神の羊は神の御声を聞く

「わたしの羊はわたしの声を聞く」黙示録も予言されました。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」

熱心に見える教会には聖霊の働きがあるのか

2019-08-09 21:37:38 | 書籍

熱心に見える教会には聖霊の働きがあるのか

信仰ステーションの兄弟姉妹

数ヶ月前、私は所属していた教会の牧師たちが名声と利益のために争い、地位を手に入れるためにあれこれと企んでいるのを目撃しました。それは説教の中でもお互いを攻撃し、けなし合うほどでした。彼らの説教は聞いて喜ばしいものではなく、私たちは霊的な糧を得られないままでした。更には、多くの兄弟姉妹の信仰も冷めていきました。みな富を求め、肉的な楽しみを求めて世の流れに従っており、食べたり飲んだり楽しむことに全関心を寄せていました。ほとんど集会に出席しない兄弟姉妹もおり、生活の中で大変な事が起きたり重要な祝日だったりという時だけ出席していました。…このような教会の状態を目の当たりにした私は、聖霊の働きを伴う教会を探そうと、その教会を去りました。多くの教会を回って探しましたが、どの教会も同じようなもので、希望を失いかけました。けれども最近、様々なショーやイベントを頻繁に行っている教会を見つけました。そこでは海外から牧師が来て説教をすることもありました。その教会の雰囲気はとても温かく、活気に溢れ、大勢の人が毎回集会に出席していました。活気のあるその教会と熱心に集会に出席する兄弟姉妹たちを見て、この教会こそ聖霊の働きを伴っていると考えました。けれども、熱心に見えるその教会でも、牧師の説教は兄弟姉妹にとっていのちの糧となるようなものではなく、霊的に満たされるものではないと気づくまでに時間はかかりませんでした。そこでの歌や踊りは教会の雰囲気を変えるだけのもので、それが続くうちは誰もが元気旺盛になるのですが、皆が座って説教を聞くとなったとたん、居眠りしてしまうという具合でした。そればかりか、兄弟姉妹たちはいつも献金や祈りで互いに競い合っていました。誰でも献金を多くする人が主を愛する人と見なされ、誰でも長く祈って聞こえの良い言葉で祈れば霊的な人と見なされました。…このような教会では、兄弟姉妹は誠実さも謙虚さもないどころか、かえって虚栄心は強くなる一方で、ますます偽善的になっていきました。人前で自分を表現し目立つことに集中し、極端に独善的で傲慢でした。問題に遭遇するといつでも自分の好きなように対処し、他人の話に耳を傾けようとはしません。つまり、全く主の教えを守っていなかったのです。教会でのこのような状況に直面して、私は「外側からはこれほど熱心に見える教会に聖霊の働きがありえるのだろうか?」と思わずにはいられませんでした。私はいつもこの疑問で悩んできましたので、ご回答をいただけたら幸いです。

ウェンシ

聖霊の働き, 教会

ウェンシ姉妹

こんにちは。あなたが聖霊の働きがある教会を探したことは素晴らしいことで、それは完全に神様の御心に適っています。教会に横行する不道徳が主の教えに反することは明白で、そのような教会はおそらく既に聖霊の働きを失っています。熱心に見える教会には聖霊の働きがあるかどうかという問題に関しては、私たちが判断するのは難しいです。けれども、実は、聖霊の働きがどのような結果をもたらすことができるかを理解すれば、自然にこのことが簡単に判断できるようになります。

この質問に答えるにあたり、いくつかの文章を読んでみましょう。

人間に対する聖霊の啓きは、人間の情熱を維持するためのものではなく、人間がいのちに入るように道を拓き、聖霊を知ることが出来るようになり、そのため神を崇拝し敬慕する心を育むためのものである。」『働きと入ること(2)』より 「聖霊は、人々を啓くために働く時、通常人々に神の働き、および彼らの真の霊的歩みと本当の状態についての知識を与える。また、今日の人に対する神の切実な思いや要求を人々に理解させる。それは、神を満足させるために彼らが全てを犠牲にする決意をするためであり、迫害や逆境に遭遇する時でさえ、神を愛さなければならず、それが流血や命の犠牲を意味する時でさえ、神のために証しに立たなければならず、後悔することがないためである。」「実践(1)」より 「聖霊が働く時、人々は盛んに成長することができる。受け身でもなく、強制されることもなく、積極的に成長する。聖霊が働く時、人々は喜んで、自ら進んで従おうとし、謙虚になることを喜び、内側では痛みや弱さがあっても、協力しようと決意し、喜んで苦しみ、従うことができる。そして人間の意志によって汚されず、人の考えによって汚されず、間違いなく人間的な欲望や動機に汚されないのである。人々が聖霊の働きを経験する時、彼らの内面は特に清い。聖霊の働きを所有する人々は神の愛、兄弟姉妹への愛を体現し、神を喜ばせることを喜びとし、神の嫌うことを嫌う。」「聖霊の働きとサタンの働き」より

これらの抜粋から、聖霊の働きとは、それによって一時的に感情の盛り上がりがあるように感じるためでも、宗教的儀式や規則を守るためのものでもないことが分かります。それよりは、聖霊の働きは神様の御心と神様が要求されることが理解し、自分の弱さと欠点を神様の言葉から知ることができるように私たちを導くものです。聖霊の働きは私たちに実践の仕方を教え、いのちの糧を与えてくれます。自分の堕落をより理解できるようになるだけでなく、常に神様についての新たな認識を得ることができ、それによって神様を畏れ、神様を愛する心が芽生え、神様に従い、主の教えを守って神様のために全てを捧げ費やすことができるようになります。聖霊の働きにより、私たちはしばしば啓かれ、神様の言葉を読む時には常に私たちに光が注がれるようになります。聖霊の働きがあるならば、主の教えに反することを話したり行なったりした場合、聖霊による責めと取り扱いを感じます。私たちが自己を理解し、神様に悔い改め、神様の言葉に従って実践できると、聖霊は私たちを導き続け、主にいっそう近づくことができます。聖霊の働きがあれば、私たちの心には神様の居場所があり、神様を偉大な方と敬うことができ、どのような困難や迫害、苦境に遭おうとも、常に神様に満足いただき、神様の要求に沿うように行動し、サタンの勢力によって拘束も制限もされまいと決意することができ、私たちの人生があらゆる面で神様の御名を褒めたたえることができるようになるのです。聖霊の働きがあるならば、神様が緊急となさることを緊急とすることができ、神様がお考えになるように考えることができ、神様の御旨に配慮して神様に満足いただくために本分を尽くすことができます。要するに、聖霊の働きが伴っており、聖霊が共にいて下さり、神様の言葉が問題に直面した時に私たちを導いて下さり、神様の言葉に従って実践する決意があるならば、私たちの人間性と私たちの生き方はますます正常になり、神様にいっそう近づき、私たちの霊は安らぎ、平安で喜びを感じるのです。真理を追求する人たちが一定の期間の後に、程度の差はあれ、このような結果に到達するのを教会の集まりで見るならば、それはその教会には聖霊の働きがある証拠です。ウェンシ姉が先ほど言われた通り、たとえ教会が様々なショーや行事を行って、外側からは温かく熱心に見えても、また何回集会に出席したとしても、説教を聞いても新たな光はなく、現実の問題や困難は解決されず、いのちの糧も養われないままで、神様についての認識を得ることもありません。牧師、説教師、一般の兄弟姉妹の誰であれ、その語る言葉と行動が主の教えに反していながら罪の意識もなく、鍛錬されてもいなければ、それはその教会には聖霊による働きも守りもないことの証明です。聖書にこうあります。

「くちびるはなめらかであっても、心の悪いのは上ぐすりをかけた土の器のようだ」(箴言26章23節)

もし教会が単に外見上熱心に映るだけで、そこに集う人々の心は神様を遠ざけ、神様との正常な関係はなく、それどころか神様の言葉を実践したり主の戒めを守ったりすることができないのであれば、そのような教会が聖霊の働きがある教会とみなされることがどうしてあり得るでしょうか。もはや「上ぐすりをかけた土の器」ではないでしょうか。ですから、教会が聖霊の働きを伴っているかどうかが決まるのは、そこに集まっている人の数でも、熱心さの程度でも、教会員が行っているように見える良い行いの数でもありません。むしろ、人々がいのちの糧を得ることができるかどうか、神様についての新たな認識を常に得ているかどうかによるのです。もし私たちが僅かな表面的な意味や規則にしがみつき、真理によって養われることがなく、神様についての新たな認識を得ることもなく、いのちの成長もなく、現実の問題も未解決のままであれば、そのような教会には聖霊の働きも臨在もありません。

実際、心から主を信じて聖霊の働きをこれまでに経験したことのある兄弟姉妹のほとんどが、荒廃が宗教界全体に広がっており、宗教界が聖霊の働きと臨在を失ったと感じています。宗教指導者の大半が主の言葉を実践しておらず、主の戒めを守っていません。彼らは継承されてきた人間の伝統だけに固執し、聖書の知識や神学的理論を解説することを重視しています。これは自己を顕示し、自己の証しをするためです。主の証しとなるのでも、主を称えるのでもなく、主の道から完全に逸れてしまっています。信者といえば、概して罪を犯しては悔い改めるという状態の中に生き、様々な罪を犯し、主からはいっそう離れるばかりで主への恩義を一切感じていません。世俗的な流れに従い、富や名声、地位を求め、肉の快楽を追い求める信者すらいます。宗教界が聖霊の働きを失ってしまい、神様に嫌われて拒否されていることは明らかです。これはまさに主イエスの預言を成就しています。

また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう」(マタイによる福音書24章12節)

この御言葉は律法の時代の終わりを思い起こさせます。当時のユダヤの民衆は律法を守ることができず、祭司はお粗末ないけにえを捧げていました。牛、羊、はとが神殿に持ち込まれて売られ、律法を破る者がいてもそれに対する懲らしめはありませんでした。人々の出入りは多く、外側からは神殿には活気があり賑やかに見えましたが、実際にはすでに長い間、聖霊の働きを失っていました。律法の時代における神殿での荒廃の主な理由は、当時のユダヤ教の指導者達がヤーウェの律法を守らず、神を畏れる心をもたなかったことにあります。受け継がれてきた人間の伝統にのみしがみつき、神様の戒めを捨てて神様の道から完全に外れてしまい、それゆえに神様に呪われることになってしまったのです。一番重要なのは次の点です。肉となられた神様、つまり主イエスは恵みの時代に人類を贖う働きを行われましたが、それは神様の働きの変容であり、主イエスの贖いの働きを受け入れた人は全て聖霊の働きを得、新たな実践の道を見出しました。しかし主イエスの働きを拒んで抵抗した人は神様の働きによって取り除かれ、聖霊の働きを失って闇と荒廃の中へと落ちたのです。

昨今の宗教界は聖霊の働きを失い、広く荒廃していますが、神様の意図が背後にあることは疑う余地がありません。聖書に次のように預言されています。

『わたしはまた、刈入れまでなお三月あるのに雨をとどめて、あなたがたの上にくださず、この町には雨を降らし、かの町には雨を降らさず、この畑は雨をえ、かの畑は雨をえないで枯れた。そこで二つ三つの町が一つの町によろめいて行って、水を飲んでも、飽くことができなかった。それでも、あなたがたはわたしに帰らなかった』と主は言われる。」(アモス書四章7~8節)

聖書の「この畑は雨をえ」とは、聖霊の働きを伴う教会、神様が臨在されていて人々が御座から流れるいのちの水に養われ潤されることを享受できる教会を意味しています。「かの畑は雨をえないで枯れた」という言葉は、聖霊の働きを失った教会を意味します。私たちが聖霊の働きがある教会を積極的に探さないならば、いのちの水の供給を完全に失い、闇と荒廃に落ちるでしょう。私たちが積極的に聖霊の働きを伴う教会を探し、神様の足跡を辿ることが神様の御心であるのは明白です。教会における荒廃の問題を根本から徹底的に解決して、聖霊の働きと臨在を再び取り戻すにはこの方法以外にないからです。カナンの地が飢饉におそわれたとき、ヤコブとその家族がカナンの地を離れ、食料を求めてエジプトへ行く以外に、飢餓を逃れて生き残る方法がなかったのと同様です。

ではどうやって聖霊の働きを伴う教会を見つけることができるのでしょうか。実は主イエスがとうの昔にその方法を教えてくださっています。終わりの日の再臨に関して、イエス様は仰いました。

わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネによる福音書16章12~13節)

ヨエル書第二章29節にも預言されています。

その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ

そしてヨハネの黙示録の二章と三章の各所にも、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい」と預言されています。これらの預言から、終わりの日に主が戻られるとき、主は更に多くの言葉を語り、私たちを潤し養い、全ての真理を理解させて下さることが分かります。私たちが神様の要求を満たし、諸教会に御霊が語られることを知ることができれば、主の足跡について行くことができ、聖霊の働きを得ることができます。従って、どの教会が神様が新しい言葉を語り、新しい働きをなさっていることを証ししているかを注意深く見なければなりません。語られる言葉を良く聞いて、それが私たちのいのちの糧となり、現実の問題を解決してくれるかどうかを見極めなければなりません。その教会の兄弟姉妹が神様の言葉によって潤され養われると同時に、常に神様についての新たな認識を得ているかどうか、いのちが成長を続けているかどうか、人間性と生き方がますます正常になっているかどうか等を見極めなければなりません。これらの現実的な結果が生まれているならば、それはその教会が聖霊の働きを伴っており、神様ご自身が働かれており、臨在されている教会であることの証明です。

主イエスは約束されました。

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイによる福音書7章7節)

主イエスは信実であられ、私たちがもっと長い時間をかけて祈り主に願うなら、必ず終わりの日に再び来られた神様の語られる言葉を見つけ、聖霊の働きを得て、子羊と足並みを揃える人になることができるでしょう。

神様に感謝します。神様が私達を導いて下さいますように!

信仰ステーション

チォンウェイ(中国)


救われることの理解

2019-08-09 13:23:48 | 書籍

救われることの理解

神に従うようになり数年間、私は家族との娯楽や肉の娯楽を諦め、教会で自分の本分を尽くすため1日中忙しくしています。ですから、私は任された教会の働きをないがしろにせず、神を裏切らず、教会を離れず、終わりまで神に従っている限り、神に守られ救われるだろうと信じていました。私はまた、神による救いの道を歩んでいて、終わりの終わりまで神に従ってさえいればいいのだと信じていました。

救われる, 救われることの理解

しかし2~3日前、人の説教の中で「真理を得て現実に入る者だけが本当に救われる」という文を見ました。「神に救われることは人々が想像するほど簡単ではありません。私たちの経験のすべての歩みで神の言葉による試練と洗練と同様、裁きと刑罰を信頼しなくてはいけません。私たちは注意深く神の働きのすべての歩みに従わなくてはなりません。そして終わりに、真理を得、性質の変化を成し遂げて新しく創られた者となり、真理に信頼を置いてサタンに打ち勝ち、罪を乗り越えることができるようにならなくてはいけません。私たちは意識して神の言葉に信頼を置いて生活できるように、そして完全に神に従い神の味方にならなくてはいけません。このことだけが本当にサタンに打ち勝ち、罪を乗り越え、神に得られるということです。もし私たちが神の働きを経験することによってこの結末を成し得られるならば、このことだけが本当に神に救われるということです。」「真理を探し求めて神による救いを成し遂げる道には、しかしながら、人々が直面しなくてはならないあらゆる種類の試練や苦難、家族崩壊や自然災害それに人工災害などの困難や障害が多くあります。それは確かに穏やかな航海ではありません。もし人々に真理がなければ、彼らはしっかりと踏ん張ることはできず、100%の確率で彼らは神を裏切ることになるでしょう。」これらを読んだ後、私はまるで夢から覚めたかのように感じました。神に救われることは、やはり私が思っていたほど簡単ではありませんでした。それは人々があらゆる種類の試練や困難の苦しみを経験するだけでなく、神による刑罰、裁き、取り扱いや刈り込みを受け入れ、人生のすべての歩みで神の働きと言葉を経験することに懸かっています。そうすることで彼らは自分自身の腐敗した性質を本当に理解することができ、次第に彼ら自身の腐敗を取り除くことができます。そして終わりに神の言葉を信頼し、どのような状況においても暗闇の勢力を乗り越え、サタンに打ち勝つ真理に信頼を置くことができるようになります。この結末を成し得ることだけが本当に神に救われるということです。しかし私の実際の状態をこれと比べた時、その結末を成し得ていることからは程遠いものでした。私は名声と地位を追い求めることは神に称賛されたことではないと知っていたにもかかわらず、幾度もこれらを追求し、これらを得られない時は、否定的で弱い者となっていました。私はしばしば真理を追い求める意欲を失い、自分自身で抜け出せない暗闇に落ち込んでいました。幾度も私は神を信じることは神の愛に報いるために真理を追求すべきこと、神と取引してはいけないことであると知っていたにもかかわらず、神の日がやって来るのが遅すぎると考え、自分の中に否定的な思いを抱いていました。初めのころの精力はただ跡形もなく消え去りました。そして私はぞんざいに自分の本分を尽くしました。働きで困難にぶつかると、これは神が私に試練を通じて成長させているのだと知りながら、心の中ではまだ誤解と神への不満で満ちていました。私は神を信じることはあまりにも難しく骨が折れることで、いつも逃げ出したい、そして辞めてしまいたいとさえ感じました。これまで幾度も、私の周りの環境、すべての人々、問題や事柄は私を完全な者とするために神によって与えられていて、これらのことから真理を探し求めるべきであると知りながら、人や問題そして事柄が私の考えに則さなければ、私はいつもそれを拒んで受け入れようとはしませんでした。私が愛する者たちに見捨てられ、どこにも休まる場所がなかった時、他の人々が幸せな家族と共にいるのを見ると、しばしばこれにより悲しみと痛みを感じ何度も神から離れたいとさえ思いました。それでもなお私はずっと以前に神の救いの道を選んだのだと思いました。これらすべての実際の状態を見て、どうして些かでも本当の背丈を持つことができたでしょうか。ただいくらかの小さな試練や憤りに直面しただけで私は躓く危険がありました。言うまでもなく大きな困難や苦しみの時はなお更でした。その時、私は辞めずに数年間神に従っていましたが、本当には真理を掴んでおらず私のいのちの性質は些かも変わっていないことを知りました。私はなおサタンの邪悪な影響の下で生活しており、騙され操られる対象とされていました。これは神に本当に救われることの基準からかけ離れたものでした。しかしそれでもなお、私はずっと以前に神の救いの道に入っていて、自分はほぼ十分な者であると信じていました。これは単に自己欺瞞でした。

ああ、神よ。ありがとうございます!私に自分の本当の状態をはっきりと見させ、本当の救いがどういうものであるかを理解させ、過去の間違った知識を変えてくださったのはあなたの啓示と導きでした。また、もし私が真理を得ず人生の性質を変化させなければ、何年神を信じていようとも、神の承認を得られないことを理解させてくださいました。今日から後、私は進んで更なる真理で自分を備えるようにこの貴重な時間を大切にします。そしてあなたの働きを経験することによって、自分自身から腐敗した性質を取り除きます。あなたの言葉によって生活し、あなたに完全に従い、あなたによる本当の救いを成し得ます。

山東省青州市 林青


正直な人への入りを実践するにはどうすればよいか。

2019-08-09 08:14:10 | 書籍

9. 正直な人への入りを実践するにはどうすればよいか。
2017-11-24


神の言葉

あなたは正直でなければならない。また、自分の心の中の狡賢さを取り除くために祈らなければならない。あなたが必要な時にはいつでも自分を清め、神の霊に触れられるために祈りを用いるにつれて、あなたの性質は次第に変化するであろう。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より

神が人々に要求する最低基準は、自分の心を神に開くことができることである。人が神に対して真心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人の内に働くことをよしとする。神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。したがって、祈りにおいて極めて重要なことは、自分の本心から来る言葉を話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱くであろう。そうでなければ、神はあなたから顔を隠すであろう。

『言葉は肉において現れる』の「祈りの実践について」より

正常な人間のように行動するということは、筋の通った話をするということである。然りは然り、否は否とだけ言いなさい。事実に忠実に、適切な話しかたをすること。ずるをしたり、嘘をついてはならない。

『言葉は肉において現れる』の「知的能力の向上は、神の救いを授かるためである」より

今日、ほとんどの人々は、恐ろしくて自分の行いを神の前に示すことができない。また、あなたは神の肉を欺くかもしれないが、神の霊を欺くことはできない。神の監督に耐えられない物事は、いずれも真理に一致しないので、捨て去れねばならない。さもなければ、それは神に対する罪である。だから、祈る時であれ、兄弟姉妹と話し、交わりを持つ時であれ、自分の任務を果たし、自分の業務に携わる時であれ、あなたは自分の心を神の前に捧げなければならない。あなたが自分の役割を果たす時、神はあなたと共にいる。そして、あなたの意図が正しく、神の家の業のためになるのであれば、神はあなたの為すこと全てを受け入れるであろう。だからあなたは自分の役割を果たすよう熱心に献身すべきである。……

あなたが為す全てのこと、一つひとつの行い、一つひとつの意図、一つひとつの反応を神の前に示さなければならない。あなたの日々の霊的生活、つまり、あなたの祈り、神との親密さ、神の言葉を食べ、飲むこと、兄弟姉妹との交わり、教会生活をおくること、そしてあなたの共同の奉仕さえも神の前に示し、神によって監督されねばならない。あなたがいのちにおいて成熟するのを助けるのはこのような実践である。神の監督を受け入れる過程は、清めの過程である。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、あなたは一層清められ、神の意志と一致するので、放蕩や放縦の声を聞かなくなり、あなたの心は神の臨在で生きるだろう。あなたが神の監督を受け入れれば受け入れるほど、サタンは一層辱められ、あなたはさらに肉を捨てることができる。したがって、神の監督を受け入れることは、人間が実践しなければならない道である。あなたが何を為そうと、兄弟姉妹との交わりの最中でさえ、あなたが自分の行いを神の前にさし出して神による監督を求め、あなたの意図が神自身に従うことであるならば、あなたが実践することは一層適切なものとなるであろう。あなたが為すこと全てを神の前にさし出して神の監督を受け入れて初めて、あなたは神の臨在で生きる者となることができる。

『言葉は肉において現れる』の「神は神の心に適う者を完全にする」より

あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる事において神に心に安らぎと満足をもたらさなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理にそわなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになる。ひとたびそのような状態に陥ると、神の家の一員であることはできない。これが神の承認を受けられないということである。

……正直であるとは、神に心を捧げること──何事においても神を偽らないこと、あらゆることにおいて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わさないこと、そして、神に取り入る為だけに何かを決してしないこと。つまり、正直であるということは、言動において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。……神の前ではきちんと振る舞い、とりわけ「礼儀正しい」けれど、霊の前では反抗的で放埒な行いをする者もいる。そのような人をあなたがたなら正直な者の数に入れるだろうか。もしあなたが偽善者で「社交」上手であるなら、あなたは神を軽んじていると断言しよう。もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で奉仕する者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える覚悟があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、神を満足させることだけを考え、自分のことは考えず、自分のためには何も求めないほど正直なら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きる人である、とわたしは言おう。

『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より