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リートリンの覚書

古事記 下つ巻 現代語訳 三十七 雄略天皇


古事記 下つ巻 現代語訳 三十七


古事記 下つ巻

雄略天皇


書き下し文


 大長谷若建命、長谷朝倉宮に坐して、天の下治らしめしき。 天皇、大日下王の妹若日下部王に娶ひたまふ。子无し。また都夫良意富美の女、韓比賣に娶ひて、生れませる御子、白髮命、次に妹若帶比賣命。二柱。故白髮太子の御名代と爲て、白髮部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬の舎人を定む。此の時に呉人參渡り來つ。其の呉人を呉原に安置く。故其の地を號けて呉原と謂ふ。


現代語訳


 大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと)は、長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に坐(いま)して、天の下治(し)らしめました。 天皇は、大日下王(おおくさかおう)の妹(いも)若日下部王(わかくさかべのみこ)を娶(めと)いました。子は无し。また、都夫良意富美(つぶらおほみ)の女(むすめ)、韓比賣(からひめ)を娶いて、お生まれになられた御子は、白髮命(しらかのみこと)、次に妹若帶比賣命(わかたらしひめのみこと)。二柱。故、白髮太子の御名代と爲(し)て、白髮部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬の舎人を定めました。この時に、呉人(くれびと)が參(まゐ)渡り来ました。その呉人を呉原(くれはら)に安置(お)きました。故、その地を號(なづ)けて呉原と謂います。



・長谷朝倉宮(はつせのあさくらのみや)
奈良県桜井市黒崎にある白山比咩神社の境内には、伝承地に関する案内板がある
・呉人(くれびと)
中国の南北朝時代(四三九‐五八九)、建康(南京)の地に都を置いた南朝の宋・斉・梁・陳の国の人を、古代の日本人が呼んだ称
・呉原(くれはら)
奈良県高市郡明日香村栗原


現代語訳(ゆる~っと訳)


 大長谷若建命は、長谷朝倉宮においでになられ、天下を統治しました。 

天皇は、大日下王の妹・若日下部王と結婚しました。子どもはいません。

また、都夫良意富美の娘・韓比売と結婚して、お生まれになられた御子は、白髪命、次に妹・若帯比売命。2人。

そして、白髪太子の御名代として、白髪部を定め、また長谷部の舎人を定め、また河瀬の舎人を定めました。

この天皇の御代に、呉の人が渡来しました。その呉の人を呉原に住まわせました。こういうわけで、その土地を名付けて呉原といいます。



続きます。

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