日本書紀 巻第十二に登場する人物 三
・蘇賀満智宿禰
・物部伊莒弗大連
・圓大使主
・余磯
・物部長真胆連
・車持君
蘇賀満智宿禰
(そがのまちのすくね)
古墳時代の豪族
蘇我石川宿禰の子
別名
蘇賀満知宿禰(そがのまちのすくね)
蘇我麻智宿禰(そがのまちのすくね)
満智宿禰
満智宿禰
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十二
本文では、
このように登場しています。
“この時に当り、平群木菟宿禰、蘇賀満智宿禰、物部伊莒弗大連、圓大使主が、共に国事を執りました。”
履中天皇2年冬10月、
磐余に都を造りました。
この時に、
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、
蘇賀満智宿禰(そがのまちのすくね)、
物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)、
圓大使主(つぶらのおおみ)が、
共に国事を執りました。
物部伊莒弗大連
(もののべのいこふつのおおむらじ)
古代の日本の豪族
別名
物物部伊莒弗大連
(もののべのいろふつのおおむらじ)
伊莒弗宿禰
伊莒弗宿禰
(いこふつのすくね)
伊香井宿禰校異
伊香井宿禰校異
(いかいのすくね)
伊己布都大連
伊己布都大連
(いこふつのおおむらじ)
伊己布都乃連公
伊己布都乃連公
(いこふつのむらじきみ)
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十二
本文では、
このように登場しています。
“この時に当り、平群木菟宿禰、蘇賀満智宿禰、物部伊莒弗大連、圓大使主が、共に国事を執りました。”
履中天皇2年冬10月、
磐余に都を造りました。
この時に、
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、
蘇賀満智宿禰(そがのまちのすくね)、
物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)、
圓大使主(つぶらのおおみ)が、
共に国事を執りました。
圓大使主
(つぶらのおおみ)
古代日本の豪族
別名
円大使主(つぶらのおほみ)
円大臣(つぶらのおおおみ)
都夫良意富美(つぶらのおほみ)
都夫良意富美(つぶらのおほみ)
葛城円(かつらぎのつぶら)
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十二
本文では、
このように登場しています。
“この時に当り、平群木菟宿禰、蘇賀満智宿禰、物部伊莒弗大連、圓大使主が、共に国事を執りました。”
履中天皇2年冬10月、
磐余に都を造りました。
この時に、
平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、
蘇賀満智宿禰(そがのまちのすくね)、
物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)、
圓大使主(つぶらのおおみ)が、
共に国事を執りました。
余磯
(あれし)
膳臣
別名
膳余磯(かしわでのあれし)
稚桜部余磯(わかさくらべのあれし)
稚桜部余磯(わかさくらべのあれし)
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十二
本文では、
このように登場しています。
“膳臣余磯が酒を献じましたが、時に桜花が、御盃に落ちました。”
履中天皇3年冬11月6日、
天皇は磐余市磯池に
舟を浮かべて遊宴しました。
その際、
膳臣(かしわで)余磯(あれし)が
酒を献じましたが、
その時、
桜花が御盃に落ちました。
天皇はこれを不思議に思い、
そこで、
物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)
を召して、
花の出所を探させました。
長真胆連は独り花を尋ねて、
掖上室山(わきのかみのむろのやま)
で見つけ、
これを献上しました。
天皇は、
その珍しいことを喜んで、
宮の名としました。
この日、
長真胆連(ながまいのむらじ)の名を改めて、
稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)と
しました。
また膳臣余磯(かしわでのあれし)を名づけて
稚桜部臣(わかさくらべのおみ)としました。
物部長真胆連
(もののべのながまいのむらじ)
桜花を献上
別名
物部長真胆(もののべのながまい)
稚桜部長真胆(わかさくらべのながまい)
稚桜部長真胆(わかさくらべのながまい)
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十二
本文では、
このように登場しています。
“時に桜花が、御盃に落ちました。天皇はこれを不思議に思い、則ち、物部長真胆連を召して、詔して、「この花は、花の季節でもないのに来た。どこの花か。汝が、自ら求めよ」といいました。”
履中天皇3年冬11月6日、
天皇は磐余市磯池に
舟を浮かべて遊宴しました。
その際、
膳臣(かしわで)余磯(あれし)が
酒を献じましたが、
その時、
桜花が御盃に落ちました。
天皇はこれを不思議に思い、
そこで、
物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)
を召して、
花の出所を探させました。
長真胆連は独り花を尋ねて、
掖上室山(わきのかみのむろのやま)
で見つけ、
これを献上しました。
天皇は、
その珍しいことを喜んで、
宮の名としました。
この日、
長真胆連(ながまいのむらじ)の名を改めて、
稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)と
しました。
また膳臣余磯(かしわでのあれし)を名づけて
稚桜部臣(わかさくらべのおみ)としました。
車持君
(くるまもちのきみ)
「日本書紀」では
日本書紀 巻第十二
本文では、
このように登場しています。
“「車持君が筑紫国に行き、悉く車持部を管掌し、兼ねて充神者を取りました。必ず、この罪でしょう」といいました。天皇は則、車持君を喚び、これを推問すると事は既に事実でした。“
履中天皇5年3月1日、
筑紫に居る三神が、
宮中に現れ祟りましたが、
天皇は祈祷をしましたが、
祭りませんでした。
10月11日、
皇妃を葬りました。
天皇は神の祟りを治めずに、
皇妃を亡くしたことを悔いて
咎(とが)を求めました。
神戸の民を奪われた宗像の神は、
天皇を祟りました。
そのため皇妃が薨去しました。
そこでその咎(とが)を調べると、
車持君は、
欲のまま天子の百姓と
筑紫の三神に送った民を奪い取っていました。
天皇はその罪を責めて、
悪解除(あしはらえ)、善解除(よしはらえ)
を背負わせ、
長渚崎(ながす)に出むかせ、
祓い禊をさせました。
そして、
筑紫の車持部は司ることは出来ないと
詔し、
ただちにすべての筑紫の車持部を収めて
これを三神に奉じました。
車持君とは、
乗輿を製作、管理することを
職務とした氏族で、
その職務を果たすための
費用と貢納する車持部を与えられていました。
勉強途中です。
新しい知識を得た場合、
随時更新予定です。