リートリンの覚書

日本書紀 巻第十三に登場する人物 一 ・忍坂大中姫命 ・名形大娘皇女 ・境黒彦皇子 ・八釣白彦皇子 ・但馬橘大娘皇女 ・酒見皇女


日本書紀 巻第十三に登場する人物 一

・忍坂大中姫
・名形大娘皇女
・境黒彦皇子
・八釣白彦皇子
・但馬橘大娘皇女
・酒見皇女


忍坂大中姫
(おしさかのおおなかつひめ)


允恭天皇の皇后


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。

“元年冬十二月、妃の忍坂大中姫命は、群臣が憂い、吟いているのに苦しみ、自ら洗手水を執って、皇子の前に進みました。そして申し上げて、「大王が、辞して位に即かず、位が空いてから既に年月を経ています。群臣百寮は、愁いて、どうしていいのか知りません。願わくは、大王。群の望みに従い、強いて帝位に即いてください」といいました。“

反正天皇の死後、群卿は雄朝津間稚子宿禰皇子に天皇に即くように請願しますが、皇子は拒みました。

忍坂大中姫命は群臣が憂い、呻いているのを見て苦しみ、自ら洗手水(おおてみず)を取り皇子の前に進みでて「帝位に即くよう」説得します。

しかし、皇子は許そうとせず、妃に背を向けました。

妃は退くことも出来ず、4,5刻ほど経ちました。この季節は季冬(しわす)で妃の持っていた鋺(まり)から水が溢れて、腕に凝(こご)り、寒さに堪えられず、将に死にそうになりました。

皇子は振り向いて驚き、すぐさま助けました。そして皇子は皆の請願を受け入れました。

群臣は喜んで、前日に、天皇の璽符を捧げて、再拝してたてまつりました。

そして雄朝津間稚子宿禰皇子は天皇に即位しました。

允恭天皇2年春2月14日
忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部(おさかべ)を定めました。

皇后は、
木梨軽皇子
(きなしのかるのみこ)、
名形大娘皇女
(ながたのおおいらつめのひめみこ)、
境黒彦皇子
(さかいのくろひこのみこ)、
穴穂天皇
(あなほのすめらみこと)、
軽大娘皇女
(かるのおおいらつめのひめみこ)、
八釣白彦皇子
(やつりのしろひこのみこ)、
大泊瀬稚武天皇
(おおはつせのわかたけるのすめらみこと)
但馬橘大娘皇女
(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)
酒見皇女(さかみのひめみこ)
を生みました。

忍坂大中姫が皇后になる以前、実家にいた時、独り庭で遊んでいました。

その庭の側を闘鷄国造(つげのくにのみやつこ)が通り過ぎました。彼は嘲ながら皇后に蘭(アララギ)を求め、皇后はアララギを与えました。

皇后は闘鷄国造が無礼であったことを恨みました。

皇后になった後に、無礼だった闘鷄国造を探し出し、罪を数えて殺そうと思いました。

しかし、闘鷄国造は許しを乞いました。皇后は彼を許しましたが、名を落として稲置としました。

允恭天皇7年12月1日
新室(にいむろ)で酒盛りをしました。
天皇が琴を弾き、皇后が舞を踊りましたが、舞い終えても禮事(いやごと)を言いませんでした。

この時代、宴会で舞う者は、舞い終わると、座長(くらかみ)に対して、「娘子(おみな)を奉る」というものでした。

禮事を言わない皇后に対し、天皇は「何故、礼をしなかったのか?」といいました。そこで皇后は再び舞を踊り、
「娘子を奉ります。妾の妹で、名は弟姫(おとひめ)です」といいました。

弟姫は容貌が美しく、天皇の心は彼女にありました。ですから、皇后に強いて進めさせたのです。皇后はこれを知っていて、たやすく禮事を言わなかったのです。

天皇は歓喜して、すぐに使者を遣わして弟姫を呼びました。

何度も呼びだしに応じなかった弟姫ですが、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)に従い、京にやって来ました。

しかし、皇后の心は穏やかではありませんでした。そこで、弟姫を宮中に近づけず、別の殿屋を藤原に造り、そこに居させました。

大泊瀬天皇を産む夕にあたり、天皇ははじめて藤原宮に行幸しました。

皇后はこれを聞いて恨んで、「妾が初めて髪を結い、後宮につかえてから、既に、多くの年を経ました。天皇ははなはだひどい。妾はこを産むのに、生か死か相半ばというのに。何故に今夕に当たり、藤原に幸するのですか」といいました。

そこで、自ら産殿を焼いて将に死のうとしました。

天皇はこれを聞いて大いに驚いて、「朕が過っていた」といい、皇后の意を慰め、諭しました。

允恭天皇8年春2月、
藤原に行幸しました。

弟姫と天皇は歌を詠み合いますが、それを聞いた皇后が大いに恨みました。

そこで弟姫は、王居を離れて遠くにいたいと請願します。そこで天皇は更に宮室を河内茅渟(ちぬ)に造り、そこに、弟姫を居させました。

允恭天皇10年春1月、
天皇は頻繁に茅渟に行幸しました。

ここで皇后が奏して、
「私は、毛先の末のごとく、少しも、弟姫を恨んでいません。しかし、陛下がしきりに茅渟に行幸するのは、百姓の苦しみになりませんか。願わくは、天皇が行幸する数を減らすようにしてください」と諌めました。

この後、天皇はまれに行幸するようになりました。


そのほか


・父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)、母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)で父方の従兄弟にあたります。


名形大娘皇女
(ながたのおおいらつめのひめみこ)


允恭天皇の皇女


別名


長田大郎女(ながたのおおいらつめ)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。

“二年、春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部を定めました。
皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇、但馬橘大娘皇女、酒見皇女を生みました。“

允恭天皇と皇后・忍坂大中姫との間に
生まれた子です。

巻第十三では名前のみの登場で、
詳しい活躍は記述されていません。


境黒彦皇子
(さかいのくろひこのみこ)


允恭天皇の皇子


別名


坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)
境之黒日子王


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。

“二年、春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部を定めました。
皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇、但馬橘大娘皇女、酒見皇女を生みました。“

允恭天皇と皇后・忍坂大中姫との間に
生まれた子です。

巻第十三では名前のみの登場で、
詳しい活躍は記述されていません。


八釣白彦皇子
(やつりのしろひこのみこ)


允恭天皇の皇子


別名


八苽白日子王


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。

“二年、春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部を定めました。
皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇、但馬橘大娘皇女、酒見皇女を生みました。“

允恭天皇と皇后・忍坂大中姫との間に
生まれた子です。

巻第十三では名前のみの登場で、
詳しい活躍は記述されていません。


但馬橘大娘皇女
(たじまのたちばなのおおいらつめのひめみこ)


允恭天皇の皇女


別名


橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。

“二年、春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部を定めました。
皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇、但馬橘大娘皇女、酒見皇女を生みました。“

允恭天皇と皇后・忍坂大中姫との間に
生まれた子です。

巻第十三では名前のみの登場で、
詳しい活躍は記述されていません。


酒見皇女
(さかみのひめみこ)


允恭天皇の皇女


別名


酒見郎女(さかみのいらつめ)


「日本書紀」では


日本書紀 巻第十三では
このように登場しています。

“二年、春二月十四日、忍坂大中姫を立てて皇后としました。この日、皇后のために刑部を定めました。
皇后は、木梨軽皇子、名形大娘皇女、境黒彦皇子、穴穂天皇、軽大娘皇女、八釣白彦皇子、大泊瀬稚武天皇、但馬橘大娘皇女、酒見皇女を生みました。“

允恭天皇と皇后・忍坂大中姫との間に
生まれた子です。

巻第十三では名前のみの登場で、
詳しい活躍は記述されていません。



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