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伊勢写メアンソロジー

昭和30年から40年代に過ごした三重県伊勢とみそのの詳細な思い出。そこから見えてくる昭和時代に共感してもらえれば。

日赤の怪しいお話

2010-08-31 01:41:18 | 病院
日赤は正面から見ると、それは立派な建築だった。

楕円を半分に切って、かぶせたような正面玄関。そこに車寄せの大きなスロープが左右に回っていた。

本当に正面から見ると左右対称なのだった。

まじめになんで残さなかったのか残念でならない。こういう所にも日本人の建築物に対する畏敬の念のなさを感じる。



向かって左側から回り込むと、今の夜間出入り口あたりに巨大な楕円の鳥かごみたいな檻があって、そこに一匹の猿がいた。

痩せた大人の猿は、幼稚園児のボクが近くに寄っても、いつも無視していた。えさを欲しがることもなく、檻の柵をせわしなく登ったり降りたりした。

怖くはなかったけど、逆に興味も沸かず。いつもちら見して通り過ぎる。それは子供心に近くに寄ってはいけないもの、触れてはいけないのだと悟っていた。

その猿は、何もペットとして飼われていた訳ではなく、あくまで実験用動物なのだったと思う。

なぜかというとその檻の並びには、木造の小屋が連なり、羊、犬、猫などがたくさん飼われていたからだ。

その周りをウロウロとバッタ探して歩き回っていたのだから、恐ろしいことだった。今じゃあり得ない。

あの動物たちはどんな実験のために使われたのだろうか?

その猿も、理由ははっきりしないけど、翌年にはいなくなった。

そしてそれきり、檻に動物が入ることはなかったように記憶している。




山田赤十字病院の猿は友達

2010-08-27 00:51:17 | 病院
ボクにとって、日赤は巨大な遊び場であり、探検の森であった。

もう今となっては跡形もないが、あの頃玄関先は見事なヨーロッパ風の庭園になっていていくつもの大きな半円の植え込みに分かれていた。よくフランス映画を見ていると出てくるお屋敷の前に広がる庭園だ。

今思うと、ここと宇治山田駅舎が伊勢の代表的な洋風建築だと思う。

確かその分割された植え込みには、松が植えられていて洋風な庭園に不釣り合いな風景だった。

ボクはその植え込みの中を走り回り、石と石の間をジャンプして渡った。

病院の大きな建物の周りには周回する道路が走っていて、そこのあちこちがボクにとって格好の遊び場、探検の場だった。

正面入り口に向かって左側から回っていこう。

しばらく進むと、な、なんと大きな檻があって、そこには大きな猿がいて、すぐ横の小屋に羊がいた。

病院の敷地に飼われていたこともだけど、誰でもすぐ近くに寄れたこと自体が、今では絶対に信じられないことだろう。

ボクにとってそこに猿がいることが、日常の風景だった。

いったいこれを読んでいる人たちの何人が知っているだろうか?

御薗の日赤を忘れない~半月とともに~

2010-07-25 15:09:05 | 病院
妹ががんばって、代わりに写メをバンバン送ってくれたので、まるで現場に行ったようにコメントできてうれしいです。

そうかといって、この写真なぞはいったいなんの意味があるか、推し量ることさえできません。

では、解説しましょう。

山田日赤病院的に言うと、病院に向かって左側の脇にある、時間外出入り口です。時間外のお見舞いとか、ここから入るのでしょうか?中に入るといきなりファミマがあったりして驚く。

そして、映画<半分の月がのぼる空>的に言うと、裕一と里香が夜中に友達に手伝ってもらって病院を抜け出すシーンに使われた場所です。駐車場を上から見下ろすように撮影していましたね。

こんななんの変哲もない場所が、あのようなワクワクするようなシーンになってしまうわけで。

僕がほんの子供の頃、この場所から少し奥に進んだ場所に、なんと猿と羊が住んでいたのです。

そのあたりの話題が実はたくさん日赤にはあって、あらためてまとめて書いてみたいと思っています。

そうすれば、なぜここ御薗の日赤が重要な場所かが、わかってきますし、もちろん、半月の舞台になった偶然がいかに奇跡的な運命を感じるかも理解してもらえると考えてます。




日赤の前で 山田赤十字病院

2010-02-23 14:26:02 | 病院
ボクはここで生まれたし、この前にある家で育ったし。

病弱だったから、いったい何度ここで治療を受けたかわからない。

生活の真ん中に日赤があったかもしれない。

家から10メートルくらいだから、絶えず視界の中にあり、密接に関係していた。

しかも建物の周囲は、子供にとってまるでジャングルの中みたいな場所で、秘密基地があったり、昆虫の宝庫だったり、動物園だったりした。今思うと本当に怪しい場所だった。

子供の頃は、日本赤十字社の存在は知らず、日赤はここだけだと思っていた。

なので、今住んでいる東京武蔵野市にある日赤に行くとなぜかほっとするし、なにかあるとここに行く。

でも、病院に行くとほっとするのはやはりどこかおかしい。

御薗の日赤は子供頃、建物も荘厳なデザインで、威厳があった。
正門から入り口まで、庭園のような敷地になっていて、そこ自体が遊び場になっていた。

今思うと、ちょっとしたヨーロッパの庭園になっていたのだ。

後数年で移転してしまうのは、ボクにも伝わってきた。

だからこそいろいろな思い出を残そうと思う。