イラスト講義日本史

旧「歴史のじょーせき」。日本史が好きになってほしいという気持ちから、イラストつきで講義するよ!

筑紫国造磐井の乱

2011年04月09日 12時43分00秒 | 古代史


時は527年、皆が知っている聖徳太子(厩戸王)の活躍した時代より70年程前。

現在の福岡県にあたる筑紫(つくし)国など北九州を支配する国造(くにのみやつこ)がヤマト政権に対して反逆した。
彼の名前は磐井(いわい)。
入試によく出る筑紫国造磐井の乱である。

朝鮮半島にある倭国の拠点(『日本書紀』では「任那日本府」と呼ばれる)が新羅に攻められている。
拠点を守るため、ヤマト政権は、
近江毛野(おうみのけぬ←普通は「の」ではなく「ぬ」)を将軍とした軍勢を送った。

ところが、朝鮮半島の手前の北九州で、そこの地方官たる筑紫国造磐井が、この軍の進撃を邪魔した。

磐井はかねてからヤマト政権に遺恨があった。
色々、不満があったのだろう。(そのあたりについては、前日の記事を読んで欲しい)

その磐井に目を付けた朝鮮半島の新羅が、磐井に賄賂を贈って、
磐井に反乱を起こさせたといわれている。

『日本書紀』によると、反乱軍の磐井が、ヤマト政権軍の将軍近江毛野に、

「かつて同じ釜の飯を喰った友に、お前は命令するのか」と呼びかける部分がある

北九州の豪族と、近畿地方の豪族にかつて交友があったという興味ある部分で、
恐らくは、地方豪族の子弟が、ヤマト政権のもとで奉仕をさせられていたのだろうという推測が成り立っている。

そう考えれば自然な部分である

近江毛野が言い返している「お前こそ、我が国を新羅に売るのかぁっ」っていう部分は、
私の推測である。

しかし、ここで考えて欲しいのは、
果たして、6世紀前半頃に、北九州地方の人に「倭国」という国家意識があったかどうか?
…という点である。

北九州の豪族にとって、遠い近畿地方にあり、かつ人だとか税だとかの貢納を求めるだろうヤマト政権より、
海一つ隔てた、文化的水準の高いの朝鮮半島の新羅の方がシンパシーを感じていたかも知れない。

ヤマト政権を中心に「倭国」という意識ができたのは、
663年の白村江の戦いで負けてから以降だと思われる。

そんなわけで、磐井には、自分が「売国」行為をしているという意識すらないのかもしれない。

ブログランキング参加しております。
お帰りの際はクリックお願いします。
 ↓ ↓ ↓
人気ブログランキングへ



最新の画像もっと見る