イラスト講義日本史

旧「歴史のじょーせき」。日本史が好きになってほしいという気持ちから、イラストつきで講義するよ!

平安~鎌倉時代の防寒着

2011年03月26日 02時36分11秒 | 古代・中世と現代


計画停電や節電は、まだ寒い時期には辛い。
私の愛犬の下の子は、甲状腺ホルモン障害による脱毛症があり、
人(犬)一倍、寒さが応えるようだ
ゆえに写真のようなキルティング(綿入れ)の服を着せたりしている。

平安時代の寝殿造、鎌倉時代の武家造、どちらもとっても寒そう。

彼らはどのように防寒していたのだろうか。

「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬は、いかなる所にも住まる。暑き比わろき住居は、堪へ難き事なり。 」

これは超有名な兼好法師(卜部(吉田)兼好)『徒然草』の一節(第55段)である。

これを現代語訳すると、
を造るときは、夏を中心に考えるべきだ。冬はどんな所でも住める。暑い時期に向かないは耐えられないよ。」といった意味である。

げっ意外!
冬の寒さなんかどうでもいいっていうんだ。

よく「鎌倉時代は温暖」というが、『徒然草』の書かれたとされる1319~50※年頃は、
(※成立年代については諸説ある)
すでに寒冷化が始まっていた頃とされている。

温暖化のピークとされているのは1100年頃で、これは平安時代の院政期。
それから徐々に寒冷化。していき、1400~1500年頃、つまり戦国時代が寒冷期の底だと考えられている。

要するに、『徒然草』の時代は決して温暖な時期ではないのである。

それなのに、何故「冬はいかなるところにも住まる」なのだろうか?

受験で意外に出題されるが、日本国内で木綿(きわた、もめん)が栽培が始まるのは戦国時代からである。
ゆえに、この時代は木綿は存在しない。

そうなると、うちの犬が着ているような「綿入れ」は存在しなかったのだろうか?

実は平安時代の言葉に「綿衣(わたぎぬ)」というものがある。
『枕草子』198段(※188段とも。底本によって番号が違うようだ)に出てくる。

「八九月ばかりに雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の脚横さまにさわが
 しう吹きたるに、夏とほしたる綿衣のかかりたるを、
 生絹(読み:すずし)の単衣(読み:ひとえ)重ねて着たるもいとをかし。この生絹だ
 にいと所せく暑かはしく、とり捨てまほしかりしに、いつのほどにかく(このように) なりぬるにかと、思ふもをかし。」

これはわかりにくいのでちょっと意味を適当に補って現代語訳。

 「八月、九月(旧暦だから秋)になって雨まじりの風がなんとも言えない。雨が横様に騒がしく吹いてきて、(寒くなってきたらから)夏の間かけておいて風を通しておいた綿衣を、薄い衣の上に重ね着して、ちょうどいい感じになった。(ちょっと前までは)この薄い衣さえも暑苦しく、脱ぎ捨てたいとさえ思っていたのに、いつからこのように(=寒がるように)なったのかと思うとちょっと面白いかも。」

綿衣が夏の間は使われなかったこと、重ね着された様子がよくわかると思う。
それにしても、夏の間、洗わないで干していただけなのか。

ちょっと、汚すぎね

実際、同じ『枕草子』の第44段に「の香すこしかかへたる綿衣(汗の臭いが少しする綿衣」という場面がある。やっぱり、我々の感覚からみれば汚いようだ。

なお、web上ではこの「綿衣」が「綿絹」と間違って使われていることが多い。
意味通じないだろうw
また、「わたごろも」と読むと、「綿織物の衣服」って意味にかわってしまう。

そこで一番の疑問。
「綿衣」に入っている「綿」はどこから来たのだろうか?

朝鮮半島(当時は高麗)から輸入した木綿だろうか?

実は、この時代の綿は「木綿(もめん、きわた)」ではなく「真綿(まわた)」。
そう、あの「真綿で首を絞める」という用語で知られている「まわた」である。

この「真綿」の原料は、蚕の繭である。

なんか、もったいな感じがするが、日本の中世では養蚕は、生糸をとるためではなく、もっぱらこの「真綿」をつくるために行われたという説もある。
生糸はこの時代は輸入品だった。
輸出品になるのは幕末からである。

真綿の入った衣服に加え、暖房具として炭櫃(すびつ)と呼ばれる方形の火鉢(ひばち)が使われている。
これも『枕草子』第25段に、いわゆる「すさまじきもの」の一つとして、「火おこさぬ炭櫃」として出てくる。

きっと、炭櫃の炭に火がつかないということがよくあったのだろうな。
そんなときは厚着で震えて過ごすんだろうな。

そんな寒さを耐えても、夏の暑さの方が辛いという点が重要。
そう、この国は蒸し暑い。

電力不足問題も、夏のクーラー需要の方が深刻である。

私も愛犬家として、日中のクーラーが止まる方が問題だと思っている。

昨年の猛暑の中で、二頭の犬があいついで細菌性の病気にかかった
暑さが原因だという。
今年の夏が冷夏となることを切に願う。

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大震災と本

2011年03月25日 04時50分41秒 | 大正・昭和戦前と現代
週刊ジャンプが無料配信を行っている話が話題になっている。
 
電気がまだ通じてないような地域では、webで見れるのかね?
…って疑問に思ってしまう。
しかし、被災地で電気が通じない地域では、本があるととても助かることは確かだろう。

本は気持ちを紛らわすし、希望も培う。

さらに、漫画は太陽光の下でも目を悪くすることなく読めるので、
できたら、漫画雑誌そのものを被災地に送れないかなぁ~と考えてしまう。

物資を送る支援活動は盛んだが、対象はあくまでも衣類や日常品であって、
本を対象とした活動は見つからない。


本こそ送りたいと思うのは私だけなのだろうか?
(そういった活動をご存じの方は、是非コメントでご教示下さい。)


さて、歴史上の大震災といえば、1923(大正12)年の関東大震災が著名である。

この大震災は、
東京帝都そのものに打撃を与えたので、日本経済に与えた影響は大だった。

そのため、「震災恐慌」と呼ばれる恐慌をもたらす。
震災前から日本は不況(※)だった。
 ※第一次世界大戦時の好況(「大戦景気」)の反動恐慌(「戦後恐慌」)
震災はそれに追い打ちをかけるものだった。

今より、「日本経済への打撃」という点に限れば、
今回の震災よりずっとインパクトは大きかったのである。

そのため、出版界も不況になった。

この打開策が「円本(えんぽん)」であったことは意外に知られていない。

1926(大正15)年)、当時経営不振にあえいでいた改造社は、
社運をかけて『現代日本文学全集』の刊行を開始した。

一冊わずか一円。これが「円本」の先駆けとなった。
しかし、「一円」といっても当時の一円は大卒初任給の約2%に相当したという。
2010年度の大卒初任給平均は19万7400円。約20万円だ。
その2%といったら、約4000円………ちっとも安くないじゃん

要するに、それ以前の本というものは、すごく高いものだったわけだ。

この社運をかけたプロジェクトは大成功。
「二匹目のドジョウ」を狙って、他社も追従した。

1927(昭和2)年には岩波文庫が創刊される。
これも本の廉売としては同じ流れといえよう。

残念ながら岩波文庫の創刊当初の値段がわからない
これがわかると、もっと面白いのだが。

現代の感覚に訴える数字は、授業では非常に効果的である。
ご存じの方がいらっしゃるなら、
是非、コメントでご教示願いたい。<(_ _)>

こういうこと聞けるのがブログの良さかもしれない。














危機意識が「国家」つくる

2011年03月23日 21時14分50秒 | 古代と現代
この写真は、神奈川県内限定の自民党のポスター。
これだけでなく、ツィッターなどでも、プロフィール画像に日の丸をつけるのが流行みたいだ。

大震災という危機意識が、日本という「国家」意識を高めたのは間違いない。

こういう例は歴史にあるのか?

もちろん、ある。ある。

例えば鎌倉時代の「元寇」。
異国が攻めてくるという危機意識後、やたら日本列島の地図が描かれるようになった。
しかも、そのまわり、つまり「国境」を「竜」が囲むという絵柄がよくみられるようになった。

「国境」の誕生だ。

今年の東大前期日程の第1問は、有名な「白村江の戦い」の惨敗の話なんだが、この惨敗が「律令国家」形成にどういう影響を与えたかというもの。

例のように短文がいくつか並べてある。
短文の内容は教科書レベルを大きく逸脱している。
それを「知ってろ」ではなく、「料理しろ」が東大出題者の要求である。

短文読むとわかるのは、この戦いに地方の豪族の私有民(部曲)がかり出されていること。

ここまで情報があれば、あとは「料理」するだけ。

要するに、朝廷(中央政府)は兵力動員にあたって「倭国の危機」を吹聴して、地方豪族の協力を得たというわけだ。

ところが、その危機が去っても、このときの「協力体制」だけは形として残していこうってのは、政府というもののならいで、中大兄皇子は、この危機のときにできた豪族の私有民の登録制度を、「庚午年籍」という形で残そうとした。

これがえらく地方豪族の顰蹙を買ったらしい。

地方豪族たちの不満が爆発したのが、
天智天皇(←中大兄皇子)死後の壬申の乱だというわけである。

自民党は、政府・民主党に子ども手当を廃止して、被災地復興に当てろと言っているらしい。
子どものない私は「子ども手当」なんて不公平手当だと思ってたので、
そういう点では自民党案に賛成するが、

ちょっと考えると、この自民党の提案は危険である。
非常事態と言って、必要以上に「国家総動員体制」となり、
それが、その後も残るのはごめんだ。

1904~05年の日露戦争の戦時に「非常特別税」と呼ばれる一連の増税があったが、
これ、なんと法的には1913年まで継続された。
しかも、一部はそのまま一般の税に組み込まれたんだそうだ。

…同じ轍を踏むことにならないよう願うだけだ。