太神山に登ったこと

僕が山を登っていると、ひとりの女性がこちらを見ているのに気付いた。
「――甲賀の者か」
ここは甲賀と伊賀の中間点といってもいい山奥であるが、
無意識に僕はそれを感じた――忍の者はその性質とは裏腹に、どこかそのような雰囲気を持つものなのであろうか。
一枚の赤い着物に身を包んだ彼女はその身を隠すように木に寄り添って僕を見ている。
不安や葛藤の裏に、凛とした強い気質を僕に感じさせた。
そして彼女はそこ――甲賀から離れ生きている、
そう、彼女はもはや、「甲賀の者」ではない――直感的に僕はそう感じた。
彼女がそう無言で語りかけてきたのかもしれない。
――しかし、なぜこんなところに?
「わからない。」
彼女は言った。
「わからない?」
「わからない。」
そういうと彼女は少し目線を僕からそらし、また僕に冷たい(僕を軽蔑している冷たさではなく)視線を戻した。
秋が深まり、もう日が傾きかけている山の木々の中。
「寒くはないんですか?そんな格好で」
僕は言った。
「寒さには慣れている。」
彼女は言った。
「むしろ私には、ぬくもりの方が身を締める。」
――なぜ?
僕がそう問おうとした刹那、彼女の姿は消えていた。どこかで鳥が一声鳴いた。
彼女がなぜここにいたのか――僕はそれを書こう。
という漫画。
、
、
、
というアレで
昨日太神山を登ってしまった。
登ってしまった、というのは、実際登る気なんてさらさらなかったからである。
そこには「泣不動」というものがある。
なぜか僕はそれが気になり、ただなんとなく(しかもそこは決して家から近くない)そこに来て、見に行ってみようと思ったのだ。
細いがアスファルトで塗装された山道をバイクで登り、「一般車両通行止め」のところから僕は歩き始めた。
「泣不動」はそこから歩いても1、200mぐらいのもんであろうと思っていた。
しかし歩みを進めていくと、なんかどんどん「登山道」に入っていく。
アスファルトはなくなり、四方を深い森が包み始めた。どうみてもこれは「道路」ではない、「登山道」である。

「まぁもうすぐだろう」と信じつつなおも進んでいくと、どうみても「本格的な登山ルック」の人たちと出くわした。
「登山者」のマナーであるところの、すれ違った人に元気に挨拶する、というマナーを僕は実践すると、彼らも「こんにちわ」と声を掛けてくれた。
「ひとりで?」
とそのうちのひとりが声をかけた。その目はどこか怪訝なものを見る眼であった。
ひとりである。何の計画もなく来たのだ。
山道はどんどん深くなり、僕は次第に「ん、んー?」と思い始めた。
僕は今おかしいことをしてるんじゃないか?
先ほどの「ひとりで?」は、「ひとりでこんなとこに来たのか?」という、これからの道のキツイを表しているのかもしれない。

うん、やっぱりおかしい。
ここは本格的な登山道ではないか?
ん、んー、まずいですね、僕は何の非常食も用意していないし、
そもそも飲み物さえ用意していない。
でもせっかくここまで来たから、せめて「泣不動」ぐらいは見ておきたい。
――きっともうすぐだ。
そう信じて僕はキツイ山道を登っていく。
耳元で、結構大きな虫の羽の音。歩く僕の周りを回っているようだ。
あ、そういえばスズメバチが出てもおかしくない季節ですよなぁ。
あ、そういえばこれまでに何度かすれ違った人たちも、白い服を着ていたっけね?
僕は黒い服を着ていますね?
スズメバチが出てきたら終わりだなー。はっはー。山、なめてるなー。
でももうすぐだきっと。

そう思ってから2,3キロは山道を行ったであろうか(後で調べると、実際には1キロ程度しか歩いていなかった。山は怖い)
心臓の鼓動が耳元で聞こえるほど臨海点。飲み物はない。
「もうすぐだ」を50回ぐらい繰り返すと、やっと目的の「泣地蔵」にたどり着いた。
あっけないほどの、石を切り抜いて作られた仏像?お地蔵さん?
疲れはてながらも「いつからここにいるのかしらん」とロマンをはせ、
いくらかそこに立っていると
冒頭の彼女に出会ったのである。
――なぜここにいる?
――わからない。
来た道を下りながら僕は彼女のことを考えた。
その中で「太神」と「犬神」は似ていることに気付いた。
なるほどなるほど
最近また犬神家の一族が同じ監督で映画化されるらしいけど、
それって一体何の意味があるんですかね?


ミュッシャ風野球

一日15時間に及ぶ制作で頭がおかしくなったミュッシャが
「あぎゃー」っと叫びながら描いたふう。
友人が作ったらしい社会人野球のチームのマスコットという名目でしたが
丁重に断られました。そらそうだ。
彼の行動力たるや尊敬に値するわけですが、ぜひあの決断力と行動力は見習いたいと
真摯にそう思いますな。
描いてて思ったんですが
ミュッシャの絵ってパソコンでやったらだいぶ楽だろうなぁ、と。
パソコン向きだなぁ、と。
現代にミュッシャがタイムマシンで訪れたら、「こいつはすげぇ!」とパソコンで絵を描き始めるのか、「こんなもんに俺は頼らん」とやはり石版画を極めるのか
「時々パソコンでやってもいいかな」とかいうのか
そういうの気になりますよね。大昔の偉人たち(絵業界ではなく、たとえばモーツァルトやベートーベンとか、その他各業界の偉人たち)が現代の文明の利器を手にとって、
「これはいいのがあるな」と思うのか、「こんなもの偽者だっ」と言うのか。

アオザイ

メガネ女


プププランド王立空軍最新鋭戦闘機 トゲゾー3Mi



ネオ日本画

僕は西洋画よりは日本画のほうが好きなんですよ
西洋画もたしかにすごいんだけど、なんとゆうか、
「ほらっすごいのをすごい風にすごく描いてるだろっ」的な
なんとゆうか押し付けがましさとゆうか「そらそこまでしたらすごく見えるよなぁ」
とゆう感じを受けてしまう。
そこ行くと日本画って言うのはすごく謙虚というか
極限まで絵に入れる情報量を削っているというか
でも「単純」というわけではなく、いっぱい情報を入れているというのに、無駄を極限まで省いていると言うか
シンプルなわけですよ。
シンプルなくせに、すごい。
たとえば日本が誇る文化のひとつ漫画
それにも同じことが言えると思う
ある情報をあらわすために、大胆なデフォルメを加えることで無駄を省いている
端的例が「萌え絵」だとおもうんですよ。
現実的にはありえないようなデフォルメを加えることで、作者の意思を単体で表している。
まあ、なに言ってるか自分でもわからんが
僕が言いたいのはなんかそういうことですよ。






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