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気ままに自然にマイライフ

気ままに生活する男が、自然や日常について思いつくまま綴る田舎生活日記

佐賀県地方は、大雨、雷、強風注意報

2009-05-21 18:58:38 | 歴史上の人物考

本日の佐賀県地方は、大雨、雷、強風注意報が発令されました。

「かなわんなあ~」という気持ちが強いけど、雨もまたいいもので、これから田植えが始まるんだから、恵みの雨ともいえるだろう。

人物紹介・立花道雪と高橋紹運

雷といえば、私は立花道雪を思い出します。

大友氏に仕えた戦国武将ですが、若いときに大木の下で暑さと雨を避けていると、イキナリ雷に直撃され、愛刀・千鳥で雷を斬ったという伝説の持ち主。

その事が原因で、足が萎えてしまうのだが、輿に乗って戦場を駆け巡ったという人物です。

大友家が傾くなか、「道に落ちた雪は、解けてなくなるまでその場所を動かない。武士も一度主を得たらならば、死ぬまで仕えるものだ。」と言って、道雪の号を使ったといいます。

傾きかけた大友氏を、島津氏や龍造寺氏が攻めあぐねたのも、立花道雪を恐れたからだといいます。

道雪が病気で亡くなると、「ワイのもんや!」とばかりに島津氏は早速大友氏を攻めますが、道雪の盟友・高橋紹運の抵抗に遭い苦戦する。

高橋紹運は、763名で岩屋城に立てこもり島津軍2万と半月の間戦った後に自害するが、島津軍は3000人以上の死者を出したといわれている。(紹運自身も城を出て戦っては退くという戦法で17人を斬ったといわれている。)

また、島津軍の「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」との問いかけに対し、「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と答えたため、敵方からも感嘆・賞賛の声が上がったといわれている。


忠臣蔵に思う事

2008-12-14 21:41:50 | 歴史上の人物考
今日12月14日は、赤穂浪士が吉良上野介義央の屋敷に討ち入りした日ですね。
『忠臣蔵』は、毎年この季節になるとテレビ局がドラマ化します。
「亡き主君のあだを討つ!」という事が、日本人の美学に合うのでしょう。
しかし、現在の日本ではあだ討ちなどという行いは認められていません。
犯罪被害者の遺族の方が、あだ討ちなんかしたら、大変な事です。
日本中には、犯罪被害者の遺族の方々が沢山いて、あだ討ちしたいと願う気持ちが、忠臣蔵を支持しているんじゃ無いだろうか?

実際に敵討ちするわけにはいかないので、ドラマに感情移入する事で、擬似あだ討ちをしているっていうか・・・

毎年毎年、年の終わりのアンリアルな敵討ちです。

この事で、犯罪被害者の遺族の方たちが、少しでも癒されるのなら、本当に価値のあるドラマだし文化だと思う。

今回は、忠臣蔵について考えてみました。

事の起こりは、ご存知「江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)」での、浅野内匠頭長矩の刃傷沙汰である。
長矩の取調べ記録が、ハッキリわかっていないため、刃傷沙汰の原因は良くわからないのだが、浅野内匠頭長矩は即日切腹となった。

浅野長矩は、朝廷から勅旨が江戸下向の際の饗応役にも関わらず、殿中での刃傷沙汰をおこしたのだから、理由に関わらず切腹は時代と場所を考えると、当然の処分だろう。

なぜ?あだ討ちが支持されるのか?
悪いのは、浅野内匠頭長矩だと思う。

忠臣蔵は、人形浄瑠璃や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称だから、作者の創作も多いが、元禄赤穂事件は、実際に起こった事件である。

浅野長矩の取り調べ資料は残されておらず、実際は取調べが行われたかどうか疑問視する研究者も多いようだ。

資料が残っていない以上、解っている事実だけを考えると、刃傷沙汰を起こした浅野長矩が悪いって事になる。

しかし、赤穂浪士たちは、喧嘩両成敗が原則なのに、吉良上野介にはお咎めなしだったので、不満に思い吉良邸を襲撃したのだ。

もちろん、浅野長矩の即日切腹を決めたのは幕府であり、トップは徳川五代将軍・綱吉である。

不公平な処分のあだ討ちならば、将軍暗殺の方が説得力があるし、不公平な処分の責任者は吉良ではなく、将軍・綱吉である。

そもそも、この徳川綱吉は、非常に暗愚な将軍で、人間よりも犬猫を重視して、生類憐みの令を施行した将軍だ。
犬や猫を殺した者を大勢処刑した将軍である。

いかに天下人だろうと、人命よりも家畜の命を重要視するような考えは許せない。

「生き物の命は、平等である!」という思想なら納得出来るが、「人命よりも犬猫の命の方が尊い」などと考える人間が将軍になったのだから、この時代の人は不幸である。(現在でも、人の命より鯨の命の方が尊いと考えとる馬鹿がいるけどね)

朝廷も、こんな暗愚な将軍の為に、勅旨を江戸に下向させる必要は無い。
「用事があるなら、お前が来い!無礼者!!」くらいの事は言ってほしいものだ。

この勅旨下向自体が、馬鹿馬鹿しい行事であり、不公平な処分の元凶は、将軍・綱吉である。吉良邸に討ち入りせずに、江戸城に討ち入るべきではなかったんだろうか?

赤穂浪士に天誅を下して欲しかったのは、吉良上野介ではなく、天下の悪法を施行した将軍・徳川綱吉だと思うのです。

仮名手本忠臣蔵が作られたのは、寛延元年(1748年)なので、将軍を悪者に出来なかったのだろうが・・・。

「生類憐みの令」のような馬鹿馬鹿しい悪法は、人類史上最悪の法律で、今後も施行される事は無いだろう。

私の提案だが、もう江戸時代ではないのだから、忠臣蔵で描くべき極悪人は、吉良上野介ではなく、徳川綱吉という事にして、新たな忠臣蔵を誰か創作して欲しい。

立花道雪

2008-10-23 04:25:35 | 歴史上の人物考
私は、歴史が好きで特に戦国武将が好きである。
戦国武将の生き様や考え方を学び、人生に活かそうと普段から思っている。

今回は、立花道雪の話

立花道雪は、大友氏に仕えた武将で、若かりし頃、雷を切ったと言う男である。

若いときに、大樹の下で夏の暑さを避けていた。
すると、突如雷に襲われたのだ。

とっさに愛刀・千鳥で稲妻を切った。

嘘のような話だが、立花道雪はこの時、足をやられて歩行困難に陥ったのだ。
結果的に命は助かったが、後遺症が残っていることから、事実だと判断する。
其の時の刀を「雷切(らいきり)」と呼び、生涯身につけていた。

恐るべき男である。

しかも、彼は歩行困難なのに、手輿に乗って戦場に出て指揮を執っていた。
歩けない大将が、戦場のど真ん中にいるのだ。

しかも、窮地に陥れば、「自分を敵のど真ん中に担ぎいれて、命が欲しいならば、その後で逃げよ」と支持していたらしい。

歩けない敵の大将が目の前にいれば、敵は大将に集中する。
逃げる兵士には目もくれないので逃げやすいという考えだろう。

論理的な判断だし、間違っていないだろう。

大将自ら戦場のど真ん中で戦うから、道雪の軍は強かったのだろう。

大友宗麟の時代、大友氏は衰退に向かうのだが、道雪は一貫して大友氏に忠誠を誓っていた。

道雪の名前は、道に落ちた雪は消えるまで場所を変えることがない。
武士も一度主君を得たならば死ぬまで忠誠を誓うものだという意味。

道雪の忠誠心は、主君の命令に従うだけの薄っぺらな物ではなかった。

「たとえ折檻を受けても、主人の過ちをただすのが臣たる者のつとめである。」
という名言を残している。

「自分の命は惜しくない。それよりも主人が世間の外聞を失うことが無念である」とも語っている。

若い頃の大友宗麟は、放蕩三昧だったのだが、立花道雪に何度も説教されたようだ。宗麟にとって道雪は、厳しいご意見番であり、煙たい重臣だったと思われる。

主人から煙たがられる道雪だが、部下はとても可愛がっていたようだ。

武功をあげられぬ部下に、「武功には運不運がある。功を焦って抜け駆けし、討ち死にするようでは不忠である。」と言って、酒を酌み交わし、武具などを与えたりしていた。

しかも、その兵士が戦で活躍しようものなら、「この道雪の睨んだ目に狂いはなかった」と大喜びで、誉めて激励した。

こんな大将の部下なら、誰だって命を惜しむことなく働くもんだと思う。

道雪は、終生大友家を裏切らず、『義』を貫いた。
昨日の敵が味方になり、明日には敵になる事が、当然のように起こっていた戦国時代。
下克上の時代にあっても、立花道雪は大友家の為に働いた『義』の人なのだ。

大友氏の家臣には、高橋紹運、立花宗茂など『義』を貫く勇猛な人物が多かった。

ちなみに立花宗茂は、立花道雪の養子で道雪の一人娘と結婚している。実父は高橋紹運。
傾き続ける大友家を支えたのは、『義』を貫かんとする道雪、紹運、宗茂の三人であった。

昨日の直江兼続も『義』の人でした。

直江兼続という人物 其の一

2008-10-21 23:24:20 | 歴史上の人物考
2009年のNHK大河ドラマが『天地人』という事で、主人公の直江兼続(なおえかねつぐ)について勉強する事にしました。

原作の『天地人』は、新潟県出身の火坂雅志さんの原作ですね。
主演は、妻夫木聡さん。
共演者も、常盤貴子・長澤まさみ・相武紗季・比嘉愛未・深田恭子など人気女優を配して、男性人も小泉孝太郎・阿部寛・玉山鉄二・小栗旬・上地雄輔など豪華。

あきらかに若い世代をターゲットにしたキャスティングですね。

ドラマのほうは、おいといて・・・
私は、直江兼続について、勉強します。

直江兼続という人物は、戦国時代の武将ですね。
正式には、直江山城守兼続。

上杉景勝と直江兼続の主従関係は、歴史的にも稀にみるような強い絆だったようです。
劉備玄徳と諸葛亮孔明の『水魚の交わり』に匹敵するんじゃないでしょうか。

上杉景勝が名門・上杉家の当主になれたのは、直江兼続の知略といっても過言ではないだろう。
毘沙門天の化身・軍神上杉謙信の死後、上杉家の家督は、二人の養子のどちらに継がせるのか決まっていなかった。

三郎景虎と、喜平次景勝(後の上杉景勝)のどちらが家督を継ぐのか。

家督争いの対立抗争は、突然訪れるのだ。天正六年上洛の準備を進めていた上杉謙信が突然倒れて、三日後にはこの世を去ってしまうのだ。

謙信の死の直前に、「家督は喜平次景勝」という認知を得たのだが、この時知略の限りを尽くして、根回しを行ったのが樋口与六(後の直江兼続)だった。

樋口与六は、上杉謙信の姉・仙桃院に才能を認められ、景勝の近習に取り立てられた。
『北越軍談』には「童子の容貌閑麗にて、其稟賦大度の器なるを以って」景勝の近習に取り立てたと記されている。

謙信も樋口与六(直江兼続)の才能を認め、書庫を開放して自由に閲覧させたり、儒者や学僧の講義の度に、わざわざ使者を走らせて、与六を呼び寄せ陪聴させたようだ。

しかも、仙桃院に「手近に置いて仕込んでみたい」と言って、己の近習に譲り受けた。

謙信はなぜこれほど与六に執着をみせたのか。
謙信本人のみぞ知るところだが、樋口与六(直江兼続)の才能に惹かれたことは間違いないだろう。

謙信は、初めて会った日から、与六(兼続)の才能に気が付いていたと思われる。

謙信と与六(兼続)の初めての出会いは、与六が15歳のとき
仙桃院の使いで、春日山城の本丸を訪れた時の様だ。

大雪の日、雪見酒を酌んでいた謙信に、誰かが「よう降りますな。朝から小止みもありません」と言った。
謙信は「まさにこれは雪の宿りだ」と答えたという。

周囲のものたちは、「雪の宿り」という言葉が理解できずに黙ってしまった。

そこに、謙信から仙桃院あての返事を待っていた与六が
「御意、誠に今朝からの雪は、としつき馴れたる人だにも、遭わじとうれふ大雪にござりますな」と答えた時である。

与六(兼続)は、連歌師宗祇が越後の大雪に驚いて詠んだ
「思いやれ、年つき馴るる人だにも、あはじとうれふ、雪の宿りを」という短歌を、基にして返事をしたのだ。

謙信は意外に思い、与六に名前と年齢を聞いたという。
その後、いくつか質問して、与六の才能を見抜いてしまったのだ。

与六の才能も驚異的なのだが・・・
それを一瞬で見抜いてしまう謙信の能力も驚異的だと思う。

15歳の樋口与六(直江兼続)と軍神・上杉謙信の出会いは、お互いに衝撃的だったであろうと推測される。


激動の戦国時代、直江兼続は、毘沙門天の化身・軍神上杉謙信と初めて対面したのだ。




直江兼続の人物考は、気が向いたときに更新したいと考えています。