先日、日本の英雄が仏国へ旅立った。
世界の頂点を掴むために。
日本の悲願を達成するために。
日本馬が初めて最高峰へ挑んだのは37年前もの昔。
ジャパンカップが創設される12年前の話。
挑戦したのはいつも寂しそうに空を見上げている馬だった。
彼は脚ばかり長く痩せていた。
神経質で女性的なひ弱な感じだった。
そして、とても我慢強い馬だった。
晩成な馬だったのだろうか。
初めて大レースで好走したのは菊花賞。
際どいハナ差の2着だった。
4歳の春に本格化し、天皇賞を含む重賞5連勝を成し遂げる。
その勲章を胸に秋に米国の国際招待レースに挑んだ。
過去にこのレースに参戦した馬は2頭いた。
だが、何れも勝ち馬から30馬身以上も離された大敗を喫していた。
そもそも、日本馬の海外遠征自体、数えるほどしか例の無い時代。
ノウハウも無く、現地で調子を維持することすら難しい。
それでも彼は勝ち馬から8馬身差の5着で走り抜けたのだった。
なれない環境の中で彼の長所、我慢強さが生きた結果なのだろう。
だが、その代償は大きく帰国してからしばらく連敗が続いた。
休養して立て直すこととなる。
5歳秋を迎えた彼は立ち直り3連勝を飾る。
その走りは陣営の海外挑戦への想いに再び火を点けた。
6歳の夏、欧州への長期遠征が決まった。
2度目の旅は最初から順調では無かった。
飛行機の乗り継ぎ地でストに巻き込まれ3日の立ち往生。
ようやく現地にたどり着いたところでの熱発。
それでも彼は全てのトラブルを我慢した。
迎えた初戦のキングジョージ、道中は2番手を進んで行った。
そのまま直線では逃げ馬を交わし先頭に踊り出た。
直線半ばまで先頭に立ち続け一瞬あわやと思わせた。
結果は5着だったが欧州の聖域に敢然と立ち向かった。
その後30年に渡りこの路線でここまで勝負できた馬は居ない。
それを鑑みればこのレースは歴史的好走だったと言えよう。
しかし、本場欧州の壁は厚く凱旋門賞では辛酸を嘗めたのだった。
欧州で我慢し続けた彼は精根尽き果ててしまう。
帰りの飛行機ではほとんど物を口にできないほど疲れ果てた。
陣営は彼の引退を覚悟したと言う。
しかし、彼は蘇った。
放牧で何とかレースに使えるまで回復し、その体で有馬記念を制した。
その年の菊花賞馬の猛追をハナ差我慢したのだった。
7歳になった翌年も走り続けた。
日本での国際招待競争の設立の話があり、それに出走するため。
結局、それは実現することは無かった。
それでも彼は走り続け、史上初のグランプリ連覇を達成した。
そのレースも前年と同じ相手の猛追を我慢してのものであった。
そして、年度代表馬の勲章を胸に現役を引退したのだった。
彼は2度の海外遠征に耐えた。
だが、限界を超えた我慢に調子を崩した。
それでも彼は蘇った。
きっと放牧先の牧場で空を眺めていたんだろう。
それでまた我慢する心を取り戻したのだろう。
神経質で色々気にしてもいいじゃないか。
鈍愚で何も見えないようなずうずうしさよりはましなはずだ。
ただ、少しだけ我慢すればいいんだから。
そして、我慢できなくなったときは空を見上げよう。
彼も眺めたあの空を。
世界の頂点を掴むために。
日本の悲願を達成するために。
日本馬が初めて最高峰へ挑んだのは37年前もの昔。
ジャパンカップが創設される12年前の話。
挑戦したのはいつも寂しそうに空を見上げている馬だった。
彼は脚ばかり長く痩せていた。
神経質で女性的なひ弱な感じだった。
そして、とても我慢強い馬だった。
晩成な馬だったのだろうか。
初めて大レースで好走したのは菊花賞。
際どいハナ差の2着だった。
4歳の春に本格化し、天皇賞を含む重賞5連勝を成し遂げる。
その勲章を胸に秋に米国の国際招待レースに挑んだ。
過去にこのレースに参戦した馬は2頭いた。
だが、何れも勝ち馬から30馬身以上も離された大敗を喫していた。
そもそも、日本馬の海外遠征自体、数えるほどしか例の無い時代。
ノウハウも無く、現地で調子を維持することすら難しい。
それでも彼は勝ち馬から8馬身差の5着で走り抜けたのだった。
なれない環境の中で彼の長所、我慢強さが生きた結果なのだろう。
だが、その代償は大きく帰国してからしばらく連敗が続いた。
休養して立て直すこととなる。
5歳秋を迎えた彼は立ち直り3連勝を飾る。
その走りは陣営の海外挑戦への想いに再び火を点けた。
6歳の夏、欧州への長期遠征が決まった。
2度目の旅は最初から順調では無かった。
飛行機の乗り継ぎ地でストに巻き込まれ3日の立ち往生。
ようやく現地にたどり着いたところでの熱発。
それでも彼は全てのトラブルを我慢した。
迎えた初戦のキングジョージ、道中は2番手を進んで行った。
そのまま直線では逃げ馬を交わし先頭に踊り出た。
直線半ばまで先頭に立ち続け一瞬あわやと思わせた。
結果は5着だったが欧州の聖域に敢然と立ち向かった。
その後30年に渡りこの路線でここまで勝負できた馬は居ない。
それを鑑みればこのレースは歴史的好走だったと言えよう。
しかし、本場欧州の壁は厚く凱旋門賞では辛酸を嘗めたのだった。
欧州で我慢し続けた彼は精根尽き果ててしまう。
帰りの飛行機ではほとんど物を口にできないほど疲れ果てた。
陣営は彼の引退を覚悟したと言う。
しかし、彼は蘇った。
放牧で何とかレースに使えるまで回復し、その体で有馬記念を制した。
その年の菊花賞馬の猛追をハナ差我慢したのだった。
7歳になった翌年も走り続けた。
日本での国際招待競争の設立の話があり、それに出走するため。
結局、それは実現することは無かった。
それでも彼は走り続け、史上初のグランプリ連覇を達成した。
そのレースも前年と同じ相手の猛追を我慢してのものであった。
そして、年度代表馬の勲章を胸に現役を引退したのだった。
彼は2度の海外遠征に耐えた。
だが、限界を超えた我慢に調子を崩した。
それでも彼は蘇った。
きっと放牧先の牧場で空を眺めていたんだろう。
それでまた我慢する心を取り戻したのだろう。
神経質で色々気にしてもいいじゃないか。
鈍愚で何も見えないようなずうずうしさよりはましなはずだ。
ただ、少しだけ我慢すればいいんだから。
そして、我慢できなくなったときは空を見上げよう。
彼も眺めたあの空を。