神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

その日、空は特に澄んで晴れ上がっていた(その1)

2020-03-06 22:01:49 | 天の国の福音

ティアン・イン

注:著者は、牧師達により伝えられてきた「信仰義認」や「一度救われた者は永遠に救われる」の観念に騙され、これに固執していました。それにより、神の終わりの日の福音を伝道する兄弟姉妹達との接触を拒んでいました。しかし、その後、著者の姉の家で、ある妹が神の国の福音を伝えるのを目の当たりにし、彼女と交流することで、終わりの日の神の裁きの働きを理解するようになり、宗教的概念の愚かさについてはっきりと分かり始めました。著者は牧師によるコントロールを断ち切り、神の終わりの日の働きを受け入れ、神の前に戻りました。

かつて、私は中国の三自教会の信者でした。その教会の集会に参加し始めたころ、牧師はよくこう言ったものです。

「兄弟姉妹の皆さん、聖書には次のように記されています。

『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ人への手紙10:10)

私たちは信仰によって義とされ、イエスを信じているために救われたのです。他のものを信じていたら救われることはなかったでしょう……」

私は牧師の言葉をいつも胸に刻みこんでいました。そしてそれらの言葉にかき立てられ、主がおいでになって私を天国に招き入れてくださるのを待ち望みながら、熱心に信仰し、積極的に集会に参加しました。その後、教会内で不正行為が立て続けに起こり、そこでの集会に出るのが嫌になってしまいました。牧師たちが分裂し、おのおのが頂点に立って自分の縄張りを築き上げようとしただけでなく、牧師たちによる説教も中国共産党中央統一戦線工作部(UFWD)の指令に縛られていました。UFWDは「人民のあいだで騒乱を引き起こす」ことを恐れ、牧師に『ヨハネの黙示録』から説教することを許さず、牧師も黙示録から説教することはありませんでした。そしてしばしば献金について説教し、献金すればするほど神から祝福を受けると言っていました。私は教会がこのような状況に置かれたのを見て、「教会はどうしてこんな風になってしまったのだろう。牧師は主を信じていないのか。なぜ主の御言葉に従わないのか。どうして主をこれっぽっちも畏れていないのか」と困惑しました。この時以来、私はもう三自教会の集会に出たくなくなりました。牧師は真に神を信じておらず、兄弟姉妹が頑張って稼いだお金をむしり取るべく神を信じているふりをしている偽の羊飼いだと思ったからです。

1995年の後半、私はためらうことなくこの教会を去り、ある家庭集会(信仰義認教会)に加わりました。最初、彼らの説教は中国政府の規制を受けていないと思いました。『ヨハネの黙示録』を説教に組み入れ、終わりの日や主の再臨について話し合うことさえしていたのです。そのため、彼らの説く教えは三自教会の牧師のものよりはるかにましだと考え、三自教会の集会よりもここでの集会のほうが多くの喜びがあると感じました。私はとても幸せな気持ちになりました。しかししばらくすると、そこでも同労者の中に、嫉妬を剥き出しにして口論する人や、分裂をもたらそうとする人がいることに気づきました。主のお求めに従いながら生きている兄弟姉妹は1人もおらず、かつての愛情がなくなっていました。この教会も三自教会と何ら変わらないことがわかり、私はとてもがっかりしました。さりとて、どこに行けば聖霊の働きがある教会を見つけられるかもわかりません。他によい選択肢がないため、私は信仰義認教会に留まらざるを得ず、そこの集会に参加し続けました。牧師や説教者は口を揃えて、「一度救われた者は永遠に救われる」とか「最後まで忍耐し、主のために苦労して働き、主の道を守る限り、あなたは天国に入れる」などと言っていました。そのため、私は当時、「他の人に何が起きようと、主イエスへの信仰を守り続け、主の道から離れない限り、主が再臨なさるとき、私には天国に引き上げていただく機会があるだろう」と考えていたのです。

あっという間に1997年の後半になりました。神の国の福音がすでに私たちのところまで届き、私たちの教会は混沌とした状態に陥っていました。李指導者はこう言いました。

「最近、東方閃電を宣べ伝える集団が台頭しており、様々な教派からよき小羊を盗むとともに、主イエスはもうお戻りになったとか、働きの新たな段階をなさっているなどと言っています。主イエスは私たちのために十字架にかけられ、神は私たちの罪を贖うべく、ご自身のいのちという対価をお支払いになりました。私たちはすでに救われています。最後まで耐え抜きさえすれば、主が再臨なさるとき、私たちはきっと天国に引き上げていただけます。ですから、私たちは注意し、絶対に東方閃電の人々を受け入れてはなりません。彼らを受け入れる人は誰であれ、教会から追放します!また、彼らが言うことに耳を傾けてもいけません。彼らの本を読んでもいけません……」

ほぼすべての集会で、あらゆる階層の同労者がこの話題で持ちきりのようでした。彼らが話していることを聞いた兄弟姉妹は、意図せずして東方閃電に抵抗し、警戒するようになりました。私もいままで以上に用心と警戒を怠らないようになりました。自分が東方閃電に盗まれてしまい、そのせいで天国に入る機会を失うことを恐れたのです。

しかし1998年になった直後のある日、私は思いがけず全能神教会の人と出会い、はじめて東方閃電の道を聞くという幸運に恵まれました。その日、私は姉から電話をもらい、彼女の自宅に招かれましたが、姉は同郷の胡さんという姉妹も招いていました。胡姉妹は私を見て微笑みを浮かべ、「よくいらっしゃいました。主を信じる私の遠い親戚も来ているんです。一緒に集会を開きませんか」と言いました。私は喜んでうなずきました。程なくして、胡姉妹が親戚の人を連れて戻ってきましたが、この姉妹は私たちを見ると感激した様子で挨拶しました。私は彼女と初対面でしたが、彼女に対する一種の親しみを感じました。すると彼女はこう言いました。

「最近、教会の至るところで荒廃が見られます。説教者は宣べ伝えるべき新しい話題が何もなく、集会のたび、東方閃電にどう抵抗するかを話す以外は、テープを聞かせたり、歌を歌わせたりするだけです。これが集会になってしまいました。同労者は嫉妬を剥き出しにして言い争い、結託し、共謀しています。誰もが極めて独善的になり、他人の言うことに耳を貸しません。兄弟姉妹は否定的で弱くなり、信仰と愛を失いました。多くの人が主のもとを離れ、お金を稼ごうと世俗の世界に戻っています」

私も心の奥底で同じように感じ、うなずきながらその姉妹に言いました。

「私の教会もそんな感じです。以前は毎月の集会に2、30人が出席していたけれど、いまではお年寄りが数名出席しているだけです。説教者でさえ、お金を稼ぐために世俗の世界に行ってしまいました!集会に喜びなんかないんです」

すると姉妹はうなずき、次のように言いました。

「このような状況は、もはや特定の教会だけのものではありません。宗教界全体に広まっている現象なんです。そのことは、聖霊の働きがもはや教会の中で見つけられず、不正な行いが絶えず発生していることを示しています。これは主の再臨のしるしです。まさに、神殿が家畜を売ったりお金のやり取りをしたりする場所になってしまった、律法の時代の終わりと同じなのです。そうなったのは、神がすでに神殿で働きを行なうのをやめられ、その代わりに主イエスとして受肉なさり、神殿の外で働きの新たな段階をなさったからです」

私は熱心に耳を傾け何度も頷きました。そして姉妹はこう続けました。

「姉妹、『ルカによる福音書』17章24節から26節には次のように書いてあります。

『いなずまが天の端からひかり出て天の端へとひらめき渡るように、人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう』

聖書のこの聖句をあなたはどのように解釈しますか」

私はしばらく真剣に考えてからぎこちなく微笑み、「姉妹、聖書に書いてあるこの聖句は、主の到来についてのものではないでしょうか」と言いました。すると姉妹はこう答えました。

「聖書のこの聖句は主の到来について述べています。しかし、あの遠い昔の時代における主イエスの到来を述べているのではありません。むしろ、終わりの日における主の到来を指しているのです。と言うのも、主はここで、終わりの日に戻られた際に何が起きるかをとても明確に預言なさっているからです。姉妹、教会の信者の信仰はいまやますます冷めていて、否定的で弱い状態になっています。それは、神が再び受肉されて働きの新たな段階をなさっているからです。神の働きは前進しており、神の新たな働きに従わない人は聖霊の働きを失います」

主イエスはすでに再臨なさったと姉妹が言うのを聞いた瞬間、この人は東方閃電の人だという勘が働き、たちまち心が沈みました。「イエスを信じることは救われることです。一度救われた人は永遠に救われます!……東方閃電の人を受け入れてはいけません!……」という、この教会を閉め出している指導者の言葉がすぐに頭の中で浮かび、笑顔が消えてなくなりました。指導者の言葉を考えていると、急いで家に帰りたくなりました。しかし、この考えが頭をよぎったとき、主は次の讃美歌の一節を思い出させることで私を啓いてくださいました。

「イエスは私たちの避難所です。問題に見舞われたときはイエスのもとに隠れなさい。主と一緒であれば、何を恐れる必要があるでしょう」

そして私はこう考えました。

「その通りよ!主が私のそばにいらっしゃるなら、何を恐れる必要があるだろう。私が恐れていることは神からではなくサタンから来たものなのだから」

そのとき姉妹が、「疑問があれば口に出して分かち合いましょう。。神の御言葉が私たちのあらゆる問題や困難を解決してくれます」と言いました。私はその言葉を聞いて、「あなたが私の質問に答えられるとは限らない。東方閃電がいったい何を宣べ伝えているのか、どうしてこんなに多くのよき小羊を盗むことができたのか、ちゃんと突き止めなきゃ」と思いました。

私はそう考えて次のように尋ねました。

「私たちの指導者は、『主イエスは私たちのために十字架にかけられ、神は私たちの罪を贖うべくご自身のいのちという対価をお支払いになり、それゆえ私たちは救われた』と常々言っています。聖書にも『なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。』(ローマ人への手紙10:10)と記されています。私たちは一度救われたので、永遠に救われるのです。なので最後まで耐え抜く限り、主がお戻りになるとき、私たちはきっと天国に引き上げていただけます。これは主が私たちになさった約束です。ですから、私たちは神がなさっている新しい働きを受け入れる必要はありません」

すると姉妹は微笑みを浮かべ、私にこう言いました。

「主イエスは私たちのために十字架にかけられ、ご自身のいのちという対価をお支払いになって私たちを贖われたので、私たちはもう救われたと考える信者が数多くいます。一度救われた者は永遠に救われるとか、最後まで耐え抜きさえすれば、主がお戻りになるとききっと天国に引き上げていただけるとか、神のなさる新たな働きを受け入れる必要はないなどと信じているのです。しかし、このような考え方は本当に正しいでしょうか。本当に主の御心に適うものでしょうか。実際、『一度救われた者は永遠に救われる』とか、『主が再臨なさるとき、私たちは天国に引き上げていただける』という考えは人の観念にして想像であり、主の御言葉に即していません。主イエスは、信仰によって救われた者は天国に入れるなどとは一度もおっしゃっていません。むしろ、『ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。』(マタイによる福音書7:21)とおっしゃっています。救われることと天にいます父の御心を行なうことは同じではありません。信仰によって救われると私たちが言うとき、この『救われる』という言葉は罪が赦されたことを意味します。つまり、法によって死刑に処されることになっても、主の御前に出て悔い改め、主の救いを受けるならば、主はその人の罪をお赦しになり、その人は法の断罪から自由になり、もはや法によって死刑に処されることはないのです。これが救われることの本当の意味です。しかし、救われるということは、人々が罪から自由になって清められたことを意味しません。私たちはみな、そのことを深く経験しています。私たちは長年にわたって主を信じ、しばしば自分の罪を主に告白して悔い改め、罪を赦していただく喜びと安らぎを享受していますが、意図せず罪を犯すことが依然としてよくあり、いまも罪に囚われています。これは事実です。たとえば、傲慢さ、狡猾さ、身勝手さ、貪欲さ、邪悪さなどといった堕落した性質がいまだ存在し続けています。私たちは依然として、世俗の潮流や富や名声、それに肉の悦びを追い求め、罪深い悦びをむやみに欲しがります。また個人的な利益を守るため、私たちは頻繁に嘘をつき、他人を騙すこともできます。ゆえに、救われることは、完全な救いを得たことを意味するのではありません。これは事実です。聖書には『わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない』(レビ記11:45)と記されています。神は聖なる存在でいらっしゃるのですから、頻繁に罪を犯して神に抵抗する人たちが天国に入ることをお許しになるでしょうか。信仰によって救われた人は天国に入れるとあなたが信じていらっしゃるなら、主イエスはなぜ次の御言葉をおっしゃったのでしょう。

『わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」』(マタイによる福音書11:7:21–23)

主は再臨なさるとき、小羊から山羊を、有毒な雑草から麦をお分けになると言われているのはなぜですか。ゆえに、『信仰によって救われた人々は天国に入れる』というのは完全に見当違いなのです。それは主イエスの御言葉とまったく相容れず、主の御言葉を否定するものです!ですから、主の御言葉を受け入れず、それを信じず、それどころか牧師や長老が伝える間違った考えに固執し、自分自身の観念と想像に頼って神を信じるなら、私たちは神のお求めを満たすことができず、天国に引き上げていただくこともできません」

私は姉妹の言葉をじっくり考え、彼女の言ったことには理知があると思いました。そこでじっと座ったまま、黙って彼女の話に耳を傾けました。すると姉妹は話を続けました。

「全能神の御言葉はすでに、救われて完全な救いを得ることの奥義を明らかにしてます。なので全能神の御言葉を一緒に読んで、神がこれについて何とおっしゃっているかを見ていきましょう。全能神はこうおっしゃっています。

『当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。』(『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より)

『人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。 … 人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。 … それはサタンによって植えつけられて人の心の奥深くに根ざし、罪よりも深くはびこっている。人が自分の罪に気づくのは容易ではない。人は自分自身の深く根ざした本性を認識することができない。言葉による裁きに頼らなければそのような成果を達成することはできない。これによって初めてその時点から次第に人は変えられていくのである。』(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)

『あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。』(『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より)」



最新の画像もっと見る

コメントを投稿