リートリンの覚書

麁服と繒服 24 麁服の原料「大麻」とは? 阿波忌部氏


阿波忌部氏


麁服は
徳島県の阿波忌部氏によってのみ
作ることが許されており、
代々、皇室に納めてきました。

忌部氏の祖神は
天太玉命(あめのふとだまのみこと)とされ、
天照大神の天岩戸神話の中でも
重要な役割を果たしています。

日本神話に登場するほどに
天皇家の歴史と深くつながっている
氏族であることがわかります。

阿波忌部氏は、
ヤマト政権成立にも貢献した祭祀族です。

彼らは、
徳島の吉野川流域と剣山系を中心に
勢力を拡大し、
阿波の国(徳島県)を拓いていきました。
 
「古語拾遺」には、
天富命(アメノトミノミコト)に
率いられた
天日鷲命(アメノヒワシノミコト)の孫が、

肥沃の地を求めて阿波国に来て、
穀(かぢ)や麻の種を植え開拓し、

その末裔は、
大嘗祭で木綿や麻布などを貢進し、
麻の種を植えた。
故に麻植郡と命名されたと記載されています。

弥生末期から古墳時代にかけては、
各地に麻・穀を植え広めるとともに、
農業・養蚕・織物・漁業・製紙・
建築・古墳技術など
幅広い分野において、
技術集団として活躍しています。

阿波は古代より忌部の治める国でした。

その理由は、
「延喜式」神名帳に記載された
阿波国五十座のうち、
吉野川流域の大社三座が
すべて忌部氏ゆかりの神社となっています。

その一つは、
麻植文条の「忌部神社」であり、
天日鷲命(アメノヒワシノミコト)を
主祭神としています。

現在の忌部神社は、
かつては「天日鷲社」と
呼ばれていたといいます。

神社の由緒には、
「忌部神社は、
忌部族すなわち徳島県民の祖神である
天日鷲命を祭り、
古来阿波の国総鎮守として朝野の尊崇篤く、
延喜の制には、官幣大社に列せられ、
かつ名神祭の班幣に預り、
西国随一の格式の大社として、
四国一の宮とも称せられた」
とあります。

二つ目は、
鳴門市大麻町の
阿波国一宮「大麻比古神社」です。

この神社は、
大麻比古大神(オオアサヒコノオオカミ)と
猿田彦神(サルタヒコノカミ)を
主祭神としています。

大麻比古大神は、
阿波忌部氏が祀る神で、
天日鷲命(アメノヒワシノミコト)の
子にあたります。

三つめの神社は、
天石門別八倉比売神社
(あめのいわとわけやくらひめじんじゃ)
です。

天石門別とは、
天石門別神(アマノイワトワケノカミ)
という神様のことです。

「古事記」の天孫降臨条によると、
天石門別神は、
天太玉命(アメノフトダマノミコト)の
子であると記されています。
阿波忌部が祀る神です。
 
ところで、
「安房斎部系図」によりますと、
天日鷲命の後裔には、
三柱の神様がいます。

長子は、大麻比古大神です。

第二子は、
天白羽命(アメノシラハノミコト)。
この神様は、
神麻積(かんおみ)氏や麻積連の祖です。

「古語拾遺」の天石戸神話によると、
麻を植え、
青和幣(あおにぎて)の祭具を調製した
長白羽神(ナガシラハノカミ)は、
伊勢国麻積氏の祖神になったと
記述があります

麻積氏は伊勢神宮の神御衣祭において、
麁服を奉職する一族です。

第三子は、
天羽雷雄命(アメノハヅチオノミコト)
という名で、
倭文宿禰(しずりのすくね)の祖です。

倭文宿禰に由来する
「倭文織(しずりおり)という
織物があります。

倭文織とは、
穀・麻・苧(からむし)などの繊維を
赤青の原色で染め、
乱れ模様に織る高い技術が
求められる布をさします。

これらの系譜を見るに、
阿波忌部の祖から始まる後裔が、
いかに麻や織物に
縁の深い一族であるかが
うかがい知ることができます。

忌部の祖神と中臣の祖神。
その子孫は与えられた役目を
大嘗祭できちんと果たしていきます。

忌部は衣食住の調達の責任者として、
中臣は祭祀の進行の役割であったと
思われます。

天武天皇の時代は、
忌部と中臣、神官の
三位一体で践祚大嘗祭を
取り仕切っていました。

忌部はある意味で
「技能集団」の血筋となっていき、
衣食住のすべての指導ができました。

大和はもちろん、
伊勢、紀伊、尾張、後には
関東までその指導範囲を広げていきました。

衣食住の元は「農耕」です。
その農耕のすべてを任されていた忌部は、

各地で農業の種づくりから
収穫までの「作法」を教えて歩きました。

この作法は、
人の命をつなぐために草木の命をいただく、
とういうことが根底にあり、

土に、水に、火に、風に感謝し、
作物を丁寧に取り扱うという意識に
基づいていました。

種を植えるのも神事。

育てるのも神事。

収穫の喜びも、

祈りの中で行うというのが、
日本の本来の農耕仕草です。

故に土地を見る目が鋭い忌部たちは、
この地には何を植えたらよいかが
ひと目でわかる慧眼を備えていました。

とくに絹の養蚕と大麻の栽培には
力を入れています。

忌部が指導したと思える場所には、
五穀の祖霊・大宜都比売(オオゲツヒメ)を
祀った神社が多いようです。

桑の育て方を教えた神様、
また蚕そのものの神様を
祀った神社もあります。

由緒には必ず
「阿波の国から忌部の指導」ということが
書かれています。

やがて、
尾張の土地にも忌部は入植していきます。

そして、
忌部が入る以前に、
すでに三河地方は
養蚕を初めていた形跡がありましたが。

三河地方が
養蚕に優れている土地であることを認識し、

そして、養蚕技術を伝授、
さらに張港の港づくりにも手を染め、
生糸の貿易にも加担しています。

養蚕に適した土地は、
水が綺麗で山に囲まれている土地柄がよく、
海抜500m以上が最適とされています。

それを満たしていたのが
三河地方(今の豊田市界隈)で、
すぐに優秀な糸を作れるようになりました。


感想

詳しく調べてみますと、
日本の農耕の礎は、
阿波忌部氏のおかげなのだと知りました。

祭祀関係のことは、
一族が衰退したのではなく、

華やかな表舞台を他に譲り、
地味だが人にとって一番大切である
命をつなぐために必要な

農耕=神事を

日本の為に、民のために

全国津々浦々に伝えるために
譲ったのかもしれませんね。

調べていきますと、
三河地方の養蚕にも
阿波忌部氏が関わっているみたいですね。

つまりは、
もしかすると、
にぎたえも阿波忌部氏が
関与している可能性が高いですね。

大嘗祭で
奉じられる食べ物・
海産物の御贄(みにえ)、
阿波忌部氏が関与しています。

また、
神盾・戟(ほこ)は、
紀伊の忌部氏が奉仕しています。

それらから、
やはり大嘗祭の様々な決まりは
忌部氏が関与していた可能性が高いですね。

日本国の土台を
作り上げた一族、忌部氏。

ますます、
彼らの歩んできた道を
知りたくなりましたよ。

さて、今日はこの辺で。

本日は、
「麁服(あらたえ)と繪服(にぎたえ)
天皇即位の秘儀 践祚大嘗祭と二つの布」
(著)中谷 比佐子・安間 信裕 
監修 門家 茂樹と
Wikipediaを参考に書かせていただきました。

最後まで読んで頂き
ありがとうございました。








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