goo blog サービス終了のお知らせ 

伊勢写メアンソロジー

昭和30年から40年代に過ごした三重県伊勢とみそのの詳細な思い出。そこから見えてくる昭和時代に共感してもらえれば。

日赤が移転して、、、、

2012-01-30 00:32:50 | 病院
もう、何回見た事かこの景色。

名古屋方面から近鉄に乗ってきて、日赤のマークを確認すると、一瞬緊張が走る。

ここで本当に帰ってきたと感じるからだ。

この真下に実家があるからにほかならない。

宮川を電車が渡って数分後宮町駅にさしかかる直前にこの光景が見える。

それは儀式のように変わらずある光景。


しかし、この数週間後、このマークは取り去られてしまったのか。まだ確認できていないけどおそらくそうだろう。

<予想はしとったけど、やっぱり客がいなくなった>

ほんの数件だったけど、日赤の城下で営まれていた商店は、一夜にして呼吸を止めざる負えなくなった。

日赤の移転自体は、おおいに話題になっていようが

取り残された商店たちの、おそらくこんなちっぽけな事件を取り沙汰されることはまずないだろう。

移転先には、ドトールコーヒーができたりして(もともと御薗日赤にもファミマはあった)都会的なヒートアップが見られる。


能無し役人たちは、せっかくのチャンスである地元に還元され得る商業地区の誕生にも、軽はずみに都市部からの進出を奨励しているのだろうか。

日本全国すべからくそうなのだから、目くじらをたてるなと言われそうだけど、こんな身近で起きると黙ってはいられないのよね。

山田赤十字病院の遺構を発見

2011-01-09 15:04:58 | 病院
生き残ったヤシの木の横に、この遺構が埋められていた。

読むと

<これは大正15年に建てられた旧管理棟の壁面装飾の一部です>

と、書かれている。

これは、先の絵はがきにあった最初に建てられた病院の一部なのである。

壊されたのが残念で、どこかに移築する価値もあったと書いたけど、こうやって一片が残されていた。

新築される時に、誰かが残そうと考えたのだな。

なんかホッとする一方で、ここまでするのならもう少し本格的にとも思った。

このプレートとヤシの木は、日赤移転の際にはどうなるのだろうか?


再訪 山田赤十字病院

2011-01-06 00:24:19 | 病院
家から目と鼻の先なのに、しっかり見たことがないのに気がつき、再訪した。といってもサンダル履きにiPhone片手に朝食前にものの5分だけど。

全然変わってしまった、玄関先に大きなヤシの木?を2本見つけた。

そうだ、先日古い絵はがきを発見した時に書いた松の木は実はヤシの木であった。

それが2本だけ、その場所に残されていたのだった。

しかし、ボクの記憶では、ヤシの木と形の良い小振りの松が混在していたように思う。

おそらく、偶然この2本のヤシの木だけが残ったのだろう。

それにしても、このヤシの木、ボクが遊んでいた頃のモノだとすると、樹齢50年以上の可能性がある。

ちゃんとした古い記念物を保存するという意思の下にここに植えられつづけているのかと、すごく不安になった。

いったい誰に聞けばいいのだろうか?


日赤の写真を見つけた!

2010-12-19 21:41:24 | 病院
これこそ当時の、モノホン日赤だ!

何調というのかわからないけど、まず文化財的な価値ある建造物に違いはないはず。

まさにレトロなシンメトリーなデザイン。

左右の松の木まで。

前にも書いたけど、手前は小さいイギリスのお城などで見られる庭園になっている。
その辺の写真どこかに残っていないだろうか?

その芝生とコンクリートの間をピョンピョン飛びながら遊んだ(そんな用途で作られたわけではない)

こうやって見るとエントランスの形だけが同じで、跡形もなく立て替えられているので残念の極みである。

確かに昭和40年までは未舗装だった。写真も舗装されていない。

右の煙突に記憶がない。

ほんとうに素晴らしい建物で、今だったら市内に高層ビルが建つくらいの出来事だろう。

日赤は人生なんだよね

2010-09-01 02:07:31 | 病院
日赤の正面は、立派な石造りの建築だったけど、周囲に回り込むとそこは木造の入院施設が並んでいた。

今思うと、まるで映画に出てくる戦時中の病棟だった。ガラス戸が多く、すべてが木でできていた。

猿の檻を過ぎると、次第に病棟が見えてきた。病院の真裏は、広大な運動場で、確か病院内の運動会もあった気がする。

周囲はクルマバッタと蝉の宝庫で、もうどれだけバッタと赤とんぼを追いかけ回したかわからない。

時たま朝早く行くと、クワガタやカブトムシも捕れたが稀だった。

そして、真裏を過ぎて、病院の西側に回るとそこは小児病棟だった。

子供のボクにもとても悲しみが感じられる場所で、唯一辛さを感じた。

何を隠そう、ここでボクの弟は4歳で亡くなっている。

ネフローゼという難病で、ボクが小学3年生の時だった。

木造の今思うととても粗末な病室だった。

その周回路から直接病室に入れたから、ボクは最後の時、外から入った。

たくさん書けないほどの辛い思い出。

病院だから仕方がないが、弟だけでなく、祖母も叔父もここで亡くなっている。

でも、その弟もボクも、姉も妹もここで生まれている。

叔父はがんで亡くなるまでここで働いていた。

まさか自分が商売していた場所で、息絶えるなど想像もしていなかっただろうに。

でも、人生なんてそんな単純なものなのかもしれないし。



ボクら家族にとって日赤は、人生と生活の場所にも思えてくる。

ここで生まれ、ここで遊び、ここで死ぬか。

ボクにとって日赤は決して忌まわしいものではなくて、なにか荘厳な、神聖な場所に思える。


小学生の夏休み、一番大事だった場所、生と死を目の当たりにした厳粛な場所。

それがなくなってしまうのは、いかにも悲しい。

だから、今住んでいる、武蔵野市の歩いて10分のところに武蔵野赤十字病院があるのも何かの因縁だと思っている。