GNC日記

色んな萌えに浸りつつだらだら日を送る無気力な適当日記なり。モンハンはWiiの3とPSPの3rd。アクジェネコミュ開設!

金箔の鯱瓦が出土だお

2009-03-07 12:33:03 | Weblog
鯉城の近くで、金箔の貼られた鯱瓦(しゃちほこぢゃないお。しゃちがわらだお)が出土!!
しかも、破損していなくて、二対も!
って新聞で見てびっくり。

破片ではなく、こんな完全な形での出土は日本初めてで、超一級品の歴史的資料、とありますた。
戦国時代の情勢や大名同士の関係性などを検証する、良い発見になりそうですね。

場所は、広島合同庁舎5号館新築工事予定地にあった井戸の底。
あの辺は仮囲いだらけなので、具体的に何処の事を指してるのか良く分からなかったのですが、確かに合同庁舎の前を通った時に、建築計画のお知らせの看板を見て「へぇ・・・増築っすか」って半年近く前に思ってたので。
調べてみたら、広島高等裁判所の真正面(南)みたいですな。

鯉城(りじょう)と呼ばれる広島城は、中国地方を斬り従えた毛利元就の孫、毛利輝元が築城しますた。
ただ、毛利輝元は関が原の戦いで西軍総大将となり、敗戦した為、国替えとなってしまいます。
関が原の戦いの敗戦処分の軽重を検討している時、毛利家と徳川家康との間を取り持った吉川広家は、その功から周防・長門の二国を与えられる事になっていました。
そして、毛利家は中国地方の全領地を没収となる筈でした。
でも吉川氏はその後家康側へ懇願し、自分に与えられるべき領地をせめて毛利家に、と訴えますた。

西国の強大な大名の毛利家は、こうして、山口県の北西部、周防・長門の二国の主となり、長州藩の初代藩主として、そのお城も日本海側の萩と決められました。
街道や港のある山口市や下関市ではなく、毛利家のその後をも封じ込める為に、寒村だった萩に押し込めたのですな。


・・・まあ、そーゆー過程から、広島城は築城されて間もなく、城主が毛利家から福島家(福島正則)に変わったのです。
1589年にお城が出来て、1601年に福島氏が入城したのですから、たった12年・・・ですか。
新聞とかの記事では、福島家(またはその18年後に浅野家)が新たな城主として広島へ入った時、主は代わったのだぞ、という事を示すために、金箔を貼った鯱瓦を井戸の底に沈めたのではないか、とありますた。

まあ、それは分かりますな。
金箔を貼った鯱瓦は織田・豊臣政権時代を表すもので、特に毛利輝元は豊臣五大老の一人という重臣だったので、関が原の勝者側である福島氏が、敗者側<豊臣側>を否定する為、その象徴といえる物を捨てたのです。
豊臣時代、金箔を施した瓦は、豊臣政権に近いごく限られた大名にしか許可していなかったと言われているようなので。


井戸の底という事で、400年もずっと水に使っていて、その為に漆や金箔が傷まずに済んだようですな。


・・・因みに、発見されたのは広島城の敷地内(中堀と外堀の間にあった武家屋敷の跡)の井戸という事で。
早速wikiにこの鯱瓦の項目が追加されちょりました。「広島城」の項目で。
城主交代を示す儀式説と毛利輝元の家臣が廃棄した説とがあるようですな。

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