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身の回りのことをぼちぼち

すべての人がアーティスト―宮沢賢治「農民芸術概論綱要」

2010-06-11 20:21:26 | 生きる

農民芸術概論綱要

宮沢賢治




序論

……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

農民芸術の興隆

……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……

曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ

農民芸術の本質

……何がわれらの芸術の心臓をなすものであるか……

もとより農民芸術も美を本質とするであらう
われらは新たな美を創る 美学は絶えず移動する
「美」の語さへ滅するまでに それは果なく拡がるであらう
岐路と邪路とをわれらは警めねばならぬ
農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直観と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし
巨大な演劇舞踊として観照享受することを教へる
そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
かくてわれらの芸術は新興文化の基礎である

農民芸術の分野

……どんな工合にそれが分類され得るか……

声に曲調節奏あれば声楽をなし 音が然れば器楽をなす
語まことの表現あれば散文をなし 節奏あれば詩歌となる
行動まことの表情あれば演劇をなし 節奏あれば舞踊となる
光象写機に表現すれば静と動との 芸術写真をつくる
光象手描を成ずれば絵画を作り 塑材によれば彫刻となる
複合により劇と歌劇と 有声活動写真をつくる
準志は多く香味と触を伴へり
声語準志に基けば 演説 論文 教説をなす
光象生活準志によりて 建築及衣服をなす
光象各異の準志によりて 諸多の工芸美術をつくる
光象生産準志に合し 園芸営林土地設計を産む
香味光触生活準志に表現あれば 料理と生産とを生ず
行動準志と結合すれば 労働競技体操となる

農民芸術の(諸)主義

……それらのなかにどんな主張が可能であるか……

芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する
その遷移にはその深さと個性が関係する
リアリズムとロマンティシズムは個性に関して併存する
形式主義は正態により標題主義は続感度による
四次感覚は静芸術に流動を容る
神秘主義は絶えず新たに起るであらう
表現法のいかなる主張も個性の限り可能である

農民芸術の製作

……いかに着手しいかに進んで行ったらいいか……

世界に対する大なる希願をまづ起せ
強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ
感受の後に模倣理想化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と
諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力はかはる
機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり
練意了って表現し 定案成れば完成せらる
無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
髪を長くしコーヒーを呑み空虚に待てる顔つきを見よ
なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ

農民芸術の産者

……われらのなかで芸術家とはどういふことを意味するか……

職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる

農民芸術の批評

……正しい評価や鑑賞はまづいかにしてなされるか……

批評は当然社会意識以上に於てなさねばならぬ
誤まれる批評は自らの内芸術で他の外芸術を律するに因る
産者は不断に内的批評を有たねばならぬ
批評の立場に破壊的創造的及観照的の三がある
破壊的批評は産者を奮ひ起たしめる
創造的批評は産者を暗示し指導する
創造的批評家には産者に均しい資格が要る
観照的批評は完成された芸術に対して行はれる
批評に対する産者は同じく社会意識以上を以て応へねばならぬ
斯ても生ずる争論ならばそは新なる建設に至る

農民芸術の綜合

……おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか……

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
『つめくさ灯ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかはし
雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』
詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう

結論

……われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である……

われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である

理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる
畢竟ここには宮沢賢治一九二六年のその考があるのみである

http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.htmlより

共生の2つのあり方

2007-08-24 00:46:26 | 生きる
藤井誠二、高岡健、宮台真司「犯罪とこころの復権」
高岡健・宮台真司編『こころ「真」論』ウェイツ、2006

265-267:宮台
パターナリズム
 =相手がどう感じているかに関係なく、「コレが相手を幸せにするはずだ」
  と相手に押し付けるコミュニケーションのこと。

★現在はパターナリズムが通じない時代
 ⇔流動性と多様性の低い共同体であれば、本人よりも経験ある年長者の方が
  何が幸せかがわかるかもしれない。
 →流動性と多様性が高まった社会(=現在)では、何が自分を幸せにするのか、
  自分自身にもわからない。
 →年長者からアドバイスを受けながらも、自分で決めるしかない。

⇒各自の決定を尊重する
 ≒多様性を容認することは、多様性リテラシーに乏しい者(例:年長者)には
  排除的である。←年長者は「年少者の決定に口出しできない」と感じる。
 =多様性を容認する包摂主義の排除的機能

⇒包摂主義の排除的機能を前提としつつ再包摂する戦略が必要
 →多様性リテラシーを向上させる。
 →共生するための考え方を身につける。

★共生するための考え方
 ①わかり合いによる共生
 ②わかり合えないことを前提にした共生
  →「信頼醸成」=空間・時間の共有などによる殺し合いの無力化
   「ルールによる共和」=宗教的善性を前提にした最低限のルールをつくる。

267
「わかり合いを求めるなと言うわけじゃない。
 そうじゃなく、わかり合えないと共生できないと思いこんじゃいけないということ。
 わかり合えないから戦争が起こるとか、
 わかり合えないから排除が起こるなどと考えちゃいけないということ。
 わかり合いの過剰な追及は、多様なものを共生させる包摂主義とはまったく両立しない」



おとなの自覚

2007-08-23 07:44:59 | 生きる
鈴木邦男、高岡健、宮台真司「おとなの自覚」
高岡健・宮台真司編『こころ「真」論』ウェイツ、2006

184-185:高岡
「若者はずっと自己を遡っていって自己の発生と起源に
たどり着こうとするけれど、結局たどり着けずに傷ついていく現状がある
 ―略―。

では、大人たちはどうなのか。
大人たちは、発生と起源を遡っているのだろうか。
実は、発生と起源を遡っていないがゆえに、
傷ついていないだけではないかと考えられるのです。」


「本来大人がもつべき自覚は、
社会や国家と呼ばれているものの発生と起源を遡ることです。

遡ることによって、いまの社会や国家をいかに相対化できるかが
問われているのだと思います。

相対化する中でしか、次の構想は出てこないということが、
私のいちばん言いたい点です。」

依存症が生起しやすい社会=居場所を奪われた社会

2007-08-21 21:57:22 | 生きる
藤原和博、高岡健、宮台真司「子どものリアルと成熟社会」
高岡健・宮台真司編『こころ「真」論』ウェイツ、2006

20-22:高岡
「依存症が生起しやすい社会は、人間が居場所を奪われた社会です。
 居場所を奪われた人々が何かに依存する。
 対人関係、アルコール、薬物といったものに依存していきるかたちしか、
 選択肢がないのです。」

「居場所とは「志が交流していく世界」であり、
 そしてその中では能力給ではなく固定給でみんなが納得できる。
 だから、そういう世界を構築していく以外に、
 現在における世代間伝達は成立しないのではないか。」

「志の交流のためにはナナメの関係が大変重要になるということです。
 というのは、人間が子どもから大人になっていく過程で、―略―
 アイデンティティを確立していくためにはナナメの関係が必要だからです。

 反対に、いくら自分で自分を掘り下げていっても、
 アイデンティティに到達することはありません。
 つまり、誰かを参照していかないとアイデンティティには至らないのです。
 そして、その「誰か」がなくなってきているのが、いまの世の中だろうと思います。 
 ―略―

 いまは参照すべき他者の像を結びにくい世の中です。
 だからこそ、いまの子どもや青年は、ひたすらに自分の過去へ過去へと遡って、
 なんとかトラウマを見つけ出していくことで、
 仮構のアイデンティティを確立しようとしています。

 自分の生い立ちの中から自分というものを形成しようとしているけれども、
 それは痛々しいほど成功しない姿だと言わざるをえません。

 トラウマの発見に立脚した仮構のアイデンティティは、
 居場所の剥奪と相即的に成立する事態ですから、
 必然的に何ものかへの依存を要請します。 

 それがどのようなかたちの依存であったとしても、
 その結末は東電OL殺人事件に象徴されるような悲劇でしかないのです」




多層な個人/地域をつくる

2007-07-12 22:13:53 | 生きる
内山節『「創造的である」ということ 下 地域の作法から』農文協、2006

234-235
「人間が一人で背負えるものはさほど大きいものではありません。
 -略-
 
 共同で何かをやるときに、非常に大きなものを背負うことができるのです。
 結びつきを持っているときに、今の社会はこれでよいのか、
 変えるとしたらどう変えたらよいのかというような重い課題を背負える。

 ところが人間が個人に分解してしまうと、自分の年金は大丈夫かとか、
 もう少し貯金しないとまずいのじゃないかといったような軽いものしか背負えなくなってしまい、
 他のものは知識で処理するということになりかねません。

 個人に分解するということは、大きなものを背負えない人間が増え、
 社会の全体の原理と対抗したりするだけの荷物を背負えなくなっていくということでもあるのです。

 その結果、個人はシステムに飲み込まれてしまう。

 自由な個人から成る社会というのは、
 個人がシステムに飲み込まれていく社会として実際には形成されてしまうのです。」


243
「地域共同体は、一つの地域共同体と人間の関係だけではなく、
 いくつもの共同体が多層的に重なり合った共同体になっていて、
 そのなかには濃い共同体も薄い共同体もある。
 -略-
 こうして、いろいろな種類の共同体が重なり合って、
 そこに共同体的暮らしが成立しているのです。」

244
「いま力をなくしている地域を見ると、
 地域の多層性がはっきり見えるようになっていないという気がします。

 逆に力のある地域は、たとえば役場がどういう方向を出そうと、
 うちの集落はこれでいくというような多層性を持っている。
 -略-
 
 これは、教育のあり方にもいえることで、
 昔の教育は、親から子への教育もあれば、じいさん、ばあさんから孫へという教育もあった。
 また、先輩から後輩への教育も重視されていた。
 祭りや行事を通しての教育や、みんなで田植えをしたり収穫することを通しての教育もあった。

 このような多層的な仕組みの中で、子どもたちを教育していく。
 そのような教育の一要素として、寺子屋教育という文字系の教育もあったということなのです。」



進歩vs極める

2007-07-10 22:35:37 | 生きる
内山節『「創造的である」ということ 下 地域の作法から』農文協、2006

35
「たとえばお坊さんが修行をするとき、
 修行によって進歩していくなんて感覚は、おそらくないでしょう。
 -略-
 職人や農民が技を高めていくときの価値観も、「進歩」ではなく、
 深めるとか極めるでしょう。

 人生の道を深めるというようなこともふくめて、
 近代以前の人々は、深めていくことに価値をみいだす社会に生きていた、
 という気がします。

 ところが、二十世紀の社会、近代社会になると、
 深めることから進歩へと価値が移ってきた。
 -略-

 ここで注意しておかなければならないことは、
 「進歩」は客観的事実として生起するものではなく、
 それを「進歩」としてみる精神がつくりだすものだということです。」



「心のある道」-〈意味への疎外〉からの解放

2007-07-01 08:44:48 | 生きる
真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫版、2003(1977)



159
「ドン・ファンが知者の生活を「あふれんばかりに充実している」というとき、
 それは生活に「意味がある」からではない。

 生活が意味へと疎外されていないからだ。

 つまり生活が、外的な「意味」による支えを必要としないだけの、
 内的な密度をもっているからだ。」





世界を止める

2007-06-30 08:15:25 | 生きる
真木悠介『気流の鳴る音』ちくま学芸文庫版、2003(1977)

95
「無知に耽溺するものは
 あやめもわかぬ闇をゆく

 明知に自足するものは、しかし
 いっそうふかき闇をゆく」
※『ブリハッドアーラヌヤカ・ウパニシャッド』第四章第四節10
 長尾雅人訳編『バラモン教典・原始仏典』1969、99ページ

102
「われわれの文明はまずなによりも目の文明、
 目に依存する文明だ。

 このような〈目の独裁〉からすべての感覚を解き放つこと。
 世界をきく。世界をかぐ。世界を味わう。世界にふれる。
 これだけのことによっても、世界の奥行きはまるでかわってくるはずだ。」

107
「〈焦点をあわせる見方〉においては、
 あらかじめ手持ちの枠組みにあるものだけが見える。
 「自分の知っていること」だけが見える。

 〈焦点をあわせない見方〉とは、
 予期せぬものへの自由な構えだ。

 それは世界の〈地〉の部分に関心を配って「世界」を豊饒化する。」






近代化と伝統・共同体

2007-06-23 07:01:40 | 生きる
鈴木謙介『〈反転〉するグローバリゼーション』NTT出版、2007

92
「ここで示されているのは、脱伝統社会が、
 ある意味で危険な社会であるということだ。

 なぜならば、人びとはもはや
 「伝統」を行為(の動機づけ)の参照点にできず、
 なぜそうするのかも分からないまま、
 まるではじめから決められていた、
 不可避な宿命であるかのように振る舞わなければならなくなるからだ。
 -略-
 ギデンズは、
 「何か選択する際にはいつでも……意識して《能動的》な選択を行うことで、
 自分にできることがらを自分なりに判断しなさい」という、
 心理カウンセラーの言を引きつつ、その重要性を強調する。

 ただし、ここで重要なのは、その「選択」は、
 どれほど積極的になされようとも、
 完全に自由なものではありえないということだ。

 個人の内面でいえば、
 人は無意識の領域や、習慣化された行動に、
 選択肢を制限されている。
 
 社会全体の問題としては、
 技術やデザインに関わる「意思決定」によって、
 どのように振る舞うかという選択の幅は変わりうるのである」

186-187
「リスクによる連帯という問題が、
 リスクの算定可能性の上昇によって、
 リスクによる分断へと裏返っていく、という問題も指摘できる。
 -略-

 (リスク細分化型保険のような)リスクに基づく分断統治を、
 新しい権力の作動形式として批判することも可能だろうが、
 むしろ重要なのは、
 人びとを結びつけるリスクという軛(くびき)は、
 計算されればされるほど、
 人々を分断していくという性質を持っているということだろう。
 -略-

 ある政治目的において
 地球規模での人びとの連帯が必要になると考えるならば、
 リスクは過剰に計算されてはならないはずなのだ」

216
「(共同体とは脱伝統的なものであるという)
 この指摘が重要なのは、
 つまり近代とは、
 近代になって共同体が失われたという物語を生き続けることによって、
 共同体を希求し続けてきた時代だったということを、
 私たちに教えているからだ。

 そして現実に、「共同体」と呼びうるような、
 閉じられた社会的紐帯が失われていくにつれ、
 人びとは、「共同体」という概念と
 「アイデンティティ」という概念の区分を失っていく。

 発見されたアイデンティティこそが、その人びとを結びつけ、
 共同体の中に生きさせる理由となるからだ」