イラスト講義日本史

旧「歴史のじょーせき」。日本史が好きになってほしいという気持ちから、イラストつきで講義するよ!

大伴金村と朝鮮半島情勢

2011年04月12日 16時12分01秒 | 古代史


5世紀から6世紀にかけて高句麗(こうくり)の南下の動きが活発になった。
特に、倭国の友好国である百済(くだら)と5世紀から戦争状態になっていた。

南下する高句麗に押されるように、百済(くだら)も新羅(しらぎ)も南下し、
朝鮮半島の伽耶(かや)諸国(『日本書紀』では「任那(みまな)」)に進出する。

そのような中、『日本書紀』によれば、
4月11日の記事に触れた大伴金村が、百済の使者の要求に応えて、「任那四県」を百済に割譲する。


この任那四県とは、南朝鮮のヤマト政権の勢力地とされている。
『日本書紀』では、「任那日本府」と呼ばれる本拠地が、任那内にあったとされている。

入試レベルを越えるが、『日本書紀』では、初めに言い出したのは、穂積押山(ほづみのおしやま)という者らしい。
それに、継体天皇と大伴金村が同調したというところらしい。

しかし一方で、継体天皇の第一皇子である、勾大兄皇子(まがりのおおえのおうじ)などには隠していた
決して、公の決定ではない

『日本書紀』によれば、この内容を難波(なにわ/現:大阪)に来ていた百済の使者に伝える役には、
金村と並ぶ大連(おおむらじ)の物部麁鹿火(もののべのあらかび)が選ばれていたそうだ。
だが、彼は妻の助言に従い、仮病を使ってその役を辞退した。

なお、私が「任那」を使っているのは、
ここは、『日本書紀』に基づく歴史叙述をしているからで、
全く、他意はないことを断っておく。

このときの大伴金村たちの思惑がよくわからない

しかし、のちのちの結果を見れば、
最終的に「任那」は562年に新羅に滅ぼされる。
そこから類推しても、金村たちが一番危惧したのは、「任那」が新羅に滅ぼされることだったのではないか?

倭国としては、自国の拠点がある(とされている)任那を、みすみす新羅に渡すくらいなら、
友好国の百済に預けた方が、悪いようにされないから、「まだマシ」だと思ってたのではないか?

もう、ちょっと丁寧に言えば、百済に「割譲」したのではなく、
百済に「託した」という意識だったのではないか?

しかも、これは、高句麗の南下に苦しむ友好国百済への援助にもなるのだから、
そういう点で、一挙両得のいい政策…ではないかな~~~???と、思っている。

ちょっと、金村に対して、好意的過ぎる解釈かな
私は、大筋、歴史上の政治家には甘いところがあるかも…

まっ、いずれにしろ、古代史はわからないことが多いから、
色々、想像する余地があんだ。
「わからな~~~い」と歎くよりも、
こんな風に自由に「空想」してみると楽しい

ただし、入試レベルの「事実」は逸脱しないでね

入試レベルの確認は、山川出版社の『日本史B用語集』が一番だよ
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