女性天皇について
皇位継承は男系男子にこだわっていました。
しかし過去には、
8代6人の「女性天皇」がいらっしゃります。
6世紀から8世紀にかけて飛鳥・奈良時代は、「女性天皇」が多く出現しています。
33代・推古天皇(592~628)
35代・皇極天皇(642~645)/
37代・斉明天皇(655~661)(二回即位)
41代・持統天皇(690~697)
42代・元明天皇(707~715)
44代・元正天皇(715~724)
46代・孝謙天皇(749~758)/
49代・称徳天皇(764~770)(二回即位)
と8代6人の女性が天皇となっています。
これらの女性天皇は、
次に天皇となるべき皇子が若すぎるため、
その成長を待つ間の
「中継ぎ天皇」であったと言われています。
たしかに、
推古天皇、皇極天皇/斉明天皇、
持統天皇、元明天皇、元正天皇の5人の女帝は、
「中継ぎ天皇」というべき存在でした。
孝謙天皇/称徳天皇以降は、
しばらく男系で続きます。
江戸時代に登場した、
109代・明正天皇(1629~1643)
と117代・後桜町天皇(1762~1770)
の二人の女性天皇も、「中継ぎ天皇」でした。
孝謙天皇についてですが、
読んだ本では、次の説明がなされていました。
しかし、749年に即位した孝謙天皇の場合はすこし事情が異なっている。757年に施行された「養老律令」に「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること。女帝の子もまた同じ」と規定されている。つまり、女性天皇を認めたうえ、さらに、女性天皇の子どもも皇位を継ぐことができると、「女系の天皇」の存在を認めているのだ
引用・天皇と皇室の謎99 かみゆ歴史編集部
マジ?本当?正直、疑問ですよね。
そこで、調べてみました。
(補足)養老律令について
718年元正天皇は、
藤原不比等ら大宝律令の
補足と改修を命じました。
これが、
のちの養老律令に繋がります。
大宝律令→(補足・改修)→養老律令
孝謙天皇の治世の757年5月、
藤原仲麻呂の主導によって
720年に撰修が中断していた
新律令が施行されることとなりました。
これが養老律令です。
757年当時の政治状況をみると、
それまで中央政府に
君臨していた聖武天皇が756年に没し、
政府内で複数の勢力争いが
主導権争いを始めていました。
その中で藤原仲麻呂が孝謙天皇と連携して、
急速に台頭し始めていました。
これらの状況から、
養老律令施行の背景には、
両者共通の祖父である
不比等の成果の活用することで、
不比等の政治を継承することを
宣言することとともに、
孝謙天皇・仲麻呂政権の安定を
図ろうとする政治的意図があったと
考えられています。
この養老律令は、廃止法令は出されず、
形式的には明治維新まで存続していました。
感想
養老律令に存在が認められている
と聞き疑問を感じ、
調べて見たのですが、
「女帝」
(女系の天皇の存在を認めている)に関して
賛否両論があるようです。
問題の原文「女帝子亦同」
「女帝」
という言葉を知っている我々が見ると一見
「女帝の子どももおなじにせよ」
と読めますが、
当時「女帝」という言葉(概念)は
無かった可能性が高いそうです。
そうなると「女帝の子も同じにせよ」
と訳するのには無理があるように感じます。
むしろ
「女も帝の子ども同じにせよ」
と読む方ががしっくりときます。
養老律令 継嗣令 原文
でネット検索しますと、
より詳しく説明されている方が
沢山いらっしゃりますので、
興味のある方は検索してみて下さい。
仮に認められていたのなら、
女性天皇がいっぱい出現しているはずです。
しかし、孝謙天皇以降長い間、
皇位継承は
男系のまま続けられています。
それは、今でも続いています。
自分としては、やはり
女系天皇の存在は
認められていなかったと感じます。
また、都合のいいように
解釈してませんか?知●人さん。
続く