため、そうした者たちは実際に主イエスの釘跡に触れたにもかかわらず、そうした者たちの信仰は無駄であり、そうした者たちの結末は無駄な努力をしているとしか言いようが無い。主イエスがトマスに対して述べたことにより、全ての者に対して、復活した主イエスが人間の中で33年と半年にわたって業を行っていた主イエスである、と明確に伝えられている。イエスは十字架に釘ではり付けられ、死の陰の谷を歩んだ後に復活したにもかかわらず、イエスのあらゆる側面は変わることがなかった。イエスの身体には釘あとが付き、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨は全く変わることがなかった。また、イエスは十字架から下ろされ、罪や苦難、そして死に打ち克ったと人々に伝えた。その釘あとは、サタンに対する勝利の証しであり、人類すべてを贖うための罪のいけにえとなった証であった。イエスは、人類の罪を既に負い、贖いの業を成し遂げたことを人々に告げていた。イエスが使徒たちの前に戻って来た時、イエスが出現されたことによって、使徒たちに対して「依然としてわたしは生きている。わたしは、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共に居る」と伝えた。また、主イエスはトマスの例を「主イエスを信じていたとしても、主を見ることも、主に触れることも出来ないが、あなたは、あなた自身の真の信仰により祝福され、あなたの真の信仰により主イエスを見ることが可能であり、それが可能な人は恵まれている」という、その後の人々に対する警告として用いたいと考えた。

……

これが疑い深い者に対する主イエスの姿勢である。それでは、主イエスを心から信じて付き従う者に対し、主はどのような言葉を述べ、どのような業を行ったであろうか。次に、その言葉と業について、主イエスがペテロに対して述べた言葉を検討する。

この対話のなかで、主イエスは繰り返し「ペテロよ、わたしを愛するか」と尋ねている。これは、主イエスが復活した後に、真にキリストを信じ、主を愛そうと努めたペテロのような者に対して主イエスが求めた、比較的高い基準である。この質問は、ある種の調査であり、ある種の尋問であったが、それ以上に、ペテロのような者に対する要求であり、期待であった。イエスはこのような方法により、人々に自分自身を省みて「主イエスが人々に要求していることは何であろうか。私は主を愛しているか。私は神を愛する者であろうか。私はどのように神を愛するべきであろうか。」と自問自答させた。主イエスがこう質問したのはペテロだけであったが、神はその心の中で、神を愛することを追い求める更に多くの人々に、同様の質問を投げかけることを望んでいた。ペテロは、この種の人々の代表として、主イエスから直接この質問を受ける祝福にあずかったというだけのことである。

主イエスがトマスに対して「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と復活後に述べたのに対し、ペテロに対しては3回「ヨハネの子シモン、わたしを愛するか。」と尋ねている。この質問により、主イエスの厳格さと、主が質問した時の切迫性を、一層感じ取ることができる。狡猾で不正な性格のトマスの疑念について、主イエスはトマスを主の釘あとに触れさせることで、主イエスが復活した人の子であり、主イエスがキリストであることをトマスに確信させた。主イエスはトマスを厳しく非難することも、審判を明確に述べることもなかったが、イエスは実際の行動により、自分がトマスを理解していることをトマスに知らせつつ、この種の人々に対する主の姿勢と判断を示した。この種の人々に対する主イエスの要求は、主の言葉には見られない。これは、トマスのような人々には真の信仰が全く無いためである。こうした人々に対する主イエスの要求は真の信仰あるのみであるが、ペテロのような人々に対する啓示は全くこれと異なる。イエスは、ペテロに対して釘あとに触れるよう要求することも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言うこともなかった。そのかわりに、イエスはペテロに対し、同じ質問を繰り返した。これは、思考を刺激すると同時に、キリストに付き従う者すべてが自責の念にとらわれ、畏れを感じ、主イエスの不安で悲しい気持ちを感じざるを得ないような、意味深い問いかけであった。そして、キリストに付き従う者たちは、大いなる痛みと苦しみに苛まれている時に、主イエス・キリストの懸念と労り一層深く理解することが出来るで、イエスの純粋で誠実な人々に対する熱心な教えと厳格な要求を認識する。主イエスの問いかけにより、人々はこうした簡潔な言葉により啓示された主の人々に対する期待は、主を信じ、付き従うことだけでなく、愛ある人間となり、主を愛し、神を愛することであることを感じることができる。この種の愛は、慈しみと服従である。それは人類が神のために生き、死に、全てを神の前に差し出し、尽くし、捧げることである。また、この種の愛により、神は慰めを得、自身に対する証を喜び、そして安息を得る。この種の愛は、人類の神に対する返報であり、責任であり、義務であり、本分であり、人類がその生涯を通して従うべき道である。この3回の問いかけは、ペテロをはじめとする完全な存在となる人々に対する主イエスの要求であり、警告であった。ペテロがその人生の道を完遂するよう導き、励ましたのは、この3回の問いかけであった。また、完全な存在となる道を歩み始めるようペテロを導いたのも、ペテロの主に対する愛ゆえに、主の心を労り、主に服従し、主に慰めを与え、この愛ゆえに自分の生涯と自分自身の全てを捧げるようペテロを導いたのも、主イエスが去る際の、この問いかけであった。

恵みの時代では、神の業は専ら2種類の人々を対象とするものであった。その2種類の人々のうちの1つは、神を信じて付き従い、神の戒めを守り、十字架を負い、恵みの時代の道を守ることのできる人々であった。この種の人々は、神の祝福を得て、神の恵みを享受した。2つ目の種類の人々は、ペテロのように完全な存在となる人々であった。そうしたわけで、主イエスが復活した後、主は最初にこの2つの極めて有意義な業を行ったのである。そのうちの1つはトマスに対してであり、もう1つはペテロに対してであった。この2つの業は何を表しているであろうか。神が人間を救う真の旨を表しているであろうか。神の人間に対する誠実さを表しているであろうか。神がトマスに対して行った業は、疑うことなく、ひたむきに信じるよう人々に警告するためのものであった。主がペテロに対して行った業は、ペテロのような人々の信仰を強化し、この種の人々に対する要求を明確化し、この種の人々が目指すべき目標を示すためのものであった。

主イエスが復活した後、主が必要と考えた人々の前に現れ、その人々と話をして、それらの人々に対する要求を伝え、イエスの旨と、人々に対するイエスの期待を残された。すなわち、受肉した神として、肉にあった時であったか、十字架にはり付けられて復活した後の霊的存在であったかを問わず、イエスの人間に対する懸念と人々に対する要求は変わらなかった。イエスは、十字架にはり付けられる以前に、これらの使徒の事を気遣っていた。イエスは各人の状況や足りない部分について明確に把握しており、そうした主の認識は、言うまでもなく、主が死んだ後に復活して霊的存在となった後も、肉にあった時と同じであった。イエスは、人々が自身のキリストとしての身分について完全に確信していなかったことを知っていたが、イエスが肉にあった時、イエスは人々に対して厳格な要求を伝えなかった。しかしイエスが復活した後そうした人々の前に現れ、主イエスが神から出たこと、受肉した神であること、主は顕現と復活を、人間の一生涯にわたる追求に関するビジョンと動機として用いたことを、そうした人々に完全に確信させた。イエスの死からの復活は、イエスに付き従っていた人々すべてを強くしたのみならず、恵みの時代における自身の人類に対する業を完遂し、よって恵みの時代における主イエスの救いの福音を徐々に人類全体へと遍く広めた。主イエスが復活後に人々の前に現れたことには、何か意味があると言えるであろうか。仮にあなたが当時のトマスやペテロであって、人生のなかでこのような極めて意義深い出来事に遭遇したとしたら、それはあなたにどのような影響を及ぼすであろうか。その出来事は、神を信じる生活において最も素晴らしい、至高のビジョンである、と認識するであろうか。人生において神に付き従い、神を満たすために努力し、神への愛を追求する上で励みになると認識するであろうか。この至高のビジョンを広めるため、一生涯をかけて努力するであろうか。主イエスの救いを広めることを、神から授けられた命令として受け入れるであろうか。あなたがたはこうした業を経験していないが、トマスとペテロの業の事例は、現代の人々にとって、神の旨と、神自身を明瞭に理解するに十分である。神が受肉して人間として人間の中で生活を経験し、人間の腐敗や人間生活の惨状を目の当たりにした後、受肉した神は、人間の絶望や悲しみ、哀れさを深く感じた。受肉して生活した際の人性と直感が原因となって、神は人間の惨状に対する憐れみを一層深めた。その結果として、神は、神に付き従う者に対する懸念を深めた。こうした事柄は理解できないかもしれないが、神に付き従う者全てに対する受肉した神の懸念と慈しみは、「極めて強い懸念」という表現で表わすことができるであろう。強い懸念という言葉は人間の言葉であり、極めて人間的な言葉ではあるが、神に付き従う者に対する神の気持ちを真に表現している。人間に対する神の強い懸念は、経験を重ねてゆくにつれて感じ取ることができるであろう。しかし、それを感じ取るには、あなたがた自身の性質の変化を追求することによって神の性質を徐々に理解することによるほかにない。主イエスが人々の前に現れたことにより、人間の中で主に付き従う者に対する主の強い懸念が具現化され、それが主の霊的存在、つまり主の神性に伝えられた。主イエスが人々の前に現れたことにより、人々は神の懸念と憐れみを再度経験し、感じることが出来たと同時に、時代の幕開け、時代の展開、時代の終焉をもたらすのは神であることが力強く証明された。自身が人々の前に現れることにより、イエスは全ての人々の信仰を強くし、また自身が神であることを全世界に証したのである。そのことは、主に付き従う人々に永遠の確証を授け、また、イエスの現れは、新たな時代における自身の業の一局面を開いた。

『言葉は肉において現れる』より