前回は、木場駅から平久川周辺を散策し、その後、永代通り歩き、三十三間堂跡を見学しました。その続きです。
三十三間堂跡を散策した後は、再び永代通りに戻り、西へ進みました。鳥居が見えてきました。ここで富岡八幡宮を参拝しました。

富岡八幡宮

主祭神は応神天皇
富岡八幡宮に関しましては、私の別ブログにて詳しく記事にしています。気になる方は是非ご覧ください。
富岡八幡宮を参拝していると、神社から私好みの橋が見えました。思わず立ち寄り。
八幡掘遊歩道

富岡八幡宮の東に流れていた運河が八幡掘です。現在は埋め立てられ八幡堀遊歩道となっています。
八幡橋(旧弾正橋)


由来
旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した国産第一号の鉄橋です。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977)近代橋梁技術史上価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技術者スクワイアー・ウイップルの特許を基本としたことから、平成元年10月。国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。

ちょっと錆びたり、塗装が剥げたりしていますが、明治11年に造られた橋が健在とは、素晴らしい。当時の職人の方々の努力の賜物ですね。
その後、
成田山 深川不動堂の前を通り、
深川公園へ行きました。この辺りは、富岡八幡宮の別当寺・永代寺がありました。
永代寺跡地

1624年(寛永元年)、長盛の開山により永代島に創建されました。江戸時代には富岡八幡宮の別当寺として栄えましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となりました。跡地は現在の深川公園や深川不動堂などになっています。
当地の地名門前仲町はこの旧永代寺の門前という事で名付けられました。
深川不動堂

成田山 東京別院 深川不動堂(なりたさん とうきょうべついん ふかがわふどうどう)は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派の寺院であり、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院です。通称は深川不動尊、深川不動堂。
深川公園

永代寺の跡地に造られました。太政官布らによって明治6年(1872年)に飛鳥山公園、上野公園、芝公園、浅草公園と共に日本で最初に造られた公園の一つです。
こちらも名所江戸百景 第68景 「深川八まん山ひらき」で描かれています。
「深川八まん山ひらき」に関しましては、私の別ブログにて詳しく記事にしています。気になる方は是非ご覧ください。
深川公園を散策した後は、再び永代通りに戻り再び西へ向かいました。その途中、福島橋の袂で、渋沢栄一宅跡を発見。
渋沢栄一宅跡


江東区登録史跡
渋沢栄一宅跡
永代二ー三七
渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保11年(1840)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。二十五歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年(1873)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会公共事業に貢献し、昭和六年(1931)九十二歳で没しました。
栄一は、明治九年(1876)に深川福住町(永代二)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二十一年(1888)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別宅として利用されました。
栄一と本区との関係は深く、明治二十二年(1889)から同三十七年(1904)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三十年(1897)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正五年(1916)、実業界を引退するまでに五百余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。
平成二十一年三月 江東区教育委員会
福島橋を渡ると、再び史跡が見えました。
佐久間象山砲術塾跡


江東区登録史跡
佐久間象山砲術塾跡
永代一ー一四付近
この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化八年(1811)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保四年(1833)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、同十三年(1842)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840~42)に衝撃を受け、おもに海防問題に取り組み、九月には江戸川太郎左衛門(英龍・担庵)に入門して西洋砲術を学びました・
嘉永三年(1850)七月、深川小松町(永代一)の下屋敷で諸藩の藩士に西洋砲術を教え、このころ勝海舟も入門しました。同年十二月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。
安政元年(1854)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864)に赦され、幕府に招かれて京都に上がりましたが、七月十一日、尊皇攘夷派浪士に暗殺され、五十四歳の生涯を閉じました。
平成二十一年三月 江東区教育委員会
明治維新前後の時代。その当時、活躍した方々は、川の側に住むのが流行っていたのでしょうか?陸奥宗光宅も川の側にありました。
史跡を見学した後は、再び永代通りを西へ進みました。
明日に続きます。
読んで頂きありがとうございました。