神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

ゴスペル音楽 「失われた時は二度と戻ってこない」神からの終わりの日の警告

2020-02-18 19:09:35 | ゴスペル音楽

ゴスペル音楽 「失われた時は二度と戻ってこない」神からの終わりの日の警告

目覚めよ!兄弟姉妹たち!
神の日は遅れることがない
時は命、時をとらえることは命を救い
その時は近い
試験なら、落ちたとしても
学び直し、再挑戦できるが
神の日は決して遅れないことを
あなたは知らなければならない

覚えておくように
神のこれらの良い言葉は
あなたを促すためにある
終わりは目前で
災害が近づいている
大切なのはあなたの命か
それとも食べ物や衣服だろうか
今、熟考するべき時が来たのだ

人類は何と惨めで
貧しく盲目で、残酷なのか!
神の言葉は耳のそばを吹きゆく
風のようなものなのか
神の話は無駄だろうか
何故あなたはまだ怠慢なのか
神がこれらを誰に言っているのか
一度も考えたことはないのか?
神を信じなさい
神はあなたの救い主
そして全能者なのである
見張り続けよ
失われた時は戻らず
後悔に効く薬はない
神はどのようにあなたに告げるのか?
神の言葉は熟考に値しないのか?
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。


神の働きは人間が想像するほど簡単か

2020-02-17 18:51:19 | 書籍

神の働きは人間が想像するほど簡単か


あなたは神を信じる者の一人として、今日、終わりの日の神の働きやあなたに対する神の計画のすべての働きを受ける中で、あなたは神により引き上げられ、救いを受け取っていることを理解しなくてはならない。全宇宙における神のすべての働きは、この一群の人々に焦点を当てている。神はあなたがたにすべての努力を注ぎ、あなたがたのためにすべてを犠牲にした。そして全宇宙における聖霊のすべての働きを取り戻し、あなたがたに与えたのだ。それが、あなたがたは幸運なのだとわたしが言う理由である。さらに神は、自らが選んだイスラエルの民から自分の栄光をあなたがたへと移した。それはあなたがた一団を通して、神の計画の目的を全て明らかにするためである。それゆえ、あなたがたは神の嗣業を受ける者、更には神の栄光の継承者となるのだ。あなたがたは皆このような言葉を覚えているだろう。「このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。」あなた方は皆過去にこの言葉を耳にしたことがあるが、その言葉の真意を理解した者はひとりもいない。今日あなたがたは、この言葉の持つ真の意義をよく理解している。これらの言葉は終わりの日に神が成就するものである。そしてそれは、赤い大きな竜の横たわる地で、竜にひどく苦しめられている人々の上に成就する。赤い大きな竜は神を迫害する神の敵であり、よってこの地において神を信じる者たちは屈辱や迫害に晒されている。それ故、これらの言葉はあなたがた一群の中で実現するのだ。神に逆らう地において働きが行われるため、神のすべての働きは過度の妨害を受け、神の言葉の多くはすぐには達成されない。したがって、人々は神の言葉によって精錬される。これもまた、苦しみの要素である。赤い大きな竜の地で働きを実行することは神にとって非常に困難だが、神はこのような困難を通して、自分の働きのひとつの段階を行い、自分の知恵と不思議な業を明らかにする。神はこの機会を通して、この一群の人々を完全にする。人々の苦しみ、彼らの素質、そしてこのけがれた地の人々のサタン的なすべての性質故に、神はその清めや征服の働きを行うことで栄光を手にし、神の業の証に立つ人々を得るのだ。これこそが、神がこの一群の人々のために行った全ての犠牲のすべての意義である。つまり、神は自身に逆らう者たちを通して征服の働きを行うのだ。そうすることによってのみ、神の大いなる力が現わされるのだ。言い換えれば、けがれた地にいる者たちのみが神の栄光を受け継ぐに相応しく、これが唯一、このことによってのみ神の大いなる力を際立たせることができる。それだからわたしは、神の栄光はけがれた地とそこに住む者たちから得られると言うのだ。これが神の旨である。これはちょうどイエスの働きの段階と同じだ。イエスは、彼を迫害したパリサイ人たちを通してのみ栄光を受けることができた。そのような迫害やユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されたり中傷されたりすることもなく、ましてや十字架に付けられることなどなく、栄光を受けることは不可能だったに違いない。神が各時代にどこで働こうが、肉としての働きをどこで行おうが、神はそこで栄光を受け、自らが得ようとする者たちを得るのである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

数千年に渡る神の計画において、肉による働きは二つの部分から成っている。そのひとつは十字架に付けられることであり、これによって神は栄光を受けた。もう一つは終わりの日の征服と人を完全にする働きであり、それによっても神は栄光を受ける。これが神の経営である。したがって、神の働きや神があなたがたに託したことをあまり簡単に考えてはならない。あなたがたは皆、すべてを超越した、神の永遠で重みのある栄光の継承者であり、それは神が特別そう定めたのである。神の栄光の二つの部分のうち、一つはあなたがたの中に現れている。神の栄光の一つの部分すべてがあなたがたに授けられており、あなたがたがそれを相続する。これは神によって引き上げられることであり、はるか昔に予め定められた神の計画である。大きな赤い竜が住む地において神が偉大な働きを行ったことを考えれば、その働きをどこか別の地で行えば、とうの昔にすばらしい実を結んでおり、容易に人に受け入れられていただろう。また、神を信じる西洋の聖職者たちにとっては、そのような働きを受け入れることはいとも簡単なことだろう。それはイエスによる働きの段階が前例となっているからだ。だから、神は自らが栄光を得るこの段階の働きを別のどの場所でも達成し得ないのである。つまり、全ての人間から支持され、全ての国から認められているので、神の栄光が「留まる」ところがないのだ。そしてこれこそが、この地におけるこの段階の働きが持つ極めて重要な意義である。あなたがたの中には、法の保護を受けているものはひとりもおらず、むしろあなたがたは法によって罰せられている。さらに難しいことには、一人としてあなたがたを理解する者はいない。それが親戚であれ、両親であれ、友人や同僚であれ、誰もあなたがたを理解しないのだ。神があなたがたを「捨てる」なら、あなたがたが地上で生き続ける手段などない。しかしそれでも尚、人々は神から離れることに耐えられない。これこそ神が人々を征服することの意義であり、また神の栄光であるのだ。あなたがたが今日受け継いだものは、昔の使徒や預言者たちすべてのそれに優るものであり、モーセやペテロにさえ優るものである。祝福を一日や二日で受けることはできない。それは多くの犠牲を通して獲得されねばならない。つまり、精錬された愛や、大きな信仰、そして神があなたがたに到達することを求める多くの真理を持たなくてはならない。それに加えて、義に面と向かい、おびえたり屈服したりすることなく、神に対して変わることなく尽きない愛を抱いていなくてはならない。あなたがたの決意が求められ、あなたがたのいのちの性質を変えることが求められる。あなたがたの堕落を改め、神の采配を不平不満なくすべて受け入れ、死にいたるまで従順でなければならない。これが、あなたがたが達成しなければならない事である。これが神の働きの最終目的であり、この一群の人々に神が求めることである。神はあなたがたに施すと同時に、あなたがたが神に報いてその要求を満たすことを求める。つまり、神のすべての働きには理由があり、このことから、なぜ神が何度も高い基準の働きを為し、厳しい要求をするのかが分かるだろう。このような訳で、あなたがたは神への信仰で満たされていなくてはならないのである。要するに、あなたがたが神の嗣業を受け継ぐに相応しい者となるため、神はすべての働きをあなたがたのために行ったのだ。これは神自身の栄光のためというより、あなたがたの救いのため、そしてけがれた地でひどく苦しめられているこの一群の人々を完全にするためである。あなたがたは神の旨を理解しなければならない。だからこそわたしは見識や理知のない多くの愚かな人々にこう勧める。これ以上神を試みたり、抵抗したりしてはならない。神は人が経験したことのないようなすべての苦しみを耐え抜き、はるか昔に人間に代わってさらに多くの屈辱にも耐えた。あなたがたには他に何か手放せないものなどあるだろうか。神の旨以上に大切なものが何かあるだろうか。神の愛に優るものなどあるだろうか。このけがれた地において神がその働きを実行するにはすでに倍の困難を伴うが、もし人が承知の上で、意図的に背くのであれば、神の働きは長引かざるを得ないだろう。どのような場合にも、それは誰の得にも益にもならない。神は時間に制約されることはない。神の働きと栄光が優先される。それ故、どれだけ時間がかかろうとも、神自身の働きに関しては、いかなる犠牲をもいとわない。これが神の性質である。その働きが成し遂げられるまで神は休むことがない。神が二つ目の栄光を獲得する時初めて、その働きは終わりを迎えることができる。栄光を獲得する二つ目の働きを全宇宙において神が成就できなければ、神の日は永遠に来ることがなく、神の手を選民たちから離すこともできず、神の栄光がイスラエルにやって来ることもなく、神の計画が完結することも決してないであろう。あなたがたは神の旨を理解し、神の働きは、天地万物の創造のように簡単なものでないことを理解すべきである。なぜなら、今日の働きとは、堕落した者たちや極度に麻痺してしまった人たちを変え、創造されながらもサタンに働きかけられてしまった人たちを清めることであり、アダムとエバを創造することではなく、ましてや光を創ったり、あらゆる種類の植物や動物を創造したりすることでもない。神の働きは、今やサタンによって堕落させられたものを清めて取り戻し、神のものとし、神の栄光とするためのものである。そのような働きは、人間が想像する天地万物の創造のように簡単なものではなく、人間が想像するような、サタンを呪って底なしの穴へ送るようなものでもない。むしろそれは人間を変えるためのものであり、否定的なものを肯定的なものに変え、神に属さないものを神の所有物にすることである。これがこの段階の神の働きの秘められた意味である。あなたがたはそれに気づかなくてはならないし、物事を安易に考え過ぎてはならない。神の働きは、どんな通常の働きとも異なっている。そのすばらしさは人間の頭では測り知ることができず、その知恵は人間が獲得できるものではない。この段階の働きの最中、神は万物を創造しているのでも、それらを破壊しているのでもない。むしろ、神はすべての創造物を変え、サタンによってけがされたすべてのものを清めているのだ。それゆえ神は大規模な働きを始めるであろう。そして、これこそが神による働きの意義の全てである。これらの言葉から、あなたは、神の働きが簡単だと思うだろうか。

 


神に捧げ物をすることには実は原則がある

2020-02-16 11:45:04 | 天の国の福音

神に捧げ物をすることには実は原則がある
2019-05-31

私は家庭の不和がきっかけで1997年に主イエスを信じるようになりました。その後、主の言葉を実践することで、家庭内の争いはなくなりました。主は私の家族を救い、私を痛みから救い、人生の希望を与えてくださいました。

初めて教会の集会に行った時のことを覚えています。牧師はヨハネによる福音書第十二章の第一節から八節を読み、マリアが主イエスに香油を塗ったことや、貧しいやもめがした献金について説教し、私はこれらの話を聞いてとても感動しました。牧師は私たちにこう言いました。「兄弟姉妹の皆さん、私たちは主への信仰においてマリアや貧しいやもめのようになり、主にもっと捧げ物をしなければなりません。貧しいやもめは自分の食費を主に捧げ、マリアは非常に貴重なナルド一斤を主に塗りました。つまり、マリアは自分の持ち物から一番いい物、一番貴重な物を主に捧げました。そして、このような行動を主は最も歓迎すべき、賞賛に価するものとされています。ですから、私たちもお金を捧げれば捧げるだけ宝を天に積むことになります。そうする者が主に最も祝福され、そのような者だけが今世で百倍の恵みを受け、来たるべき世で永遠の生命を得ることができるのです…。」集会の後、私は多くの兄弟姉妹が献金箱にお金を入れに行くのを見て思いました。「主イエスは人類が贖われるように十字架にかけられて亡くなられ、私を痛みから救ってくださった。だから、主の愛に報いるために主にもっと捧げ物をするべきだ。これからは貧しいやもめとマリアに倣って献金することで主を愛そう。そうすれば主に喜んで頂き、牧師にも好かれる」
それ以来、私は牧師が説いた通りに実践し、普通なら貯ていたであろうお金を特に主への捧げ物として費やしました。

私が最初に主を信じ始めて間もない頃で、ちょうどクリスマスの日のことを覚えています。クリスマスの夜、私は教会に行って五百元を寄付しました。食料などの諸費を何とか節約したお金です。他の教会から来たある牧師が私がそんなにたくさんのお金を捧げているのを見て、喜んで私を祝福して、私に大きな祝福が与えられるように主に祈ってくれました。私の献金にどれほど牧師が喜んでいるかを見て私は「この先生がこれほど満足している捧げ物なんだから、主は必ず受け取ってくださる」と思いました。主が私の捧げ物を受け取ってくださると思うと、心にこの上ない甘美な思いを感じました。それから数日間、私はもっと積極的にお金を捧げました。手元に少しでもお金があれば必ず捧げていました。教会の牧師も捧げ物をし続ける私を褒めちぎり、私が祝福されるようによく祈ってくれました。その頃の私はいつも自分の観念と想像の中で生きており、たくさんのお金を捧げさえすれば、牧師に喜ばれ、主イエスに必ずほめて頂いて、主に最も喜ばれる者となるのだと信じていました。
ところがその後、牧師と長老がお互いに嫉妬を抱き、地位と捧げ物をめぐって口論し仲たがいしました。その結果、教会は完全な混沌に陥り、私はそこに聖霊の存在による平和と喜びを見出せませんでした。この光景を目の当たりにして、ひどく失望せずにはいられず、三自教会を離れ、主の足跡を求めて他の教派へと向かいました。因信称義(「信仰による義」)派、呼喊派やその他の教派に行きましたが、どこに行ってもほぼ同じ状態であることが見受けられました。しかも、そこの牧師の説教はいつも捧げ物の教えで、主の祝福をもっと頂けるようにもっと捧げ物をするようにと信者たちに説いていました。それで、私はいつも欠かさずそれらの教会に献金をしました。牧師と長老は捧げ物をする人を常に好み、捧げ物を欠かさない人が祝福されるようにといつも喜々として祈っていたので、私は牧師たちのやり方が正しいと信じていました。

2012年、ある姉妹が私に全能神の国の福音を伝えてくれました。求め検討することで、全能神がまさに主イエスの再臨だと確証したので、教会生活を始めたのです。こう考えました。「これまでずっと主を信じて、いつも捧げ物をしてきた。今、私はついに主の再臨をお迎えしている。もっと捧げ物をすることで神様の愛に報いたい」しかし、全能神教会には献金箱がないことを知り、思いました。「宗教界の牧師や長老は捧げ物をする教えをいつも説くのに、なぜ全能神教会の責任者はこのことに関心がないのだろう。」私には自分なりの考えがありましたが、兄弟姉妹が皆敬虔な生活を送り、福音の伝道と神の証しに自らを捧げ費やし、善行を積んでいるのを見て非常に感動しました。それで私は尚もお金を捧げて善行を積みたいと思ったのです。

ある時、私は教会の姉妹楊(ヤン)さんが福音の伝道でひどく疲れているのを見たので、福音の働きへの支援の印に三百元を渡し、貯めていたお金を神にも捧げました。すると意外なことに、楊(ヤン)さんが私にとても真剣に言いました。「李さん、全能神教会で私たちがすることには全て原則があります。献金もそうです。お金をただ受け取るわけにはいきません」

彼女にそう言われて、私は非常に困惑し、「神に捧げ物をするのは全く当然のことだ。宗教では主を信じる者はいつも捧げ物をしなかったのか。どんな原則が必要なのか」と思いました。それでこう言いました。「私は主を信じる者として、他の教会の集会に行ったことがあり、そこの牧師たちはよく捧げ物をすることについて説教して、献金するように兄弟姉妹に訴えていました。私もよく献金していました。でも牧師が献金の原則などという話について説教するのは聞いたことがありません。献金に関して全能神教会と他の教派には何か違いがあるのですか」

楊さんは愛想よく言いました。「神に捧げ物をするのは然るべきことですし、私たちが被造物として果たすべき本分です。でも、捧げ物をすることには原則があり、またそれ以上に求めるべき真理があります。先ず献金に関する教会の原則を見てみましょう。『神の働きには人の調整が必要であり、教会の各階級の指導者や同労者が神の働きを維持する上で、神の選民に養いと潤しと導きを与えることが求められることは、神を信じる者なら誰もが極めて明確に知るところである。神の国の福音が拡大するには、神の選民が奔走して自分自身を費やすことが求られる。それに加えて、神の選民が用いる神の言葉のさまざまな書籍や真理の伝達には印刷と配布が必要である。従って神の救いの働きは、神の働きを受ける神の選民の一人ひとりのために代価を払い、そうした費用は全て神の選民が神に捧げる献金によって支えられる。

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従って、神は全ての選民に期待を寄せておられ、神に捧げ物を行うことは被造物の本分、義務であり、神のために自分を費やすことは彼らが果たすべき責務である。これは当然の道理であり義務である。各人がこの事柄をいかに理解しているかにかかわらず、神の働きのために自身の負担分を捧げるべきである。十分の一を捧げようと主張する者もいれば、異なる形で献金する者もいる。それは自発的に捧げられている限り、神は喜んで受け取られる。神の家の規定では、神への信仰歴が一年未満の者は捧げ物を行うことを一時的に免除され、貧しい者は捧げ物を義務付けられず、各自の信仰に従って捧げ物を行うことが許される、とだけ規定している。教会は家庭の争いにつながるような捧げ物は受け入れない。献金する者は何度か祈り、自身が完全に自発的であり決して後悔しないという確信して初めて献金することを許可される。……

捧げ物をするための原則は以下の通りである。神の働きを知らねばならず、神への信仰を通して真理を本当に認識したと悟ることができるようになると、人間としての生き方を知り、完全な救いを得る道を歩み、神の愛による御恩を感じ、自身の良心が安らぐように人としての自身の義務を果たさなければならないと感じる。

この時に捧げ物をするならば、それは全く自発的であり、同時に良心と理知を有しているため、喜びと慰めを感じる。たとえ長年神を信じていても、自分が真理の追求者だともやがて完全な救いを得るとも感じていなければ、何の捧げ物をする必要はない。捧げ物をしたところでそこには完全な自発性がないからである。……教会は説教やその他の理由で他人に捧げ物をするように求めることを許さない。捧げ物をすることについて熱弁する者は皆、下心を持っている。捧げ物をすることは、各自の良心と理知、そして真理の認識によるのである』」(『全能神教会の仕事計画の記録・選集』の「教会設立と教会生活管理の原則」より)

楊(ヤン)さんは交わりを続けました。「李(リー)さん、捧げ物の原則によれば、自分の所有物を捧げることは私たち一人ひとりが果たすべき本分であり義務なのですが、自分が真理を理解しているかどうか、そしてそうする意志があるかどうかに従って実践しなければならないのです。なぜなら神は私たちが外面的にお金を捧げることを望まれないからです。神は一番多く捧げる者ならば誰でも祝福なさるわけではありません。神が求められるのは私たちの心であり、私たちの刹那的な衝動や一時的な熱意ではないのです。もし私たちが神の御心を理解し、神による救いを経験するゆえ神の愛に報いたいと思い、何度も祈り求め、神の祝福を得ることを意図せずに喜んで自発的に捧げ物をすれば、そのようなものだけが神が受け取ってくださる捧げ物です。もし神の御心を求めず、本当はその意志がないのに単に大金を捧げるだけならば、いつかそれを後悔するようになるでしょうし、神はこのような捧げ物は受け取られません。ですから神の家では、真理を理解せず、自ら捧げ物をしたいという意志のない人は捧げ物をしてはならないと定められています。なぜなら神は人に意志に反して何かをすることを強制なさらないからです。現在、あなたは教会に入ったばかりで、まだ理解していない真理がたくさんあります。熱心に神の御言葉を読むことに専念しなくてはなりませんし、真理を理解してから、真理の原則に従って捧げ物をしていいのです。このようにしてのみ、神はそれを記憶なさいます。それに全能神教会では、誰であれどんな口実を使おうとも、人々に捧げ物をしなさいと訴えてはいけないのです。そんなことをするのは間違った意図を抱いている人であり、取り扱い、鍛錬、警告の対象になります。人々にしつこく献金を求める指導者や同労者は解任になります。さらに、兄弟姉妹が捧げるお金は特定の個人ではなく神への捧げ物であり、兄弟姉妹からの捧げ物を個人的に受け取ったり、自分で勝手に使ってはいけません。捧げ物をこっそり盗む者はユダであり、深刻な状況においては教会を追放されます」

私は驚愕して言いました。「全能神教会はやはり宗教とは違いますね。捧げ物をするには真理を理解しないといけないし、このような原則と規定があります。これは心に神がいて神を畏れる人だけができることですし、今まで宗教では見たことがないものです。私が宗教に入って過ごした時間を思い起こせば、牧師は私たちが新しい信者か古くからの信者なのかとか、真理を理解しているかどうかなどには全く無関心でした。ただ兄弟姉妹に捧げ物をせよと訴え続け、『神は人々の捧げ物を喜ばれる。たくさん捧げた者だけが神に称えて頂ける』と言うだけでした。牧師はこのように説教して私たち皆に道を踏み外させ、たくさん捧げるほど大きな祝福を頂けると思い違いをするように仕向けました。

そのため、多くの兄弟姉妹が牧師に好かれて神の賞賛を得ようとしてお金を捧げてしまいましたし、自分が捧げたお金がありとあらゆる名目で結局は牧師と長老に巻き上げられるとは全く気づきませんでした。牧師がそんなことをするのは実に汚い策略です。ユダが捧げ物を盗んだのと同じではないでしょうか。そんな行為のなりゆきはとても深刻です。現在、全能神教会では信者が人に捧げ物をするように求めることを許していませんし、捧げ物の原則もあります。教会では先ず真理を理解することが求められ、その後で捧げ物をすることが許されます。捧げ物を個人的に横領したり浪費しようなどとする人は、状況に応じて然るべき罰が下されます。全能神教会は本当に公正で正義があり、真理が支配する教会です。楊(ヤン)さん、私は全能神がイエスの再臨であるとすでに確信していますし、捧げ物はいたって自発的にやっていますから、どうぞ受け取ってください」

楊さんは優しく語りました、「李(リー)さん、捧げ物に誠意がこもっているとしても、原則に従って何回かお祈りを捧げなくてはいけません。と言うのも、後悔しないという確信があって、行いが純粋であって初めて捧げ物を神に受け入れて頂けるからです。それに私は自分であなたのお金を受け取ることはできません。お金を受け取るのにも原則があるからです。その原則の内容を見てみましょう。『教会の指導者、同労者、福音を伝える人は単独で兄弟姉妹から直接捧げ物を受け取ってはならない。少なくとも二人で共に捧げ物を受け取り、金銭が神の家に渡った証明として捧げ物をした兄弟姉妹に領収書を渡さなければならない。教会の上層に金銭を献上する取引は常に二人で共に行われなければならない。金銭は一人だけで運んではならない… 』(『全能神教会の仕事計画の記録・選集』の「神の家の資金管理及び使用の行政原則」より)李さん、神は私たちを知り尽くしておられます。私たちがサタンに深く堕落させられていることも、皆貪欲な本性を持っていて金銭欲が特に強いこともご存知です。そのため教会では献金の受け取りは二人でしなくてはならないと定めています。そうすればお互いを監視できますからね。これは神が私たちを守ってくださっているのです。今私は一人ですから、捧げ物の受け取りの原則に適っていません。数日後に担当の者と一緒に受け取りに戻ってきます。原則に従った実践だけが神の賞賛を頂けるのです」

 

楊(ヤン)さんの話を聞いて、私は言いました。「分かりました。全能神教会では、単に献金一つにも厳しい原則や条件がそんなにたくさんあるとは気づきませんでした。宗教界とは本当に違いますし、社会にあるどの部門や組織ともすごく違います。神の家での条件は全て人を守るためのものであり、全能神教会では確かに真理が支配していることが分かります」

楊(ヤン)さんは非常に感激して言いました。「その通りです。全能神は終わりの日に働きに来られ、何百万語もの言葉を表されます。これらの御言葉は全て真理であり、完全な救いを得るために必要な全真理を人に伝え、それによって人は全ての行動において真理の原則を持ち、真の人間らしく生きることができます。全能神は仰せられます。「あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる事において神に心に安らぎと満足をもたらさなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理にそわなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになる。ひとたびそのような状態に陥ると、神の家の一員であることはできない。これが神の承認を受けられないということである」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神の御言葉から、私たちは何事においても真理を求め、何事も神への信仰における原則によって対処しなくてはならないことが分かります。これが神の承認を得る条件なのです。私たちは神の私たちへの要求を全て遵守しなくてはなりません。そうして初めて神の加護を頂けるからです。そのため神は私たちに神への信仰において真理を受け入れ、真理を実践し、何事も真理の原則に従って対応することを求められます。私たちがそうして初めて神の御心に沿い、神の賞賛を頂けるからです。そうしなければ、私たちは神に忌み嫌われて拒まれ、他の全ての人々にも軽蔑されます。李(リー)さん、全能神が表される真理の全てが私たちに必要なものであり、全能神の御言葉を読む限り、真理の原則をさらに理解するようになるでしょう」

楊(ヤン)さんの交わりを聞いた後、私は自分が宗教において主を信じて過ごした時期のことをまた考えました。どの教会にも献金箱があり、牧師はよく人々にお金を捧げさせるように説教をしており、一番多く捧げた人が誰であれ牧師に高く評価されていました。私たちはお金を捧げる時はただ献金箱に入れます。捧げ物をすることに原則などありませんでしたし、ましてや領収書を求めることも私たちはしなかったため、捧げたお金のほとんどは牧師と長老の懐に納まってしまいました。しかし全能神教会は違います。お金を捧げるにしても受け取るにしても従うべき原則があり、このことで本当に私の見識が伸び、視野が広がりました。

楊(ヤン)さんが私の捧げ物を断わるのを聞いた時、私には分かりませんでした。しかし献金に関する原則を読み、神の御言葉についての楊(ヤン)さんの交わりを聞いたので、彼女が真理の原則通りに行動し、完全に神の御心に沿って行動していたことが今では分かります。全世界は今やサタンによるあまりの堕落のため、暗闇と悪の絶頂にあります。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」という格言は人々の座右銘となっており、誰もがお金を崇拝し、どこもかしこもお金と権力のやり取りで溢れています。どの団体もお金を稼ぎ方を考えており、災害があった地域に寄付された救援金も権力を濫用する貪欲な役人に横領されたりします。しかし、全能神教会だけは純粋な土地であることが私にはわかります。全能神ご自身が真理を表して人に糧を与えられるのは、人が自分の本分を果たす過程において真理を求めて理解し、真理の原則に従って行動し、そうして真理を獲得し、いのちを得て真の人間らしく生きられるようにするためです。これはまさに真の神の働きです。私はこの神への信仰の道を真剣に歩んで真理を求めることによって、原則をもって物事に対処して全能神の救いを得られるようになりたいと思います。

リ・フイ

 

 


質問1

2020-02-15 23:58:52 | 書籍

質問1:主の再来は信者が天国に直接引き上げられることを意味すると信じる。それは聖書に次のように書いてあるからである。「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(テサロニケ人への第一の手紙4:17)主イエスが再来したとあなたがたは証ししているが、それではなぜ今私たちは地上にいて携挙されていないのか。


回答

      主の再来に関しては、主イエスの預言に従うべきで、それが主を待つ妥当な方法だと思います。今の聖句は誰の言葉ですか?主ですか?人間の言葉ですか?「それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、」とは誰が言ったのです?主イエスの御言葉ですか?主イエスはもちろん聖霊もそのような事は言っていませんよ。それはパウロの言葉ですよね。パウロの言葉は主イエスを代弁していますか?神の代わりができますか?神だけがこの奥義を解き明かすことができ、堕落した人間が勝手に解釈して決めつけるのは深刻な問題です。パウロはキリストではありません。堕落したごく普通の人間で、その書き物も人間の考えと想像の産物です、彼の言葉は真理ではないので、何の証拠にもなりません。聖書の神の御言葉を根拠にすることこそ真理に沿っています。聖書の中の人間の言葉に基づいて天国を待望するのは間違いです。主イエスの御言葉でなく、パウロの言葉なら尚更です。主イエスの御言葉だけが真理で、権威があるからです。主イエスだけがキリストで、天国の王なのです。なぜ主イエスの御言葉の中に真理と神の御心を探そうとせず、人の言葉に頼るのですか?それは主の御心にかなっていますか?これでは人に従い、自分勝手な道に進んでしまいます。はじめに神は土のちりで人間を造りました。人間は神が創造した地上の物を管理するという義務を与えられ、地において神に服従し、崇拝して賛美することを求められ、人間の終着点は天ではなく地上であると決められているのです。それに神はずっと昔に、御国は地上に建てると言われていました。地上で人間と共に住み、地の国はキリストの支配する御国になるので、神の御国は天ではなく地上に建てられるのです。多くの人が天に招かれようと空を見上げますが、それは思い込みと想像から来る妄想に過ぎません。神の御働きにも真理にも合っていません。

主イエスはこう言われました。「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイによる福音書 6:9-10)主イエスが言われたのは、神の御国は天ではなく地上にあり、御心が天に行われる通り、地にも行われますように。ヨハネの黙示録第21章2節から3節を読みましょう。「新しいエルサレムが、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。…神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして。」ヨハネの黙示録 第11章15節を「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」この預言によると、「神の幕屋が人と共にあり。」「新エルサレムが、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。」「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。」こうあるので、神は御国を地上に造り、人類と共に住まわれるのです。この世の国は全てキリストの国となり、永遠に続くのです。思い込みや想像で、神の御国が天にあり、主が戻られた時に天に引き上げられると信じるなら、主の預言は意味が無くなりませんか?神の人類を救う経営計画の最終目的は、地上に御国を建てることです。終わりの日のキリストである全能神は、地上に勝利者の一団を作るため、人類を裁き清める働きをされます。神から救われた者は、完全にされ、勝利者となり、地上で神の御言葉を実践し、神の道に従うことができる御国の民です。この一団の勝利者ができたら、神の御心が地上で実現し、キリストの御国が地上に作られ、神の御心は栄光に輝くのです。最後に、黙示録の預言が成就します。この事実が分かりませんか?主は私達にどのような場所を用意しているのでしょう?神の御心を行なえるよう、私たちは終わりの日に産まれるよう定められ、主が戻られた時にお会いし、神の清めを受け、完全にされ、勝利者になり、地上の国はすべてキリストの国になります。それが神の御心です。神は地上に現われるのに、私達は天を眺めています。もし神に空中に上げられたとしたら、食べ物も住む場所もなく、どうやって生きるのですか?思い込みと想像の産物でしょう?主はそのような事をされますか?本気でそう思うのは、子供っぽくて、頭に霧がかかっているようなものです!

だから御国も終わりの日に、地上に建てられるのです。人類の終着点は天ではなく地上にあるのです。これは神が定められたことです。全能神は言われます。「神と人が共に安息に入るということは、人類が救われたこと、サタンは滅ぼされたこと、人における神の働きが全部終わったことを意味する。神はもはや人の中で働き続けず、人ももうサタンの支配下に生きることはなくなる。それゆえに、神はもう忙しく働かず、人はもう忙しく駆け回らない。神と人は同時に安息の中に入るようになる。神はもとの場所に戻り、人も各人それぞれの場所に帰る。これは神の経営(救い)が終わった後に、神と人それぞれが身を置く目的地である。神には神の目的地があり、人には人の目的地がある。神は安息の中にあっても続けて全人類が地上で生きるのを導く。神の光の中にあって、人は天の唯一の真の神を礼拝する。神はもはや人の間には住まず、人も神と一緒に神の目的地で住むことはできない。神と人は同じ領域の中で生活することができない。むしろ、それぞれ自分の生き方がある。神が全人類を導くのであり、全人類は神の経営の働きの結晶である。導かれるのは人類である。人間は、本質的には、神と異なる。安息することとは、神と人がそれぞれの本来の場所に帰ることを意味する。それゆえ神が安息に入るとき、それは神がもとの場所に復帰することを意味する。神はもう地上で生活しないか、あるいは人の間にあっても、人と苦楽を共にしない。人が安息に入るとは、人が真の被造物になったことを意味する。人は地上から神を礼拝し、正常な人間の生活を送る。人々はもう神に背かず、逆らわない。彼らは原初のアダムとエバの生活に復する。これが、神と人が安息に入った後の、それぞれの生活と目的地である。サタンが打ち負かされることは、神とサタンとの戦いが必然的に向かう方向である。こうして、神が経営の働きを終えた後に安息に入ることと人が完全に救われ安息に入ることは、同様に不可避的に向かう方向になる。人の安息の場所は地上にあり、神の安息の場所は天にある。人は安息の中で神を礼拝し、地上で生きる。神は安息の中で残りの人類を導くが、地上から導くのではなくて天から導く。」(『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より)経営計画を完了された時に、神と人は共に安息に入るのだと、全能神ははっきり言われています。神の安息の地は天に、人の安息の地は地上にあり、これは神が私達に用意してくださった終着点で、神の御国が地上に建てられるのを意味する。何年信仰していても、これが分からないなら、真理、そして主の御言葉が理解できないということでしょう?

引き上げられるの本当の意味は何でしょうか。はっきり理解する人はあまりいません。その奥義については、全能神が明らかにされています。全能神は言われます。「『引き上げられる』とは、人々が想像するように、低いところから高いところに連れて行かれることではない。これは大きな間違いである。『引き上げられる』とは、わたしの予定と選びを指しているのだ。それはわたしが予め定め、選んだすべての人々を対象としている。長子、子ら、または民の地位を得た者は皆、引き上げられた人々である。これは人々の観念と最も相容れないものである。将来わたしの家を分かち合う者は、わたしの前に引き上げられる人々である。これは絶対に真実であり、決して変わらず、誰も反論することはできない。これはサタンに対する反撃である。わたしが予め定めた者は、誰でもわたしの前に引き上げられるだろう。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第百四章」より)全能神がはっきり説明しているように、「引き上げられる」とは私達が考えるように、体が空中に浮かび、雲の上で主に会うことでも、天に引っ張り上げられることでもありません。神が地上にお戻りになった時、御言葉を発して働きをされるので、それを聞いて神に従い、終わりの日の御働きを受けるという意味なのです。主の御声に気が付き、御言葉に真理を見出し、真理を受け入れて、全能神に戻ってくる人は、賢いおとめです。主が「盗む」金銀や宝石であり、神様の家へ戻る人達です。真理を理解し、受け入れる能力があり、神の御声がわかる人達です。そして本当に引き上げられる人たちで、神が終わりの日のひそかな出現と働きの時に作られる勝利者です。全能神が終わりの日の裁きの働きを始めると、神を本当に待っている人達は、全能神の言葉が神の御声である事に気が付き、次々に、終わりの日の神の裁きを受け入れました。御座の前で神に対面し、御言葉の潤いと養分を与えられ、神の事を本当に知ることができたのです。堕落した性質は清められ、御言葉に宿る真理を現実で、実現し、救われたのです。この人々は大災害の前に既に勝利者にされ、最初の果実として神の物となりました。思い込みと想像から盲目的に主の再来を待ち、天に招かれると思い、終わりの日の神の裁きを拒む者は愚かなおとめです。神に見捨てられるでしょう。災害に苦しみ、歯軋りし泣き叫ぶでしょう。それが事実です。

『神の国の福音に関する代表的な質問と解答(セレクション)』より

引き上げをどのように理解すべきでしょうか。引き上げは、神様がどのようにこの領域から、この範囲において人間を救い、別の領域の別の範囲に置いてくださるかを説明しています。しかし、引き上げについて考えるとき、人は必ずそれを空中に持ち上げられることと想像します。これは誤っていませんか。たとえば、あなたが進歩の遅れた辺鄙な村に生まれ、その後大都市で働くように配属されたならば、人類の言語ではこれを辺鄙な村から大都市での仕事や生活に引き上げられたと表現するでしょう。これが引き上げられることの意味ではありませんか。この引き上げは、人が想像する空中に持ち上げられることと異なりますか。このうちのどちらが現実ですか。引き上げとは、ある領域から別の領域に上げられることです。つまり上昇です。この上昇は、地上から高く持ち上げられたり、地上から空中に持ち上げられたりすることではありません。これはそういう意味ではありません。むしろ、より高い状態、より高い地位、より高いクラスに上げられることを意味します。これが上昇です。たとえば、私たちは元々、堕落した人類の最下層の農民や労働者で、社会的地位はなく、人々に見下され、抑圧と搾取に苦しみ、声を上げる権利もありませんでしたが、いまでは神の国の時代の民として一挙に上昇させられています。私たちの地位は引き上げられていませんか。私たちは元々は堕落した人類で、暗く邪悪な世界の人類の最下層でしたが、今では、携挙により突然に上昇させられて、神の国の民、神の国の時代の公民となりました。私たちが上げられて神の国の時代の民になっているならば、これこそ引き上げではありませんか。これが本当の引き上げです。次のように言う人もいます。「私はまだそこに住んでいるではないか。私はまだあの仕事をしているではないか。私が飲み食いするものも全く変わっていないではないか。なぜ高みに上げられたように感じないのか」。携挙させられたか否かは、あなたがどれほど高く、あるいは低く感じるかによって決めることはできません。この事実が明るみになる日が来たら、高いところにいるとあなたが思っている人は破滅させられ、あなたは自分は何も手に入れていないと考えるかも知れませんが、生き残ります。これをどのように説明しますか。神の国の民の意味は本当です。この事実が検証される日がやって来ます。その時、あなたは「あぁ、私は本当に引き上げられていたが、それに気づかなかった。神様の御働きは本当に素晴らしい」と言います。真理がないならば、人はこの携挙に気づかず、どれほど自分が祝福されているか知らないまま、祝福の中に生きるのです。大災害が起こるとき、神様はあなたをお守りになり、いかなる災害もあなたに降りかかりません。これは、あなたがそのとき既に携挙により上昇させられていること、あなたは神様の選民、神の国の民であることを説明していませんか。この問題を説明していませんか。いつか、あなたはこう認識します。「これは事実だ。私の身分は確かに変わった。この世の人は未だに私を労働者か農民とみなすだろうが、神様の目には、私は神の国の時代の人と映っている。したがって、私は本当に引き上げられており、私は既に携挙の恵みを享受している」。これが携挙の実際的な意味です。携挙と呼ばれるものの意味を理解できず、独自の想像に頼り、携挙とは空中に持ち上げられることだと信じるならば、空中に持ち上げられるのをどうぞ待ってください。

兄弟の交わりより

 

七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言

2020-02-14 22:01:54 | 書籍

七つの雷が轟く──神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言


       わたしは異邦人国家にわたしの働きを広めている。全宇宙にわたしの栄光は閃く。わたしの旨は星のように点々と散らばる人々の中に組み入れられ、みなわたしの手によって誘導され、わたしが与えた作業をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、全ての人々を別の世界へ連れて行く。わたしが自分の「故郷」へ戻ったとき、わたしの最初の計画にある働きの別の部分に着手した。その働きにより、人々がわたしをより深く知るようになるためだ。わたしは宇宙全体を眺め、わたしの働きにとっていちばん良い時だと知る[a]。そしてわたしは、人々の中で新しい働きをするため、あちこちを巡る。いずれにしろこれは新たな時代であり、わたしは、もっと多くの新しい人々を新たな時代へ引き入れ、淘汰すべき者達をさらにより多く投げ捨てるために新しい働きをもたらした。大きな赤い竜の国家にあって、わたしは、人々には測り難い段階の働きを実行し、彼らを風の中で揺れさせる。その後、多くの者が吹く風によって静かに漂い去る。まさにこれが、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それがわたしの願いであり、それはわたしの計画でもある。というのは、わたしが働いている間に多くの「悪い者」が静かに忍び込んだからだ。しかしわたしは急いで彼らを追い払いはしない。むしろ、適切な時が来たら、彼らを追い散らす。そうしてはじめて、わたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がいちじくの実やゆりの香りをわたしから受け取れるようにする。サタンがとどまる地、塵の地には、砂があるのみで純金は残っていない。だから、このような状況を見て、わたしはこのような段階の働きを実行する。わたしが獲得するものは砂ではなく、精錬された純金であることを、あなたがたは知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残っていられるだろう。狐がわたしの楽園の寄生動物になるなど、わたしが許すだろうか。わたしは考えつくすべての方法でこれらのものを追い払う。わたしの心が表されるまで、わたしが何をしようとしているかを知る者は一人もいない。この機会をとらえて、わたしはこの悪い者たちを追い払うので、彼らはわたしから去るしかない。わたしは悪い者たちに対してこのようにするが、彼らがわたしのために仕える日はまだあるだろう。人々の神の恵みへの欲望はあまりに強すぎる。だからわたしはからだの向きを変え、わたしの栄光に満ちた顔を異邦人の諸国に見せ、人々がみな自分の世界に住み、自らを裁くようにする。そうする間に、わたしはわたしが言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、わたしはわたしの働きをずいぶん広めていたことになるだろう。それからわたしは、人々にわたしの心を表し、わたしの人間に対する働きの二番目の部分に着手する。そして、わたしの働きに協力するために人々がわたしにしっかりと付き従うようにし、わたしのすべき働きを共に行うために、人々が能力の限りを尽くすようにする。

誰一人としてわたしの栄光を見る時が来ると信じるものはいない。そしてわたしは人に強要もしない。それよりは、わたしは人々の中からわたしの栄光を移し、他の世界へ持っていく。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示す。これがわたしの働きの原則である。わたしの栄光がカナンの地を去る時があるからであり、わたしの栄光がわたしに選ばれた者から去る時もあるからである。さらに、わたしの栄光が全地を去る時がある、その時、光は暗くぼやけ、暗闇へ陥る。カナンの地にさえ太陽は照らさないだろう。すべての人々は信仰を失うが、誰一人カナンの地の香りから去ることには耐えられない。わたしが新たな天と地へ進む時になってはじめて、わたしの栄光のもうひとつの部分を取り上げ、それをまずカナンの地で現す。そうすると夜の真っ暗闇の底に沈んだ全地にかすかな光が輝き、全地をその光のところに来させる。全地のあらゆるところの人々を来させ、光から力を得られるようにし、わたしの栄光が増し、全ての国々に新たに現れるようにしよう。わたしがずっと前に人間の世界に現れており、ずっと前にわたしの栄光をイスラエルから東方へもたらしたことをすべての人々に気づかせよう。なぜならわたしの栄光は東方から輝きを放ち、恵みの時代から今日までもたらされたからである。しかし、わたしが出発したのはイスラエルであり、そこから東方に到着した。東方の光が徐々に白く変わるとはじめて、全地の暗闇は光に変わり始める。そしてその時になってはじめて、人はわたしがずっと前にイスラエルを去っていて、東方で新たに現れるのだと知るだろう。わたしは以前イスラエルへ下り、その後そこから立ち去った。わたしは再びイスラエルに生まれることはできない。なぜならわたしの働きは宇宙のすべてを導き、さらに、稲妻が東から西へひらめき渡るからである。だからわたしは東方へ下り、カナンの地を東方の人々にもたらしたのである。わたしは地上のすべての人々をカナンの地へ連れて行きたいと願う。それ故わたしは全宇宙を支配するため、カナンの地で声を発し続ける。この時、カナンの地以外はどこにも光はなく、すべての人々は飢えと寒さにさらされている。わたしはわたしの栄光をイスラエルに与え、その後その栄光を移す、そしてイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へ連れて行った。わたしは彼らをみな「光」へと導いた、彼らが光と再会し、光と交わり、それ以上探す必要がないように。わたしは探し求めているすべての者が再び光を見て、わたしがイスラエルで持っていた栄光を見られるようにする。わたしはずっと前に白雲に乗って人々の間に降ったことを彼らが理解するようにし、無数の白い雲と豊かな果実、さらにはイスラエルの神ヤーウェを見るようにしよう。わたしは、彼らがユダヤ人の「先生」、待望のメシア、そして歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見上げるようにする。わたしは、全宇宙の働きを行い、偉大な働きをし、わたしの栄光のすべてとわたしの業すべてを、終わりの日に人々に表す。わたしは、わたしの栄光に満ちた全容を、長年わたしを待った人々、わたしが白雲に乗って下るのを熱望してきた人々、わたしが再び現れるのを熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人類に見せる。それによって、すべての者はわたしがずっと前にわたしの栄光を取り去ってそれを東方へもたらしていたことを知るだろう。それはもはやユダヤにはない、なぜなら終わりの日はすでに来ているからである。

宇宙の隅々までわたしはわたしの働きを行っている。東方では、雷のような轟音が終わることなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在に連れて来たのはわたしの声である。わたしはすべての人々がわたしの声により征服され、みなこの流れに落ち、わたしの前に帰服するようにする。わたしはずっと前に全地からわたしの栄光を取り戻し、東方で新たにそれを発したからである。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光の元へ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを見上げようとしない者がいるだろうか。「贖い主」が再び来るのを待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は全地の隅々まで広められるであろう。わたしはわたしに選ばれた者に向かって、彼らにもっと話しかけたいと願う。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を話しかける。そしてわたしの口にある言葉は人の宝になり、すべての人々はわたしの言葉を大切にする。稲妻が東から西へひらめき渡る。わたしの言葉は、人が決して手放したくないもの、そして測り難いものであるが、それ以上に彼らにさらなる喜びをもたらすものである。生まれたての赤児のように、すべての人々は喜びに満ち、わたしの到来を祝う。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れて来る。その時から、わたしは正式に人類へ入る、人々がわたしを礼拝するために。わたしから放たれる栄光とわたしの口にある言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、またわたしが東方の「オリーブ山」に降ったことも知るようになる。彼らはわたしがずっと前からすでに地上にいたことを知り、「ユダヤ人の息子」ではなく、東方の稲妻だと知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の中から去って、その後栄光と共に再び人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた「赤児」である。それだけでなく、わたしは今の時代の栄光に満ちた全能神である。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見させ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を見上げさせなさい。これがわたしの心の全てである。これがわたしの計画の結末であり、クライマックスであると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。

脚注

a.原文に「だと知る」の語句は含まれていない。