神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

神の御言葉が私の霊を目覚めさせた

2020-12-05 20:06:42 | キリストの裁きの座の前における経験の証し

 全能神は言われます。「この終わりの日における神の働きの現在の段階では、神はもはや以前のようにただ恵みと祝福を人間に与えるのではなく、また人間をなだめて前に導くこともありません。この働きの段階で、人間は経験した神の働きのあらゆる側面から何を見ましたか。人間は神の愛と神の裁きと刑罰を見ました。この期間、神は人間に施し、人間を支え、啓き、導き、人間は次第に神の意図、神が語る言葉、そして神が人間に与える真理を知るようになります。……神の裁きと刑罰により、人間は人類の堕落とサタンのような本質を次第に認識するようになります。神が与えること、神が人間を啓くこと、そして神による導きにより、人類は真理の本質、人間に必要なこと、進むべき道、人生の目的、自分の人生の価値と意味、将来へと進む方法をますます知ることができるようになります。……人間の心が蘇ると、人間は退廃し堕落した性質で生きることを望まなくなり、その代わりに神を満足させるために真理を追い求めることを望むようになります。人間の心が目覚めると、人間はサタンと完全に訣別できるようになり、サタンによる危害を受けなくなり、サタンに支配されることも騙されることもなくなります。その代わりに、人間は神の働きと言葉に積極的に協力して神の心を満足させることができ、神を畏れ、悪を避けることができるようになります。これが神の働きの元来の目的です」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 6」より引用)。神の御言葉のこの一節に関する経験が私にはあります。

 2016年6月、私は英文朗読チームでの本分を割り当てられ、心から嬉しく思いました。自分の英語力をようやく活かせることになったからです。自分の力を発揮しなきゃ! 家にいる兄弟姉妹にこの素晴らしい知らせを伝えたくてたまらず、それを知った彼らが顔に浮かべる羨望の表情を想像さえしたものです。

 その本分を尽くし始めると、他の兄弟姉妹がとても流暢に英語を読み、発音も素晴らしいことに気づきました。お互い英語で話すこともよくあって、集会のときや本分を尽くしているときも会話は全部英語です。私の英語はそこまで優れておらず、羨ましさと不安を同時に感じましたが、「一生懸命勉強していれば、いつか追いつき追い越せる!」と自分に言い聞かせました。そこで英語を勉強して語彙を増やすため、朝は早起きして夜も遅くまで起きるようになりました。どうすれば働きの成果を向上させられるかを常に考えていたのです。働きの経験に関する誰かの話を聞くたび、私はペンを手にしてメモをとりました。でもあっという間に数ヵ月が過ぎたのに、私の進歩は全然遅く、チームでの成果も一番低いままでした。自分が本分を尽くしておらず、年下の兄弟姉妹からヒントや助けをしばしば受けなければならないこと、加えてそのころ、指導者からつまらないルーチンワークをよく割り当てられていたことが頭に浮かび、自分はチームにまったく不要なんだと感じ、心底落ち込んで動揺するようになりました。その後、私たちのチームに新たな姉妹が加わりましたが、チームの本分に不慣れだったので、私が手助けするよう言われました。自分はもうチームで一番能力が低い人じゃないと思い、密かに喜んだものです。ところが驚いたことに、この姉妹は才能に恵まれ憶えが早く、英語もすぐに上達しました。二、三ヵ月も経たないうちに、もう私を追い越しつつあったのです。そのせいで私はパニックになりました。「このままだと、またすぐにチームで一番劣ったメンバーになってしまう。もっと長く働いている他のメンバーほど、自分が成果を挙げていないことは理解できる。そして今、この新人が入ってきて手助けするよう言われたけど、あっという間に追い越された。こんなの屈辱だわ!」。私は地位と名声を求めて毎日暮らし、絶えず不安を感じていました。惨めさの中で日々を過ごしていたのです。故郷で本分を尽くしていた昔の日々を懐かしく思い始めました。そのころは自分が先頭に立って話し合いや計画を行なっていて、兄弟姉妹はみんな私の意見に賛成していたし、教会指導者にも高く評価されていたものです。かつては重要人物だったのに、今ではここまで落ちてしまった。そう考えれば考えるほど悲しくなり、自分が不当な扱いを受けているように感じました。そしてあるとき、ついにトイレにこもって泣いてしまったのです。その夜は床についても寝返りを打つばかりで眠ることができず、こんな思いを止められませんでした。「私は初日からチームで一番劣ったメンバーだった。他の兄弟姉妹は私のことをどう思ってるだろう。もうこんなところにいたくない」。でもそのとき、生きている限りあなたのために自分を費やし、あなたの愛に報いますと、神に厳粛な誓いをしたことが頭に浮かびました。本当に自分の本分を諦めてしまったら、約束を破ることにならないだろうか。神を騙して裏切っていることにならないだろうか。動揺のあまり、私は神に祈りました。「神よ! この状況をどう乗り越えるべきか、そこから何を学ぶべきかわかりません。どうか私を導き、啓いてください」。

 それから携帯電話を手に取り、神の御言葉のこの一節を読みました。「あなたがたは追求において、個人的な観念や願望や未来をあまりに多く抱きすぎる。現在の働きは、あなたがたの地位に対する欲望や途方もない欲望を取り扱うためのものである。願望、地位、そして観念はどれも典型的なサタン的性質の表われである。これらが人々の心に存在するのは、ひとえにサタンの毒が常に人の考えを腐敗させており、人々がサタンの誘惑を決して払いのけられないというのが理由である。このような人たちは罪のただ中で生活しているが、それを罪と思わず、「わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに祝福を与え、わたしたちのために万事を適切に手配してくださるに違いない。わたしたちは神を信じているので、他人よりも優れており、他の誰よりも地位と将来性が高いはずだ。わたしたちは神を信じているので、神はわたしたちに無限の祝福を与えてくださるに違いない。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないだろう」と考える。長年にわたり、人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ、不誠実で臆病で卑劣になるに至った。そのような人は意志の力や決意が欠けているだけでなく、貪欲で傲慢で強情になった。人間には自我を超越する決意が完全に欠けている上、これら闇の勢力による呪縛を払いのける勇気が少しもない。考えと生活があまりに腐敗しているので、神への信仰に対するその人の見方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人々が神への信仰に対する自分の見方について語るときでさえ、それはただ聞くに堪えない。人はみな臆病で、無能で、卑劣で、傷つきやすい。闇の勢力に対して嫌悪感を覚えず、光と真理への愛を感じず、それらを排除しようと全力を尽くす」(『言葉は肉において現れる』の「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」より引用)。神の御言葉は私の状況を完全に説明していました。私がこれほどの苦痛を感じたうえに、本分を尽くすことに抵抗し、本分を諦め神を裏切ろうと思うまでになったのは、地位に対する自分の欲求が満たされなかったからではないでしょうか。このチームに加わってからというもの、英語を必死に勉強して働きの成果を向上させようとしてきたのは、単に自分の力を見せつけ、チームで傑出したかったから。新入りの姉妹がとても早く上達するのを見ると、彼女に追い越され、再びチームで一番劣ったメンバーになるのではないかと不安でした。地位のことで一日中ストレスを感じ、まったく惨めに暮らしていたのです。「人々が生き延びる上で頼ってきた思考がその人の心を腐敗させ」という神の御言葉を見て、私は自分に問いかけました。「なぜ地位のために奮闘してるの? この惨めさはどんな考えのせいなの?」神の御言葉をじっくり考えて初めて、自分が「出世して先祖に栄誉をもたらす」、「人は上をめざし、水は下に流れる」、「天上天下唯我独尊」といったサタンの格言にしたがって生きていることに気づいたのです。私たちは幼いころから、人より優れて頂点に立つよう、教師に教え込まれています。私も名声のある有名人を絶えず心から尊敬して羨み、自分もそうなりたいと望んでいました。どこにいようと人から高く評価されることをいつも望み、全員から感心され、支えられ、賞賛されればなおいい気分になりました。これが愉快で有意義な生き方だと思っていたのです。人から感嘆と賞賛を得られなければ生活は惨めになり、とても落ち込みました。神の家で本分を尽くすようになってからも、私はこうした物事を追い求めていました。でも向上が見られなかったり、他の人の賞賛や感嘆を得られなかったりすると、悲観的になって落胆し、気力が挫けました。本分を諦めて神を裏切ることさえ考えたのです。私は名声を求める執念にすっかり取り憑かれ、それを得るためならどんな困難にも耐え、どんな戦いも行ない、自分の世界全体がこの一つのことを中心に回るまでになりました。そのとき、自分が間違った物事を求めて奮闘していることに気づきました。私が本分を尽くしていたのは真理を追い求めて神の愛に報いるためではなく、ただ名声と地位に対する自分の欲求を満たすためだったのです。

 神の御言葉に暴かれたおかげで、自分の追求がいかに誤っていたかがわかりました。その後、私は神の御言葉のこの一節を読みました。「本分を尽くしている一人ひとりにとって、真理の理解の深さがどれほどであろうと、真理の現実に入ることを望むなら、自分が行なうすべてのことにおいて神の家の益を考え、自分の利己的な欲求、個人的な意図、動機、面子、地位を捨てるのが最も簡単な実践の方法です。神の家の益を第一にしなさい。これが行なうべき最低限のことです。……加えて、自分の責任と義務を果たし、本分を尽くし、自分の利己的な欲求や意図や動機を捨て去り、神の旨を考慮し、神と神の家の益を第一にすることができるなら、それをしばらく経験した後、それがよい生き方だと感じるようになります。それは卑劣で役立たずな人間になることなく、正直かつ誠実に生きること、心が狭かったり卑しかったりするよりむしろ、公正かつ高潔に生きることです。人はそのように生きて振る舞うべきだと感じるようになります。自分の益を満足させようとする心の欲求も徐々に小さくなります。」(『キリストの言葉の記録』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」より引用)。神の御言葉を読んで、他人に賞賛されるのは重要なことではないとわかりました。神の支配と計画に従い、神の家の働きを守り、真理を実践して本分を尽くすことこそが本当に重要で、それが心を開いて誠実に生きる方法なのです。神の御心がわかったあと、私は大きな解放感を覚えました。チームで一番劣っていることに変わりはないけれど、それをつらいと思うことがなくなったのです。また自分の名声と地位を傷つけることがあっても、以前のように弱ることもなくなりました。意識して神に祈り、自分の間違った動機を捨て、心を静めて本分を尽くせるようになったのです。しかしサタンの害毒は私の中に深く根を下ろし、私の本性そのものになっていました。単に認識するだけではそれを根絶できません。清められて変わるには、裁きと精錬をもっと経験する必要がありました。

 チームリーダーが劉姉妹と張姉妹に、私たちの働きの監督を任せました。二人とも高度な専門技能を有していたからです。私は羨望と嫉妬を同時に感じました。他の兄弟姉妹を指導するのがとても名誉なことに思えたのです。どうして自分は二人のようになれないのだろう? 自分にできるのは技能が不要なつまらない仕事だけ。その後私は、兄弟姉妹の問題解決を助けるチームで水を与える本分を尽くすよう勧められました。でも期待に胸を膨らませることはまったくなく、その本分を見下しさえしました。実際の技能をもたない人だけがそんな本分を割り当てられるのだと思えたのです。私たちのチームが立派な成果を挙げているとすれば、それはひとえにあの二人の姉妹のおかげだと、誰もが口を揃えて言うでしょう。舞台裏で働き、真理を交わって問題を解決している私のことに、いったい誰が気づくでしょうか。間違った心構えをもち、聖霊の働きを得られていなかったせいで、どうしてもその本分を尽くそうという気が起きず、心の中で「私の素質がみんなにかなわないのはなぜだろう? 私は何に優れているんだろう? いつになったら自分の力を発揮できるんだろう?」と思うこともありました。徐々に嫌気と焦りが募っていき、そして程なく、通りかかった張姉妹からドアを閉めたり窓を開けたりお願いされるたび、感情が爆発しそうになるのを感じました。「あなたは信者になってどれくらい経つの? ほんの少し技能が優れてるだけじゃない。それで私を顎で使う資格があるっていうの?」しまいには、張姉妹に話しかけられても無視するようになりました。時おり質問されても聞こえなかったふりをするだけで、答えたとしてもぶっきらぼうな話し方でした。そのせいで彼女がふさぎ込んでいるのを見て、私は気の毒に思いましたが、地位と名声のことになるとやはり感情が先に立つのです。

 ある朝、劉姉妹と張姉妹が用事で出かけるのを目にしました。二人とも本当に上品でおしゃれな服に身を包んでいたので、私は動揺して嫉妬しました。「私は舞台裏で誰にも感謝されず苦労してるのに、あなたたちは栄誉を独占してる。私がどれだけ懸命に働いているか、誰にも知られることはないんだわ……」。その夜姉妹たちが戻ってくると、チームの全員が駆け寄って労をねぎらい、二人のために夕食を準備する人もいました。最初は私も二人に声をかけ、働きがどう進んだかを訊きたかったのですが、みんなの反応を見て嫉妬が蘇り、「あの二人がまた栄誉を独占して、私はますます価値がないように見えている」と思いました。そう考えて二人に背を向け、そのまま部屋に戻ったものの自分を静められず、そこで神に祈りました。「神よ、地位を求める私の執念が再び醜い頭をもたげてしまいました。名声と地位への欲望を捨てたいのですが、どうしてもできません。どうか評判と地位の束縛から自由になる方法をお示しください」。

 翌日、私がひどい状態にあるのを見た姉妹の一人が次の一節を読んでくれました。「地位や体面、名声に触れるとすぐ、みな期待に胸を躍らせ、自分が傑出し、名声や評価を得ることをいつも欲します。誰も譲歩したがらず、競うことは恥であり、神の家では許されないにもかかわらず、常に競おうとします。競争しないと気が済まないのです。あなたがたは、傑出した者を見ると嫉妬し、憎み、不公平だと感じます。『自分が傑出できないのはなぜだろう。傑出するのが常にあの人で、自分の番が回ってこないのはなぜだろう』。そして一種の憤りを感じます。あなたがたはそれを抑えようとしても抑えられません。神に祈り、しばらく気分が楽になるものの、そのような状況に再び直面するやいなや、それを克服できません。それは未熟な霊的背丈を示すものではありませんか。こうした状態に陥ることは罠ではないですか。これらは人を束縛する、サタンの堕落した本性の足かせなのです」(『キリストの言葉の記録』の「自分の真心を神に捧げると真理を得ることができる」より引用)。私が自分の追い求めるものを本当に変えていなかったことを、神の御言葉は示していました。依然として評判と地位、そして他の人に優ることを求めていたのです。こうしたことに取り憑かれていた私は、傑出して注目され、重要な本分、あるいは技能を要する本分を尽くしたいといつも望んでいました。それがみんなから尊敬され、一目置かれる唯一の方法、神に認めていただき、最終的に祝福を受ける唯一の方法だと思い込んでいたのです。重要でないと思った仕事にはどれも冷淡で、水を与える本分でさえも軽蔑のまなざしで見ていました。二人の姉妹に重要な本分が任される一方、自分には決して注目されない些細な仕事しか与えられないことに気づくと、嫉妬を感じて憤り、よりよい素質や技能を与えてくださらなかったといって、神に文句をぶつけて責めさえしました。私は何て理知のない人なんでしょう! 地位への欲望が満たされなかったからという理由で本分に力を注がず、姉妹たちを自分の不満のはけ口にさえしました。それが姉妹たちを押さえつけ、傷つけたことは間違いありません。そのことを省みれば省みるほど罪悪感を覚え、自分がいかに利己的で人間性に欠けていたかがわかりました。

 その後、私は神の御言葉のこの一節を目にしました。「人は名声を得て有名人になることを常に望んでいます。大きな名声と信望を得て、先祖に栄誉をもたらすことを望んでいるのです。それらは肯定的な物事ですか。それらは肯定的な物事とまったく一致しません。そのうえ、神が人類の運命を支配しているという法則にも真っ向から反しています。わたしがそのように言うのはなぜでしょうか。どのような人を神は望んでいますか。偉人、有名人、高貴な人、あるいは世を揺るがす人を望んでいるのですか。(違います。)では、神はどのような人を望んでいるのですか。神が望んでいるのは、地に足をつけ、神の被造物にふさわしくなることを求め、被造物の本分を尽くすことができ、人間の立場を守れる人です」((『キリストの言葉の記録』の「真理を探し求め神に頼ることだけが堕落した性質を解決できる」より引用))。神の御言葉を振り返り、神が望まれるのは高貴な人や地を揺るがすような才能の持ち主ではなく、神の被造物として自分の本分を尽くせる、地に足の着いた人なのだとわかりました。神は私に優れた素質や一流の専門技能をもつよう求めてはおらず、私が自分の立場を守り、全力で本分を尽くすことだけを求めておられます。そしてそれが、私にできることだったのです。神は各人にそれぞれ異なる素質と才能を授けられます。私たちは自分の能力の限りを尽くし、互いに助け合い、ともに働きさえすれば、本分を尽くして神に満足いただけるのです。

 またこの神の御言葉も読みました。「わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、真理を自分のものにしているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の旨に従わない人はみな懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である」(『言葉は肉において現れる』の「終着点のために十分な善行を積みなさい」より引用)。神は義なる神でいらっしゃいます。神が誰をお褒めになるのか、また神が各人にどのような結末と終着点を定められるのかは、その人に名声や信望があるかどうか、どのくらいの人がその人を支えて認めているのか、あるいはその人にどのような元手があるのかによって決まることではありません。むしろ、それはひとえに、その人が真理を実践し、神に従い、神の被造物として本分を尽くしているかどうかに基づいています。祭司長、律法学者、そしてパリサイ人を例に取りましょう。彼らには地位も影響力もあり、多くの人が彼らを崇めて付き従いましたが、主イエスが来られて働きをなさったとき、彼らは真理を求めることも神の働きを受け入れることもまったくしませんでした。自分の地位と収入を守るために主イエスを激しく断罪し、主に抵抗さえして、果ては主を十字架にかけて神の呪いと懲罰を受けたのです。また、神の言いつけ通りに箱船を作ったノアのことも頭に浮かびました。当時、ノアは気が狂っていると誰もが思いましたが、ノアは神の言うことを聞いて神に従ったおかげで、神のお褒めを受けて洪水を生き延びたのです。そして聖書に記された貧しい未亡人。彼女が与えた二枚の硬貨は、他の誰にとっても些細なものにしか見えませんでしたが、神は彼女をお褒めになりました。自分がもつすべてのものを神に捧げたからです。これらの話を振り返り、神は本当に義でいらっしゃると気づきました。神は人の誠実さを大事になさいます。神の御言葉に耳を傾け、神に従い、神の御言葉を実践し、神の被造物として本分を尽くすことでのみ、人は有意義な人生を生きられます。他人に賞賛されようと励んでも、悪事を犯して神に逆らい、神の懲罰を受けるだけです。私があの環境で本分を尽くすよう神が采配なさったのは、私が苦しんだり屈辱を感じたりするのを神が望まれたからではなく、神には私のための計画があるからだとわかりました。私はあまりに地位に取り憑かれていたので、本当に自己を認識し、名声と地位の足かせを捨て去り、神の御前で自由な解放された人生を生きられるよう、暴かれ精錬される経験をしなければなりませんでした。これこそ神が私を変えて清める最善の方法であり、神の愛と救いだったのです。そう考え、私は神に祈りました。「ああ、神よ。これらの環境を巧みに整え、私を救って清めてくださったことに感謝いたします。私はもう名声と地位のために生きたくはありません。どのような本分を割り当てられようと、他人の目から見てそれがどれほど卑しいものでも、私は喜んで服従し、兄弟姉妹と一緒に働くことで、私たちの本分を尽くしてまいります」

 その後、私たちのチームの何名かが、教会の業務に出かけなければならなくなったのですが、それを聞いたとき、私の中で再び欲望が湧き上がりました。自分の力を示すチャンスがようやく得られるかもしれないと思ったのです。誰が行くか兄弟姉妹が話し合っているあいだ、私は自分が選ばれることをずっと期待していましたが、結局選ばれたのは劉姉妹と張姉妹でした。多少がっかりしました。自分が日の目を見る瞬間は決して来ないように思えたのです。再び名声を求めて争っていることに気づいたので、神に祈って間違った動機を捨て去りました。そして、この間ずっと自分の働きに集中せず、貴重な時間と活力を地位への奮闘に残らず費やし、自分の本分をこれっぽっちも尽くさなかったことが頭に浮かびました。私は名声と地位を求めて毎日戦っていましたが、それは本当にひどい気持ちでした。サタンに騙されてきたような感覚です。地位と名声は本当に人を傷つけます。実際のところ、私たちのチームの兄弟姉妹はみな異なる技能と素質をもっています。私たちが一緒に働くよう神が采配されたのは、一人ひとりが自分の技能を生かし、互いに学んで補い合い、一緒に働いて本分を尽くすことを望まれたからです。神はずっと以前に私の素質と背丈を決められました。また、私がチームでどのような役を演じるのか、どのような役割を果たすのかも、神が予め定められたことです。だから私は自分の居場所に喜びを感じ、全力で本分を尽くし、神に従うことのできる理知的な人であるべきなのです。それに気づくと、心がずっと穏やかになりました。二人の姉妹が本分を尽くしに出かけるたび、私は二人のためにひたすら祈り、他の姉妹たちが自分の本分に集中できるよう、全力でルーチンワークを終わらせました。また他の兄弟姉妹にも、働くと同時にいのちの入りの時間も見つけられるよう、霊のデボーションに力を入れることを勧めました。集中して物事を行ないだすと、地に足の着いた穏やかな気持ちをますます感じるようになりました。神との距離が縮まり、兄弟姉妹との関係もより正常になったと思いました。そして名声や地位を重視することもなくなり、より心を開くようになりました。この小さな変化に対し、私の心は神への感謝で一杯でした。神の御言葉の裁きと刑罰が私の心を目覚めさせ、名声や地位を求めることの虚しさと苦しみを示すとともに、神を信じ、真理を追い求め、被造物の本分を尽くすことでのみ、人は有意義な人生を生きられるのだと理解させてくれたのです。



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