五行詩「薫風」詩人・田中薫の「鄙びた日記」

五行詩詩人・田中薫のいろは雑感を綴ります。「ひなびた・にっき」を綴ります。

自分で気付いて、人は成長して行くもの。

2009年05月22日 19時49分04秒 | 雑感
とあるお人からの電話です。
初めてのお人からで、
「森マサさんのコーラスを指導している者ですが。
 森さんの五行詩「山茶花」素晴らしいですね。
 でも、私はここの詩のここがとても気になったのですが。
 先生はいかがですか」
「その詩ですか」
私は、その詩を見てから。
「どこが、気になられましたか」
と、初めてのお人に聞き返す。
「この詩の最後の部分ですが、私は、ここの一行は、
 なんかおかしい気がするのですが、先生はどう思われますか」
「ここですか。確かにご指摘の通りかも知れませんね」
「やはり、先生もそう思われますか。ならば、どうして、
 ご指導なさらなかったのですか」
と、さらに突っ込んで訊いて来たので、
「私は、字の間違いは指摘したりしますが、
 作者の思いは、そのお人のお気持ちを尊重しています。
 なので、私は一字も一行も指導添削はしていません」
「それはまた、どうしてなのですか」
このお人は、私が指導しないことに、怪訝な思いでいる。
「それは、その時の思いというのは、その時のもしかないと、
 思うのです。時が経つにつれて、その感情は変化します。
 その変化するままに、書き直すことも不可能なのです。
 その時の詩は、その時のものでいいのです。
 後になってから、ご自分で、言い回し方がまずかったかな、
 ここは、この漢字の方がよかったかな、形容詞の方が
 よかったかな、と、気付いて人は学んで行くと思うのです。
 それが文章の上達になり、言葉の言い回しの勉強になると、
 思うのです。だから、私はあえて、指導添削はしないのです」
「そうなんですか。わかります。私もコーラスの生徒さんを
 教えていますので」
「先生ならば、お分かりになられると存じます。
 教えて分る部分もあれば、いくら教えても分らない
 部分もあるのです。そもそも言葉というのは、
 自分の思いの半分も言えません、書けません。
 それ故に、人のその時の作者の気持ちで、こしらえた
 作品について、私は一々指導添削なんて、到底出来ません。
 また、してはいけないと思っています。
 自分で気付いて、自分でわかって行くものなんです」
このお人も、音楽の先生ですので、私のこの言葉で、
お分かりになられたようでした。

私も、当初は、うるさいお人から、
ここは、こういう言葉がいい。
ここは、こう書いた方がいい。
ここは、こう直した方がいい。
などなど。

ならば、ご自分で書いて、発表なさったらいいと。
腹の中では思いましたが、
このようなお人のご意見も、感想も、
確かに間違いではないのです。
後々になって見て、確かに手直した方がいい、
作品も多々ありますから。

でも、それを一々と手直ししたら、すべて直さないと
いけません。
それでは、なんの意味もないのです。
その時の詩は、その時の思いで作ったものだからです。

文章の上達の道は、
結局の所、自分で気付いて行くことにあると思います。

最新の画像もっと見る