神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

キリスト教の歌「神の足跡を探すなら」

2020-02-23 19:22:45 | キリスト教の歌

キリスト教の歌「神の足跡を探すなら」

神の足跡を探すなら
探さねばならない
神の御心、神の御言葉、神の御声
神の新しい御言葉の中
神の御声がある
神の足跡があるところには
神の御業がある
神の印があるところ
そこには神が現れる
神の現れるところには
真理、道、命がある

神の足跡を探す時
神の真理、生きる道、命さえも見失ったら
見つけることはできない
神の足跡
そして神の現れに気づくことはできない
なんとそれは大きな過ちだろう
神は人の思いを遥かに超えて
人の思うようには現れない
神には自身の選択がある
神が働くときに
神には自身の目的がある
神の御業がある
神は誰にも話さない
神は誰にも伝えない
それが神の性質
人は気づかなければ

神の現れを望むなら
そして神の足跡を探すなら
自分を超えて求めてはならない
自分の望みを神を自分の心に閉じ込めないで
自分の世界に閉じ込めないで
神の足跡を探し求め
神の現れを受け止めて
神の新しい御業に従い
それがあるべき道
人はみな誰も真理ではなく
真理を持たず
人は真理ではなく
真理を持たず
だから探し求め、受け入れながら
探し求めて受け入れて
真理に身を委ねる
『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

東方閃電]全能神教会は、主イエスの再臨である終わりの日のキリスト全能神の現れと働きによって創られました。当教会は、終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の言葉によって征服され救われるすべての人々によって成り立っています。当教会は、全能神ご自身によって全てを創られ、全能神ご自身によって導かれ牧養されています。決して人によって創られたものではありません。キリストは道であり、真理であり、いのちなのです。神の羊は神の御声を聞きます。全能神の言葉を読めば神が現れられたのを見ることができます。

 


その日、空は特に澄んで晴れ上がっていた(その3)

2020-02-22 22:08:53 | 書籍

その日、空は特に澄んで晴れ上がっていた(その3)


家に戻ると姉妹が説いてくれた教えを反芻し、「あの姉妹が言っていたことは、すべて聖書に沿っている。私はまともな根拠もなしに『一度救われた者は永遠に救われる』と信じていたのね」と考えました。神を信じてきた長い年月を振り返り、罪を犯してはそれを告白するという状態の中で絶えず生きていたことに気づきましたが、その問題を解決することはできず、1人で多くの苦しみを味わっていたのです。このような形で信じ続ければ、最後に神の称賛を得られないと感じました。あの姉妹の話を聞いた私は、主を信じる者が完全な救いを得て天国に入りたければ、再臨された主イエスがなさる人々の裁きと清めの働きを心から受け入れなければならないと、よりいっそう確信するようになりました。それなら、全能神による終わりの日の裁きの働きとは一体何なのでしょうか。全能神はどのように人を清めて変えられるのでしょうか。このようなことを考えながら聖書を捲っていと、主イエスによる次の聖句が見つかりました。

「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)

さらに、聖書には次のようにも書いてあります。

「さばきが神の家から始められる時がきた。」(ペテロの第一の手紙4:17)

「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」(ヨハネの黙示録2:7)

これを読んだとき、私は夢からようやく目覚めたような気がしました。終わりの日に神がより多くの真理を表され、新たな段階の働きをなさることを、主イエスははるか以前に預言されていたのです。これはまさに、全能神がおいでになり、人を裁いて清める働きをなさるということではないでしょうか。私はこう考えました。

「あぁ!今日、牧師がやって来て邪魔をしなければ、全能神の道についてもっと心ゆくまでに聞けたのに。かつて、私は牧師や長老の言葉に必ず耳を傾けていて、全能神の終わりの日の働きについて探求したり調べたりしたことは一度もなかった。ただ、牧師や長老の言うとおりにしていただけなのよ。自分の心に主の居場所がなかったことに、今日初めて気づいたわ。主の再臨を探求することについても、私は主の御心を求めず、牧師や長老の言葉をうのみにしていた。何て愚かなのかしら!主を信じる私たちは、神を讃え、主の再臨について神の足跡を積極的に探すべきなのよ。そうすることでのみ、私たちは神の御心に従えるのだから。今日私は、牧師の行動が神の御心に従っていないことを理解した。もはや彼らが言うことを無闇に聞くわけにはいかない。全能神の道を求め、調べる必要があるのよ」

翌朝は交わりの続きをするために、最初に胡姉妹の家を訪ねてから、全能神の福音を宣べ伝えてくれた姉妹を探すことにしました。私が家を出る前に、胡姉妹があの姉妹を私の家に連れてきてくれるなど、誰が想像したでしょう。それはまさしく主のお導きだったのです。その姉妹はまず心配そうに、昨日は牧師から嫌がらせをされませんでしたかと尋ねました。私はきっぱりと答えました。

「いいえ。昨日の交わりの後、私はここに戻って、いろいろあったことを注意深く思い返しました。そして、主イエスを信じるだけでは本当に清めていただけないことに気づきました。私たちの堕落した本性がまだ存在しているので、そのために神の完全な救いを得られないのです。さらに、主が終わりの日にお戻りになって裁きの働きをなさることを実際に預言している聖書の一節も読みました。いま、私が何よりも知りたいのは、全能神が終わりの日に行なわれる裁きの働きとは、一体どのようなことなのか、全能神の裁きの働きは、どのように人を清めて変えるのか、ということです」

すると、その姉妹は嬉しそうに言いました。

「神に感謝します!あなたの質問はまさに核心を突いていますよ。というのもその質問は、私たちは神を信じることで、完全な救いを得て天国に入れるのかどうかという重要な問題に関係しているからです。まず、全能神の御言葉に何と書かれているか読んでみましょう。全能神は次のようにおっしゃっています。

『もちろん、神の今回の受肉において、神の働きは主に刑罰と裁きを通して神の性質を表すことである。これを基礎として、神は人により多くの真理をもたらし、より多くの実践方法を示し、こうして人を征服し、堕落した性質から人を救うという神の目的を達成する。これが神の国の時代における神の働きの背後にあるものである。』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)『「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉をあなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日にキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。』(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

神の御言葉を読んだ後、姉妹は続けて教えを説きました。

「神の御言葉から、全能神は終わりの日の裁きの働きにおいて、真理の多くの側面を使って人を暴き、人を詳しく調べることがわかりました。神は御言葉によって人の堕落した本質と人の堕落の真相を明らかにし、神に反抗し、神を裏切るサタンのような本性を裁き、私たちに内在するさまざまな種類の堕落を清められるのです。そのような堕落の例として、神の働きに関してさまざまな観念や想像を抱くこと、自分の観念を真理と見なして神の働きを判断すること、そして好き勝手に神を裁き、神を非難し、神に抵抗することが挙げられます。また神を信じていても、実際には不信心者とまったく変わらないのも堕落です。私たちはみな名声と財を求め、そのためにあらゆる対価を支払おうとしますが、誰1人として神に満足していただくために生きてはいません。また、神は実際には、神の御心に従うことでのみ、人は天国に入れるとおっしゃっているのに、主を信じている限り自分たちは救われるとか、主が到来したら、自分たちは天国に引き上げていただけるなどと、私たちは神と相容れないものの見方をたくさんしています。こうしたことは私たちに内在する堕落のほんの一例です。神の裁きと刑罰を通して、これらの堕落した性質や、誤った見方や考え方、サタンの人生の原理も清められて変えられます。そうして私たちは、神に心から従うようになるのです。同時に、私たちは神の裁きと刑罰により、神の義なる性質が人のいかなる背きも容赦しないことを認識し、神がどのような者を愛されるか、どのような者を嫌われるかを知り、人をお救いになる神の意図を理解し、神に畏敬の念を抱き、真理を探求する方法を知り、神の称賛を得るにはどう本分を適切に尽くせばよいかがわかるようになるのです。神の御言葉を経験し実践することにより、私たちは多くの真理を理解するようになります。たとえば、神への信仰を持つということはどういうことか、真に救いを得るとはどういうことか、神に従い神を愛するとはどういうことか、神の御心に従うとはどういうことかを知るようになるのです。私たちの堕落した性質がさまざまな度合いですべて変化していき、私たちの人生観や価値観も変わっていきます。これこそ、神が私たちに行なわれている裁きと刑罰の働きなのです。これを、神の愛による救いと呼ぶこともできます。ですから、終わりの日のキリスト、つまり全能神の御座の前で裁きを受けることでのみ、私たちは真理を受け取れるのです。そのとき初めて罪から解放され、清められ、救済を得ることができるのです。姉妹、この交わりが理解できますか?」

神の御言葉を読み、姉妹が交わりをもってくれたおかげで、私は神の働きと神の御心を理解するようになりました。そして深く感動しながら頷き、こう言いました。

「神に感謝します!全能神の御言葉を聞くことで、神は終わりの日に御言葉の真理を使い、人を裁いて清める働きをなさることがわかるようになりました。私のこれまでの追求はとても漠然として、非現実的でした。それでも今は、終わりの日における神の裁きと刑罰の働きを受け入れることでのみ、人は神に清めていただき、救いを得て天国に入れることを理解しています。全能神は再臨された主イエスでいらっしゃるのです!私の堕落した性質が近いうちに変わるように、喜んで終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れます」

私の言葉を聞いて、姉妹は嬉しそうに微笑み、何度も神に感謝を捧げました。

全能神の御言葉は、自分が心に抱いていた観念から私を解放するとともに、私が自分の堕落した性質をどのように捨て、どのように清めていただくかについて道を示してくれました。今や救済を求める方向と目的が明確になったので、自分の霊が明るくなり、落ち着いて解放されたように感じました。窓の外を見ると、その日の空は特別に澄んで晴れ上がっていました。私は地面に膝をつき、神に祈りを捧げました。「あぁ、神よ。あなたに感謝を捧げます。生きているうちにあなたの再臨をお迎えし、あなたの現れを目撃できるほどの幸運に恵まれたのは、まさに祝福です!でも、私は盲目にして無知です。牧師や長老が広める噂を信じ、自分の考えや想像に固執し、もう少しで永遠の救いを失うところだったからです。あぁ、神よ。私はとても無知で愚かです!進んで悔い改め、救いを得るというこの極めてまれな機会を大切にします。そして、さらに多くの兄弟姉妹が救いを得られるよう、あなたの御前に連れていくつもりです!アーメン!」


その日、空は特に澄んで晴れ上がっていた(その1)

2020-02-21 21:37:26 | 天の国の福音

その日、空は特に澄んで晴れ上がっていた(その1)

ティアン・イン

 

注:著者は、牧師達により伝えられてきた「信仰義認」や「一度救われた者は永遠に救われる」の観念に騙され、これに固執していました。それにより、神の終わりの日の福音を伝道する兄弟姉妹達との接触を拒んでいました。しかし、その後、著者の姉の家で、ある妹が神の国の福音を伝えるのを目の当たりにし、彼女と交流することで、終わりの日の神の裁きの働きを理解するようになり、宗教的概念の愚かさについてはっきりと分かり始めました。著者は牧師によるコントロールを断ち切り、神の終わりの日の働きを受け入れ、神の前に戻りました。

かつて、私は中国の三自教会の信者でした。その教会の集会に参加し始めたころ、牧師はよくこう言ったものです。

「兄弟姉妹の皆さん、聖書には次のように記されています。

『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ人への手紙10:10)

私たちは信仰によって義とされ、イエスを信じているために救われたのです。他のものを信じていたら救われることはなかったでしょう……」

私は牧師の言葉をいつも胸に刻みこんでいました。そしてそれらの言葉にかき立てられ、主がおいでになって私を天国に招き入れてくださるのを待ち望みながら、熱心に信仰し、積極的に集会に参加しました。その後、教会内で不正行為が立て続けに起こり、そこでの集会に出るのが嫌になってしまいました。牧師たちが分裂し、おのおのが頂点に立って自分の縄張りを築き上げようとしただけでなく、牧師たちによる説教も中国共産党中央統一戦線工作部(UFWD)の指令に縛られていました。UFWDは「人民のあいだで騒乱を引き起こす」ことを恐れ、牧師に『ヨハネの黙示録』から説教することを許さず、牧師も黙示録から説教することはありませんでした。そしてしばしば献金について説教し、献金すればするほど神から祝福を受けると言っていました。私は教会がこのような状況に置かれたのを見て、「教会はどうしてこんな風になってしまったのだろう。牧師は主を信じていないのか。なぜ主の御言葉に従わないのか。どうして主をこれっぽっちも畏れていないのか」と困惑しました。この時以来、私はもう三自教会の集会に出たくなくなりました。牧師は真に神を信じておらず、兄弟姉妹が頑張って稼いだお金をむしり取るべく神を信じているふりをしている偽の羊飼いだと思ったからです。

1995年の後半、私はためらうことなくこの教会を去り、ある家庭集会(信仰義認教会)に加わりました。最初、彼らの説教は中国政府の規制を受けていないと思いました。『ヨハネの黙示録』を説教に組み入れ、終わりの日や主の再臨について話し合うことさえしていたのです。そのため、彼らの説く教えは三自教会の牧師のものよりはるかにましだと考え、三自教会の集会よりもここでの集会のほうが多くの喜びがあると感じました。私はとても幸せな気持ちになりました。しかししばらくすると、そこでも同労者の中に、嫉妬を剥き出しにして口論する人や、分裂をもたらそうとする人がいることに気づきました。主のお求めに従いながら生きている兄弟姉妹は1人もおらず、かつての愛情がなくなっていました。この教会も三自教会と何ら変わらないことがわかり、私はとてもがっかりしました。さりとて、どこに行けば聖霊の働きがある教会を見つけられるかもわかりません。他によい選択肢がないため、私は信仰義認教会に留まらざるを得ず、そこの集会に参加し続けました。牧師や説教者は口を揃えて、「一度救われた者は永遠に救われる」とか「最後まで忍耐し、主のために苦労して働き、主の道を守る限り、あなたは天国に入れる」などと言っていました。そのため、私は当時、「他の人に何が起きようと、主イエスへの信仰を守り続け、主の道から離れない限り、主が再臨なさるとき、私には天国に引き上げていただく機会があるだろう」と考えていたのです。

あっという間に1997年の後半になりました。神の国の福音がすでに私たちのところまで届き、私たちの教会は混沌とした状態に陥っていました。李指導者はこう言いました。

「最近、東方閃電を宣べ伝える集団が台頭しており、様々な教派からよき小羊を盗むとともに、主イエスはもうお戻りになったとか、働きの新たな段階をなさっているなどと言っています。主イエスは私たちのために十字架にかけられ、神は私たちの罪を贖うべく、ご自身のいのちという対価をお支払いになりました。私たちはすでに救われています。最後まで耐え抜きさえすれば、主が再臨なさるとき、私たちはきっと天国に引き上げていただけます。ですから、私たちは注意し、絶対に東方閃電の人々を受け入れてはなりません。彼らを受け入れる人は誰であれ、教会から追放します!また、彼らが言うことに耳を傾けてもいけません。彼らの本を読んでもいけません……」

ほぼすべての集会で、あらゆる階層の同労者がこの話題で持ちきりのようでした。彼らが話していることを聞いた兄弟姉妹は、意図せずして東方閃電に抵抗し、警戒するようになりました。私もいままで以上に用心と警戒を怠らないようになりました。自分が東方閃電に盗まれてしまい、そのせいで天国に入る機会を失うことを恐れたのです。

しかし1998年になった直後のある日、私は思いがけず全能神教会の人と出会い、はじめて東方閃電の道を聞くという幸運に恵まれました。その日、私は姉から電話をもらい、彼女の自宅に招かれましたが、姉は同郷の胡さんという姉妹も招いていました。胡姉妹は私を見て微笑みを浮かべ、「よくいらっしゃいました。主を信じる私の遠い親戚も来ているんです。一緒に集会を開きませんか」と言いました。私は喜んでうなずきました。程なくして、胡姉妹が親戚の人を連れて戻ってきましたが、この姉妹は私たちを見ると感激した様子で挨拶しました。私は彼女と初対面でしたが、彼女に対する一種の親しみを感じました。すると彼女はこう言いました。

「最近、教会の至るところで荒廃が見られます。説教者は宣べ伝えるべき新しい話題が何もなく、集会のたび、東方閃電にどう抵抗するかを話す以外は、テープを聞かせたり、歌を歌わせたりするだけです。これが集会になってしまいました。同労者は嫉妬を剥き出しにして言い争い、結託し、共謀しています。誰もが極めて独善的になり、他人の言うことに耳を貸しません。兄弟姉妹は否定的で弱くなり、信仰と愛を失いました。多くの人が主のもとを離れ、お金を稼ごうと世俗の世界に戻っています」

私も心の奥底で同じように感じ、うなずきながらその姉妹に言いました。

「私の教会もそんな感じです。以前は毎月の集会に2、30人が出席していたけれど、いまではお年寄りが数名出席しているだけです。説教者でさえ、お金を稼ぐために世俗の世界に行ってしまいました!集会に喜びなんかないんです」

すると姉妹はうなずき、次のように言いました。

「このような状況は、もはや特定の教会だけのものではありません。宗教界全体に広まっている現象なんです。そのことは、聖霊の働きがもはや教会の中で見つけられず、不正な行いが絶えず発生していることを示しています。これは主の再臨のしるしです。まさに、神殿が家畜を売ったりお金のやり取りをしたりする場所になってしまった、律法の時代の終わりと同じなのです。そうなったのは、神がすでに神殿で働きを行なうのをやめられ、その代わりに主イエスとして受肉なさり、神殿の外で働きの新たな段階をなさったからです」

私は熱心に耳を傾け何度も頷きました。そして姉妹はこう続けました。

「姉妹、『ルカによる福音書』17章24節から26節には次のように書いてあります。

『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう』

聖書のこの聖句をあなたはどのように解釈しますか」

私はしばらく真剣に考えてからぎこちなく微笑み、「姉妹、聖書に書いてあるこの聖句は、主の到来についてのものではないでしょうか」と言いました。すると姉妹はこう答えました。

「聖書のこの聖句は主の到来について述べています。しかし、あの遠い昔の時代における主イエスの到来を述べているのではありません。むしろ、終わりの日における主の到来を指しているのです。と言うのも、主はここで、終わりの日に戻られた際に何が起きるかをとても明確に預言なさっているからです。姉妹、教会の信者の信仰はいまやますます冷めていて、否定的で弱い状態になっています。それは、神が再び受肉されて働きの新たな段階をなさっているからです。神の働きは前進しており、神の新たな働きに従わない人は聖霊の働きを失います」

主イエスはすでに再臨なさったと姉妹が言うのを聞いた瞬間、この人は東方閃電の人だという勘が働き、たちまち心が沈みました。「イエスを信じることは救われることです。一度救われた人は永遠に救われます!……東方閃電の人を受け入れてはいけません!……」という、この教会を閉め出している指導者の言葉がすぐに頭の中で浮かび、笑顔が消えてなくなりました。指導者の言葉を考えていると、急いで家に帰りたくなりました。しかし、この考えが頭をよぎったとき、主は次の讃美歌の一節を思い出させることで私を啓いてくださいました。

「イエスは私たちの避難所です。問題に見舞われたときはイエスのもとに隠れなさい。主と一緒であれば、何を恐れる必要があるでしょう」

そして私はこう考えました。

「その通りよ!主が私のそばにいらっしゃるなら、何を恐れる必要があるだろう。私が恐れていることは神からではなくサタンから来たものなのだから」

そのとき姉妹が、「疑問があれば口に出して分かち合いましょう。。神の御言葉が私たちのあらゆる問題や困難を解決してくれます」と言いました。私はその言葉を聞いて、「あなたが私の質問に答えられるとは限らない。東方閃電がいったい何を宣べ伝えているのか、どうしてこんなに多くのよき小羊を盗むことができたのか、ちゃんと突き止めなきゃ」と思いました。

私はそう考えて次のように尋ねました。

「私たちの指導者は、『主イエスは私たちのために十字架にかけられ、神は私たちの罪を贖うべくご自身のいのちという対価をお支払いになり、それゆえ私たちは救われた』と常々言っています。聖書にも『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ人への手紙10:10)と記されています。私たちは一度救われたので、永遠に救われるのです。なので最後まで耐え抜く限り、主がお戻りになるとき、私たちはきっと天国に引き上げていただけます。これは主が私たちになさった約束です。ですから、私たちは神がなさっている新しい働きを受け入れる必要はありません」

すると姉妹は微笑みを浮かべ、私にこう言いました。

「主イエスは私たちのために十字架にかけられ、ご自身のいのちという対価をお支払いになって私たちを贖われたので、私たちはもう救われたと考える信者が数多くいます。一度救われた者は永遠に救われるとか、最後まで耐え抜きさえすれば、主がお戻りになるとききっと天国に引き上げていただけるとか、神のなさる新たな働きを受け入れる必要はないなどと信じているのです。しかし、このような考え方は本当に正しいでしょうか。本当に主の御心に適うものでしょうか。実際、『一度救われた者は永遠に救われる』とか、『主が再臨なさるとき、私たちは天国に引き上げていただける』という考えは人の観念にして想像であり、主の御言葉に即していません。主イエスは、信仰によって救われた者は天国に入れるなどとは一度もおっしゃっていません。むしろ、『ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイによる福音書7:21)とおっしゃっています。救われることと天にいます父の御心を行なうことは同じではありません。信仰によって救われると私たちが言うとき、この『救われる』という言葉は罪が赦されたことを意味します。つまり、法によって死刑に処されることになっても、主の御前に出て悔い改め、主の救いを受けるならば、主はその人の罪をお赦しになり、その人は法の断罪から自由になり、もはや法によって死刑に処されることはないのです。これが救われることの本当の意味です。しかし、救われるということは、人々が罪から自由になって清められたことを意味しません。私たちはみな、そのことを深く経験しています。私たちは長年にわたって主を信じ、しばしば自分の罪を主に告白して悔い改め、罪を赦していただく喜びと安らぎを享受していますが、意図せず罪を犯すことが依然としてよくあり、いまも罪に囚われています。これは事実です。たとえば、傲慢さ、狡猾さ、身勝手さ、貪欲さ、邪悪さなどといった堕落した性質がいまだ存在し続けています。私たちは依然として、世俗の潮流や富や名声、それに肉の悦びを追い求め、罪深い悦びをむやみに欲しがります。また個人的な利益を守るため、私たちは頻繁に嘘をつき、他人を騙すこともできます。ゆえに、救われることは、完全な救いを得たことを意味するのではありません。これは事実です。聖書には『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)と記されています。神は聖なる存在でいらっしゃるのですから、頻繁に罪を犯して神に抵抗する人たちが天国に入ることをお許しになるでしょうか。信仰によって救われた人は天国に入れるとあなたが信じていらっしゃるなら、主イエスはなぜ次の御言葉をおっしゃったのでしょう。

『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」』(マタイによる福音書11:7:21–23)

主は再臨なさるとき、小羊から山羊を、有毒な雑草から麦をお分けになると言われているのはなぜですか。ゆえに、『信仰によって救われた人々は天国に入れる』というのは完全に見当違いなのです。それは主イエスの御言葉とまったく相容れず、主の御言葉を否定するものです!ですから、主の御言葉を受け入れず、それを信じず、それどころか牧師や長老が伝える間違った考えに固執し、自分自身の観念と想像に頼って神を信じるなら、私たちは神のお求めを満たすことができず、天国に引き上げていただくこともできません」

私は姉妹の言葉をじっくり考え、彼女の言ったことには理知があると思いました。そこでじっと座ったまま、黙って彼女の話に耳を傾けました。すると姉妹は話を続けました。

「全能神の御言葉はすでに、救われて完全な救いを得ることの奥義を明らかにしてます。なので全能神の御言葉を一緒に読んで、神がこれについて何とおっしゃっているかを見ていきましょう。全能神はこうおっしゃっています。

『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)

『人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。 … 人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。 … それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。』(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

『あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。』(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)」

 

聖書について(1)

2020-02-20 20:48:36 | 書籍

聖書について(1)


神への信仰において、どのように聖書に接するべきであろうか。これは原則的な問題だ。なぜわたしたちはこの問について話し合っているのだろうか。それは、将来あなたは福音を広め、神の国の時代の働きを広げることになるが、単に今日の神の働きについて話せるだけでは不十分だからである。神の働きを広げるためには、人々の古い宗教観念や古い信仰の方法を取り除き、人々を完全に確信させることがますます重要だ。そして、そこに至るには、聖書が関わってくる。長い間、人々の伝統的な信仰の方法は(世界の三大宗教の一つであるキリスト教においては)聖書を読むことであった。聖書から離れることは、主を信じることではない。聖書から離れるのは邪教、異端であり、他の本を読んでいても、そうした本の基礎は聖書の解説でなければならない。つまり、主を信じると言うのなら、聖書を読まなければならないのだ。聖書を飲み食いし、聖書の外では、聖書と関わりのない本を崇めてはいけない。そういうことをするのは、神への裏切りだ。聖書が存在するようになって以来、人々の主への信仰は聖書への信仰である。人々は主を信じるという代わりに、聖書を信じると言ったほうがいい。聖書を読み始めたと言うよりは、聖書を信じるようになったと言うほうがいい。そして、主の前に帰ったというよりは、聖書の前に帰ったと言うほうがいいだろう。このように、人々はまるで聖書が神であるかのように崇め、まるでそれが自分たちのいのちの源で、それを失うことはいのちを失うことであるかのようだ。人々は聖書を神と同じくらい高いものと見ているが、神より高いと思う人々さえいる。人々は、たとえ聖霊の働きがなくとも、たとえ神を感じられなくとも、生きていける──しかし、聖書を失くしたり、あるいは聖書の有名な章句を失くしたりすると、すぐに、まるでいのちを失ったかのようになる。そこで、人々は主を信じ始めるとすぐに聖書を読み始める。そして、聖書を暗記し、より多く聖書の暗記すればするほど、主を愛し、信仰が深いことの証拠になる。聖書を読み、それについて他の人々に話すことのできる人々はみな、よい兄弟姉妹だ。長年の間、人々の信仰と主への忠誠は、聖書をどれほど理解しているかによって測られてきた。たいていの人は、なぜ神を信じなければいけないのかをまったく理解していないし、どう神を信じるべきかを知らないのに、聖書の章句を解明するために闇雲に手がかりを探す以外には何もしない。人々は聖霊の働きの方向を追究したことはない。これまで、懸命に聖書を勉強し調べる以外のことをしてこなかった。聖書の外で聖霊の新たな働きを見出した者は誰もいないし、聖書から離れた者もいないし、聖書から離れる勇気をもつ者もいない。人々は長年の間聖書を研究し、まことに多くの解釈を編み出し、多くの労力を費やしている。彼らはまた、聖書について数多くの異なった意見をもち、それについて果てしなく議論しており、現在では二千以上の教派が形成されている。彼らはみな、特別な解釈を探しているか、より深遠な奥義を聖書の中に探している。彼らは探索し、ヤーウェのイスラエルでの働きの背景に、あるいはイエスのユダヤでの働きの背景にそれを見つけるか、それとも他の誰も知らないさらなる奥義を見つけることを望んでいる。人々の聖書への態度は偏執と信仰で、聖書の内部事情や本質について、完全に理解している人は誰もいない。だから、現在もなお人々は聖書に関して説明しようのない不思議さを感じる。それ以上に、聖書に執着し、聖書を信じている。今日、誰もが終わりの日の働きについての預言を聖書に見出したがっている。その人たちは終わりの日に神がどのような働きをするのか、終わりの日についてどんな前兆があるのかを見つけたがっている。このように、その人たちの聖書信仰はますます熱を帯び、終わりの日に近づくほど、ますます聖書の預言、とりわけ終わりの日についての預言に信頼をおく。そうした聖書への盲信、そうした聖書への信頼によって、その人たちは聖霊の働きを探そうという欲求をもたない。人々の観念では、聖書だけが聖霊の働きをもたらすのである。聖書の中だけに神の足跡を見いだせる。聖書の中だけに神の働きの奥義が隠されている。他の書物や人々ではなく、聖書だけが、神に関するすべてとその働きの全体を明らかにできる。聖書は天の働きを地にもたらす。そして、聖書は時代の始まりと終わりをもたらすことができる。こうした観念があるので、人々は聖霊の働きを探そうという意向をもたない。そこで、聖書が過去にどれほど人々の役に立ったかはともかく、神の現在の働きの妨げになっている。聖書がなければ、人々は別の場所に神の足跡を探せる。しかし、今日、神の足跡は聖書によって封じ込められている。だから、神の最新の働きを広げることは、二重に困難な、苦しいことになっている。これはみな、聖書の有名な章句のせいであり、聖書のさまざまな預言のせいである。聖書は人々の心の中で偶像となり、人々の頭脳の中の謎となった。人々は神が聖書とは別に働けることをどうしても信じられず、聖書の外でも神を見つけることができることが信じられなくなっている。まして、神が最後の働きのあいだに聖書を離れて新しく始められるなどとは信じられない。これは人々にとって考えられないことである。人々には信じられないし、想像することもできない。聖書は神の新たな働きを受け入れるための大きな障害になり、神がこの新たな働きを広めることを困難にしている。だから、聖書の内部事情を理解していないのなら、福音を成功裏に広めることはできないであろう。また、新たな働きについて証しすることもできないであろう。今日、あなたたちは聖書を読まないが、それでも聖書に関して極めて好意的だ。つまり、聖書はあなたたちの手にないかもしれないが、あなたたちの観念の多くが聖書に発している。あなたたちは聖書の由来、以前の二段階の神の働きの内部事情を理解していない。あなたたちは聖書を飲み食いしないが、聖書を理解しなければいけない。あなたたちは聖書について正しい認識をもたなければいけない。そして、そのようにしてはじめて、神の六千年に及ぶ経営(救いの)計画がどういうものなのかがわかるのだ。あなたたちはこうしたことを用いて人々を勝ち取り、この流れが真の道であり、今日あなたたちの歩む道が真理の道であり、それが聖霊に導かれており、人間が開いたものではないということを人々に認めさせるのである。

恵みの時代の前、人々は聖書を読んだが、当時は旧約しかなかった。新約はなかった。旧約聖書があったので、人々は聖書を読み始めた。ヤーウェの導きが終わると、モーセが創世記、出エジプト記、申命記などを著した。モーセは当時のヤーウェの働きを思い起こし、それを書き記した。聖書は歴史書だ。もちろん、ここには預言者の預言もいくつか載っている。そして、そうした預言は歴史などではまったくない。聖書はいくつかの部分からなっている。預言だけではなく、ヤーウェの働きだけでもなく、パウロの書簡だけでもない。聖書には幾つの部分があるかを知っていなければいけない。旧約には創世記と出エジプトなどが含まれ、そして、預言者たちが書いた預言書もある。最後に、旧約はマラキ書で終わる。旧約は、ヤーウェの導いた律法の時代を記録している。創世記からマラキ書まで、律法の時代の働きすべての総合的な記録だ。これはつまり、旧約は律法の時代にヤーウェに導かれた人々の経験の記録だということだ。旧約の律法の時代、大勢の預言者がヤーウェに起こされ、神の預言をした。彼らはさまざまな部族や民族に指示を与え、ヤーウェのする働きについて預言した。こうした起こされた人々はみな、ヤーウェからの預言の霊を与えられていた。彼らはヤーウェから幻を見せられ、その声を聞くことができたので、ヤーウェに啓示を受けて預言を書いた。彼らの行なった働きはヤーウェの声の代弁で、それはヤーウェに代わって行われた預言の働きであった。当時のヤーウェの働きは、単に霊を用いて人々を導くことであった。ヤーウェは受肉せず、人々は神の顔をまったく見なかった。そこで、ヤーウェは大勢の預言者を起こして、自分の働きをさせた。預言者たちに神託を与え、彼らはそれをイスラエルのすべての部族や氏族に伝えた。彼らの働きは預言をすることで、彼らの一部はヤーウェが彼らに与えた指示を記述して、他の人々に見せた。ヤーウェはこれらの人々を起こして預言を語らせ、将来の働きや、当時進行中の働きについて預言させた。そこで、人々はヤーウェの知恵と素晴らしさを見ることができた。これらの預言の書は聖書の他の書とは大きく異なっていた。それらは預言の霊を受けた人々、ヤーウェに幻を見せられたり、その声を聞いたりした人々が語り、書き記した言葉だ。預言の書以外は、旧約のすべてはヤーウェがその働きを終えた後に人々が作成した記録だ。これらの書は、創世記や出エジプト記がイザヤ書やダニエル書に比肩できないのと同様、ヤーウェの起こした預言者の語った預言とは同列に置けない。預言は働きが実行される以前に告げられた。一方、他の書は働きが完了してから書かれたもので、それが人々にできたことだった。当時の預言者はヤーウェの啓示を受けて預言を伝えた。彼らは多くの言葉を語り、恵みの時代の物事について、また、終わりの日に世界が破壊されることを預言した──ヤーウェが計画している働きだ。残りの書はみな、ヤーウェがイスラエルで行った働きについての記録である。だから、聖書を読む場合には、主にヤーウェがイスラエルでしたことについて読むことになる。聖書の旧約は主にヤーウェのイスラエル人を導く働きの記録であり、モーセを用いてイスラエル人をパロの虜囚から解放し、エジプトから脱出させ、荒野に連れていき、その後、カナンに入った。その後に起こったことはみな、彼らのカナンでの生活である。これ以外はみな、全イスラエルでヤーウェの行った働きの記録である。旧約に記録されていることはみな、ヤーウェのイスラエルでの働きの記録で、これはヤーウェがアダムとエバを創造した場所での働きである。ノアの後、神が正式に地上の人々を導き始めた時から、旧約に記録されていることはみな、イスラエルでの働きである。では、なぜイスラエルの外では何の働きも記録されていないのだろうか。なぜなら、イスラエルの地が人類の生まれた地だったからだ。始めに、イスラエルの他に国はなかった。そして、ヤーウェは他の場所では働かなかった。このように、聖書に記されていることは、純粋に当時のイスラエルでの働きなのである。預言者たち、イザヤ、ダニエル、エレミヤ、エゼキエルの話した言葉……彼らの言葉は、神の地上における他の働きを預言するもので、ヤーウェの神自身の働きを予告している。これはみな神から出たもので、聖霊の働きであり、これらの預言者の書を除くと、他のすべてはみな当時のヤーウェの働きを経験した人々の記録である。

創造の働きは、人間が存在する以前に行われた。しかし、創世記は人間が存在するようになってから書かれた。これは、モーセが律法の時代に著した書である。これは、今日あなたたちの間に起こっている事柄に似ている。起こった後で、あなたたちは将来人々に見せるために、将来の人々のために書き記すが、記録したものは過去に起こったことで、歴史に他ならない。旧約に記録されている事柄はヤーウェのイスラエルでの働きで、新約に記録されているのは恵みの時代のイエスの働きである。これらは神が二つの異なる時代に行った働きを記録している。旧約は律法の時代の神の働きを記録している。だから、旧約は歴史的な書物で、新約は恵みの時代の働きの産物である。新しい働きが始まると、それも時代遅れになった。そういうわけで、新約もまた歴史的な書物である。もちろん、新約は旧約ほど組織だったものではないし、それほど多くを記録していない。旧約のヤーウェの語った多くの言葉のすべては聖書に記録されているが、イエスの言葉の一部しか四福音書に記録されていない。もちろん、イエスもまた多くの働きをしたが、それは詳細に記録されなかった。新約にあまり記録がないのは、イエスが行った働きの量による。地上でイエスが三年半の間に行った働きと使徒たちの働きは、ヤーウェのそれよりはるかに少ない。だから、新約は旧約よりずっと書が少ない。

聖書とはどういう書物なのか。旧約は律法の時代の神の働きである。旧約聖書は律法の時代のヤーウェの働きと、創造の働きを記録している。そのすべてがヤーウェの行った働きを記録しており、マラキ書のヤーウェの働きの記録で終わっている。旧約は神の行った二つの働きを記録している。一つは創造の働き、もう一つは律法の布告だ。どちらの働きもヤーウェが行った。律法の時代はヤーウェ神という名で行れた働きを示している。これは、主にヤーウェという名で行われた働きの総体なのだ。だから、旧約はヤーウェの働きを記録しており、新約はイエスの働き、主にイエスという名で行われた働きを記録している。イエスの名の意義とその行った働きは、主に新約に記録されている。旧約の律法の時代、ヤーウェはイスラエルに神殿と祭壇を築いた。地上でイスラエル人の生活を導き、彼らがヤーウェの選ばれた民、つまり彼らが神が地上で最初に選んだ集団で、神の心にかなう者であり、神自ら導いた民であることを証明した。つまり、イスラエルの十二部族がヤーウェが最初に選んだ民であり、神は律法の時代のヤーウェの働き終了まで、いつでも彼らの中で働いた。第二の段階の働きは新約の恵みの時代の働きで、イスラエルの十二部族の一つ、ユダヤ族の間で行われた。働きの範囲が狭かったのは、イエスが受肉した神であったからだ。イエスはユダヤの地でだけ働き、三年半の間だけ働いた。だから、新約に記録されたものは、旧約に記録された働きの量を超えることは到底できないのだ。恵みの時代のイエスの働きは、主に四福音書に記録されている。恵みの時代に人々の歩んだ道は、いのちの性質のもっとも表面的な変化であり、そのほとんどは書簡として記録されている。それらの書簡は、当時聖霊がどのように働いたかを示している。(もちろん、パウロが懲罰を受けたか不運な目に遭ったかはともかく、働きにおいては彼は聖霊に導かれており、当時聖霊に用いられた人である。ペテロもまた、聖霊に用いられたが、彼はパウロほどの働きをしていない。パウロの働きには人間の不純さが含まれていたが、彼が書いた手紙から、聖霊が当時どのように働いたかがわかる。パウロの導いた道は、正しい道、聖霊の道だった。)

律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。だから、かつて行われたことのない働きは歴史ではない。今は今であり、まだ過去になっていないからである。人々は神が地上で、イスラエルの外で、より偉大で新しい働きをしたこと、それがすでにイスラエルの範囲を超え、預言者たちの預言を超え、これまでに預言されていない、新しい、驚くべき働き、イスラエルの外の新たな働き、人々が見も想像もできない働きであることを知らない。どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。なぜ今日、聖書を読まないように言われるのか、なぜ聖書とは別の働きがあるのか、なぜ神は新たな、より詳細な実践を聖書に求めないのか、なぜより偉大な働きが聖書の外にあるのかを理解しなければいけない。これをみな、あなたたちは理解する必要がある。新旧の働きの違いを知らなければいけない。聖書を読まないが、聖書を分析できなければいけない。そうでなければ、まだ聖書を崇めていて、新たな働き、新たな変化に入るのが困難になるであろう。より高い道があるのに、なぜ低い、旧式な道を学ぶのか。新たな言葉、新たな働きがあるのに、なぜ古い歴史的記録の中で生きるのか。新たな言葉はあなたに必要なものを与えることができる。つまり、これが新しい働きであることの証明である。古い記録は十分な満足を与えたり現在の必要を満たすことができない。このことは、それが歴史であり、今現在の働きではないことを示している。最も高い道は最も新しい働きだ。そして、新しい働きは、どんなに過去の道が高くとも、それは人々の思考の歴史であり、参考としての価値がどれほどであってもそれは古い道なのだ。たとえそれが「聖なる書」に記されていても、古い道は歴史だ。たとえ「聖なる書」に記録されていないことでも、新たな道が今現在のものなのだ。この道はあなたを救う。そして、この道はあなたを変える。これは聖霊の働きだからだ。

あなたたちは聖書を理解しなければいけない──この働きは最も必要なものだ。今日、聖書を読む必要はない。そこには新しいものは何もないからだ。みな古い。聖書は歴史的な書物であり、もしも恵みの時代に旧約を飲み食いしていたなら、恵みの時代に旧約の時代の要求を実践していたなら、イエスはその人を拒んでいただろう。そして、罪に定めていたであろう。もしも旧約をイエスの働きに適用していたなら、その人はパリサイ人であったであろう。もし、今日、旧約聖書と新約聖書をともに飲み食いし、実践したなら、今日の神はあなたを罪に定めるだろう。今日の聖霊の働きから取り残されるだろう。もし旧約聖書と新約聖書を飲み食いするなら、その人たちは聖霊の流れの外にいる。イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、そして彼の言葉の権威と力も、律法の時代の誰よりも勝っていた。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。イエスの働きは新たな道を開くためのものであり、それは意図的に聖書に戦いを挑むものではなかったし、意図的に旧約を放棄するものでもなかった。イエスはただ、自分の職分を果たすため、自分を切に求める人々に新たな働きをもたらすために来たのである。旧約を説明し、その働きを継続するために来たのではない。イエスの働きは、律法の時代が発展を続けるようにするためではなかった。イエスの働きはそれが聖書に基づいたものかどうかを問題にしなかったからである。イエスは単に、しなければならない働きをするために来たのだ。だから、イエスは旧約の預言を説明せず、また旧約の律法の時代の言葉に沿った働きもしなかった。イエスは旧約の記述を無視した。それが自分の働きに合致しているかどうかを気にしなかった。また、他の人々が自分の働きを理解しているかどうか、人々がそれをどう非難しているかも気にしなかった。イエスはただ、しなければならない働きを続けたのだ。多くの人々は旧約の預言者たちの預言に基づいて彼を罪に定めたのだが。人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあった。これは愚行ではないか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。

新約の時代にイエスの行った働きは新たな働きを開いた。イエスは旧約の働きに沿った働きはしなかった。また、旧約のヤーウェが語った言葉に従わなかった。イエスは自分の働きをし、新たな働きをし、律法よりも上位の働きをした。そしてイエスは言った。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」だから、イエスの成就したことによって、多くの教義は廃棄された。安息日にイエスが弟子たちを連れて麦畑を通ったとき、彼らは麦の穂を摘んで食べた。イエスは安息日を守らず、「人の子は安息日の主である」と言った。当時、イスラエル人の規則によると、誰でも安息日を守らなかった者は石で打ち殺された。しかしながら、イエスは神殿に入りも安息日を守りもしなかったし、その働きは旧約の時代にヤーウェがしなかったことだった。だから、イエスの行った働きは旧約の律法を超えており、それよりも高いものであり、掟に沿ったものではなかった。恵みの時代に、イエスは旧約の律法に従った働きはしなかった。そうした教義に逆らった。今日、まだ聖書、特に旧約の律法に従う人々がいる。これはイエスの働きを否定するものではないのか。「聖書は聖なる書物で、読まなければいけない」という人々がいる。また「神の働きは永遠に守らなければいけない、旧約は神とイスラエルの民との契約で、破棄することはできない、また、安息日は常に守らなければいけない」という人々もいる。こういうことは愚かなことではないか。なぜイエスは安息日を守らなかったのか。イエスは罪を犯していたのか。誰がそうしたことを見通せるのか。どのように聖書を読んでも、人間の理解力で神の働きを知ることは不可能であろう。神について純粋な認識を得ることができないばかりか、人のもつ観念が、ますますとんでもないものになり、神に敵対するようになる。もし今日の神の受肉がなければ、人々は自分たちの観念のせいで滅ぼされ、神の刑罰を受けて死ぬだろう。


あるキリスト教の牧師はついに罪から抜け出す道を見つけた

2020-02-19 20:32:44 | 天の国の福音

 

あるキリスト教の牧師はついに罪から抜け出す道を見つけた
2018-05-18



私はクリストファーという名前で、フィリピンにある家庭教会の牧師です。私は1987年に洗礼を授かり、主イエスの元に戻りました。そして主の御恵みにより、1996年に地元の教会で牧師となりました。当時、フィリピン国内の多くの場所で働き説教する以外にも、香港やマレーシア等で福音#を説いていました。聖霊の働きと御導きにより、私には主のために行う働きにおいて無尽蔵なエネルギーと説教のための天啓があるように感じていました。私は兄弟姉妹たちが否定的で心弱くなっている時は頻繁に彼らを支えました。彼らの家族で主を信仰していない人たちが私に対し非友好的であっても、私は寛容かつ忍耐強くあることができ、主への信仰を失わず、主が彼らを変えてくださると信じていました。そのため、主を信仰し始めて以来、自分が大きな変化を遂げることができたと感じていました。しかし、2011年から、以前ほど強い聖霊の働きを感じなくなってしまったのです。私は自分の説教のための新たな啓示を徐々に失い、罪深い生活から抜け出す強さもなくなってしまいました。妻と娘が私の気に入らないことをするのを見ると、思わず彼女たちに腹を立て、怒りながら叱ってしまいました。私は、こういったことは主の御旨に沿っていないと分かっていましたが、自分を抑えられないことが頻繁にありました。私はこれについてとても頭を悩めました。罪を犯してはその告白をする生活から抜け出すため、私は聖書を読むことにさらなる努力を注ぎ、絶食し、祈りを捧げ、これについて共に追求し検討してくださる霊的な牧師をあちこちで探しました。しかし、私の努力は全て無駄に終わり、私の罪深い生活と魂の闇は全く変化しませんでした。
2016年の春のある夜、妻が聞いてきました。

「クリストファー、最近とても悩んでいるみたいだけど、何なの?」

私は妻に自分の悩みを告げました。

「ここ数年のことなんだけど、自分は牧師で長年に渡って主を信仰しているにもかかわらず、なぜ罪深い生活から抜け出せられないんだろうか、と悩んでいるんだ。もう主を感じることができなくて、まるで主に見放されてしまったようなんだ。あちこちで説教しているのに、自由な時間ができるとたん、特に真夜中になるといつも心の中が空っぽで不安な気分になって、この気持がどんどん強くなっていく。自分が今まで長年主を信仰してきたこと、聖書を沢山読んできたこと、主の説教をたくさん聴いてきたことを考えて、自分の十字架を背負って自己を克服すると何度も決意してきたけれど、いつも罪に縛られている。自分の利益と面目を保つために嘘をつくこともできてしまい、『彼らの口には偽りがなく』(ヨハネの黙示録14:5)という生き方を実現できていない。苦難や精錬に直面すると、これらは主の承諾があって起こっていると分かってはいても、どうしても主に文句を言って主を誤解せずにはいられず、喜んで自己を捨てることが全くできない。このように罪の中に生きていれば、主が来られても天国に入れないんじゃないかと思うんだ」

これ聞いた妻はこう言いました。

「クリストファー、どうしてそんな考え方ができるの? 信仰を持たなきゃだめよ。あなたは牧師なんだから! 私たちは罪のある生活を送って、罪の拘束から抜け出せていないけれども、聖書にはこう書いてあるわ。『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる』(ローマ人への手紙10:9)、『なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである』(ローマ人への手紙10:13)。根気強く聖書を読んで、集会に参加し、主に祈り、自分の十字架を背負い、再臨までひたすら主に従ってさえいれば、天国に入って主の祝福を受けることができるのよ」

私は妻に言いました。

「僕も前はそう考えていたけれど、ペテロの第一の手紙1章16節には『聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。』僕は30年も主を信仰してきたけど、未だに主の道に従うことができないし、依然として罪の中に生きているし、頻繁に主に抵抗することもできてしまう。主のお求めになることを満たすなど到底できていない。ああ! 何度も主の教えに従うと決意してきたのに、主の御言葉を実践することができていない。こんなので、どうして天国に入るにふさわしくなれるというんだ? 主イエスは、『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである』(マタイによる福音書7:21)と仰った。主の御言葉によると、天国に入るのは僕たちが思っているほど単純ではないんだ。主は聖なるお方だ。では、主の御言葉を実践できず、主に頻繁に抵抗している者がどうして天国に引き上げていただけるというんだ? 変化を遂げ、神の御旨を行う人のみが天国に行けるんだよ!」

妻は少し考えてからこう言いました。

「あなたの言っていることは筋が通っているわ。主は聖なるお方で、私たちは依然として罪深いまま。私たちは神の御国に入るのにふさわしくない。だた……急に思いだしたんだけど、牧師のリュウ先生は教会に韓国人牧師のキム先生を招待していなかった? この問題について尋ねてみてはどうかしら?」

私は言いました。

「うん、それはいいな。主イエス様は『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう』(マタイによる福音書7:7)と仰った。僕たちが求め続けてさえいれば、主は僕たちを導いてくださるはずだ。牧師として、僕は兄弟姉妹のいのちを考慮しなきゃならない。僕が信仰においていいかげんなら、兄弟姉妹にとっても自分自身にとっても良くない。キム先生が到着するのを待って、この問題に関する意見を求めてみよう」

私はキム牧師に相談するつもりだったので、彼の経歴を知りたくなりました。私はインターネットで彼の韓国人教会を検索してみました。検索結果の出たページに、https://jp.kingdomsalvation.orgというウェブサイトがありました。このウェブサイトを開いてみると、そこに書かれていた言葉に引き込まれました。

「人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

これはとてもよく表現されていて、私は読み続けずにはいられませんでした。

「だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

私はこれを読んでとても興奮しました。完全に理解することはできず、中には戸惑わせるようなことさえありましたが、それでも私は希望を持つことができました。私はこの中に自分を清め、自分を変える方法を見つけられる気がしました。私は祈りを聞いて下さったことを神に心から感謝しました。読み続けるにつれて、私はこれは本当に素晴らしい言葉で、自分の乾いた魂に水を注ぎながら導いてくれると感じました。そのウェブサイトに、「あなたの国または地域の福音ホットラインが見つからない場合はメッセージをお残しください。出来るだけ早くにご連絡を差し上げます」と書いてあるのを見て、さっと探しましたが、フィリピン福音ホットラインはなかったので直ぐにメッセージを残し、ためらうことなく自分の電話番号と電子メールアドレスを記入しました。

その夜、帰宅した後、私がこのことを妻に話すと、それを聞いた妻も同様に求めたいと思いました。翌日、私のメッセージに返信があり、その日の午後にネットで会話できることになり、このことを心から主に感謝しました。その日の午後、私たちはリュウ姉妹とスー姉妹と話をしました。この会話から、私は二人の姉妹は分かり易く、巧みに、識見をもって話していたように感じました。妻は私よりも意欲的で、こう言いました。

「質問をしてもよろしいでしょうか?」

姉妹は熱心な口調で「もちろんです」と返事してくれました。妻はこう言いました。

「あなたたちの教会のウェブサイトには『終わりの日に神は裁きと刑罰の働きの段階をなされた』と書かれていますが、私と夫は聖くなければ誰も主を見ることはできず、それは主が聖なるお方であられるからだと分かっているのですが、『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる』(ローマ人への手紙10:9)、『なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである』(ローマ人への手紙10:13)。主イエスを信仰していれば、既に救われており、天国に行くことができるのならば、どうして終わりの日の神は裁きと刑罰の働きをなされているのでしょうか? 私はこれが理解できないので、お話しいただけると嬉しいのですが」

リュウ姉妹が応えました。

「神に感謝! それでは一緒に話し合って、神に私たちをお導きいただきましょう。まず最初に、ここで『救われる』とはどういう意味なのかに注目してみましょう。律法の時代の後期において、人々は誰もが神から遠ざかり、神を畏れる心を失ってしまいました。彼らは増々罪深くなり、失明したり、足が不自由だったり、病気に罹ったりした家畜や鳥を生贄として捧げるようにまでなってしまいました。あの時代の人々はもはや律法を守ってはおらず、誰もが律法を犯したために死刑に処せられる危険にありました。このような状況において、律法の下に生きる人々を確実な死から救うために、神は自ら受肉され、贖いの働きに着手され、最終的には人類全体の罪を贖うために十字架に釘付けにされたのです。人は主イエスを信仰することで罪を赦していただき、神の御前に行って神に祈りを捧げ、神の御恵みと祝福を授かるにふさわしい者となったのです。これが恵みの時代において『救われる』ということの本当の意味です。言い換えると、『救われる』とは単に人の罪が赦されるということでしかないのです。すなわち、神はもはや人々を罪に汚れているとは見なされませんが、これは人々がもともと罪深くないという意味ではありません。従って、救われるということは私たちが完全に清められて完全に救われたことを意味しているわけではありません。清められたければ、終わりの日における神の裁きの働きを受け入れなければならないのです」

姉妹たちの交流を聞いて初めて、妻と私は「ローマ人への手紙」に記されている「救われる」ということは、主イエスによる救いを受け入れ、もはや律法を違反したことによって死刑を宣告されずに済むということを指しているのだと理解しました。「救われる」というのは私たちが想像していたような完全に清められるということではなかったのです。姉妹たちの言っていたことは筋が通っていました。「救われる」ことについてのこの説明は、私たちが罪を犯してはその告白をするといった状態に生きていることに符合していました。つまり、主イエスがなされたことは贖いの働きであり、人を完全に清めて救う働きではなかったのです。人がひとたび主を信仰すれば、救われはしますが、それは完全に清められたことを意味しているわけではないのです。姉妹たちの交流を聞いて、私はそこに探し求めるべき真理があると感じたので、話を聞き続ける意欲を示しました。私はこう言いました。

「主に感謝! 素晴らしいお話しです。お二人とこのように話したおかげで、『救われる』ことの真義が理解できました。どうぞお話しを続けてください。主が私たちをお導きくださいますように」

スー姉妹が続けてこう言いました。

「分かりました。全能神の御言葉の節をいくつか読んでみましょう。そうしたら全てがさらに明らかになりますよ。全能神はこう仰りました。

『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)

『罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる』(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

『イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう』(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

私たちがもし恵みの時代における神の贖いの働きに固執し、終わりの日の神の裁きの働きを受け入れないでいると、私たちの罪深さの根本的な問題は解決されないということが全能神の御言葉から分かります。終わりの日に全能神は来臨され、贖いの働きを土台の上に人を裁き、清める段階の働きをなさっています。全能神は人の堕落という真相を明らかにする真理を語り、人のサタンのような本性を裁いておられます。全能神は人々のサタンのような性質を変え、人々をサタンの支配から完全に解放するために来臨されました。そうして人が完全な救いを得られるようにです。全能神の終わりの日における裁きの働きが、人々を清め、救い、完全にする上で最も重要かつ根本的な働きであることは明らかです。従って、終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れて初めて、人はその堕落した本質と神の義なる性質についての真の認識を得て、サタンの影響から完全に抜け出し、神に救っていただき、神に従い、神を崇拝し、神の御旨と調和した人になることができるのです」

この話を聴いた後、私は心が明るくなり、長年の混乱がついに解消したように感じました。神は恵みの時代において贖いの働きをされただけで、それは人々から堕落したサタンのような性質を取り除く働きではなかったのです。終わりの日に受肉された神を通して真理を明らかにする裁きの働きは、人類を完全に清め、救う働きなのです。となると、神はどのようにして人々を実際に清め、変化させ、完全に御救いになるのでしょうか。私はこの疑問の答えを知ることを熱望しましたので、こう質問せずにはいられませんでした。

「今仰ったことは理解できますし、再臨された主による裁きの働きの段階を通してのみ清められるということも分かります。これは正に私が長い間待ちわびていたことです。今本当に知りたいのは全能神がどのようにして裁きの働きにより人々を清め、御救いになるのかということです。これについても分かち合いをお願いします」

スー姉妹は続けました。

「全能神がどのようにして裁きの働きをされ、人々を清められ、御救いになるかという質問は、変化と清めを成し遂げることを希望する人にとって特に重要です。全能神の御言葉は真理のこの側面についてお話しになられています。あなたにその御言葉を送ります。是非お読みください!」

私は全能神の御言葉を興奮しながら読みました。

「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

私が御言葉を読み終えると、スー姉妹は続けてこう話してくれました。

「全能神の御言葉は神がどのように人々を裁き、清められるかをとても明白にご説明されています。終わりの日の神は、人類を裁き、清め、救うために、人の堕落した性質と神に抵抗するサタンのような性質に関する真理をおもに語っておられます。全能神は真理の多くの側面についてお語りになりました。例えば、サタンがどのようにして人々を堕落させるか、神がどのようにして人々を御救いになられるか、人に従うとはどういうことか、神に従うとはどういうことか、神を信仰するにあたってどのような観点を抱くべきか、人の性質の変化とはどういうことか、神を畏れ悪を避けるとはどういうことか、神の性質を害するとはどういうことか、正直な人になる方法等です。これらの真理には全て権威と力があり、人々にいのちの糧を与えることができるのです。これは神が人類にお与えになった永遠のいのちへの道なのです。神の御言葉を受け入れ、実践する限り、人は清めと救いを受けることができるのです。全能神による裁きの働きを数年間体験し、私たちはこれらを身をもって体験しています。人を裁き、刑罰を与え、暴露する全能神の御言葉を読むと、御言葉は私たちの反抗心、堕落、抵抗、誤った意図、観念、想像、さらには心の奥に隠れているサタンの毒までを明らかにするもろ刃の剣であるように感じます。それは私たちが確かにサタンにあまりに深く堕落させられており、傲慢で、独善的で、不正直かつ狡猾で、利己的、意地悪で、自分の利益以外の全てに盲目であるといったサタン的な性質に溢れていて、神への畏れなどないことを気付かせてくださいます。私たちの行動、心、考えを満たしているものは汚れかつ堕落であり、何の人間らしさもないことが分かります。私たちは恥ずかしさのあまり見せる顔がないと感じますが、サタンの堕落した性質を指針にして生き続けたら、この先いつも神に嫌われる人となり、決して神から称賛を得られるようにはなれず、除外と懲罰を受ける運命になるのだと気づきます。全能神の御言葉による裁きと明示は、私たちに神の威厳ある、怒りに満ちた、義なる性質を認識させ、徐々に神を畏れる心を育て、真の悔い改めと変化を遂げさせてくださるのです。今、私たちは少し人間らしさをもって生きていると感じており、確かに神の偉大な御救いを受けたのだと理解しています。神の裁きを受けていなければ、私たちは人に侵されることを容認なさらない神の義なる性質も神の聖く善良な本質を知る機会がなかったことでしょう。自分自身の反抗心や堕落を嫌うこともなく、堕落を捨て去り清められることもできなかったでしょう。ですから、神の裁きと刑罰を経験すればするほど、神の裁きと刑罰は私たちにとって最高の御加護であり、最も偉大な祝福であり、最も真なる御救いであることがより明確に分かるのです!」

リュー姉妹もこう話されました。

「終わりの日における全能神の裁きと刑罰の働きは人々を完全に清め、救い、完全にするための働きです。終わり日のキリストの御座の前で裁きを受け入れなければ、いのちの性質の清めと変化を遂げることができません。その結果として確実に神から拒否かつ除外され、地獄に落ちて滅びることになります。救いを授かり天国に入る機会はありません。これは絶対です」

私は嬉々として言いました。

「神に感謝します! お話を聞いてから心がとても明るくなったような気がします。私は長年に渡って主を信仰してきましたが、罪深い生活を送り、それから抜け出す力がありませんでした。今私は、終わりの日の神の裁きと刑罰を受けなければ、罪の束縛と抑制から抜け出すことはできないのだと理解しました。私はやっと清めと救いへの道を発見したのです」

数日間の交流後、私と妻は真理をある程度理解し、終わりの日の全能神の働きを受け入れました。

私に愛と救いをくださる全能神に感謝いたします! 牧師として、私には知り合いの他の全ての牧師と兄弟姉妹を神の前に導く責任と義務があります。兄弟姉妹としばらく協力した後、集会に頻繁に参加する教会の兄弟姉妹数十名全員が全能神を受け入れただけでなく、他の家庭教会の牧師を一人神の家族へと導き、その教会の兄弟姉妹の大多数も神のもとへ連れ戻しました。私はこの兄弟姉妹たちが終わりの日の神の御救いを受け入れて、神の御座の前で引き上げられたのを見て感動しました。この全てが全能神の働きの結実です。すべての栄光は全能神のもの!

クリストファー(フィリピン)