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きらきらてげてげみぬーとぅく

身の回りのことをぼちぼち

正解は外側にあるという奴隷の原理 2/2

2007-05-27 00:58:50 | 生きる

加藤哲夫『市民の日本語 NPOの可能性とコミュニケーション』ひつじ書房、2002

48
 「人が「自分が自分である」という
  セルフエスティームの一番中心的な概念のベースは
  「人と私は感じているものや感じ方が違う」
  「私にしか感じられないことがある」ということなのだと思います。

 知識は、統一できるんです。
 理論は統一できるんです。
 でも、感じていることは統一できないのです。
 
 個によって違う。一人一人全部違うわけです。
 つねったときの痛さもちがうんです。
 
 その「感じる」ということが、
 「人間が人間で、私が私である根拠」という、
 身体性ともいえる一番の土台ではないでしょうか。」
 -略-

 だから、なにものにもゆずれない土台というのが
 ここにしかないわけで、
 いま圧倒的に多数の人がそれを失いつつあるわけです。

 「何を感じているか」について気づかないという状態になっているんです。」




【参考記事】
インタビュー記事
http://skunkworks.jp/wsf/akagi/mm/031017.html


正解は外側にあるという奴隷の原理 1/2

2007-05-27 00:26:32 | 生きる

加藤哲夫『市民の日本語 NPOの可能性とコミュニケーション』ひつじ書房、2002

44-45
「セルフエスティームとは「自分自身の価値を認め、自分が好きであり、
 自分を大切にできるという、日本語になりにくい言葉なんですけども、
 私たちの社会はこれをむちゃくちゃに壊しているんじゃないか。

 特に近代教育の「正解は外側にある」という枠組みが
 これを壊しているんじゃないかと思うんです。
 -略-

 「ほめる」ということでそれをやろうという主張もあるんですが、
 「ほめる」というのは「けなす」というのと同じであって、
 他人の評価によって自分を獲得するということなので、
 これでは大差ないです。

 もちろん他者によって自分がみえるからセルフエスティームは
 形成されるわけですが、その他者のみえ方というのが
 「ほめる」という行為によってしか見えないのでは、
 その他人の評価と顔色を気にする人間を作っているに過ぎないんです。

 これは根本的にはセルフエスティームが育つとは言えないわけで、
 ほめられもせず、けなされもしないのに、
 あるいは誉められようが、けなされようが、
 自分が自分であることを肯定できる状態があり得る、
 ということを土台におかなくてはいけないと私は感じているわけなんです。」




内部からくさる桃

2007-05-20 13:13:37 | 生きる

茨木のり子「内部からくさる桃」
『茨木のり子集 言の葉1』筑摩書房、2002

「単調なくらしに耐えること
雨だれのように単調な……

恋人どうしのキスを
こころして成熟させること
一生を賭けても食べ飽きない
おいしい南の果物のように

禿鷹の闘争心を見えないものに挑むこと
つねにつねにしりもちをつきながら
ひとびとは
怒りの火薬をしめらせてはならない
まことに自己の名において立つ日のために

ひとびとは盗まなければならない
恒星と恒星の間に光る友情の秘伝を

ひとびとは探索しなければならない
山師のように 執拗に
〈埋没されてあるもの〉を
ひとりにだけふさわしく用意された
〈生の意味〉を

それらはたぶん
おそろしいものを含んでいるだろう
酩酊の銃を取るよりはるかに!

耐えきれず人は攫(つか)む
贋金をつかむように
むなしく流通するものを攫む

内部からいつもくさってくる桃、平和

日々に失格し
日々に脱落する悪たれによって
世界は
壊滅の夢にさらされてやまない。」



キミよ歩いて考えろ N0.1

2007-05-17 20:25:04 | 生きる
宇井純『のびのび人生論11 キミよ歩いて考えろ』1979、ポプラ社

203-204
「いまの教育では、あまり重視されていない、観察力が、
 これからは、たいせつになるだろう。
 -略-
 じぶんの得にならないことについて、いっさい無関心をきめこむ優等生が、
 出世するような教育がなされ、その競争に、勝ちぬいた者が、
 生きのこると信じられている。

 これは、とんでもないまちがいで、へんかする社会のなかで、
 まっさきに、いきづまるのは、この種の、優等生なのである。

 しかも、青年は、せまい、じぶんの育った環境からでて、かならず、
 ちがった環境へ、でていかなければならない。

 だから、そのときに、勝負をきめ、生きられるかどうかの、わかれ道は、
 感性の豊かさがあるか否か、他人のよろこびや、くるしみを、
 じぶんの身に感じ、じぶんのものと、できるかどうかにある。

 そして、その感性は、観察力を、みがくことによって、豊かになって、
 ゆくものなのである。
 -略-
 
 観察眼をやしない、感性を豊かにするためにも、
 そして、それ以上に、自分の学問をひろげるためにも、
 まず、行動することが必要である。」

217
「わからないとき、じぶんが、かべにぶつかったときは、まずうごいてみる。
 ずいぶん、へんかのおおい、道をたどってきた、わたしがいえることは、
 この平凡な結論である。」





崖っぷちの道

2007-04-28 07:08:59 | 生きる
鷺沢萌「少年たちの終わらない夜」
『少年たちの終わらない夜』河出書房新社、1989

68-69
「真規(まさき)たちはいつだって、ぎりぎりの崖っぷちを歩いているのだ。
 周りは全て、自分たちの基準で悪いと決められたことで、
 いい状態を保つためには崖っぷちをあるいていくしかない。

 飽和している油膜の上に突出できないならば、
 せめてあえぐのはよして突出しているふりでもしよう。
 所詮油膜の上には、自分たちに残された隙間などないのだ。

 自分たちを素敵だと思えるように、思いこめるように、
 どうしようもなく自分勝手な排他性でもって輪をとじこめる。

 このままここに浸り続けていくことだって、そうたやすいわけではない。
 「考えないでいつづける」のにも能力はいる。

 けれどしばらく―――。もうしばらくは。

 エゴとスノッブにあふれた日々は、
 素敵にエキセントリックだと仲間たちは言う。
 少なくとも真規はそう思う。―――思うしかない。

 崖っぷちの道は、不遜な少年たちに許された唯ひとつの生活なのだから。」




サラリーマン化と保守化

2007-04-20 13:07:59 | 生きる
内山節「維持」『戦争という仕事』信濃毎日新聞社、2006

75
「サラリーマンの時代は、
 何となく孤立感があり何となく現実性がない社会をつくりだした。

 もちろんそれは、企業や組織のシステムだけによって生れたわけではない。
 近代的な市民社会自体が、人びとを孤立した個人へと導き、
 大量消費社会は、自分もまた何かに踊らされて大量消費をしているというような、
 リアリティーのない消費社会をつくりだした。

 このような社会変化や働き方の変化が重なり合って生れた現実の中に、
 いまの私たちはいる。

 そしてそのことが、今日の現状維持的、その意味で保守的な基盤になっているのではなかろうか。

 孤立した自分、現実性のない自分を感じながら、
 しかし自分の生活や自分の雇用は維持していかなければならなくなったとき、
 私たちは現実が大きく変動しないことを何となく望むようになった。

 いまの収入が維持されること、自分のライフプランが破綻しないこと、
 今の自分の立場が守られること。

 そういうことのなかにしか、自分が自分でありつづける支えがなくなった。」



現代的な意味での貧困

2007-04-18 21:48:31 | 生きる
イバン・イリイチ「現代的な意味での貧困―〔依存〕欲求の歴史に向けて―」
『生きる思想(新版)』1999、藤原書店

55
「市場に依存する度合がある閾を超えると、
 現代的な意味での貧困があらわれます。

 この場合の貧困とは、
 主観的にいえば産業生産による豊かさにあまりにも依存しすぎることによって
 いわば手足をもがれた人びとが、豊かであるにもかかわらず、
 満たされない気持を味わうようになるということです。

 ひとことでいえば、そうした貧困は、
 そうした貧困に苦しんでいる人びとから、
 自力で行動し、創造的に生きる自由と力を奪うということです。

 つまり、そうした貧困は、
 市場に組み込まれることによってしか
 生存できないような状態に人びとを閉じこめるのです。

 こうして新たに生まれてきた無力感というものは、
 あまりにも根が深く、まさにそのゆえに、
 それは容易に表現されえないのです。」



仮設される現在

2007-04-15 01:06:54 | 生きる
谷川俊太郎「暖房計画」『詩集18歳』1993、東京書籍


「いろいろな外国の書物や古い壁画などから
 透明な感動を着て出てくることは
 ひとつの冷たい努力である

 しかし
 この僕の風景に
 いつか冬が来た時(点景人物なども去り)
 その感動の重ね着が
 僕を暖めてくれることを僕は知っている

 神様だけに暖房を頼らずに
 寒い北風の冬をすごすために
 僕は自分を燃料にするつもりだ
 「青い疑い」
 仮設される現在」


つながっている先は

2007-04-13 23:51:28 | 生きる
石田周一『耕して育つ――挑戦する障害者の農園』コモンズ、2005


100-101
「都会の空調の効いたオフィスのパソコンはデジタルの世界だが、
 世界中につながっている。

 わずかに残された自然は小さな世界だが、
 野良の土は宇宙とつながっている。」


顔がないですよ

2007-04-11 20:51:40 | 生きる
藤原新也『メメント・モリ』情報センター出版局、1990(新装版)=1983

「ちょっとそこのあんた、顔がないですよ

 いのち、が見えない。

 生きていることの中心(コア)がなくなって、
 ふわふわと綿菓子のように軽く甘く、
 口で噛むとシュッと溶けてなさけない。

 しぬことも見えない。

 いつどこでだれがなぜどのようにしんだのか、
 そして、生や死の本来の姿はなにか。

 今のあべこべの社会は、
 生も死もそれが本物であればあるだけ、
 人びとの目の前から連れ去られ、消える。

 街にも家にもテレビにも新聞にも
 机の上にもポケットの中にもニセモノの生死がいっぱいだ。

 本当の死が見えないと、本当の生も生きれない。

 等身大の実物の生活をするためには、
 等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならない。

 死は生の水準器のようなもの、
 死は生のアリバイである。

 Mémento-Mori」