神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

なんと一度救われたことが永遠に救われたことに等しくなかったんだ

2020-06-14 11:49:43 | 福音を証しするシリーズ

 

なんと一度救われたことが永遠に救われたことに等しくなかったんだ

 

太陽が西の空に沈みかけ、夕焼けが広がる中、私は牧師が集会で言った言葉を考えながら家に向かっていました。「一度救われれば、私たちは永遠に救われているのです。聖書はこう言っているからです。「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ人への手紙10章9-10節) 私たちが主イエス様を信じ、心の中で主を信じて認め、言葉でそう告白するならば、私たちは救われます。一度救われたならば、永遠に救われているのです。終わりまで主のために働き、尽くし、耐えるならば、主が戻られるときに、私たちはすぐに天国に引き上げられます。」私は牧師の言葉にアーメンと答えました。「その通りだ。主イエス様は十字架にかけられた。それゆえに私たちは贖われたんだ。私たちが主の御名を呼び求め、罪を告白して主の前に悔い改めるならば、主の恵みによって罪は赦され、救われるんだ。そして一旦救われたならば、それはずっと続くことであり、後の日には天国へと引き上げられるんだ。」長年の信仰の中で、私はいつもそれが正しいと堅く信じ、疑ったことは一度もありませんでした。
けれどもある日、私が聖書を学んでいると、次のような主イエス様の御言葉が目に入りました。「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。」(マタイによる福音書7章21節)「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。」(ヨハネによる福音書8章31節) 私は注意深くこの御言葉を思い巡らしました。そして、主イエス様が言われていることは、神様の御心を行い、実践する人だけが、天国へ入ることができるということだと理解しました。信仰を持てばそれで救われると言っているのでも、一度救われればそれがずっと続くと言っているのでもなく、主が戻られた時にその人々はすぐに天に引き上げられると言っているのでもないのです。自分の考え方は主の言葉と一致していないのではないかと感じ始めました。これまでの長い年月、ずっと間違っていたということなどあるだろうか。ずっと主を信じてきて、主イエス様によって贖われたということを微塵も疑ったことはなかった。けれど、主の教えを実践しないことも多くあった。神様の御心を実践しないのに、どうやって天国に入れるのだろう。そう考えると不安も感じたけれど、こうも考えた。「主イエス様が私たちの罪のいけにえとなってくださり、全ての罪を赦してくださったのだから、私たちは恵みにより救われているんだ。それなら天国に入れないことなどあるだろうか。恵みによって救われるとは、永遠の救いを意味するのではないだろうか。」私はひどく困惑し、このことを追い求め、主の御前で繰り返し祈りました。何冊もの霊に関する本も読みましたが、答えは見つかりませんでした。

後日、同労者との会議に出席した私は、ずっと会っていなかったヂャン兄にばったり会いました。ヂャン兄は説教師で、聖書をまっすぐに理解していました。どの集会でも、ヂャン兄から新たな光を与えられ、多くを得ることが出来ました。久しぶりにヂャン兄に会った私は、挨拶を交わすと、しばらく話し込みました。そうするうちに、私は自分がずっと引きずっている問題を彼に話しました。ヂャン兄は微笑んで言いました。「ヤンさん、あなたが今言われた問題は、私たちが天国へ入ることができるかどうかに関する重要な問題と関連しています。私も以前悩みましたが、主の導きを与えられました。そして追い求める中で、真の救いが何かを明確に理解できるようになりました。」私は待ちきれずに言いました。「それを今すぐ教えてください!」ヂャン兄は微笑みながら次のように言いました。「すでに知っているように、ヨエル書2章32節にはこうあります。「すべてヤーウェの名を呼ぶ者は救われる。」当時、ヤーウェである神様は律法を定め、イスラエルの人々がそれに従うように命じられました。イスラエルの人々は、自分達が律法に従って罪に定められることがなければ、救われると信じていました。だが律法の時代の末期、人類はサタンによって益々堕落させられ、イスラエルの人々は律法を守ることができず、益々罪深くなっていきました。もはや彼らの罪を償うに相応しいいけにえはなく、彼らは罪に定められて、律法により死刑に処せられる危機にさらされたのです。だが神様は人間を憐れまれ、人類が救われて律法により罪に定められることのないように、イエスという名で肉となられ、贖いの業をされ、罪のない肉として十字架にかけられ、私たち人間を律法から贖ってくださった。その時以来、私たちが主イエス様の名を受け入れ、呼び求め、主の前で罪を告白して悔い改めるなら、私たちの罪は赦され、罪に定めされることも律法により罰せられることもなくなったのです。主イエス様が私たちを贖ってくださったので、私たちは救いを得たのです。

ヂャン兄の話を聞いた私は、突然啓きを与えられたように感じ、驚きの中でこう言いました。「そうであれば、律法の時代には、人々がヤーウェである神の律法を守っている限り人々は救われ、恵みの時代には、人々が主イエスを信じて罪を告白し、悔い改めるならば、人々は救われるのですね。」

ヂャン兄は言いました。「そうです。神様が新たな段階の働きをされる時はいつでも、神様の働きについて行くことができ、新たな時代で神様の要求に沿うことができ、神様の御言葉に従って実践することができ、そうすることで救われ、神様から罪に定められることはないのです。実は、主イエス様を信じ、主イエス様の恵みによって救われるということは、罪が赦され、律法により罪に定められたり死刑に処せられたりすることがなくなるということであって、私たちが神様の道を歩んでいて罪をすべて捨て去ったということではないのです。一旦救われればずっと救われているということなど、なおさらないのです。我たちは主イエス様を信じ、イエス様によって贖われ、罪赦されていますが、それでも私たちは罪を何度も犯して神様に逆らってしまい、昼間犯した罪を夜になると悔い改めるといった悪のスパイラルの中を生きており、罪のかせと束縛から自分を解放することができないのです。例えば、何か問題が起きれば、私たちは自分の外見と地位を守り、周りの人々から良く見られよう、尊敬されようとして自分を良く装い、偽りを言い、ごまかします。何かするときは目立ちたがり、高い地位のために周りの人々に対して策略を企てて競い合います。兄弟姉妹の誰かが消極的になって弱ってしまい、信仰を失っている時、私たちはしばしばその人のところに行って助け、支えようとします。けれどもその効果が見られない時は、憐れみや忍耐を失い、相手を避けるようになり、自分を愛するように相手を愛することが出来なくなります。特に、私たち自身に試練が臨むとき、私たちは不平を言って主のせいにして批判し、主に背く思いや考えを抱くほどになるのです。私たちはどうしても主の言葉を実践することができず、主に対する真の信仰はなく、真に従順ではなくなるのです。この世の流れに従って罪の快楽を求め、未信者と同じように食べたり飲んだり騒いだりといった事に浸ってしまう兄弟姉妹も多いのです。神様は言われました。「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。」(ヨハネによる福音書8章34-35節)。「…わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。」(レビ記11章45節)神様の言葉は明確です。神様は聖く、その性質は義であり神聖です。天国に入りたいのであれば、罪の性質を除いて清められ、罪を犯したり神に反抗したりすることを止めなくてはなりません。そのような人だけが、神様の約束を受け継ぐ資格があります。昼間罪を犯しては夜それを悔い改め、罪から逃れることができずにいるような人間に、どうして天国に入る資格があるでしょうか。もし私たちが罪の問題を元から解決しなければ、たとえ千回赦されたとしても、1万回赦されたとしても、やはりサタンに属しており、神に反抗しているのです。考えてみてください。もし神様が、私たちのような、サタンによる堕落した性質に満ち、神様に逆らい、背くことができる人間が神の御国に入ることをお許しになるのであれば、どうして神の御国が聖なる御国と呼ばれることができるでしょうか。そのようなことはあり得ません。」

私はヂャン兄の言うことに大いに共感しました。彼の言うとおり、日々罪の中に生き、分かっていながら罪を犯してしまう私たちに、天の御国に入る資格などあるでしょうか。そう思った途端、私は自分の信仰が酷く曖昧なものだと感じました。主の言葉が明確に語られているにも関わらず、私はそれを追求しようと思いませんでした。それどころか、自分の概念と想像の中に生き、神様の御心をすっかり誤解し、自分が心で信じて言葉でそれを表現していれば救われ、主が戻って来られる時に天の御国に入れられるなどとおかしな信じ方をしていたのです。何と愚かだったのでしょう。ただ夢を見ていたのです。もしそのまま自分の概念と想像に頼り続けていたならば、最終的に主に嫌われ、拒絶され、排除されていたに違いありません。私はヂャン兄に尋ねました。「本当の救いとは何なのですか?」

ヂャン兄は鞄から一冊の本を取り出し、その本にその答えが書かれていると言うと、読み始めました。「人々が、汚れて、堕落したサタンのものを置き去りにする時、神の救いを得る。しかし、彼らが汚れや堕落を投げ捨てることができないままでいるなら、相変わらずサタンの支配下にとどまるだろう。人々の狡猾さ、不正直さ、ねじれた心はサタンのものである。あなたを救うことによって、神はあなたをこれらのものから切り離す。神の働きは間違っていることはなく、すべては人々を闇から救うためである。あなたがある程度信じていて、肉体の堕落を脱ぎ捨てることができ、もはやこの堕落の束縛を受けない時、あなたは救われているのではないだろうか。サタンの支配下で暮らしている時、あなたは神を現わすことはできず、あなたは不潔で、神から与えられるものを受け取ることはない。いったん清められて、完全にされると、あなたは聖くなり、正常になり、神の祝福を受け、神に喜ばれる者となるだろう。」(「実践(2)」より)「人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。」(「受肉の奥義(4)」より)

ヂャン兄は続けてこう言いました。「主に感謝します。これらの言葉により、真の救いが何であるかが明確にされました。人が真理を得て、神により清くされ完全にされ、完全に罪を捨ててサタンの闇の影響を捨てるなら、もう罪を犯したり神に逆らったりしなくなります。主イエス様のされた働きは贖いの働きであり、私たちはもう罪には属しません。けれども私たちの中のサタンの性質は根深く、罪の赦しは受けたけれども、問題に直面すれば、サタンの性質、つまり、傲慢やうぬぼれ、不正や欺瞞、利己主義や卑劣さ、陰湿さや悪意と言ったものが優勢になり、罪を犯して神を否定せずにはいられなくなり、主の御言葉を実践することが出来なくなるのです。あたかも窃盗の罪で警察に捕まった泥棒のようです。両親は自分の息子が拘置所で失意の中にいるのに耐えられず、多額の保釈金を支払って息子を解放しますが、窃盗の性質は息子の中から抜けず、チャンスがあればまた窃盗を働く性質が働いて盗んでしまうのです。ですから、もし私たちが真理の全ての側面を理解し、サタンの支配から完全に解放され、サタンによる堕落した性質を清められ、罪の束縛から解かれて神の御心を求め、神様の御言葉を実践して何があろうとも神様を畏れて従うのであれば、私たちは常に救われているのであり、そうなって初めて、私たちは完全に神様のものとされるのです。」

私は喜びを感じながら次のように言いました。「神様の啓きと導きにより、『一度救われれば救いはずっと続き、天の御国に入れる』という考えが間違っていることが分かりました。永遠の救いは私たちの罪の性質を取り除かれて清められることであり、それは一度救われて罪赦されることとは全く別のことだということも分かりました。この本は真の救いが何であるかを明確にしてくれますが、私たちが罪から解放されて救われる方法も書かれていますか?もし罪から解放されてその道を歩むことができるのであれば、真の救いを得て天の御国に入れるのではありませんか?

ヂャン兄は喜んで、こう答えました。「ヤンさん、あなたの言う通りです。主に感謝します。罪から解放されて罪の性質の問題が解決できるならば、私たちは真の救いを得て天の御国に入ることができるのです。この本はそのことを実に明確に語っています。続けて読みましょう…。」

 

 



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