2008年と言う新しい年を迎えました。正月を迎えると人々は神社、仏閣に初詣に行きます。その数全国で8000万人と言われていますから国民の3人に2人はお参りに行く勘定です。新しい年を迎えるとまず神仏にお参りしてその一年の加護と幸福を祈願する------それが日本国民の心と生活に深く根をおろしたしきたりになっているようです。
幸せになりたいと言う思いは洋の東西を問わず人間の最も深い欲求です。キリストが大勢の群衆を前にしたとき彼らの顔にまさにその思いが現われているのをごらんになったのです。そこでキリストは本当の幸福とはどういうものかをお語りになったのです。有名な「八福論」と言われる説教です。本当に幸福な人の八つのタイプが語られているからです。
心の貧しい人達は幸いである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人達は幸いである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人達は幸いである、
彼らは地を受け継ぐであろう。
義に飢え渇いている人達は幸いである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
憐れみ深い人達は幸いである、
彼らは憐れみを受けるであろう。
心の清い人達は幸いである、
彼らは神を見るであろう
平和をつくり出す人達は幸いである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人達は幸いである、
天国は彼らのものである。
キリストの幸福論を聞いた人々の心はいろいろな反応を示したのではないかと思われます。なるほどと感じ入る人、当惑する人、非現実的でついていけないと思う人などなど。それは私達が持っている幸福感と本質的に異なっていたからです。普通、私達が考える「幸福の条件」と言えば、健康、経済の安定、自己実現、家庭の円満などでしょう。確かに私達はそのような時、幸福だと思うに違いありません。しかしそのような幸せは自分の外にある言わば「環境がもたらす幸福」です。それはいつ崩れるかわからない危うさを秘めています。幸福になれる人となれない人が出てきます。ある意味でそれは運命的です。もし健康が幸福の絶対的条件とすれば病気の人は幸福ではないと言うことになります。しかし病気の人でも穏やかな心と微笑を持っている人がいます。身体は健康でも心は暗く人を傷つける人もいます。
パーキンソン病になった母親を36年間看取った婦人がいます。「まじめに正直に生きてきたこの私がなぜこんな病気になるの、なぜ、なぜ」と問い、自殺も図る母親、その介護に耐えきれなくなり、いっそ親子心中でもと考えたこともある婦人、初めは地獄図のようでした。このことがきっかけとなってこの婦人がキリストを信ずる信仰を持ち、また娘に導かれてお母さんも信仰をおもちになった結果、(長い葛藤のプロセスはありましたが)すっかり変わりました。お母さんの部屋からはいつも静かな讃美歌が流れ、お母さんの顔から笑顔が絶えることがありませんでした。その部屋を訪れる人は「ここは別世界にいるようだ」と不思議がりました。お母さんが病気に妨げられることのない心の平安を見出したからです。キリストが言われたのは、まさにそのような、環境に左右されない、否、逆境のさなかにあってもハッピーでありうるそのような幸福であったのです。そのような幸福が理想論としてではなく、悩み多きこの現実の世界の確かにあると言うことです。このような幸福がどのようなものであるかまた来月ご一緒に学んでいきましょう。
鳥取 堀内一誠
幸せになりたいと言う思いは洋の東西を問わず人間の最も深い欲求です。キリストが大勢の群衆を前にしたとき彼らの顔にまさにその思いが現われているのをごらんになったのです。そこでキリストは本当の幸福とはどういうものかをお語りになったのです。有名な「八福論」と言われる説教です。本当に幸福な人の八つのタイプが語られているからです。
心の貧しい人達は幸いである、
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人達は幸いである、
彼らは慰められるであろう。
柔和な人達は幸いである、
彼らは地を受け継ぐであろう。
義に飢え渇いている人達は幸いである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
憐れみ深い人達は幸いである、
彼らは憐れみを受けるであろう。
心の清い人達は幸いである、
彼らは神を見るであろう
平和をつくり出す人達は幸いである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人達は幸いである、
天国は彼らのものである。
キリストの幸福論を聞いた人々の心はいろいろな反応を示したのではないかと思われます。なるほどと感じ入る人、当惑する人、非現実的でついていけないと思う人などなど。それは私達が持っている幸福感と本質的に異なっていたからです。普通、私達が考える「幸福の条件」と言えば、健康、経済の安定、自己実現、家庭の円満などでしょう。確かに私達はそのような時、幸福だと思うに違いありません。しかしそのような幸せは自分の外にある言わば「環境がもたらす幸福」です。それはいつ崩れるかわからない危うさを秘めています。幸福になれる人となれない人が出てきます。ある意味でそれは運命的です。もし健康が幸福の絶対的条件とすれば病気の人は幸福ではないと言うことになります。しかし病気の人でも穏やかな心と微笑を持っている人がいます。身体は健康でも心は暗く人を傷つける人もいます。
パーキンソン病になった母親を36年間看取った婦人がいます。「まじめに正直に生きてきたこの私がなぜこんな病気になるの、なぜ、なぜ」と問い、自殺も図る母親、その介護に耐えきれなくなり、いっそ親子心中でもと考えたこともある婦人、初めは地獄図のようでした。このことがきっかけとなってこの婦人がキリストを信ずる信仰を持ち、また娘に導かれてお母さんも信仰をおもちになった結果、(長い葛藤のプロセスはありましたが)すっかり変わりました。お母さんの部屋からはいつも静かな讃美歌が流れ、お母さんの顔から笑顔が絶えることがありませんでした。その部屋を訪れる人は「ここは別世界にいるようだ」と不思議がりました。お母さんが病気に妨げられることのない心の平安を見出したからです。キリストが言われたのは、まさにそのような、環境に左右されない、否、逆境のさなかにあってもハッピーでありうるそのような幸福であったのです。そのような幸福が理想論としてではなく、悩み多きこの現実の世界の確かにあると言うことです。このような幸福がどのようなものであるかまた来月ご一緒に学んでいきましょう。
鳥取 堀内一誠