イラスト講義日本史

旧「歴史のじょーせき」。日本史が好きになってほしいという気持ちから、イラストつきで講義するよ!

現代の卑弥呼は誰か?

2011年04月02日 06時00分00秒 | 古代と現代


ホント、こんな力があったら誰も苦労しない。
入試問題が予言できる力があればなぁ~
カリスマ講師、間違いないしだよね。

卑弥呼は 『魏志』倭人伝によれば、「鬼道(きどう)」と呼ばれるまじないの力があったようだ。

まじないで、カリスマ性を持つっていうと、
まっさきに名が浮かぶのが、細木数子さん。
ただ、彼女に言わせれば、「私は占い師ではない」のだそうだけど

ちなみに、私はつい最近まで「数子」さんでなく、「教子」さんだと思い込んでいた。
このくらい、興味のない私にも、この方の存在感には、圧倒される。

だって、書店行くと、著書、すごい数が積んであるんだから

卑弥呼がどんなことを予言して、男たちを従えたかは『魏志』倭人伝からは伺えない。
単に、「人をだますことにすぐれている(現代語訳)」ということだけを伝える。
おそらくは敵の来襲(弥生時代は戦いの時代だった)や、雨乞いなどであろう。

しかし、当時の人にとって、それが大きなことだったことは、卑弥呼の死後、
男性の王がついたら、内乱が続いたことから、十分伺える。
しかも、卑弥呼の一族の女性「壹与(いよorとよ)」が13歳で即位したら、すぐに内乱は収まった。


女性だとなぜ治まるのか?


女性には神秘的な雰囲気があり、厳かな口調をうまく使えば、
その言葉には、霊魂が宿ったように思えるからなのだろう

でも、前出の細木教子…じゃなかった数子さんはダミ声だし、
お世辞にも「神秘的」とはいえない

ただ、相手の人の目を見て、うなずき、
「私は、あなたの味方なのよ」という力強いメッセージを送る。
こういうときは低い声は効果的かな………とは、思った

ただ、卑弥呼は『魏志』倭人伝によれば、
人前に姿を現さなかった。
(…ので、間違っても細木女史のようなことはしなかった)

でも、姿見せないってのは、想像力かきたてるよね。
もしかしてすごく美しいのでは?な~んて、思っわせちゃって。

いや、いや、きっと多分、
不細工(ぶさいく) だったから、人前に出なかったんだと思う。

ちなみに、卑弥呼が魏に使者を送った年(239年)とこの話を絡めて、


卑弥呼は239)っていう語呂合わせがあるんだよね~


くだらなくて、ごめん。<(_ _)>

現代の卑弥呼は細木数子さん?
いや~卑弥呼は、もっと神秘的であって欲しい。
想像の世界であっても。


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危機意識が「国家」つくる

2011年03月23日 21時14分50秒 | 古代と現代
この写真は、神奈川県内限定の自民党のポスター。
これだけでなく、ツィッターなどでも、プロフィール画像に日の丸をつけるのが流行みたいだ。

大震災という危機意識が、日本という「国家」意識を高めたのは間違いない。

こういう例は歴史にあるのか?

もちろん、ある。ある。

例えば鎌倉時代の「元寇」。
異国が攻めてくるという危機意識後、やたら日本列島の地図が描かれるようになった。
しかも、そのまわり、つまり「国境」を「竜」が囲むという絵柄がよくみられるようになった。

「国境」の誕生だ。

今年の東大前期日程の第1問は、有名な「白村江の戦い」の惨敗の話なんだが、この惨敗が「律令国家」形成にどういう影響を与えたかというもの。

例のように短文がいくつか並べてある。
短文の内容は教科書レベルを大きく逸脱している。
それを「知ってろ」ではなく、「料理しろ」が東大出題者の要求である。

短文読むとわかるのは、この戦いに地方の豪族の私有民(部曲)がかり出されていること。

ここまで情報があれば、あとは「料理」するだけ。

要するに、朝廷(中央政府)は兵力動員にあたって「倭国の危機」を吹聴して、地方豪族の協力を得たというわけだ。

ところが、その危機が去っても、このときの「協力体制」だけは形として残していこうってのは、政府というもののならいで、中大兄皇子は、この危機のときにできた豪族の私有民の登録制度を、「庚午年籍」という形で残そうとした。

これがえらく地方豪族の顰蹙を買ったらしい。

地方豪族たちの不満が爆発したのが、
天智天皇(←中大兄皇子)死後の壬申の乱だというわけである。

自民党は、政府・民主党に子ども手当を廃止して、被災地復興に当てろと言っているらしい。
子どものない私は「子ども手当」なんて不公平手当だと思ってたので、
そういう点では自民党案に賛成するが、

ちょっと考えると、この自民党の提案は危険である。
非常事態と言って、必要以上に「国家総動員体制」となり、
それが、その後も残るのはごめんだ。

1904~05年の日露戦争の戦時に「非常特別税」と呼ばれる一連の増税があったが、
これ、なんと法的には1913年まで継続された。
しかも、一部はそのまま一般の税に組み込まれたんだそうだ。

…同じ轍を踏むことにならないよう願うだけだ。