日本書紀 巻第十一 大鷦鷯天皇 十
・天皇の遣い口持臣
・皇后の反抗
・皇后の薨去
冬十月一日、
的臣(いくはのおみ)の祖、
口持臣(くちもちのおみ)を遣わして、
皇后を呼びました。
(一云う、和珥(わに)臣の祖の口子臣(くちこ)であると。)
口持臣は筒城宮に至て、
皇后に一度、謁(まみ)えましたが、
黙って答えませんでした。
時に、
口持臣は雨雪(ゆきのふる)に濡れ、
日夜を経て、
皇后の殿の前に伏せて、
避けませんでした。
口持臣の妹の国依媛(くによりひめ)は、
皇后に仕えていました。
この時たまたま、
皇后の側に待していました。
その兄が雨に濡れているのを見て、
哀しんで泣き、歌いました。
山背の 筒城宮に
物申す 我が兄を見ると
涙ぐんでしまいます
時に、
皇后は国依媛に話して、
「どうしてお前が泣くのか」
といいました。
答えて、
「今、庭に伏して請願している
謁者(えっしゃ)は妾の兄です。
雨にぬれ避けようとせず、
猶もひれ伏して謁しようとしています。
これをもって、
泣いて悲しんでいるのです」
といいました。
皇后は話して、
「汝の兄に告げて、
はやく還らせなさい。
吾は返りません」
といいました。
口持臣はすぐさま返って、
天皇に復奏(ふくそう)しました。
十一月七日、
天皇は江に浮かんで山背に幸しました。
時に、
桑の枝が、
水に沿って流れてきました。
天皇は桑の枝をみて歌いました。
つきさはふ 磐之媛(いわのひめ)が
凡ろかに(おほらかに) 聞いてくれない
うら桑の木
寄るべきではない 川の隅々に
寄って来て行ってしまう うら桑の木よ
明日、
乗輿(すめらみこと)は筒城宮に至って、
皇后をよびました。
皇后は参見(さんけん)しませんでした。
時に天皇は歌い、
つぎねふ 山背女が
木鍬(こくわ)を持ち 打ちし大根
さわさわと 汝が言うからこそ
打ち渡す 繋った木の栄えるように
大勢で入りやって来たというのに
また歌いました。
つぎねふ 山背女が
木鍬を持ち 打ちし大根
その根白のような白い腕
枕にして寝たことがないというなら
知らないとも言えるだろう
時に、
皇后は奏言して、
「陛下は、八田皇女を納(めしい)れて
妃としました。
皇女に副って、
后になりたいと思いません」
といい、
とうとう会うことはありませんでした。
車駕(すめらみこと)は宮に還りました。
天皇は皇后が大いに怒っているのを
恨みました。
そしてなお恋しく思いました。
三十一年春正月十五日、
大兄去来穂別尊を皇太子に立てました。
三十五年夏六月、
皇后・磐之媛命が筒城宮にて薨去しました。
三十七年冬十一月十二日、
皇后を乃羅山(ならやま)に葬りました。
・謁者(えっしゃ)
1・身分の高い人や目上の人に面かいを求める人
・復奏(ふくそう)
繰り返し調べて、天子に申しあげること
・おほらかに
いいかげんに。なおざりに)
・参見(さんけん)
出向いて会うこと。参じて面会すること
(感想)
冬10月1日、
的臣の祖・口持臣を遣わして、
皇后を呼びました。
口持臣は筒城宮に到着して、
皇后に一度、
謁見しましたが、
皇后は黙って答えませんでした。
その時、
口持臣は雨雪に濡れ、
日夜を経ても、
皇后の殿の前に伏せて、
避けませんでした。
口持臣の妹の国依媛は、
皇后に仕えていました。
この時たまたま、
皇后の側に仕えていました。
その兄が雨に濡れているのを見て、
哀しんで泣き、歌いました。
山背の 筒城宮に
物申す 我が兄を見ると
涙ぐんでしまいます
その時、
皇后は国依媛に話して、
「どうしてお前が泣くのか?」
といいました。
答えて、
「今、庭に伏して請願している謁者は
私の兄です。
雨にぬれても避けようとせず、
なおもひれ伏して謁見しようとしています。
これをもって、
泣いて悲しんでいるのです」
といいました。
皇后は話して、
「お前の兄に告げて、はやく帰らせなさい。
吾は帰りません」
といいました。
口持臣はすぐさま返って、
天皇に復奏しました。
兄貴、
いい迷惑だなぁ。
仁徳天皇11月7日、
天皇は江に浮かんで山背に行幸しました。
その時、
桑の枝が水に沿って流れてきました。
天皇は桑の枝をみて歌いました。
つきさはふ 磐之媛(いわのひめ)が
凡ろかに(おほらかに) 聞いてくれない
うら桑の木
寄るべきではない 川の隅々に
寄って来て行ってしまう うら桑の木よ
翌日、
天皇は筒城宮に到着して、
皇后を呼びました。
しかし、
皇后は参見しませんでした。
時に天皇は歌い、
つぎねふ 山背女が
木鍬(こくわ)を持ち 打ちし大根
さわさわと 汝が言うからこそ
打ち渡す 繋った木の栄えるように
大勢で入りやって来たというのに
また歌いました。
つぎねふ 山背女が
木鍬を持ち 打ちし大根
その根白のような白い腕
枕にして寝たことがないというなら
知らないとも言えるだろう
時に、
皇后は奏言して、
「陛下は八田皇女を召し入れてれて
妃としました。
皇女に副って、后になりたいと思いません」
といい、
とうとう会うことはありませんでした。
天皇は宮に帰りました。
天皇は皇后が大いに怒っているのを
恨みました。
そしてなお恋しく思いました。
仁徳天皇31年春1月15日、
大兄去来穂別尊を皇太子に立てました。
仁徳天皇35年夏6月、
皇后・磐之媛命が筒城宮にて薨去しました。
仁徳天皇37年冬11月12日、
皇后を乃羅山に葬りました。
うーん。
仲直りできないまま、
亡くなられたのですね。
悲しいことです。
明日に続きます。
読んで頂き
ありがとうございました。
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