神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

人生の明るい道を歩んでいます

2019-09-24 23:29:25 | 書籍

人生の明るい道を歩んでいます

以前、私は世界のトレンドを追い掛けるような人で、遊蕩生活に身を任せてしまいたくて肉の快楽だけを欲していました。私はよく友達と一晩中カラオケに行ったり、夜中に車を乗り回したり、海に出て釣りをしたり、美味しい食べ物を探して世界中を旅したりしていました。自分の周りにいる他の人達を見ても、皆が美味しい物を食べたり、高価な物を身に付けたり、贅沢を楽しもうとしていました。私は、人は人生においてこういったものを目指して働く必要があり、これが一生懸命働いて収入を得る必要がある理由であり、これが皆が持つべき人生の目標なんだと感じていました。こういったものを手にしてのみ、人生を無駄にしなくて済むと思っていました。 こういったものを手にするためなら、どれだけの距離を旅しても構わないと思いました。そして私は海を渡って渡米し、数年間苦労した後に、自分のビジネスを立ち上げたのです。私は自分の車と家を持っていました。私は夢にまで見た恵まれた生活を送っていたのです。私は毎日、満腹になり心が満足するまで食べて、呑んで、快楽を追い求めました。私はこういう生活を送ってのみ人生には意味があるのだと思っていましたが、それは私が終わりの日における全能神の働きを授かるまでの話しでした。私は、神の裁きと刑罰を受けてから初めて本当に意義深い人生というものを認識し、それから私は人生の明るい道を歩み始めたのです。

2016年の5月、私の妻が全能神の国に関する福音書をくれました。全能神の御言葉を読み、私は神の6000年の人類救済に向けた経営計画について知り、更には、全能神はイスラエル人をエジプトから導き出されたヤ―ウェ神であられ、十字架に釘付けにされて人類の罪を贖われた主イエスでもあられ、そして今、真理を説いて、人類に対する裁き、清め、救いの働きを実行されるために、肉として御戻りになられたということも理解できました。しばらく経たない内に、私は全能神教会で教会生活に参加するようになり、そこで兄弟姉妹達と出会ったのです。私は、彼らが皆誠実で、彼らの言葉には見せ掛けや、口先だけの社交辞令などがない事を知り、彼らと出会ったことで今まで感じた事がないような解放感を味わいました。

私は教会で集会に参加し始めた頃、とても新鮮な気分がして、兄弟姉妹達と共に集い、真理を追い求めて、いのちの性情の変化を遂げたくなりました。しかし、私はそれまでの間、肉の安楽を切望し、人生の快楽を求めていたため、彼らと一緒に集まって真理を追い求めたいという思いはあっても、これを気にせずにはいられませんでした。ある時、私は友達からディナーに招待されたのですが、それは教会の集会と同じ時間だったので、心の中で強い葛藤を感じました。 行くべきか、行かないべきか?私はこの決断についてこう考えました:“最後に出掛けて楽しんでからずいぶん経つよな。友達が今日私を招待するのは簡単なことでもないだろうから、行くべきかな。友達には毎日招待してもらえる訳でもないし、教会の集会は次回にすればいいか。” こうして、私は用事があると断言して、教会の集会に行く予定を変更してディナーに出かけたのです。私達は食べて、呑んで、カラオケにまで行ったのですが、帰宅途中、私は心の中では何の幸せも感じていなかったのです。私は、心の奥底で、説明できないような虚しさと罪の意識まで感じていたのです。 私は過去を振り返ってみました。私が友人達や他の村民達と食事をしていた時、ディナーのテーブルでは全員がいつになく誠実に私と接してくれていたのですが、私の知らない所ではどうやって私からお金を騙し取ろうかと頭を悩ましながら悪巧みをしていたのです。私は彼らの相手をしながらとても疲れてしまいました。私はどうしても自分の関心事について話せる人が見つけられなかったのです。今日、私は出掛けて、満足するまで呑んで、食べて、友人達を満足させることも出来ましたが、私はこれから一体何を得たのでしょうか? 私は虚しくて、心細くなり、神を失望させてしまったような気分になり、自分の兄弟姉妹達にも申し訳ない気持になりました。

しかし、心に感じるこの虚しさと自責の念を以てしても私を肉の快楽から解放することは出来なかったのです。私は、依然として心の中では遊蕩生活や肉に属するものに身を任せてしまいたいと思っていたのですが、神は私の追い求めることに関する誤った考え方を正すために、実際的に様々な出来事をご用意して下さり、環境をご計画して下さったのです。国慶節が近づいていた時、私の妻がこう言って提案をしてきました:“シンプルなお祝いをしてから、残った時間で神の御言葉をもっと読んで、神の家族の動画を見ましょう。そしたら、真理をもっと授かることが出来るし、神の御救いの恵みを理解することが出来るわ。” しかし、私は妻の言葉を真剣に考えず、代わりに元々計画していた通りに記念日の祝いの準備を始めたのです。私は道のりを慎重に選び、マーケットに行って必要な食材とその他の物を全て購入しました。私は妻と一緒に海辺に行って、二人でこじんまりとバーベキューをすることにしたのです。国慶節の当日、私は妻を連れて車で楽しく出発しました。しかし、事は計画通りには進まず、道がずっと渋滞していた上に、旅の途中でGPSが誤動作を起こしていたため私達は間違った道を行っていたことに気が付いたのです。目的地まで行くのは大変で、やっと海辺に到着した時も、風がとても強くてバーベキューが出来ませんでした。こうして、私の妻は引き返して家に帰ろうと言ったのですが、私はそうしたくありませんでした。私は運転を続けてバーベキューが出来る近くの公園を探そうとしつこく言い張って、他の3つの公園に行きましたが、その全てが人でいっぱいだった上に、駐車スペースが無かったのです。これでやっと、私はしぶしぶ引き返し、自宅に向かって運転し始めました。家路はさきほど同様に大渋滞していました。私達は、元々昼食にバーベキューをしようと出発したのですが、既に夕方の4時だというのに未だ何も作れていなかったのです。私達はもう腹ぺこでした。通常なら、私は自分が正しと感じて、自信に溢れているところなのですが、今回は、腹も立たず、何も言いたいことがありませんでした。私はただ静かに座って気が晴れないまま自宅に向かって運転しました。その時です、私の前にいた車が急ブレーキをかけたので、私も素早く急ブレーキをかけました。前の車にはぶつからずに済みましたが、私達は後ろから追突されてしまったのです。幸い、誰にも怪我はなく、車の表面がかるく凹んだだけで済みました。この事故が起ったのは神の許しによることだと分かっていた私は、この運転手を非難などせずに、ただ運転を続けました。そこで私は、“入念に計画したのは全部無駄な努力になってしまったなあ。計画してても予期せぬことがあったら対応しきれないってことも、全ては神が御用意して下さっているってことも本当なんだな。今日は本当に外出して人生の快楽にふけようとするべきじゃなかったな。自分の気質を頼りにするんじゃなかったよ!” と思いました。

帰宅した後、私と妻は神の御言葉の中からこの数節を一緒に読みました:「旧約聖書時代の神の働きや神の言葉の記録を、神話や伝説として取り扱う人々はますます多くなっている。人々の心は、神の威厳と偉大さに対して、また神が存在し、万物を支配しているという教義に対して無関心になっている。人類の生存、そして国家と民族の運命はもはや彼らにとって重要ではない。人は飲食と快楽の追求にしか関心のない虚しい世界に生きている。神が今日どこで働きを行っているのか、あるいは、神が人の終着点をいかに支配し、定めているのか、それを自らすすんで探し求める者はほとんどいない。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)「人々が世界を見渡すと、彼らの心は惹きつけられ、多くの人はそこから抜け出すことができない…進歩しようと努力せず、理想もなければ、あなたはこの邪悪な波によって押し流されてしまうだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「実践(2)」より)全能神のこの御言葉は世界のトレンドの本質を分かり易く、明瞭にして下さりました。世界のトレンドというものは、ただ単にサタンが人類を誘惑して堕落させるため利用しているものなのです。こういった物は人を破滅させるための罠であり、計略なのです。サタンは食べることや呑むこと、快楽を追い求めること等、肉が欲するものを利用して人を騙し、束縛するのです。人の心はこういった肉に属するものに取りつかれてしまうと、肯定的なものを追い求めなくなってしまい、神から増々疎遠して行き、結果的にはサタンによって破滅させられ、捕らえられてしまうのです。私は、神の御言葉を読んで、追い求めることに関する自分の見解はその全てが完全に間違っていたのだと気が付きました。私の関心事が食べることであれ、呑むことであれ、肉の快楽を追い求めることであれ、人の上に立てる生活を求めることであれ、こういったものの全てはサタンが人類を堕落させた結果なのです。私は、自らの実体験により、人がこういったサタンに属するものを追い求めると、人は増々堕落していき、増々ずぼらになり、放蕩していくのだと確認しました。それはただ単に、人の貪欲さ、身勝手さ、邪悪さ、そして不実さを悪化させていき、その人達は罪の中に生きることとなり、普通の人間性を失ってしまうのです。 人がこういったものを増々楽しむようになっても、こういったものをどんどん手にすることが出来たとしても、結局は虚しいままとなるのです。人がこういったもの全てを手にしても、神の前に来ることが出来なければ、その人のいのちは結局無駄になってしまい、意味もなければ、価値もないものとなってしまうのです。人は、神の前に来て、神を信じ、神を敬って初めて適切な生活を送る道を歩んで行き、人はその時初めて虚しく、邪悪な生活から自らを解放することが出来るのです。これを踏まえ、私は自分の生活の仕方を変えて、生活の正しい道を歩む決心をしたのです。

私は、自分の兄弟姉妹達が神のために積極的に労力を費やしている所を見た時、そしてそれぞれの本分を尽くすことと有意義な人生を送ることに対する彼らの情熱を見た時、私も同じものを追い求め、神の御要望に従った真の人の生き方を熱望するようになりました。これを踏まえ、私は、通常の集会への参加に加えて、自分自身の本分を尽くすための時間も欲しくなりました。この時、教会は私にいつくかの本分を用意してくれたのです。私は教会から2人の姉妹をある場所へ車で連れて行き、翌週彼女達を迎えに行って欲しいと頼まれました。 最初にこの本分が私に任された時、私は喜んでそれを引き受けました。しかし、この本分を私に割り当てた兄弟姉妹達が去った後、私はこれについて考え直し始めた上に、“困ったなあ、この姉妹達を連れて行く日は僕の休みの日じゃないか。しかも、来週ピックアップしに行く時は凄く早起きしなきゃいけなくなるし、移動距離は問題じゃないんだけど、あの道はすぐ渋滞起こすのが問題なんだよなあ。車が少ない朝早くに行くのがベストだけど、帰りに長時間渋滞に巻き込まれるかもしれないなあ。渋滞の中で座ってるだけじゃ時間の無駄になるだし、せっかくの休日が台無しだよ。。。” と後悔までし始めたのです。私がこう不平を漏らしているのを聞いた妻が私にこう言って交流してくれました:“本分を尽くすってことはあなたが思っていたほど単純なことじゃないのよ。間違いなく真理を実践することが伴うの。真理を実践するってことは、肉に背くってことよ。それは、あなたが苦難を経験して、犠牲を払うってことよ。考えてみてよ、あなたは今まで遊びにいっては呑んで、食べて、快楽を求めることが出来ていたから、疲れた日の後に楽しい思いが出来なくなって一言も文句を言わなかったでしょ。でも、あなたは、今せっかく本分を与えてもられるようになったのに、それに自分のフリータイムを使って困難のある道を歩むはめになったからって、心の中ではこれをやりたくないって思ってるのよ。この本分は、表面的には兄弟姉妹達があなたに割り当てたもののように見えるけど、これは特定の誰かのために尽くすものじゃなくて、実際には神に御満足していただくため、神の愛に応えるために尽くすものなのよ。この本分は今日、あなたに与えられたもので、神があなたを引き上げて下さっているの、これは神の愛があなたに舞い降りてきているということなのよ。あなたはこれを大切にして、初日に後悔が残らないようにしないとだめよ。” 妻は、私にこう言った後、神の御言葉のこの節を読んでくれました:「あなたが行うすべてはあなたが一定の代償を努力で支払うことを要求する。実際の困難がなければ、あなたは神も満足してもらうことはできないし、神に満足してもらうことに近づくことさえなく、それらは空虚なスローガンに過ぎなくなる。これらの空虚なスローガンは神に満足してもらうことができるだろうか。神とサタンが霊的領域で戦う時、あなたは神に満足してもらうためにどうすべきか、どのように固く証しに立つべきだろうか。あなたは自分に起こることのすべては大いなる試練であり、その試練の時に神があなたの証しを必要とすることを知るべきである。外面的には大したことではないように見えるかもしれないが、これらのことが起こると、あなたが神を愛しているかどうかが示される。愛していれば、あなたは神への証しに固く立つことができるが、神への愛を実践に移さなければ、これはあなたが真理を実践しない人であること、あなたには真理もなくいのちもないこと、あなたは無用の物であることが示される。人々にすべてが起こるのは、彼らが神に対する証しに固く立つことを神が必要とする時である。当面、あなたには重要なことは何も起こっていないし、あなたは重大な証しはしていないが、あなたの毎日の生活の詳細はすべて神への証しに関連している。」(『言葉は肉において現れる』の「神を愛することだけが本当に神を信じることである」より)

私は、全能神の御言葉を読み終えた時、そして私の妻の言葉を聞き終えた時、神がこの本分を私にお与え下さったのは、私が神を満足させて苦難に耐えられるか否かを見るための本当の試験であったのだと気が付きました。しかし、私は、自分の肉の欲するものと個人的な損得だけを考慮し、苦しんで犠牲を払う意思もなく、その代わりに不平ばかり言っていることを明らかにしていたのです。私は、自分が非常に利己的であることに加え、自分の心の中では呑むこと、食べること、その他の快楽を含めた肉の喜びが神よりも高く位置づけされていたことが分かったのです。 私は食べるため、呑むため、快楽を求めるためなら自分の所有物の何を費やしても、どんな犠牲を払っても全く構いませんでしたが、神のために自分の時間を費やすことを要する本分を与えられたとたんに、私は自分の損得を判断するようになり、神に御満足していただくために真理を実践しようという意思も持てていなかったのです。このように考えて行動していたのでは、私はサタンからあざ笑われ、神の前で神の証言が出来るようにもならないでしょう。こういった事柄を理解した後、私は素早く神の前に行き、私が神の前で神の証言をし自分の置かれた霊的な戦いでサタンを打ち負かすために、確実に肉に背きサタンに従うことを止められる意思をお与え下さるよう祈りを捧げました。私は、本分と実際に協力することに対する自分の態度を改めた後、神の祝福を実際に目にしたのです。私が姉妹達を連れて目的地に向かっていた時も、彼女達を迎えに行った時も、大きな渋滞は起きなかったのです。それは私の想像を完全に超えるもので、私の観念を本当に覆されてしまったのです。私は、初めて、本分を尽くすことで得られる平安と幸福を実感し、人が肉に背き、神の御満足していただくことを実践すると、神はその人に道を開いて下さるだけでなく、その人が真理を理解して神の御業を目にすることが出来るようにして下さることも分かりました。私は、突然、これはバケーションに行ったり、豪華な料理を食べることよりも私を幸せにしてくれていると感じたのです。この本分を休日に尽くすことは全く時間の無駄ではないことが分かったのです。むしろこれは非常に意味のあることなのです!

私はこういった実経験の中で、肉に背いて本分を尽くして神に御満足いただくことの美しさを自ら知ることができたのです。神がなされること全ては、私をサタンの邪悪な支配から救い、そうすることで、私が近い将来に真理を追い求める正しい道を歩むことが出来るようにすることなのだと分かりました。こういったもの全ては神の愛であり、神の御救いなのです。数日後、私は兄弟の一人から電話を受けました。私は彼から他の省に出向いて兄弟を数人迎えに行ってくれないかと頼まれ、何のためらいもなくそれを引き受けました。これを引き受けた後、私は不満を感じてはいませんでした。私はこの任務にとても前向きに、喜んで着手し、移動も最初から最後までスムーズに行きました。兄弟姉妹達をそれぞれの目的地まで無地に送って行った後、私は自分をとても誇らしく感じました。なぜなら、私が不純な心を持たずに、意欲的に自分の本分を尽くしたのはこれが初めてだったからです。これはまた、神の創造物が尽くすべき本分を実際に尽くすということは、人が行い得る本当に最も意義深いことであると私に教えてくれたのです。私はもう呑むこと、食べること、娯楽を求めることを望まなくなり、肉の欲する快楽を求めることもなくなり、真理を追い求め、受け入れ、実践し、近い将来に神を心から愛する人になることだけを望みました。 こういった私の生活における些細なことが私の気が付かない形で私を変えてくれたのです。私の生活はもう以前のように腐っても、堕落してもいません。私は変わり始め、物事に積極的に取り組むようになりました。これはまるで、私が人生の全く新しいチャプターを歩み始めたかのような感じがします。私は心の中で今まで感じたことがないような人生の美しさと喜びを感じ、全能神が私を人生の明るい道へと御導き下さったことに感謝しています。全ての栄光、全能神にあれ!

シェ・リー(米国)


カトリックの信仰:主は本当に再臨された

2019-09-22 23:30:11 | 書籍

カトリックの信仰:主は本当に再臨された

レンシー(米国)

私の家族は全員が神様を信仰しています。私は子どもの頃から母と一緒にミサに参列し、神様は私たちに本当にたくさんの恵みを与えてくださいました。私たちは神様への感謝の気持ちで満たされ、主の再臨を切望していました。しかし、主が働き私たちを救うために本当に再臨された時、自分が主の働きに気づかないどころか、自分の傲慢な本性に頼り、古い観念にしがみついて危うく主の救いを逃しそうになるとは想像しませんでした。私はこれについて考える度に自責の念に駆られ、また同時に喜びも感じます。主イエスは私をあわれんでくださり、兄弟姉妹が根気強く主の新たな御言葉について語ってくれたおかげで、私は主の新たな働きについての認識を得て主の足跡についていけるようになったのです。私は主の救いによって神の国の時代行きのいわば最終列車に乗ることができたことをとても感謝しています。いま、主を受け入れる過程での様々な場面が私の頭に浮かんできます。

カトリックの信仰, 主の再臨

ある日、母の教会友達のリー叔母さんが、終わりの日の神の福音について話すために教会友達を何人が連れて私たちの家にやって来ました。私は叔母さんたちは私たちをプロテスタントに転会させるために来たのだと思ったので、あまり歓迎しませんでした。しかしリー叔母さんは言いました。

「主は既にお戻りになりました。主は全能神で、終わりの日のキリストです。全能神は真理を表され、神の家から始まる裁きの働きをされました。恵みの時代は終わって、今は神の国の時代です。罪を犯しても、もう神父様の所に行って告解しなくていいんです。代わりに直接全能神の御言葉を読み、その裁きと刑罰を受け入れ、神様の御言葉から自分の堕落した性質についてよく考えて、それを認識し、神様の要求事項に従って振る舞えばいいのです。こうすれば、私たちは徐々に罪の束縛から解放されて、清らかになり、神の御心に沿った人になれるのです」。私はこれを聞いてショックを受けました。そして心の中で、「全能神が主の出現?でも、私は今まで何年も主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かった。全能神の新たな働きを受け入れたら、主イエスに背くことになるんじゃない?」と思いました。私は少し混乱しました。私は自分の考えを何も言いませんでした。それで、私の態度を見た叔母さんたちもそれ以上は何も言いませんでした。

その後、私は姉が頻繁に一人で外出するようになり、帰宅した後には母と一緒に何やらこそこそ話しをしているのを目にしました。それから、二人は一緒に外出するようになり、帰宅するといつも満面の笑みを浮かべていました。二人は以前よりも調子が良いようでした。私はこれにとても困惑し、二人は何かを隠しているんだと思いました。しばらくした後、二人は終わりの日の全能神の働きを受け入れ、全能神は主の出現であることを見極めたとまじめに私に告げたのです。二人は私にこれを真剣に検討するように勧めました。私は二人がそう言うのを聞いて理解に困りました。私は「お母さんとお姉ちゃんはとても敬虔な信者なのに、どうして今では全能神を信じているの?これは主の道から離れてカトリックの信仰に背くことにならない?二人はたった数日で変わってしまった」と思いました。私は顔をしかめて何も言いませんでした。その私を見た姉は言いました。

「その気持は分かるわ。リー叔母さんが来て終わりの日の福音の話をした時、私も間違った信仰を取り入れてしまうのが怖かった。でも、叔母さんたちが宣教していることは十分に筋が通っているし、聖書の預言にも一致していることがわかったの。世界中で災害がどんどん大きくなっていることも知ったわ。これはみな主の再臨のしるしよ。もし全能神が本当に主の再臨ならば、その全能神を受け入れるのを拒否したら、主の救いの恵みを逃してしまうことになるんじゃない?だから、私は『全能神が本当に主の再臨であるなら、主の足跡を辿って、全能神の福音について話してくれたあの姉妹たちにもう一度会えるよう、私を啓き導いてください』と主に毎日祈りを捧げたの。そしたら、不思議なことに叔母さんたちがまたやって来て、私に全能神の国の福音について話してくれたので、これは主の意図で采配だって分かったの。それで私は終わりの日の全能神の働きを調べ始めたの。叔母さんたちはそれから私に全能神の御言葉をたくさん読ませてくれたの。そのすべてに権威と力があって、そのすべてが真理で神の御声であると知ったの。全能神は、神様の経営計画の目的、神様が人を救われる方法、人類の堕落の根源、人間はどうやって悪を振り払って救われるべきか、私たちの最終的な結末と終着点といったすべてについて私たちに語ってくださった。全能神の御言葉を読んで、私は真理と聖書の奥義をたくさん理解したわ。私の心の中はすごく明るくなって、私は全能神は主イエスの再臨だって心の中で判断したの」 姉の言ったことを聞いて、私の心のわだかまりが少しほぐれました。姉はむやみに終わりの日の全能神の働きを受け入れていたのではなく、主の導きを求め続けていたのです。主の再臨を待ち続けていながらも、主が本当に再臨されていると人々が証言するのを聞いた時に謙虚な気持ちで探求しようとは思わなかった自分を考えると、その時私は少し恥ずかしくなり、自責の念も感じました。そんなことで、どうして主の啓きと導きを得ることができるでしょうか。全能神が本当に主の再臨であり、それを私が探求も考察もしなかったならば、私は本当に主の救いを逃してしまうのではないでしょうか。そう気づいた時、私は終わりの日の全能神の働きを考察することを姉に約束しました。

その二日後、母と姉は見学できるようにと私を全能神教会に連れて行ってくれました。私はまだ警戒していたので、人が話し合っている間、どうしても静かにしていられなかったのですが、母と姉が一緒だったので、恥をかかせないようにと無理して「真面目に」話を聞きました。その間に、私はそこの教会の兄弟がこう話すのを聞きました。

「ミサに参列しても司祭はいつも聖書から同じことばかり話し、つまらなくて何の光もないとほとんどの人が感じでおり、教区民は何の喜びも得られません。彼らは毎日告解していますが、抜け出すことができない罪の中にいまだに生きています。たくさんの人が信仰を失って闇に陥りました。宗教界全体が荒廃し、聖霊の働きを欠いていることは誰もが知っています。これは広く認められている事実です。ですが、宗教界が荒廃している理由はご存知でしょうか。これは、主イエスの再臨をお迎えできるかどうかに直接関わることです。実は、宗教界が聖霊の働きを失い荒廃した理由はおもに二つあります。一つ目は、司祭と指導者たちが主の戒めに従わず、主の御言葉を実践してもおらず、代わりに人間の作った伝統を守り、神学的議論や聖書に関する知識に注目してばかりいることです。彼らは人から尊敬されるように、これを利用して自己顕示して自らの証しを立てているのです。彼らは主を証ししたり高く掲げたりすることもなく、人々が真理を理解して主を知ることができるように人々が主の御言葉を実践したり体験したりするように導くことも全くありません。彼らは主の道から完全に外れてしまったので、主から見捨てられ、排除されてしまったのです。これが宗教界が荒廃している第一の理由です。もう一つの理由は、主イエスが再臨されたからです。主は受肉して全能神となり、主イエスのなされた贖いの働きを土台にして、神の家から始まる裁きの働きをされ、終わりの日の全能神の働きを受け入れたすべての人々裁き清めるために真理を表されています。これに伴い、聖霊の働きも終わりの日の神様の裁きの働きに移行したのです。この働きを受け入れる人は聖霊の働きを受けられるほか、生ける水の供給と潤しも得ることができます。しかし、宗教界の中にはまり込み終わりの日の神の働きを受け入れない人は聖霊の働きを失って、闇に陥り、否定的で弱くなってしまいました。これは聖書にあるこの預言を成就しています。「わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。」(アモス書4:7)

私はこの話を無理やり「真面目に」聞きましたが、心配が邪魔をして兄弟の話をあまり理解できませんでした。家に帰った後も、教会に行って祈りを捧げたり、聖書を読んだり、ミサに参列するということを続けましたが、心を落ち着かせることが全然できませんでした。あの日の話が頭の中に浮かび続け、私は考えました。

「あの兄弟の話は筋が通っていたし、私も教会は聖霊の働きを欠いていると感じていた。主が新たな働きをするために本当に再臨されているってことがありえるのだろうか。でも、私はずっと主を信仰してきて、主は私にたくさんの恵みを与えてくださった。私に主を裏切ることなんてできない」

私は強い葛藤を感じ、終わりの日の全能神の働きを考察し続けたいのかどうかが分からなくなってしまいました。

ある時、私はミサに行ったのですが、教会に到着して唖然としました。以前だと到着した時にはミサはいつも既に始まっていたのですが、その日はまだ教会の中の明かりがいくつか消えたままになっていて、中は真っ暗でした。人は数人ちらほらといるだけで、ただ座って世間話をしていました。司祭の姿はどこにも見当たりませんでした。目の前の光景は私にとって非常に残念なもので、私は思いました。

「教会は本当にどんどん荒廃している。全能神教会の兄弟姉妹たちが言ったように、主はお戻りになって新たな働きをされ、それに付いて行けない人たちは聖霊の働きを失ってしまったということなんだろうか。あぁ、主の働きは本当に移行してしまったのか」

ミサの後、私は家に帰り、主イエスの肖像画の前に立って静かに祈りました。

「あぁ、主よ!本当に肉となり新たな働きをされたのですか?全能神は本当に主の再臨なのですか?主よ!どうか私をお導きください」

この祈りの後、のしかかっていた大きな重りが引き上げられたように感じました。私は息をついて、思いました。

「この教会にはもう聖霊の働きが宿っていないから、聖霊の働きのある教会を探さなきゃ。そうよ、終わりの日の全能神の働きを調べ続けなきゃ。全能神が本当に主イエスの再臨なら、受け入れなければ!」

私はこう思った時、気持がとても楽になりました。

その後、私は母と姉と一緒に終わりの日の全能神の働きを勉強し続けました。驚いたことに、もう一度説教を聞きに行ったときに心を静めることができることに気づきました。そして、私は心の中の困惑を打ち明けました。

「以前、教会が荒廃する理由についてのお話を聞いた時、私も全く同じ意見でした。教会は本当に荒廃していて、聖霊の働きを欠いています。でもまだ気掛かりなことがあるんです。私は長年に渡って主を信仰してきて、たくさんの恵みを授かりました。主イエスから離れて全能神を信仰したら、主イエスに背くことになりませんか?これについて話していただけませんか?」

私の質問を聞いたリュウ姉妹は笑顔で言いました。

「姉妹、それは本当に重要な質問ですね。その心配はおもに神の働きの理解が足りないために生じるものです。それはちょうど律法の時代末期に神が主イエスとして受肉され、律法の時代の基盤の上に恵みの時代の働きを完成された時と同じです。主の御言葉を聞き、それが神の御声であることに気づいて主の働きを受け入れた人たちは皆、主と共に歩んでいた人たちでした。ペテロ、ヨハネ、サマリア人の女と同じように、彼らは主イエスの御言葉を聞いて、主がメシアであることに気づいたのです。彼らは神の足跡を辿り、神の御言葉の潤しと霊的な糧を授かり、聖霊の働きを得ました。彼らはヤ―ウェに背かなかっただけでなく、神の足跡について行きました。それがヤ―ウェ神に忠実でいられる唯一の方法だったからです。しかし、律法にしがみついて主イエスの御言葉と働きを受け入れなかった司祭長、律法学者、パリサイ人はヤ―ウェ神の称賛を得られなかった上に、神に抵抗する人となり、主の働きによって排除されてしまったのです。同様に、終わりの日の主は神の経営(救いの)計画および人類の必要に合わせて、主イエスの働きを土台に裁きと清めの段階の働きをされました。終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなくて、むしろ神の足跡を辿ることです。それは神の道を守り忠実に神に従うことです。これはヨハネの黙示録にある『そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。(ヨハネの黙示録14:4)』という預言を成就しています。これは全能神の御言葉を何節か読めばもっと良く理解できます。全能神はこう仰いました。

人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)「ヤーウェの働きからイエスの働きまで、イエスの働きからこの現在の段階の働きまで、これら三段階は神の経営の全幅を覆うもので、そしてすべてひとつの霊による働きである。神が世界を創造した時から、神は常に人類を経営して来た。神は初めであり終わりであり、最初であり最後であり、時代を始められる存在で、また時代を終わらせられる存在である。違った時代、違った場所における三段階の働きは確かにひとつの霊によって行なわれる。これら三段階を切り離す者たちはすべて神に反抗している。今、第一段階から今日に至るまでのすべての働きはひとつの神の働きであり、ひとつの霊の働きであり、それに関して疑いの余地はないということを理解しなければならない。」(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より)「現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。」(『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が受肉の意義を完成させる」より)

三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。」「ひとつの霊によって行なわれる。」これほど新鮮な言葉を聞いたのは初めてのことで、私はそれに深く引き込まれました。私は思いました。

「これら三つの段階の働きは律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代ですね。この三段階はすべて主がなさるのですか。なぜ主は三段階の働きをおもちなのですか。この三段階はどのように完成されるのですか」

私はとても興奮していて、そこにある奥義を理解したかったので、自分の困惑を言葉にしました。

リー姉妹はコンピューターで三段階の働きの解析図を開いてから、話してくれました。

「主が人類を救う働きには合計で三段階あると全能神の御言葉は私たちに教えてくださいます。一つ目は旧約聖書の律法の時代、二つ目は新約聖書の恵みの時代、そして三つ目はヨハネの黙示録に預言されている神の国の時代です。これら三段階は、神様が異なる時代になさる異なる働きであり、時代、働き、神様の御名、神様が表現される性質はすべて異なりますが、これらはすべて一つの御霊による働きです。この三段階はそれぞれが次の時代に綿密につながっており、それぞれが前の段階よりも高く、奥深いのです。このうちどの段階を欠いても、人類をサタンの支配から完全に救い出すことは不可能です。旧約聖書の律法の時代の間、神様はヤ―ウェという御名で働きをされました。神様は威厳、怒り、慈しみ、そして呪いといった性質を表現されました。神様はモーセを通じて戒めと律法を発布され、創造されたばかりの人間の地上での生活を導き、人々は罪とは何か、どのようにして神様を礼拝すべきか、ヤ―ウェの律法を守ることで神様の祝福と恵みを受けられるということを知りました。律法を破る人は石で撃ち殺されたり、火あぶりにされました。律法の時代末期に近づくと、人々はますます堕落して罪深くなり、もはや律法を守りませんでした。人々は皆、律法によって断罪され処刑される危険にさらされていたのです。そして、神様は人類の必要に合わせて新しい段階の働きをなされ、働くためにイエスとして受肉されました。イエスは恵みの時代を迎え入れ、律法の時代の幕を閉じられました。イエスは愛と慈しみの性質をお見せになりました。神様は悔い改めの道をもたらし、寛容で忍耐強い心を持つこと、敵を愛すること、そして人を何度でも許すことを人々に教えられました。イエスはまた人々に豊かな恵みを与えられ、最後には人類を救うために十字架にはりつけられ、私たちをサタンの支配から救ってくださいました。それ以降、私たちは罪を犯すたびに主イエスに呼び掛けて罪を告白し悔い改めることができるようになり、それにより私たちの罪は許され、私たちは神がお与えくださる平安と喜びを受けられるようになったのです。私たちの罪は主イエスの贖いによって消し去られますが、私たちは未だに堕落したサタン的な性質から抜け出すことができていません。それ故に、私たちは依然として頻繁に罪を犯してしまうので、神様に得られていないのです。私たちを罪から完全に救い出すために、神様はもう一度肉となられ、全能神の名において神の家から始まる裁きの働きをされ、人類の堕落した本性を明らかにし、私たちの不義を裁き、私たちが神の御言葉をとおして自分たちの本性を知り、自分たちがどれだけ深くサタンに堕落させられているかという真理を明確に知り、堕落の根源を知り、不可侵である神の義なる性質を認識できるように、無数の御言葉を表現されました。神様の御言葉はまた、私たちがサタン的な性質から自らを解放するために実践するべき道を指し示してくださっています。神様の御言葉の裁きと刑罰を受け入れて自省し、神様の御言葉が明らかにする自分のサタン的な性質を知り、真理を実践するならば、私たちは次第に罪の束縛から脱却し、物事の見方も徐々に変わり、いのちの性質も時間とともに変化を遂げます。最終的に、私たちは神様を畏れ、悪を避け、神様の御心に沿った人となり、ついには神様に素晴らしい終着点へと連れていっていただけるようになるのです。三段階の働きは神の経営計画と人類の堕落に基づいて実行されています。各段階はその前の段階を基に築かれており、前の段階よりも高く、奥深いものとなっています。もし神様が一つか二つの段階の働きしか行われなかったならば、人類を完全にお救いになることはできないでしょう。三段階すべての働きを行なわれることによってのみ、神様は人類をサタンの支配から完全に救い出すことができるのです。この三段階の働きこそ、神様による人類の完全なる救いの働きなのです。だからこそ、終わりの日の全能神の働きを受け入れることは、主イエスに背くことではなく、子羊の足跡を辿ることなのです。そうする人のみが神に心から忠実な人です。」

神様の御言葉と姉妹の話を聞いた後、私の心はとても明るくなりました。私は嬉しくなって言いました。

「では三段階の働きはすべて一つの神によってなされましたが、それはただ異なる時代にあったので、働き、神様の御名、そして神様が表現される性質もそれぞれ同じではなかったということですね。神様は私たちをサタンの支配から完全に救い出すために三段階の働きをなさっただけですね。神の国の時代における全能神の働きは、主イエスの働きを土台に築かれていて、それはさらに高次の新しい段階の働きであり、私たちが全能神の新たな働きを受け入れる限り、罪深い本性を脱却し、清らかになり、神様に救っていただけるのですね。全能神を信仰することは主イエスに背くことではなくて、神様の新たな働きに付いて行って、主をお迎えするということだと今回は理解できます」

これを聞いたリー姉妹は嬉しそうに言いました。

「そのような理解が得られるのは神様のお導きです。主に感謝します!神様は終わりの日に人間を清めて救うために受肉され、すべての真理を表され、神が人類を救う六千年の経営計画の奥義を明らかにされました。神様は人類を救う三段階の働きの目的、受肉の奥義、サタンはどのように人類を堕落させたのか、神様はどのように人類を救われるのか、人類の最終的な終着点とは何なのか、私たちは救われて天国に行くにはどのように探求すべきかなどの真理のすべてを私たちに教えてくださいました。真理を愛し神様の御声を聞くことができる人々は、神様の御言葉からそれが主の御声であることに気づき、神様の玉座の前に立ち返ることができます。真理を求めることで、私たちは清らかになり、神様に完全にしていただくことができます。しかし、真理を愛さず終わりの日の全能神の裁きの働きを受け入れず、依然として終わりの日のキリストに抵抗して非難する人々は、災難に遭い、涙しながら悔しさのあまり歯ぎしりすることになります。その人々はさらけ出され、排除されます。神様はこのような実際的な働きによって人々をそれぞれの種類によって分類し、最後には善人を報い、悪人を罰されます。神様の経営計画における働きはすべて神様御自身が実行なさり、その代わりをすることは誰にもできないのです」

ヤン兄弟が神様の御言葉から二節を読みました。「もしあなたが三つの段階の働き、つまり神の経営(救い)の全計画に対してはっきりした認識を持ち、前の二つの段階の働きと現在の働きとを完全に関連づけ、それが一つの神によってなされた働きであると捉えることができれば、あなたはこれ以上ないほど強固な基盤を持つことになる。三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もしあなたが神の働きの一段階だけから神を認識するならば、あなたの認識はあまりにも少なすぎる。その認識は大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。」(『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より)

ヤン兄弟は言いました。

「三段階の働きを知ることは、私たちの信仰において最大のビジョンであり、神様を知る唯一の道でもあります。もし神様の三段階の働きを理解しないままであれば、あるいはもし働きの一段階をとおしてのみ神様を知らずに、神様は単に人類の罪を贖い恵みを与えてくれるだけの神様であるとか神様の御名はイエスだけであるなどと信じていたら、私たちはおそらく神様というものを勝手に定め、神様を自分たちの観念と想像の中に制限してしまうことになります。これはちょうどユダヤ教の司祭長、律法学者、パリサイ人が傲慢にも自分たちの観念と想像を頼りに主イエスの働きを決めつけて、「メシア」と呼ばれないのなら神であるはずがないと信じたのと同じです。彼らはあらゆる機会を利用して主イエスに抵抗し、非難し、最終的には主を十字架に釘付けにするという最も凶悪な罪を犯して神に罰せられました。これはイスラエルの民が二千年近くにも渡って国を失うという事態を引き起こしたのです。現在、宗教界の牧師、長老、司祭、指導者たちの多くは神の働きを認識せず、それぞれの傲慢な本性を頼りに自分たちの観念と想像に執着して、全能神の働きに抵抗し、非難を向けています。彼らはパリサイ人が犯したのと同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。神様の三段階の働きのビジョンを認識することができなければ、私たちは宗教界の司祭や指導者に従って神様の働きを裁き、非難し、神様に反抗することをしやすくなってしまいます。これは極めて深刻なことで、確実に神に救われる機会を逃すという結果を招くでしょう」

神様の御言葉とこの兄弟の話を聞いた後、私は興奮して言いました。

「今、本当に理解できました。人類を救うための三段階の働きを行なえるのは神様御自身のみで、神様の三段階の働きを理解していないと私たちは自分の観念と想像をもって神様の働きの範囲を決めつけて、神様に抵抗することしかできず、神様の再臨による救いを逃す可能性が極めて高くなってしまうということですね。ということは、私のこれまでの神様への信仰は無駄ではなかったのでしょうか。私は神様に認めていただけないだけでなく、神様を信仰しながらも神様に抵抗する人になってしまいました。考えるだけでもゾッとします。私は謙虚で従順な人になって、自分の観念と想像を捨てて、急いで終わりの日の全能神の働きを考察して受け入れなければなりません」

私がこう言うのを聞いた母は喜びを込めて「その通りよ!」と言いました。私の姉と他の兄弟姉妹たちも嬉しそうに私に拍手をしてくれました。

その後、私は積極的に全能神の御言葉を読み、全能神教会ウェブサイトで福音映画を観賞し、兄弟姉妹と集会を開いて一緒に全能神の御言葉を読み、神様の御言葉についての自分たちの理解を話し合うようになりました。神様が肉として現れて働きをされることの奥義、神様はどのようにして裁きの働きをなさるのか、そして神様が御名をお変えになることの意義など、私の以前の信仰生活では分からなかった真理をたくさん徐々に理解できるようになりました。集会に参加したり、全能神教会の福音映画を見ることで、神様の新たな働きをもはや疑うことはなくなり、神様との関係もどんどん近くなっているように感じました。私は心の中でもどんどん解放されていく気がして、全能神は本当に主イエスの再臨であることを確信しました。私が全能神の福音を受け入れてからまだあまり時間は経っていませんが、その期間に今までの二十数年の神様への信仰生活で理解した以上の真理を理解していると感じます。私をお救いくださった神様に感謝します。

編集者注 このエッセイを読むと、今日の教会がすべてひどく荒廃している理由、そして私たちはどのように主の再臨をお迎えするべきかがついに理解できました。私たちは、本エッセイの主人公が成し遂げたように、忠実な兄弟姉妹のすべてが聖霊の働きを受け、神様の足跡を辿ることを私達は願っています。では、私たちはどのように注意して主の再臨をお迎えするのを待つべきでしょうか。 (待つ―主の再臨をお迎えするにはどのように目を覚まして待つべきか?)」と題した素晴らしい映画からの抜粋をお勧めします。


熱心に見える教会には聖霊の働きがあるのか

2019-09-21 13:29:13 | 書籍

熱心に見える教会には聖霊の働きがあるのか

信仰ステーションの兄弟姉妹

数ヶ月前、私は所属していた教会の牧師たちが名声と利益のために争い、地位を手に入れるためにあれこれと企んでいるのを目撃しました。それは説教の中でもお互いを攻撃し、けなし合うほどでした。彼らの説教は聞いて喜ばしいものではなく、私たちは霊的な糧を得られないままでした。更には、多くの兄弟姉妹の信仰も冷めていきました。みな富を求め、肉的な楽しみを求めて世の流れに従っており、食べたり飲んだり楽しむことに全関心を寄せていました。ほとんど集会に出席しない兄弟姉妹もおり、生活の中で大変な事が起きたり重要な祝日だったりという時だけ出席していました。…このような教会の状態を目の当たりにした私は、聖霊の働きを伴う教会を探そうと、その教会を去りました。多くの教会を回って探しましたが、どの教会も同じようなもので、希望を失いかけました。けれども最近、様々なショーやイベントを頻繁に行っている教会を見つけました。そこでは海外から牧師が来て説教をすることもありました。その教会の雰囲気はとても温かく、活気に溢れ、大勢の人が毎回集会に出席していました。活気のあるその教会と熱心に集会に出席する兄弟姉妹たちを見て、この教会こそ聖霊の働きを伴っていると考えました。けれども、熱心に見えるその教会でも、牧師の説教は兄弟姉妹にとっていのちの糧となるようなものではなく、霊的に満たされるものではないと気づくまでに時間はかかりませんでした。そこでの歌や踊りは教会の雰囲気を変えるだけのもので、それが続くうちは誰もが元気旺盛になるのですが、皆が座って説教を聞くとなったとたん、居眠りしてしまうという具合でした。そればかりか、兄弟姉妹たちはいつも献金や祈りで互いに競い合っていました。誰でも献金を多くする人が主を愛する人と見なされ、誰でも長く祈って聞こえの良い言葉で祈れば霊的な人と見なされました。…このような教会では、兄弟姉妹は誠実さも謙虚さもないどころか、かえって虚栄心は強くなる一方で、ますます偽善的になっていきました。人前で自分を表現し目立つことに集中し、極端に独善的で傲慢でした。問題に遭遇するといつでも自分の好きなように対処し、他人の話に耳を傾けようとはしません。つまり、全く主の教えを守っていなかったのです。教会でのこのような状況に直面して、私は「外側からはこれほど熱心に見える教会に聖霊の働きがありえるのだろうか?」と思わずにはいられませんでした。私はいつもこの疑問で悩んできましたので、ご回答をいただけたら幸いです。

ウェンシ

聖霊の働き, 教会

ウェンシ姉妹

こんにちは。あなたが聖霊の働きがある教会を探したことは素晴らしいことで、それは完全に神様の御心に適っています。教会に横行する不道徳が主の教えに反することは明白で、そのような教会はおそらく既に聖霊の働きを失っています。熱心に見える教会には聖霊の働きがあるかどうかという問題に関しては、私たちが判断するのは難しいです。けれども、実は、聖霊の働きがどのような結果をもたらすことができるかを理解すれば、自然にこのことが簡単に判断できるようになります。

この質問に答えるにあたり、いくつかの文章を読んでみましょう。

人間に対する聖霊の啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間がいのちに入るように道を拓き、聖霊を知ることが出来るようになり、そのため神を崇拝し敬慕する心を育むためのものである。」『働きと入ること(2)』より 「聖霊は、人々を啓くために働く時、通常人々に神の働き、および彼らの真の霊的歩みと本当の状態についての知識を与える。また、今日の人に対する神の切実な思いや要求を人々に理解させる。それは、神を満足させるために彼らが全てを犠牲にする決意をするためであり、迫害や逆境に遭遇する時でさえ、神を愛さなければならず、それが流血や命の犠牲を意味する時でさえ、神のために証しに立たなければならず、後悔することがないためである。」「実践(1)」より 「聖霊が働く時、人々は盛んに成長することができる。受け身でもなく、強制されることもなく、積極的に成長する。聖霊が働く時、人々は喜んで、自ら進んで従おうとし、謙虚になることを喜び、内側では痛みや弱さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志によって汚されず、人の考えによって汚されず、間違いなく人間的な欲望や動機に汚されないのである。人々が聖霊の働きを経験する時、彼らの内面は特に清い。聖霊の働きを所有する人々は神の愛、兄弟姉妹への愛を体現し、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。」「聖霊の働きとサタンの働き」より

これらの抜粋から、聖霊の働きとは、それによって一時的に感情の盛り上がりがあるように感じるためでも、宗教的儀式や規則を守るためのものでもないことが分かります。それよりは、聖霊の働きは神様の御心と神様が要求されることが理解し、自分の弱さと欠点を神様の言葉から知ることができるように私たちを導くものです。聖霊の働きは私たちに実践の仕方を教え、いのちの糧を与えてくれます。自分の堕落をより理解できるようになるだけでなく、常に神様についての新たな認識を得ることができ、それによって神様を畏れ、神様を愛する心が芽生え、神様に従い、主の教えを守って神様のために全てを捧げ費やすことができるようになります。聖霊の働きにより、私たちはしばしば啓かれ、神様の言葉を読む時には常に私たちに光が注がれるようになります。聖霊の働きがあるならば、主の教えに反することを話したり行なったりした場合、聖霊による責めと取り扱いを感じます。私たちが自己を理解し、神様に悔い改め、神様の言葉に従って実践できると、聖霊は私たちを導き続け、主にいっそう近づくことができます。聖霊の働きがあれば、私たちの心には神様の居場所があり、神様を偉大な方と敬うことができ、どのような困難や迫害、苦境に遭おうとも、常に神様に満足いただき、神様の要求に沿うように行動し、サタンの勢力によって拘束も制限もされまいと決意することができ、私たちの人生があらゆる面で神様の御名を褒めたたえることができるようになるのです。聖霊の働きがあるならば、神様が緊急となさることを緊急とすることができ、神様がお考えになるように考えることができ、神様の御旨に配慮して神様に満足いただくために本分を尽くすことができます。要するに、聖霊の働きが伴っており、聖霊が共にいて下さり、神様の言葉が問題に直面した時に私たちを導いて下さり、神様の言葉に従って実践する決意があるならば、私たちの人間性と私たちの生き方はますます正常になり、神様にいっそう近づき、私たちの霊は安らぎ、平安で喜びを感じるのです。真理を追求する人たちが一定の期間の後に、程度の差はあれ、このような結果に到達するのを教会の集まりで見るならば、それはその教会には聖霊の働きがある証拠です。ウェンシ姉が先ほど言われた通り、たとえ教会が様々なショーや行事を行って、外側からは温かく熱心に見えても、また何回集会に出席したとしても、説教を聞いても新たな光はなく、現実の問題や困難は解決されず、いのちの糧も養われないままで、神様についての認識を得ることもありません。牧師、説教師、一般の兄弟姉妹の誰であれ、その語る言葉と行動が主の教えに反していながら罪の意識もなく、鍛錬されてもいなければ、それはその教会には聖霊による働きも守りもないことの証明です。聖書にこうあります。

「くちびるはなめらかであっても、心の悪いのは上ぐすりをかけた土の器のようだ」(箴言26章23節)

もし教会が単に外見上熱心に映るだけで、そこに集う人々の心は神様を遠ざけ、神様との正常な関係はなく、それどころか神様の言葉を実践したり主の戒めを守ったりすることができないのであれば、そのような教会が聖霊の働きがある教会とみなされることがどうしてあり得るでしょうか。もはや「上ぐすりをかけた土の器」ではないでしょうか。ですから、教会が聖霊の働きを伴っているかどうかが決まるのは、そこに集まっている人の数でも、熱心さの程度でも、教会員が行っているように見える良い行いの数でもありません。むしろ、人々がいのちの糧を得ることができるかどうか、神様についての新たな認識を常に得ているかどうかによるのです。もし私たちが僅かな表面的な意味や規則にしがみつき、真理によって養われることがなく、神様についての新たな認識を得ることもなく、いのちの成長もなく、現実の問題も未解決のままであれば、そのような教会には聖霊の働きも臨在もありません。

実際、心から主を信じて聖霊の働きをこれまでに経験したことのある兄弟姉妹のほとんどが、荒廃が宗教界全体に広がっており、宗教界が聖霊の働きと臨在を失ったと感じています。宗教指導者の大半が主の言葉を実践しておらず、主の戒めを守っていません。彼らは継承されてきた人間の伝統だけに固執し、聖書の知識や神学的理論を解説することを重視しています。これは自己を顕示し、自己の証しをするためです。主の証しとなるのでも、主を称えるのでもなく、主の道から完全に逸れてしまっています。信者といえば、概して罪を犯しては悔い改めるという状態の中に生き、様々な罪を犯し、主からはいっそう離れるばかりで主への恩義を一切感じていません。世俗的な流れに従い、富や名声、地位を求め、肉の快楽を追い求める信者すらいます。宗教界が聖霊の働きを失ってしまい、神様に嫌われて拒否されていることは明らかです。これはまさに主イエスの預言を成就しています。

また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書24章12節)

この御言葉は律法の時代の終わりを思い起こさせます。当時のユダヤの民衆は律法を守ることができず、祭司はお粗末ないけにえを捧げていました。牛、羊、はとが神殿に持ち込まれて売られ、律法を破る者がいてもそれに対する懲らしめはありませんでした。人々の出入りは多く、外側からは神殿には活気があり賑やかに見えましたが、実際にはすでに長い間、聖霊の働きを失っていました。律法の時代における神殿での荒廃の主な理由は、当時のユダヤ教の指導者達がヤーウェの律法を守らず、神を畏れる心をもたなかったことにあります。受け継がれてきた人間の伝統にのみしがみつき、神様の戒めを捨てて神様の道から完全に外れてしまい、それゆえに神様に呪われることになってしまったのです。一番重要なのは次の点です。肉となられた神様、つまり主イエスは恵みの時代に人類を贖う働きを行われましたが、それは神様の働きの変容であり、主イエスの贖いの働きを受け入れた人は全て聖霊の働きを得、新たな実践の道を見出しました。しかし主イエスの働きを拒んで抵抗した人は神様の働きによって取り除かれ、聖霊の働きを失って闇と荒廃の中へと落ちたのです。

昨今の宗教界は聖霊の働きを失い、広く荒廃していますが、神様の意図が背後にあることは疑う余地がありません。聖書に次のように預言されています。

『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』と主は言われる。」(アモス書四章7~8節)

聖書の「この畑は雨をえ」とは、聖霊の働きを伴う教会、神様が臨在されていて人々が御座から流れるいのちの水に養われ潤されることを享受できる教会を意味しています。「かの畑は雨をえないで枯れた」という言葉は、聖霊の働きを失った教会を意味します。私たちが聖霊の働きがある教会を積極的に探さないならば、いのちの水の供給を完全に失い、闇と荒廃に落ちるでしょう。私たちが積極的に聖霊の働きを伴う教会を探し、神様の足跡を辿ることが神様の御心であるのは明白です。教会における荒廃の問題を根本から徹底的に解決して、聖霊の働きと臨在を再び取り戻すにはこの方法以外にないからです。カナンの地が飢饉におそわれたとき、ヤコブとその家族がカナンの地を離れ、食料を求めてエジプトへ行く以外に、飢餓を逃れて生き残る方法がなかったのと同様です。

ではどうやって聖霊の働きを伴う教会を見つけることができるのでしょうか。実は主イエスがとうの昔にその方法を教えてくださっています。終わりの日の再臨に関して、イエス様は仰いました。

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16章12~13節)

ヨエル書第二章29節にも預言されています。

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ

そしてヨハネの黙示録の二章と三章の各所にも、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と預言されています。これらの預言から、終わりの日に主が戻られるとき、主は更に多くの言葉を語り、私たちを潤し養い、全ての真理を理解させて下さることが分かります。私たちが神様の要求を満たし、諸教会に御霊が語られることを知ることができれば、主の足跡について行くことができ、聖霊の働きを得ることができます。従って、どの教会が神様が新しい言葉を語り、新しい働きをなさっていることを証ししているかを注意深く見なければなりません。語られる言葉を良く聞いて、それが私たちのいのちの糧となり、現実の問題を解決してくれるかどうかを見極めなければなりません。その教会の兄弟姉妹が神様の言葉によって潤され養われると同時に、常に神様についての新たな認識を得ているかどうか、いのちが成長を続けているかどうか、人間性と生き方がますます正常になっているかどうか等を見極めなければなりません。これらの現実的な結果が生まれているならば、それはその教会が聖霊の働きを伴っており、神様ご自身が働かれており、臨在されている教会であることの証明です。

主イエスは約束されました。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイによる福音書7章7節)

主イエスは信実であられ、私たちがもっと長い時間をかけて祈り主に願うなら、必ず終わりの日に再び来られた神様の語られる言葉を見つけ、聖霊の働きを得て、子羊と足並みを揃える人になることができるでしょう。

神様に感謝します。神様が私達を導いて下さいますように!

信仰ステーション

チォンウェイ(中国)


心の貧しい人とはどのような人なのか

2019-09-20 10:32:39 | 書籍

心の貧しい人とはどのような人なのか

メイ・ジュアン

ある日のディボーション中に、次のような主イエスの御言葉が目に留まりました。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」(マタイによる福音書5:3)

私は聖書を置くと、この言葉を思い巡らしました。

「主は心の貧しい人を喜ばれ、祝福される。そして天国は彼らのもの。でも心の貧しい人ってどんな人のことなんだろう。外見は謙遜で柔和、周りの人に愛情深い人のこと?」

私はしばらくこのことを考えていましたが、光を見つけることはできず、午後まで考え続けました。ちょうどその日は集会のある日だったので、そこで私はこの疑問を兄弟姉妹と話し合うことができました。

 

心の貧しい人とは外見は謙虚で柔和、愛情深い人のことか

 

心の貧しい人

私はその集会で自分の疑問を投げかけました。私の話を聞いていたファン兄弟が言いました。

「外見上は謙虚で柔和、愛ある人のようだという理由で、その人が心の貧しい人だと判断することはできません。むしろその人が神様にどのように対応し、真理に対してどのような態度を取るかを見なければなりません。それがこの問題を検討する正しい方法です。外見は謙遜で柔和、人に愛情深く見えても、心の中は傲慢で自己中心で、真理に従えない人もいます。そのような人は、神様の働きが自分の観念と一致しなければ、真理を求めることに興味を示さないばかりか、おごりから自分の考え方に固執して神様の働きを拒み、反発し、非難や反抗さえします。そのような人がどれほど謙虚であっても、心の貧しい人ではありません。彼らは当時のパリサイ人同様、よく庶民に向けて聖書の言葉を解釈し、シナゴーグや通りにわざとらしく立って長い祈りを朗誦したり、慈善活動をしたり、通りに立って立派な行いをしたり、外見的にはとても謙虚で柔和で愛ある人々のように見えます。しかし主イエスが来られた時、彼らは全く真理を探し求めようとはせず、それどころか自分達の観念や想像に頼り、主イエスがメシアと呼ばれなかったという理由でキリストではないと主張したのです。そして神様の働きを旧約聖書に限定し、主イエスの言葉と働きを旧約聖書を越えていると非難することで、主イエスの言葉と働きを否定したのです。そればかりか、パリサイ人は主イエスを神様の出現とは認識しませんでした。彼らは主イエスはただ普通の人でしかないと決めつけ、「この人は大工の子ではないか。母はマリヤ・・・ではないか」(マタイによる福音書13:55)などと言いました。パリサイ人は、主イエスの言葉に権威と力があり、主イエスが多くの奇跡や不思議を行なわれるのを見ましたが、それでも謙虚に求めることをせず、それどころか特に傲慢で真理に従うことができず、自らの観念に固執し、偽証するものとなり、噂話をでっち上げ、主イエスを激しく非難し冒瀆したのです。最後にはローマ政府と共謀し、憐れみ深い主イエスを十字架にかけ、筆舌に尽くしがたいほどの罪を犯し、神様に罰せられたのです。このことから、人が外見上どれほど謙虚で柔和、愛ある人のように見えても、もし神様と真理に本当に従順でないならば、その人は心の貧しい人などでは決してないことが分かります。そのような人は偽善者なのです。その人の謙虚さは偽りであり、他人への愛もまやかしなのです。全ては欺きであり嘘であり、皆に称賛され高く評価されようとして騙そうとするものなのです。そのような人は外見は謙虚で忍耐強く、愛あるように見えても、その心の中は偽りと悪意、邪悪に満ちており、彼らの本質は偽善者なのです」

ファン兄弟の話を聞いて、人が謙虚で柔和に見えるかどうかでその人が心の貧しい人かどうかを決めつけるのは正しい事ではないこと、一番重要なのはその人の神様への対応の仕方や真理に対する姿勢なのだと言うことが分かりました。パリサイ人は謙虚で柔和のように映り、良い行いもしましたが、主イエスが来られて働かれた時には謙虚に求めるどころか自分の観念と想像に固執し、主イエスを激しく拒み非難し十字架にかけたのです。そのような人間がどうして心の貧しい人と呼ばれることがありえるでしょうか。彼らは明らかに傲慢で尊大であり、神様の敵だったのです。

 

心の貧しい人とは、心の貧しい人が現わすものとは何か

 

ファン兄弟は続けました。

「傲慢な性質を持っていながら真理に従うことができる人もいます。そのような人は神様の働きが自分の観念と一致しない場合、自分を二の次にして謙虚に求め、真理を理解するとすぐにそれを受け入れて従います。そのような人は真に心の貧しい人で、謙虚な人でもあります。ちょうどナタナエルについて聖書に書かれているようにです。ピリポが主イエスの事を彼に証言しようとした時、ナタナエルは自分の観念と想像に頼り「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と言いました。けれども主イエスが彼のことを、「見よ、あの人こそ、本当のイスラエル人である。その心には偽りがない」と言われた時、ナタナエルはイエス様に「どうしてわたしをご存知なのですか」と尋ねました。イエス様は答えて、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」と仰いました。ナタナエルは答えました。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(ヨハネによる福音書1:45-49参照)。ナタナエルはメシアがナザレで生まれたはずはないと信じていたために、初めのうちは主イエス様について観念があったものの、自分の考えに執着することなく謙虚に求めて主イエスの言葉に注意深く耳を傾けたことが分かります。主イエスがいちじくの木の下にいる自分を見たと仰るのを聞いた時、ナタナエルは主イエスは全能であり全てをご存知で、自分の心と魂を調べることがおできになる方で、普通の人とは違うと感じました。そしてナタナエルは自分の観念を手放し、主イエスが預言されたメシアであると認識し、主イエスを受け入れ、主の救いを受けたのです」

ヂャン兄弟はうなずいて言いました。

「そうです。ナタナエルのように謙虚に求める態度で神様と神様の働きに対応し、主イエスの言葉を受け入れて従うことができる人は心の貧しい人です。主イエスの福音を受け入れたエチオピアの宦官のことも思い出します。聖書にはこうあります。『宦官はピリポにむかって言った、「お尋ねしますが、ここで預言者はだれのことを言っているのですか。自分のことですか、それとも、だれかほかの人のことですか」。そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕』(使徒行伝8:34-37)エチオピアの宦官には権力と地位がありましたが、それらのものに全く影響を受けていませんでした。エルサレムで礼拝した後の帰路、宦官はピリポに会いました。彼は自分の地位や聖書の知識ゆえに自分が人より優れていると考えることもなく、傲慢でも尊大でもありませんでした。かえって謙虚な態度でつつましく求め、ピリポから主イエスの話を聞くと、その方がキリストだと信じ、喜んで主イエスを救い主として受け入れたのです。そのような人が心の貧しい人なのです」

ファン兄とヂャン兄の話を聞いて、私もその通りだと思いました。私は言いました。

「つまり、心の貧しい人は頑固な人ではありませんね。心の貧しい人は神様から出たものには、自分の観念に合うかどうかに関わらず謙虚な姿勢で向き合います。そしてひとたび真理を理解したなら、自分の観念を捨てて神様の働きを受け入れて従うことができます。そのような人は純粋で正直で、真理を切望する心を持っています。神様はそのような人を愛されます。主に感謝します!私は遂に心の貧しい人とは外見が謙遜で柔和な人ではないこと、そして最も重要なことに、神様を畏れる心を持ち、全てのことにおいて謙虚に求め、真理に従い、気まぐれに神様の働きを制限してしまわない人だということが分かりました」

「ええ、心の貧しい人は神様を畏れる心を持っています。そして神様の働きが自分の人間的な観念と一致するかどうかに関わらず、自分のことを二の次にして謙虚に求めることができます。これこそが心の貧しい人で、そのような人だけが天国に入る資格があります。外見は謙虚であってもその本質が傲慢で真理を受け入れない人は、ひとたび神様の働きが自分の観念と一致しないならば、裁き、反抗し、非難し始め、謙虚に求めたり探ったりすることが全くできず、最終的には神様に嫌われ憎まれるのです。そのような人は天国のほんの一部もあずかることはありません」

兄弟姉妹の交わりを聞いた後、私は突然聖書の中のヤーウェの言葉を思い出しました。「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、ヤーウェは心を見る」(サムエル上16:7)。そしてこう言いました。

「私たちは人を見る時その人の外見だけを見ますが、神様は人の心と本質を見られます。以前の私は識別力に欠けていたため、誰かが善いことをしたり柔和で優しそうに見えると、その人は謙虚だと考えました。でも今こうして考えていると、この観念が愚かなことかが分かります」

ファン兄は言いました。

「アーメン!主の啓きと導きにより、今日このような理解を得ることができました。今、主イエスの『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである』という言葉を読むと、更にはっきりと分かるようになりました。私たちはすでに終わりの日の最後の段階にいます。主の再臨を歓迎する重要な時です。私たちが心の貧しい人となり、全てのことにおいて謙虚に求め、真理を受け入れて真理に従うことはそれゆえにずっと重要なことで、それによって私たちは主に喜んでいただき、主の再臨を歓迎できるのです。主イエスの言葉を思い出してください。『わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう』(ヨハネによる福音書16:12-13)。そしてヨハネの黙示録3章20節ではこう預言しています。『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう』。また、黙示録2章7節では、次のように預言しています。『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。これらの聖句から、終わりの日に主が戻られる時には、主はさらに語られ、全ての真理と奥義を私たちに語られることが分かります。どこかの教会が主が戻られて語られていると証言したり、誰かが主が戻られたと証言したりするのを聞いたならば、私たちは自分の観念を捨てて、これらの言葉が自分の霊的必要を満たし、実際の問題を解決し、実践の道を示してくれるかどうかを謙虚に求めるべきです。それが神様の声であり真理の表現だと確信したならば、私たちは真理を受け入れて神様の働きに従うべきです。このようにすることで、私たちは確かに主の再臨を歓迎することができるのです。そうせず、謙虚に求める姿勢をもたず、自分の観念に合わないものは一切求めることも探ることも拒むのであれば、神様に反抗するパリサイ人の道を歩む危険性があり、主の再臨を歓迎する機会を逃すことになります。これは大変な悲劇となるでしょう」

私はうなずきながら言いました。

「アーメン!私たちが心の貧しい者であり、謙虚に真理を求め、神様の声や真理の表現を聞いたと確信した時にそれを受け入れて従うならば、真に思慮深いのです。私は謙虚に求め、神様の声に耳を傾け、主の出現を歓迎する者でありたいです」

「神様に感謝します!」

「今日の交わりは素晴らしい!本当に聖霊の啓きと導きからのものです!」


宗教界の各宗派はそれぞれの道が真理の道であると信じている。真理の道を偽りの道からどのように区別するのか。

2019-09-19 12:43:57 | 書籍

宗教界の各宗派はそれぞれの道が真理の道であると信じている。真理の道を偽りの道からどのように区別するのか。

2017-11-15

神の御言葉による答え:

真理の道を探求する上での最も基本的な原則は何だろう。あなたは、それが聖霊の働きがあるかどうか、それらの言葉が真理を述べているかどうか、誰について証しされているのか、それが何をもたらすか、といったことを調べなければならない。真理の道と偽りの道とを判別するには、いくつかの基本的な知識が必要だ。最も基本的なことは、そこに聖霊の働きがあるかどうか、ということである。人間の神への信仰の真髄は神の霊を信じることであるからだ。受肉した神への信仰も、その肉が神の霊の体現であることに基づいている。だから、そうした信仰はなおも聖霊への信仰であるということになる。霊と肉の間には違いがある。しかし、この肉体は霊から来たものであり、肉となった言葉であるのだから、人間が信じるのは、なおも神に内在する実質なのだ。そこで、それが真理の道であるかどうかを区別するには、何よりもまず、そこに聖霊の働きがあるかどうかを見て、その後で、その道に真理があるかどうかを見るのだ。この真理は正常の人間性のいのちの性質である。つまり、神がはじめに人間を創造した時に人間に要求したこと、すなわち、(人間の理知、見識、知恵そして、人間であることの基本的な知識を含む)正常の人間性すべてである。即ち、この道が人間を正常な人間性の生活に導くものかどうかを見極めなければならない。述べられている真理が正常の人間性の現実において必要なものかどうか、この真理が実用的で現実的であるかどうか、また、それは最も時宜にかなったものであるかどうか、といったことを見極めなければならない。もし真理があるのなら、それは人間を普通の現実的経験へと導くことができるはずだ。更に、人間はいっそう正常になり、人間としての理知はより完全になる。人間の肉体における生活と霊的生活とはさらに秩序あるものとなり、喜怒哀楽はより正常なものとなる。これが第二の原則である。もうひとつの原則がある。それは、人間は神についてより多くの認識をもっているかどうか、そのような業と真理を経験することは神への愛を呼び起こすかどうか、その人をより親密に神のもとへ近づけるかどうかということだ。このことによって、それが真理の道であるかどうか見定めることができる。最も基本的なことは、この道が超自然的なものではなく、現実的なものであるかどうか、また、それが人間にいのちを与えるものであるかどうかということだ。もしそうした原則にかなうものであれば、この道が真理の道であると結論づけられる。…もしそれが聖霊による働きであるなら、人間はずっと正常になり、その人間性はさらに正常になる。人間はサタンに堕落させられた自分の性質、人間の本質についての認識を増し、真理への渇望は更に大きくなる。これはつまり、人間のいのちがどんどん成長し、人間の堕落した性質においては、より一層の変化が可能となる。これら全てが神が人間のいのちになるということの意味である。もし、ある道が、人間の本質であるこれらのものを明らかにすることができないのなら、また人間の性質を変えることができないのなら、さらにまた、人間を神の前へ導き、神についての真の理解を与えることができないのなら、あるいは、人間性をさらに卑しめ、その理知をますます異常なものにするのなら、その道は真の道ではあり得ず、悪霊の業、あるいは、古い道なのだ。要するに、それは聖霊が現在為している働きではないということだ。…もし、こうしたいくつかの重要な原則を把握したなら、何が起ころうと、あなたは欺かれることはないだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神とその働きを知る者だけが神の心にかなう」より