一昨日の記事「筑紫国造磐井の乱」の頃のヤマト政権の状況はどうなっていたか?
このころのヤマト政権は動揺していた。
武烈天皇という天皇に男子がなく、皇統が途絶えた。
しかし、ヤマト政権の大王(おおきみ)家なら、親類にいくらでも男子がいそうであるが、
それなのに、何故か、越前国(現:福井県)の豪族を時期大王として迎えたのである。
ただし、血統は全く関係ないわけではなく、
応神天皇の「五代の孫」とされているのだが…
ちょっと不自然な感じがするよね。
迎える際、中心になったのが、当時、大連(おおむらじ)という重職についていた
大伴金村(おおとものなむら)
どういう経緯があったのか? ん~、これこそ「古代史の謎」というべき事柄で、
武烈天皇までの皇統が途絶え、新王朝なのだ…という説もある。
いずれにしろ、継体天皇の擁立(ようりつ)によって、
大伴金村の権勢は絶大なものになった。
日本史上、「擁立」って言葉は沢山出てくるが、
これは、普通なら立たない天皇などを強引に立てるときに使う。
そして、必ず、擁立した側が、擁立した天皇など上級権力者を操ることが多い。
要するに地位と実権の逆転現象ってワケ
実際、金村も、彼は独断で大変な決断を下し、
これがのち、欽明天皇のときに発覚して、
自らの失脚の原因となるそうだ。
それは、また、明日の続き。
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