神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

あなたと神との関係はどのようなものか

2019-06-19 13:13:16 | 書籍

神の信仰においては、少なくとも神と正常な関係を持つという問題を解決する必要がある。神との正常な関係がなければ、神を信仰する意義は失われる。神との正常な関係の確立は、神の存在によって心を鎮めることによって完全に実現される。神との正常な関係というのは、神のいかなる業をも疑ったり否定したりせずに従えるということ、そしてさらに、神の前で善意を持ち、自分を顧みず、何をしている時も、神の家族の利益をもっとも重視し、神の監視を受け入れ、神の采配に従うということを意味する。あなたは何をするときにも、神の前で自分の心を鎮めることができる。たとえあなたが神の心を理解していなくても、本分を尽くし、責任を果たすために全力を尽くす必要がある。神の心が明らかになるまで待ってから、それを実践しても遅くはない。あなたと神との関係が正常になったときには、あなたと人々との関係も正常になるだろう。すべては神の言葉という基礎の上に確立される。神の言葉を飲食することにより、神の求めに応じて行動し、自らの見解を正し、神に逆らったり教会の邪魔になるようなことをしたりしないようにしなさい。兄弟姉妹のいのちに役立たないことはせず、他の人々の役に立たないことを言わず、恥ずべきことをしないようにしなさい。何をする時にも、公正かつ高潔に、神に見られても恥ずかしくないようにしなさい。時として肉体が弱いことがあるとしても、あなたは自己の利益に固執することなく、神の家族に恩恵を与えることを最優先し、義を行う。あなたがこのように行動できるなら、あなたと神との関係は正常になる。

あなたが何かをするときには、常に動機が正しいかどうかを吟味する必要がある。あなたが神の求めにしたがって行動できるなら、あなたと神との関係は正常である。これが最低限の基準である。自分の動機を吟味した結果、間違った動機が出てきた場合でも、そのような動機に背を向けて、神の言葉に従って行動できるなら、あなたは神の前で正しい者になるだろう。それは、あなたと神との関係が正常であることを示し、あなたのすることのすべてが、自己のためではなく神のためであることを示すだろう。何かをしたり言ったりするときには、常に心を正して義にかなうようにし、感情に流されたり、自分の意志で行動したりしないようにしなさい。これが神の信徒が自らを律する原則である。人の動機や背丈は小さなことの中に現れる。したがって、神によって全きものとされる道を進むためには、人はまず自分自身の動機や神との関係をはっきりさせる必要がある。あなたと神との関係が正常になって初めて、あなたは神により全きものとなり、そうして初めて、あなたに対する神の取り扱い、刈り込み、訓練、鍛錬が望ましい効果を達成することができる。それはつまり、人々が自分の心の中に神を抱いて、個人の利益を追求せず、個人の将来を考えず(これは肉の思いを意味する)、いのちに入るための重荷を背負って、真理の追求に最善を尽くし、神の業に従うということだ。そうすれば、あなたの追求する目標は正しく、あなたと神との関係は正常である。神との関係を正すことは、霊的な旅を始めるための第一段階であると言える。人の運命は神の手の中にあり、神によってあらかじめ決められており、自分で変えることはできないが、あなたが神により全き者とされるかどうか、神のものとされるかどうかは、あなたと神との関係が正常かどうかによって決まる。おそらく、あなたには弱い部分や従順でない部分がある。しかし、あなたの見解や動機が正しい限り、そして、あなたが神との関係を正して正常な関係にしている限り、あなたには神によって全きものとされる資格がある。あなたが神と正しい関係を持たず、肉のためや自分の家族のために行動するなら、どんなに一生懸命に働いても、何の役にもたたない。あなたの神との関係が正常であれば、すべてがあるべきところに落ち着く。神が見ているのは、あなたの神の信仰についての見解が正しいかどうかだけで、それ以外は何も見ていない。あなたが誰を信じ、誰のために信じ、なぜ信じるか。あなたがこのようなことをはっきり認識し、自分の見識や実践を正すことができれば、あなたのいのちは成長し、あなたはきっと正しい道に進むことができるだろう。あなたと神との関係が正常ではなく、あなたの神の信仰についての見解が逸脱したものであるなら、それによってそれ以外のすべては台無しになるだろう。あなたがどのように神を信仰しても、何も得られないだろう。あなたと神との関係が正常な場合にのみ、あなたが肉に背を向けて、祈り、苦しみ、耐え、従い、兄弟姉妹を助けて、神により多く献身したとき、あなたは神に認められるだろう。あなたのやることが価値や意義を持つかどうかは、あなたの意図が正しいかどうかや、あなたの見解が正しいかどうかによって決まる。近頃の多くの人の神への信仰は、首を捻じ曲げて時計を見るようなもので、その視点はねじ曲がっている。ここを突破できれば、万事が好転する。これが解決されれば万事落着するが、解決されなければ、万事が無に帰す。神の前では行儀よく振る舞うが、見えないところでは逆らってばかりいる人もいる。これはねじ曲がった偽りの現れである。この種の人はサタンの奴隷であり、神を試す典型的なサタンの化身である。わたしの業と言葉にしたがうことができて初めて、あなたは正しい人となる。あなたが神の言葉を飲食し、神に見られても恥ずかしくないことしかせず、公正かつ高潔なことしかせず、恥ずべきことをせず、人々のいのちに害のあることをせず、光の中で生き、サタンに利用されなければ、あなたの神との関係は正常化される。

神を信じるにあたり、あなたは正しい意図と見解を正さなければならない。あなたは、神の言葉、神の業、神によって作られた環境、神によって証しされた人間、そして実践の神を正しく理解し、正しく扱う必要がある。あなたは、あなた個人の考えにしたがって行動したり、自分でささやかな計画を立てたりしてはならない。あなたは、あらゆることにおいて真理を求め、神の被造物の立場に立って、神のあらゆる業にしたがわなければならない。あなたが神によって全きものとなることを求め、いのちの正しい道に進みたいなら、あなたの心は常に神の前で生きなくてはならず、放蕩せず、サタンにしたがったり、サタンが働く機会を与えたり、自分を利用させたりしてはならない。あなたはあなた自身を完全に神にゆだね、神に支配してもらう必要がある。

あなたはサタンの奴隷になりたいか。あなたはサタンに利用されたいか。神によって全きものとされるために、あなたは神を信じ、神を追求しているか。それとも、神の業において引き立て役になるのか。あなたは神のものとされて、意味のある人生を生きたいか、それとも、価値のないからっぽの人生を生きたいか。あなたは神に使ってもらいたいか、それともサタンに利用されたいか。あなたは神の言葉と真理で満たされたいか、それとも、罪とサタンで満たされたいか。これを考えて、選り分けよ。あなたは日々の暮らし中で、自分の言った事やした事の中から、神との関係を異常にするようなものを把握し、自らを正し、正しい生き方を選ばなければならない。常に自分の言葉、行動、やることなすこと、考えや思い付きを吟味せよ。自分の真の状態を把握し、聖霊の業の道へ入ること。このようにすることによってのみ、神との正常な関係を持つことができる。自分と神との関係が正常かどうかを測ることにより、あなたは自らの意図を正し、人の本質を理解し、自分自身を理解することができるだろう。これを通して、あなたは実体験に入り、真に自分自身を捨てて、心から委ねることができる。神との関係が正常であるかどうかを経験するような問題において、神によって全きものとされる機会を見出し、聖霊が働いているような状況を理解し、サタンの策略や陰謀の多くを見抜くことができるだろう。このようにしてのみ、あなたは神によって全きものとなることができる。神との関係を正して、神の采配に全て従うべきである。そうすればあなたは、実体験により深く入り、聖霊の業をもっと多く受け取るだろう。あなたが神と正常な関係を持つことを実践しようとするとき、肉を捨てて、神に真に協力することを通じて実践可能になることが多い。あなたは「協力の心なしでは、神の業を受け取ることは難しい。肉の試練を経ない限り、神からの祝福はない。霊が葛藤しない限り、サタンが恥じることはない」ということを理解する必要がある。このような原則を実践しはっきりと理解すれば、あなたの神の信仰についての見識は正されるだろう。あなたがたは現在の実践において、「飢えを満たすために、パンを探す」という見方や、「すべては聖霊によって成され、人が介入することはできない」という見方を捨てる必要がある。このように話す人々はみな、「人はなんでもやりたいことができ、時が来れば、聖霊が働いて、人は肉を克服する必要も協力する必要もなくなり、必要なのは聖霊に人を動かしてもらうことだけである」と考えている。このような見解はすべてばかげている。このような状況では、聖霊が働くことはできない。聖霊の業に対する大きな障害になるのは、この種の見方である。多くの場合、聖霊の業は、人の協力を通して実現される。協力や決意もなく、人の性質を変え、聖霊の業を受け、神から啓示や啓蒙を得たいと思うのは、まったく虫の良い考えである。このような態度を、「自分を甘やかし、サタンを大目に見る」と言うのだ。このような人々は、神と正常な関係を持っていない。あなたは自分自身の中にサタンの現れをたくさん見つけた。そしてあなたの過去の行動の中には、神の現在の要求に反することがたくさんあった。あなたはそれらを今捨てることができるか。神との正常な関係を獲得し、神の意図にしたがって行動し、新たな人となって新たないのちを得、過去の罪を振り返らず、後悔しすぎず、立ち上がって神と協力することができる、そして、やるべき本分を果たす。このようにすれば、あなたと神との関係は正常になるだろう。

あなたがこのような言葉を読んだ後に、それを単に言葉通り受け止めるだけで、心を動かされなかったら、また、あなたが真剣に神と正常な関係を持とうとしていないなら、それはあなたが神との関係を重視していない証拠であり、あなたの見解はまだ正されておらず、あなたの意図は神のものとされることや神に栄光を帰すことに向けられておらず、むしろサタンの陰謀が蔓延ることや、あなたの個人的な目的を達成することを認める方向に向けられている。この種の人々は、全て間違った意図や見解を持っている。彼らは、神が何をどのように言おうが無関心であり、何の変化も見られない。彼らの心はまったく畏れを感じないし、恥じることもない。この種の人は、霊のない混乱した人である。あなたは、神のいかなる発言でも、読んで理解したら、実践に移すべきである。あなたがかつてどのように実践しようが(かつてあなたの肉は弱かったかもしれないし、反抗的だったかもしれず、反逆していたかもしれないが)、それは大きな問題ではなく、あなたのいのちが今成長することを妨げることはない。あなたが今日神と正常な関係を持つことができるなら、そこには希望がある。あなたが神の言葉を読むたびに、あなたが変わり、あなたの生活がよい方向に変わったと他の人々も認めるなら、それはあなたが神と正常な関係を持っていること、関係が正されたことを示している。神は、人々の罪を基準にして扱ったりしない。あなたが理解し認識した後、二度と反抗したり逆らったりしなければ、あなたにはまだ神の慈悲がある。あなたがこのことを理解し、神により全きものとなることを求める意志があるならば、あなたの神の前での状態は正常である。何をするときにも、必ずこう考えよ。「私がこれをやったら、神はどう思うか。それは兄弟姉妹にどのような影響を与えるか。」あなたの祈り、交わり、発言、仕事、人々との接触の意図を吟味し、あなたと神との関係が正常であるかどうかを吟味せよ。もしあなたが意図と意見がどのようなものであるか見分けることができないとすれば、あなたには判断力がないということであり、それはあなたが真理を知らなすぎるということを証明している。神の行うあらゆることを明確に理解し、神の言葉にしたがって物事を見て、神の側に立って物事を見ること。このようにすれば、あなたの見解は正されるだろう。したがって、神と良好な関係を築くことは、神を信仰する誰にとっても、最優先事項になる。これは誰もが、最も重要な課題として、また、人生における重要な項目として扱うべきである。あなたのやることはすべて、神との関係が正常であるかどうかに照らして判断する必要がある。あなたの神との関係が正常であり、あなたの意図が正しいならば、それをしなさい。神との正常な関係を維持するには、個人的な利益を失うことを怖れてはならず、サタンが蔓延ることを許してはならず、サタンが自分を操ることを許してはならず、サタンがあなたを笑いものにすることを許してはならない。このようなことを避けようとすることは、あなたと神との関係が正常であることの現れである。それは肉のためではなく、むしろ、魂の平安のためであり、聖霊の業を得るためであり、神の心を満たすためである。あなたが正しい状態になろうとするなら、神と良好な関係を築く必要があり、神の信仰についての自分の見解を正す必要がある。それは、自分を神のものとされ、神の言葉の実をあなたの中に示し、あなたをさらに啓発し啓蒙することを可能にする。このようにすれば、あなたは正しい道に進むだろう。神の現在の言葉を飲食し続けて、聖霊の業の現状に溶け込み、神の現在の求めに従って行動し、古臭い慣習に従う事を止め、物事の古いやり方にしがみつくのをやめ、現在の仕事のやり方に素早く溶け込むようにしなさい。このようにすれば、あなたと神との関係は完全に正常になり、神を信仰するための正しい道に進むだろう。


祈りの実践について(祷告的实行)

2019-06-19 12:54:57 | 書籍

あなたがたは日常生活において祈りに心を留めることが全くない。人々はいつも祈りを見過ごしてきた。従来彼らが祈る時は、いい加減にひととおりの身振りをするだけで、誰ひとり自分の心を完全に神の前に捧げて真の祈りをする者はなかった。人々が神に祈るのは、自分に何かあった時だけである。あなたは、今までに本当の意味で神に祈ったことがあるだろうか。神の前で痛恨の涙を流したことがあるだろうか。神の前で自分自身を知ったことがあるだろうか。神と心を通わせて祈ったことがあるだろうか。祈りというものは漸進的に実践される。あなたが普段自宅で祈らないのであれば、教会で祈ることは全くないであろう。また普段小規模な集会で祈らないのであれば、大規模な集会で祈ることは不可能であろう。あなたが普段から神に近付き、神の言葉を熟考しないのであれば、祈る時になって、あなたには言うことが何もないであろう。そして、あなたがたとえ祈ったとしても、唇が動くだけで、本当の祈りにはなっていないだろう。

真に祈るとは何を意味するであろうか。それはあなたの心の中にある言葉を神に話すことであり、神の意志を把握し、神の言葉に基づいて神と交わることを意味する。またそれは殊更に神を身近に感じ、神が自分の目の前にいて、あなたには何か神に言いたいことがあると感じることである。またそれは、自分の心の中に光が射すのを著しく感じ、神が殊更に愛しいと感じることである。あなたは著しく霊の動きを感じるだろう。するとあなたの兄弟姉妹は、あなたの話を聞いて喜びに満たされるだろう。彼らは、あなたが話す言葉が、彼らの心の内の言葉であり、彼らが言いたいと願っていた言葉だと感じるだろう。あなたが言うことが、彼らが言いたいことを代表していると感じるだろう。真に祈るとは、このことを意味する。真に祈った後、あなたは心の中に安らぎを感じ、喜びに満たされるであろう。神を愛する強さが向上し、あなたは全生涯で、神を愛する事以上に価値があり大切なことは無いと感じるであろう。そして、これら全ては、あなたの祈りが効果的であったことを証明するであろう。あなたは、このように祈ったことがあるだろうか。

また、祈りの内容についてはどうであろうか。あなたは、自分の実際の状態と聖霊によって為されるべき働きに従って段階的に祈る必要があり、また神の意志と人間に対する要求に則して神と交わるべきである。あなたが祈りの実践を開始する時は、まず最初に自分の心を神に捧げなさい。神の意志を把握しようとしてはならない。ただあなたの心の内にある言葉を神に話そうとしなさい。神の前に来て、こう言いなさい。「おお神よ、私は今日になって初めて、あなたに服従していなかったことを知りました。私は本当に堕落した、忌み嫌われるべき存在です。以前、私は時間を無駄にしていました。私は今日からあなたのために生き、意義のある人生を行動で示し、あなたの意志を満足させます。私があなたの前で響きわたるような力強い証をし、あなたの栄光とあなたの証しと、私たちの内にあるあなたの勝利の証拠をサタンに示すことが出来るよう、私は、あなたの霊がいつも私の内で働き、常に私に光と悟りを与えることを望みます。」あなたがこのように祈る時、あなたの心は完全に解放されるであろう。このように祈ったことで、あなたの心は神にいっそう近付くであろう。そして頻繁にこのように祈ることで、聖霊は必然的にあなたの中で働くであろう。あなたが常にこうして神を呼び求め、神の前で決意を固めるならば、あなたの決意が神の前で受け容れられ、あなたの心と存在全てが神のものとされる日がやがて来るだろう。そして、最終的にあなたは神によって完全にされるであろう。祈りとは、あなたがたにとって極めて重要なものである。あなたが祈る時、あなたは聖霊の働きを受け、あなたの心は、それを通して神に触れられるのだ。そして、神を愛するための力があなたの内に溢れてくるのだ。あなたが自分の心で祈らず、自分の心を開いて神と交わらないならば、神はあなたの中で全く働きようが無いであろう。もし、すでに祈り、自分の胸中の言葉を全部話してしまっても、神の霊が動かず、自分の中で心が動かされたと感じ無いのであれば、それはあなたの心が真剣でなく、あなたの言葉が真実でなく、不純であることを示している。もし祈ってから心が喜びで満たされたならば、それは、あなたの祈りが神に受け容れられ、神の霊があなたの中で働いたのである。あなたは、神の前に仕える者として、祈らずにいてはならない。あなたが神との交わりを有意義で、貴いものであると本当に思うのなら、祈りを止めたりなど出来るだろうか。神と交わらずにいることが出来る者など一人もいない。祈りが無ければ、あなたは肉の中で生き、サタンの呪縛の中で生きる。真の祈りが無ければ、あなたは闇の影響の下で生きる。わたしは、兄弟姉妹が日々真に祈ることが出来ることを願っている。これは教理に固執することではなく、ひとつの達成すべき効果である。夜明けに朝の祈りを捧げ神の言葉を楽しむために、少しばかりの睡眠と快楽を犠牲にする意欲があなたにはあるか。あなたがこのように純粋な心で祈り、神の言葉を食べ飲みするならば、その時あなたは神に一層受け容れられるであろう。あなたが毎日そうして、自らの心を神に捧げて神と交わることを実践するならば、神に関するあなたの認識は必ず増し加わり、神の意志をもっとよく把握出来るようになるであろう。あなたは、次のように言うべきである。「神よ、私は自分の本分を尽くすことを望みます。私達の中であなたが栄光を受け、私達という人間の集団の中の証しを得ることが出来るようにするために私ができることは、私の全存在をあなたに奉げ尽くすことだけです。願わくは、私があなたを真に愛し、満足させ、あなたを私が追求する目的とすることが出来るよう、私達の中で御業を行ってください。」あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にするであろう。あなたは、自分のためだけでなく、神の意志を実行し、神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。あなたは神の意志を実行するために祈るであろうか。

以前あなたがたはどのように祈れば良いか分からず、祈りを軽視していた。今日、あなたがたは祈るために自分を訓練をするよう最善を尽くす必要がある。あなたが自分の内にある力を振り絞って神を愛することが出来なければ、どうしてあなたは祈ることが出来ようか。あなたはこう言うべきである。「神よ、私の心はあなたを真に愛することが出来ません。私はあなたを愛することを望んでいますが、私にはその力がありません。私はどうすれば良いでしょうか。私があなたの前に一切の消極的な態度を捨て去り、いかなる人や物事にも拘束されることがないように、あなたが私の霊の眼を開き、あなたの霊が私の心に触れますように。私は自分の心の全てをあなたの前に曝け出します。そうして私の全存在があなたの前に捧げられますように。また、あなたが私を思いのままに試すことができますように。今私は自分の将来性を考えることも、死に縛られることもありません。私は、あなたを愛する心で、いのちの道を求めることを望みます。あらゆる物事があなたの掌中にあり、また私の運命もあなたの手の中にあります。それどころか、私の一生はあなたの御手によって支配されています。今、私はあなたを愛することを追い求め、私があなたを愛することを、あなたがお許しになるかどうかを問わず、また、サタンがいかにして邪魔しようと、私は意を決してあなたを愛します。」あなたがそのようなことにぶつかった時は、このように祈るべきである。あなたが毎日そのようにして祈るならば、神を愛する強さは次第に向上するであろう。

人間は、どのようにして真の祈りの境地に入ることができるだろうか。

祈る時、あなたの心は神の前に静まっていなければならず、また真摯でなければならない。あなたは真に神と交わり、神に対して祈りを捧げなければならない。また、美辞麗句で神を欺こうとしてはならない。祈りは、神が今日完成することを望んでいる物事を中心とする。自分に一層の啓き照らしを与えるよう神に願い、自分の実状や問題を神の前にさし出して祈りなさい。そして神の前で決意を固めなさい。祈りは手順に従うことではなく、真の心で神を求めることである。神があなたの心を守ってくれるように求めなさい。そうして、自分の心をいつも神の前で静めることができるように。また、神があなたのために準備した環境において、自分を知り、忌み嫌い、自分を捨て去ることができるように。よってあなたが神との正常な関係を持つことが出来るようになり、あなたが真に神を愛する者とされるように。

祈りの重要性とは何であろうか。

祈りは人間が神と協力する方法のひとつであり、人間が神を呼び求める手段であり、人間が神の霊に動かされる過程である。祈りのない者は霊の無い死んだ者であると言える。それは、彼らには神によって心を動かされる能力が欠けている証拠である。祈りが無ければ、彼らは正常な霊的生活を実現できず、まして、聖霊の働きに従うことなどできない。祈りが無ければ、彼らは神との関係を絶ち切り、神の承認を得ることが出来ない。神を信じる者として、あなたが祈れば祈るほど、神によって触れられることも多くなる。このような人々にはより強い決意があり、神から最新の啓きをもっと受けることができる。その結果このような人々だけが、最も早く聖霊によって完全にされ得るのだ。

祈りにより達成されるべき効果とは、何であろうか。

人々は祈りを実践し、祈りの重要性を理解することが出来るが、祈りにより達成されるべき効果とは、単純なことではない。祈りとはひととおりの儀礼を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち祈りとは言葉を模倣し、他人を真似ることではない。祈りにおいて、あなたは心を神に捧げなければならない。そして、神に心を触れられるよう、自分の胸中の言葉を神と分かち合わなければならない。あなたの祈りが効果的であるためには、その祈りはあなたが神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中で祈ることによってのみ、あなたはもっと多くの啓き照らしを得ることが可能となる。真の祈りは、神による要求を待ち焦がれる心を持ち、それらの要求を自ら進んで果たすことにより示される。あなたは神が憎む物事全てを憎み、それを基礎として、神が説明する真理について知り、明瞭に理解するようになるであろう。決意と信仰、認識、また、祈った後に実践するための道を持つこと。それのみが真の祈りであり、このような祈りだけが効果的であり得るのである。しかし、あなたが神の言葉を享受すること、神の言葉の中で神と交わること。また、あなたの心が神を求めることができ、神の前で静まっていること。それらのことの基盤の上に、祈りは建て上げられねばならない。このような祈りは、既に神との真の交わりを持つ境地に達しているのである。

祈りの基礎知識

1.何でも思いついた言葉をやみくもに述べてはならない。あなたは心の内に重荷を持たなければならない。つまり、あなたは、祈る時目標を持たなければならない。

2.あなたの祈りには、神の言葉が含まれていなければならない。すなわち、あなたの祈りは神の言葉に基づいていなければならない。

3.祈る時は、昔のことを蒸し返してはならない。過ぎ去った事柄を挙げてはならない。あなたは聖霊の現実の言葉を話すよう、自分を特に訓練すべきである。そうすることで初めて、神との繋がりを持つことが出来るようになる。

4.集会での祈りでは、今日の聖霊の働きを中心に据えなければならない。

5.全ての者が他人のために祈る方法を習得しなければならない。神の言葉の中に、祈り捧げたい言葉を見出し、それを基礎として重荷を負い、頻繁に祈る必要がある。それは、神の意志に対する配慮の現れのひとつである。

個人の祈りの生活は、祈りの重要性と基礎知識を理解することを基盤としている。人間は、日常生活の中で、自分の欠点のために頻繁に祈る必要があり、また自分のいのちの性質の変化を遂げるために、神の言葉に関する認識を基礎として祈らなければならない。人間はそれぞれ独自の祈りの生活を確立すべきであり、神の言葉に基づいた認識を得るために祈り、神の業に関する認識を求めるために祈るべきである。自分の現況を神の前にさし出し、実際的になる必要があり、方法に気を取られてはならない。要は、真の認識を得ることと、神の言葉を実際に体験することである。霊的生活に入ることを追求する者は誰でも、様々な方法で祈ることが出来なければならない。それは、沈黙して祈ること、神の言葉の考察、神の業を知ることなどである。この的を絞った交わりの業は、正常な霊的生活に入ることを達成し、神の前における自分の状況をより良いものにし、自分のいのちにおいて更に大きな発展を遂げるためのものである。要するに、あなたが為すことは、それが神の言葉の食べ飲みであれ、黙って祈ることであれ、大声で宣言する時であれ、すべて神の言葉と業、そして、神があなたの中で獲得しようと願っていることを明瞭に理解するためのものである。さらに重要な事として、それは神が要求する基準に到達し、あなたのいのちを次の段階へと進めるためのものである。神が人々に要求する最低基準は、自分の心を神に開くことができることである。人が神に対して真心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人の内に働くことをよしとする。神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。したがって、祈りにおいて極めて重要なことは、自分の本心から来る言葉を話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱くであろう。そうでなければ、神はあなたから顔を隠すであろう。祈りの最低基準として、あなたは自分の心を神の前で平静に保つことが出来なければならない。また心が神から離れてはならない。おそらくこの期間、あなたは新しい、もしくはより高い観点を得ていないかも知れないが、あなたは祈りを用いて現状を維持しなければならない。後戻りすることは許されない。これこそがあなたが果たさなければならない最小限である。それすら実現出来ないならば、それはあなたの霊的生活が正しい道に入っていない証拠である。その結果、あなたは元来のビジョンを持ち続けることが出来ず、神への信仰を失い、それに次いであなたの決意は消失するであろう。あなたが霊的生活に入ることは、あなたの祈りが正しい道に入ったかどうかにより特徴付けられる。全ての人がこの現実に対して真摯に取り組み、祈りにおいて自らを意識的に訓練しなければならない。消極的に待っているのではなく、意識的に聖霊に触れられることを求めなければならない。そうして初めて、彼らは真に神を求める人となるであろう。

あなたが祈りを始める時は、現実的でありなさい。無理をし過ぎてはならない。口を開けばすぐに聖霊により触れられ、啓き照らされ、大きな恵みを授かることを願うような大それた要求をしてはならない。それは不可能なことである。神は超自然的なことは行わない。神は、自分の時に応じて人の祈りを成就する。また、時にはあなたが神の前に忠実であるか否かを見るために、あなたの信仰を試すこともある。あなたが祈る時には、信仰、根気、決意を備えている必要がある。ほとんどの人が自分で祈りの訓練を始める時、聖霊に触れられたと感じず、失望してしまう。それではいけない。あなたは粘り強さを持たなければならない。聖霊に触れられるのを感じること、また追い求め探究することに集中しなさい。時にはあなたの行動する道が間違っていたり、あなたの動機と観念が神の前で揺るぎなく立脚できないこともある。そのために神の霊があなたを動かさない場合もある。また、神はあなたが忠実であるか否かを確かめることもある。要するに、あなたは自己訓練に一層努める必要がある。あなたが行動すべき道から逸脱していることが分かった場合は、祈り方を変えればよい。あなたが真に求め、切実に望んでいるかぎり、聖霊はあなたを必ずその現実の中へと導くだろう。時に真の心で祈るが、特に心が触れられたと感じないこともある。そうした場合、あなたは自分の信仰に依り頼み、神は、あなたが祈るのを見ていることを信頼しなければならない。あなたは、祈ることにおいて不屈の忍耐を持たねばならぬ。

あなたは正直でなければならない。また、自分の心の中の狡賢さを取り除くために祈らなければならない。あなたが必要な時にはいつでも自分を清め、神の霊に触れられるために祈りを用いるにつれて、あなたの性質は次第に変化するであろう。真の霊的生活とは祈りの生活であり、それは聖霊に触れられる生活である。聖霊に触れられる過程は、人間の性質を変える過程である。聖霊に触れられることのない生活は霊的生活ではなく、依然として宗教儀式である。聖霊により頻繁に触れられ、啓き照らされる者だけが、霊的生活に入った人々である。人の性質は、その人が祈るにつれて継続して変化し、聖霊に触れられれば触れられるほど、その人は一層積極的かつ従順になる。また、その人の心も次第に清められ、その後その人の性質は次第に変化するであろう。これこそが真の祈りの効果である。