イラスト講義日本史

旧「歴史のじょーせき」。日本史が好きになってほしいという気持ちから、イラストつきで講義するよ!

氏姓制度の構造

2011年04月08日 12時17分03秒 | 支配と従属の形


4月6日の記事(「ヤマト政権と国造」)の続き。

ヤマト政権に服属し、国造(くにのみやつこ)となった地方豪族は、
ヤマト政権の創立メンバーでもある蘇我(そが)氏や物部(もののべ)氏といった有力豪族同様、
(かばね)」という称号を授けられる。

姓を授けられるという点では平等(上の図参照)だが、
その姓には「臣(おみ)」、「連(むらじ)」「君(きみ)」などの種類があり、

ヤマト政権における地位や職能を表す。
そういう点では、平等からほど遠い
さらに、同じ国造でも、あとから服属した者、支配エリアの狭い者などは、「(あたえ)」という姓があたられる。


「あたえ」があたえられる………ダジャレみたいだね~


を授かった豪族は、臣、連を授かった豪族より、
一段も二段も下のランクとされる。
を授かった豪族は、
そのを授かった豪族よりも一段下のランクとされる。

しかも、どんなに努力しても、出身氏族の姓はかわらない

おそらくは、君・直姓の豪族達は悔しい思いをさせられたのだろう。

実際、彼ら地方豪族の子弟は、ヤマト政権のある近畿地方へ出て、
そこで政権に奉仕させられたようだ。

これは、きっと戦国時代のような「人質」の意味もあったんだろうね。

明日は、とうとう反乱を起こした筑紫(つくし)国造磐井(いわいの話を書こう。
磐井は、若い頃、ヤマト政権のもので仕えていたことがわかっている数少ない例なんだ。

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卑弥呼と百枚の鏡

2011年04月07日 12時18分11秒 | 支配と従属の形



邪馬台国を紹介した『魏志』倭人伝には、「…また、特に汝に紺地句文錦三匹…銅鏡百牧・真珠…を賜い、…」って部分がある。

これは、から、卑弥呼が賜ったものを列挙した部分だ。
装身具の「真珠」と並べられると、鏡は上の絵のようなことなのかな~って思うのだが…、

多分違うんだろうね。

卑弥呼が魏にもらった鏡は、邪馬台国に服属した小国の王に配られたって説がある。

卑弥呼の鏡は「銅鏡」だ、「百枚」だって以外は、実はどんな鏡かなんてわからないのだが、

近畿地方の前期もしくは中期と思われる前方後円墳から、
三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」っていう独特な形の鏡が沢山見つかるんだそうだ。

この鏡が、卑弥呼が魏からもらった鏡で、
そして、この鏡を副葬品として、古墳に入れている被葬者は、
卑弥呼に服属した小国の王という仮説だ。

服属した証しに、支配者が記念品を下賜(かし)する。
支配されるってのは屈辱。だから、この証しは、屈辱の証しかもしれない。
でも、支配されるってことは、逆に、外敵に襲われたときは、助けてもらえるって意味でもある。

実際、卑弥呼を従属させた魏国は、
卑弥呼に従わない狗奴国と、とうとう邪馬台国が戦争になったとき、
援軍のための武将を「難升米(なしめ)」っていう卑弥呼の使者にくっつけて派遣して遣っている。

そう、「支配」は一方で「保護」でもある。

さて、卑弥呼の鏡のことだが、
この三角縁神獣鏡が卑弥呼が魏からもらった百枚の鏡だという説。
ちょっと難しくなったようだ。

なぜなら、その後も沢山、沢山、沢山見付かって。

近畿地方だけでも170枚以上見付かってしまったらしい。
100枚こえちゃったじゃん

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ヤマト政権と国造

2011年04月06日 09時45分03秒 | 支配と従属の形


この絵は、倭王武(=雄略天皇、ワカタケル大王)のイメージ図として描いた、教材用イラストである。
私は、授業では、このようなイラストをプリントに載せたり、黒板に描いたりしている。

ヤマト政権の統一事業とよく言われるが、
本質的には、織田信長の統一事業とかわらない。
服従を迫り、抵抗した場合は武力を使う。
要は征服地の拡大でしかない。

ただ、信長もヤマト政権も、
実際はコテンパにやっつけることはほとんどない。

このイラストのように、降伏した場合は許してやり、
もとの支配地を認めてやるのが普通である。

ただし、許してやるかわりに、
支配地の一部の献上を求める …のが一般的である。

ヤマト政権の場合、服属した地方豪族から支配地の一部を献上させ、
それをヤマト政権の直轄地(大王の私有地とも考えられる)にする。
この直轄地こそ、屯倉(みやけ)と呼ぶ。
だから、屯倉はヤマト地方(この場合は現奈良県だけでなく、大阪府なども含む広い範囲)
以外の地域にも散在する。

ところが、ヤマト政権は武力で征服地を拡大こそしているが、
中央集権国家をつくるほどの力も人材もない。
だから、この屯倉を管理する人員を中央から派遣できない。

そうなると、どうなるか?

結局、屯倉は、それを献上した地方豪族に管理させることになる。

服従した地方豪族は、屯倉を管理するヤマト政権の地方官、
国造(くにのみやつこ)」に就任する。

でも、やっていることは、自分の支配地だった土地の管理、支配。
なんか、何もかわってないみたいだ。
敢えていえば、その土地の収穫物の一部をヤマト地方に税として送ることぐらいだろう。

それだけが加わった「いやなこと」。
だから、ヤマト政権が動揺したりすると、
ヤマト政権打倒に動くのは、彼ら国造。

実際、入試に出る例が「筑紫国造磐井の乱」。
先祖のうらみを晴らすと共に、厳しかったと思われる税などの進貢問題などもあったのだろう。

磐井はヤマト政権にとっては謀叛人だが、
現地の人々にとっては、先祖代々からの“お殿様”的存在。
結構、愛されていたようで、
死後、「岩戸山古墳」という古墳もつくられた。

その古墳のまわりに置かれた埴輪がわりの「石人(せきじん)」「石馬(せきば」」
これが、また可愛くって♪

「遺跡へ行こう」というすぐれもののブログがあります。そちらの写真を是非ご覧下さい。


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