くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第十一話

2017-10-02 13:30:22 | はらだおさむ氏コーナー

・・・ のてっぺん


 神戸新聞で連載中の小説『淳子のてっぺん』(唯川 恵作)が終わった。

 昨秋連載がはじまって間もなく、とわの世界に旅立った、女性初のエベレスト登頂、七大陸最高峰制覇の登山家・田部井淳子さんのお話である。小説としては、エベレスト登頂でクライマックスとなるが、五日にわたって書き連ねられたエピローグは、最晩年 ふるさと東北の被災者の子供たちを毎年富士登山に招聘するシーンをスケッチしている。

 「頂上に到着すると、待っていた子供たちとスタッフの拍手に迎えられた。

 ・・・ビリになっちゃたわね。どう、みんな楽しかった?・・・淳子と正之

は子供たちに囲まれた」

 この小説もすばらしいが、後ほど手にした彼女の遺作『再発!それでも わたしは山に登る』(文芸春秋社)は脳に転移したガンと闘いながら、登山、旅行、講演などを続ける彼女の日記風手記(2014年8月~2016年8月)である。末尾に夫・田部井政伸の追記がある。

 「目の前で息を引き取っていく妻の姿をみるのはショックでしたが、二度目のがんが見つかってから四年半という時間があったので、僕たち家族は“来るものが来たか”という気持ちでした」

 彼女はがんの治療を続けながら、亡くなる四か月前の2016年5月29日~6月3日「羽田発、北京経由で貴州省都の貴陽に入る。今回足の具合が悪く

サンダル履きのまま・・・、貴州大学で日本語教師をしている須崎孝子さんを訪ね、エベレストのトークをする」この中国行きも驚くが、その前後の日程を

見て息が詰まる。

 5月25日 A病院で抗がん剤の点滴。足の甲の両側が赤くなる。

5月27日 首都圏で避難生活を送っている被災者の方々と「みんなでつながろう~自然体験ハイキング」のため天覧山へ。

 

6月 3日 北京経由で羽田着。

6月 5日 佐渡へ。観光大使を引き受けていた関係で、昨年からの約束。

6月 6日 市長などから感謝され、一安堵。

6月 7日 始発のフェリーで東京へ。午後はA病院でCTの予約がある。

 

彼女は前掲日本語教師の須崎さんが上海の日系アパレル企業に勤務中何回か上海を訪問した由だが、それはおそらく90年代の後半のことであろう。現地日系企業の優秀なスタッフとして活躍されたであろう須崎さんが貴州大学の唯一の日本語教師として転職されるには、日系アパレル企業の中国からバングラディシュなどへの転出がある。

胡錦涛政権の、政府主導の労働者の賃上げがその背景にある。

 

2008年の北京五輪、2010年の上海万博の成功。

中国はいま、世界第二の大国として「一帯一路」を掲げて“驀進中”だが、そのスタートは90年4月の「浦東開発宣言」、その眼目は「土地所有権の有償譲渡」政策にあった、中国の“いま”はすべてここからはじまる、のである。

女性として、はじめて世界最高峰を極めた田部井淳子さんの人生と中国のいまにつながる歴史とを見比べるのはお門違いのようでもあるが、どうであろうか・・・。

まず80年代から90年はじめにかけての三代の上海市長。

汪道涵(81.4~85.7)

江沢民(85.7~88.4)

朱鎔基(88.4~91.4)

80年代前半 文革は終焉して鄧小平の「改革開放」は始まっていたが、汪道涵市長時代は“下放”から上海に帰郷してきた子弟の就職問題。親の勇退を鼓舞する国営企業の宣伝トラックの太鼓の音が街中に響いていた。いまの浦東地区に“隠し田”を設け、旧市区の工場移転を進めたのは彼の英断。

江沢民市長時代を振り返って、上海の老朋友は住宅と交通難に何の手も打たず、後々の人脈作りに精を出していただけ、とつぶやく。

中央もその後任として実務経験のある人物をと抜擢されたのが、当時国家経済委員会で活躍中の朱鎔基。かくして87年末、江沢民の後任市長候補として朱鎔基の上海入りが実現した。

そのころわたしは月の半分は上海に滞在、設立した合弁企業のフォローや新規商談で走り回っていた。

上海雀の話では、かれは第二党書記の肩書でバス会社を視察して改善を求め、房地産(土地家屋)管理局の担当者と懇談、市長就任(翌88年3月、上海市人代承認)後の実行打合せなど、問題解決の方向性が示されていたという。

84年から始めた私どもの住宅難の「改善事例」なども、ひとつのケーススタディとして取り上げられていたという。

89年のあの事件のとき、かれはテレビで市民と学生に話しかけ、自分の責任で軍隊は市内に入れない、バリケードを撤去し汚物を清掃、整頓してください

(旧市内は下水道が完備していなかった)と呼びかけた。

 かれの上海市長時代の功績として、住宅基金の積立制度の創設がある。

 これは後の国営企業の解体時の、住宅購入の資金となり、以後の住宅ブームのはしりとなる。

 90年4月の「浦東開発宣言」直後、かれはシンガポールに飛んでリー・

クワンユー首相と面談、帰路香港の実業家とも会って上海への投資を呼びかけた。

 91年4月 国務院副総理に就任(鄧小平の根回しがあった)

 94年1月 外貨兌換券の流通と使用の停止

 98年3月 5代目総理に就任(69歳、党内序列5位→3位)

       「目の前が地雷原であっても、万丈の深淵であっても、私は

        勇気をもって前進するのみ・・・」

 03年3月 引退。「その位にあらざれば、その政を相談せず」

  (青木俊一郎著『朱鎔基総理の時代』参照)

 

 組織のトップは、頂点に立つお山の大将、「・・・のてっぺん」に立つ人である。アメリカも、日本も、中国も・・・、意気軒高はいいが、ときには「・・・首を垂れる」謙虚さも欲しい。

 最後に、気になることをひとつ。

 中国の国有企業で最近定款の変更の動きがあり、企業内共産党委員会が「中心的役割を担う」と明記するようになってきているようだが、これって企業の発展にプラスになるのか。民営企業や外資企業との競争の中でこそ、企業の発展がみられるのではないか。ゴマすりの、仲良しクラブに正常な発展はみられない。

 山は、いつも天気晴朗ではないのである。

                (2017年8月31日 記)


「日々徒然」第八話

2017-10-02 13:25:10 | はらだおさむ氏コーナー

TV観戦のあとで・・・

 

 三月はWBCやサッカーのW杯アジア予選など、テレビ観戦で日が過ぎた。

 

 “六・三制 野球ばかりで 日が暮れり”と自前の校舎も、教科書もないまま発足した新制中学第一期生のわたしたちにとって、たとえ三角ベースであろうが、木切れのバットであろうと、野球はからだに染み込んだスポーツであった。

 ましてや甲子園球場までは近々の距離、春夏の高校野球はもちろんタイガース主催のプロ野球にもよく足を運んだものであったが、いまはそのむかし、昨今はテレビ観戦もご無沙汰勝ちである。

 

 しかし、WBCとなると話は別、何をさておいてもとテレビにかじりつくことになる。

 戦前の予想に反して、日本は無敗で勝ち進んでいく。

 深夜に及んだオランダ戦などは、入浴を終えてもまだ続いていた。

 対戦相手には大リーガーの現役選手も多く、アメリカは準決勝から新戦力も補強して初優勝を手にしたが、準決勝戦で日本はアメリカに敗れたとはいえ、

互角の試合を演じたのではなかろうか。

地元出身の山田(ヤクルト)や坂本(ジャイアンツ)選手の活躍には目を細め

たが、馴染みの少ないパリーグ出身の選手たちの活躍にも感激した。

 侍ジャパンでは現役の大リーガーは青木選手ただ一人であったが、次回の大会では大リーガーといえど選別の対象になるのではとも思えた。アメリカのグラウンドが決勝リーグの舞台になるのなら、事前の練習試合などはどんどんアメリカで実施して現場の“土”に慣らした方がいいのかもしれない。

 その意味で大リーガーの先駆者・野茂投手の業績に敬意を表せねばならぬし、

イチローやマツイの実績がそのあとに続く日本の選手たちを鼓舞し、励ましていることになる。

 

 サッカーでは出ても出なくても、本田のことが話題になった。

 ましてやガンバの今野が、本人も代表選出に戸惑うくらい久しぶりの出場であったが、試合に出ると適時・適所で大活躍、最後は貴重な追加点をあげてロシア大会へ一歩前進させた。 

 50歳にして現役、先日もゴールをあげた三浦知良は「日経」のコラム<サッカー人として>で次のように述べている(3月31日)。

 「最近の風潮にある、決めつけは良くない。『試合に出ていないのに代表に呼ばれるのはおかしい』はおかしい。・・・GK川島永嗣選手があれだけ輝けば『クラブで出てないのに・・・』という議論、しぼむでしょ」(「試合勘」代表では

別物)。

 アウェイで勝ったことのないUAEに快勝して、気が緩んでいたわけではないだろうが、ホームでのタイ戦は4-0で勝ったもののタイの気力は勝っており、

4-3でもおかしくないゲーム展開であった。 

 この試合 先発出場した香川と岡崎は久しぶりにネットを揺るがし、代表戦が終わった後も好調を維持しているようだが、後半ゲームに出た本田はなにか空回りしているようでまだ本調子とはみえなかった。

 長谷部の怪我ではじめてキャプテンマークを巻いた吉田麻也は、ブログで「出番減本田の逆襲を信じる」と書き、好守備を見せて健在ぶりをアピールしたGK川島も「追い込まれてから強い」と本田の復調を期待している。

 

 わたしのサッカー観戦歴も十余年になろうが、W杯南アフリカ大会(2010)ころからTV観戦も熱が入ってきている(時差の関係で深夜が多い)。

 オシム監督の急病で二度目の采配を振るうことになった岡田監督のもと、日本はベスト16の9位という好成績をあげているが、どの試合であったか中村俊輔と本田の「フリーキック事件」があった。代表選では8年先輩の中村に対し本田が執拗に「オレに蹴らして欲しい」と迫り、結果は中村が蹴ったが相手ゴールキーパーの好守備に阻まれ不成功に終わった。以後代表チームで両者のポジションは変わって、その得点数は本田36に対し中村の24となっているが、年はとっても中村のJリーグにおけるフリーキックは相変わらず華麗である。

 ちなみに「W杯日本選手得点ランキング」を見ると、1位は東京五輪(1964)以降活躍の釜本邦茂(ヤンマー=ガンバの前身)75点、2位三浦知良55点、

3位岡崎慎司505位本田圭介366位香川真司289位中村俊輔24(以下略、3月末現在)となっている。釜本選手は東京五輪でチーム8位、68年のメキシコ五輪では同3位(銅メタル)と大活躍された。日本もそろそろロシア大会では上位を狙う位置を確保して、つぎの東京五輪では入賞を期待したいものである。

 

 サッカーの話題をもうひとつ。

 【ロンドン共同】(「神戸新聞」4月1日)は、2026年開催のW 杯の大陸別出場枠をFIFAは拡大することで合意したと伝えている。

 全体枠増は16であるが、アジア枠は4.5から8とほぼ倍増した。

 アジアのサッカー人口とスポンサーの多さを反映したものとみられている。

 昨年中国企業は協賛会社の最高ランキング「FIFAパートナー」を獲得したとみられており、中国におけるサッカー人口の増大とその白熱ぶりを反映しているものと思われる。

 FIFAの国際ランキングでは48位以内に入るのはアジアでは韓国とイランのみであるが、この2~3年中国の倶楽部チームに招聘される外国人選手は増えており、その実力はとみに向上、日本や韓国のクラブチームも苦戦するケースがふえている。

 中国のナショナルチームは3月末で日本とは異なるAグループで5位ながらも1勝2分4敗と健闘しており、今回のアジア枠増加の9年先にはその恩恵を受けるポジション入りを狙っているものと思われる。

 もう予選で日本とかち合って負けたとしても、暴動化してうっぷんを晴らすことはないだろう。

 これからは双方のクラブチームで選手の往来は活発になるだろうし、交流はもっと頻繁になるものと思われる。

巷間で話題になる本田選手の、中国足球倶楽部への移籍はないだろうが・・・。

(2017年4月5日 記)


「日々徒然」第七話

2017-10-02 13:15:46 | はらだおさむ氏コーナー

はじめての留学

 

 わたしが1957年に中国との貿易を目指してから、60年がたった。

 1964年にはじめて中国を訪問して以後、二百数十回は中国に足を運んでいるが、滞在と言えるのははじめての北京の数十日のみ。前半の友好貿易のときは同僚に助けられ、そのあとの対中投資諮詢の仕事では中国の方々のお世話になった。

 もちろん長い中国とのお付き合いであるから、言葉も耳学問というか、自然と身についたものもあるが、70年代はじめの“北京商談”では、アポ待ちメーカーさんの案内を頼まれて何度も長城や故宮に足を運んだものである。

 82年に対中投資諮詢の仕事をひとりではじめたころ、しばらくは開店休業で、このときはじめて中国語の勉強を始めた。

 大阪中国語学院での土曜日の午後、上海から招聘された女性講師の、厚かましくも中級のクラスを受講。同年輩の方も多かったが、みなさんかなり年季を積まれている。先生の発音が上海訛りと同学のイジメもあったが、わたしには捲舌音を強制されないのは助かった。

 二年目からは、男性講師。上海外大の助教授の由であったが、寧波出身の

おおらかな先生。授業の後はクラスメイトと一緒に大阪案内と称してよく会食したが、そのむかし、日本語のもとにもなっている寧波話(語)=ニンポーフアを覚えたらと、ミソシトレ=(綿)糸取れ、などのご紹介があった。

 

 日本でも電話などではじめての自己紹介のとき、名前は「修学旅行の修(おさむ)です」と告げるが、そのむかし、北京で貿易公司のオペレーターに名前を告げたとき「修正主義の修か」といわれて、がっかりしたことがある。以後先手を取って「修理の修」と告げることにしていたが、上海語では「イディ・シュウ」となり、まるで別人のよう。

 上海は「友好貿易」のとき、「和平飯店」に駐在事務所を置いていたのでなじみ深いが、「投資諮詢」で通訳はほとんど上海の方々のお世話になったので

「中級」二年間の「標準語」はお蔵入り、日々忘却の彼方へとなった。

 種まきは好きだが、後はおまかせ。

 92年の「南巡講話」と「天皇訪中」で対中投資に火が付き、94年の阪神淡路大震災のころ、わたしは倒壊した我が家の再建に追われた。60歳になっていた。

 

 震災二年後の夏(1996年)、ふとしたきっかけで上海の名門校・華東師範大学の夏季中国語講座(中級)を受けることになった。

 8月初旬から二週間+α、構内には外賓楼という新築の三階建てがあり、個室(テレビ・冷房・電話付き)を予約した。授業は午前中のみ、朝・昼食は学生食堂を利用、夕食は市内で外資企業の駐在員との交流という計画で、チェックインした。

 初日の夜は、在上海の友人たちとのウエルカムパーティがあり、ほろ酔い気分でご帰還と相成ったが、ここは大学であった。門はクローズ、守衛も不在、ベルを押しても誰も出てこない。門限があるとは知らなかった、まだ携帯も普及していない当時のこと、どうするか・・・。酔いも手伝ってのことでもあろうが、まだ若かったのであろう。気がついたら2メートルほどの木製の門をよじ登っていた。

 外賓楼の受付嬢は、正門は開いていますのに、と。いまさらタクシーの運転手を責めても、後の祭り・・・。

 

 翌日から授業は始まるはずであったが、何か手違いがあったのか数名の参加者が若干遅れるとかで、わたしたちは構内の庭園で先生を囲んでのフリートーキング。彼の自己紹介が面白かった。数年前同大学の哲学部を卒業、むかしならエリート中のエリートだが「改革開放の世の中」、哲学部卒はお呼びではない。過疎地の農村で数年教師をやったが、ウダツがあがらない。思い切ってもう一度復学、専攻はなにがいいだろうか・・・と。数人で話を聞くと、なんとなくわかってくるから不思議である。二十数歳の好青年であった。

 

 娘からお盆休みに“陣中見舞い”に行くと連絡が入った。         

三泊四日 上海ははじめてなのでどこでもいいが、会社の上海事務所も訪問したい、と。早速外賓楼にシングルを予約、娘の上司にアポを取る。

和風のお惣菜は持ってきてくれたが、あとで思えばこのとき風邪薬など頼んでおけばよかったのだが・・・。

初歩的な上海観光・・・バンド~南京路~豫園、あとはどこへ行ったか。

あれはたしかにローソンの一号店であったと思う、動物園でパンダを見た帰り、虹橋の太平洋飯店で休憩の後、虹橋新村のマンション街を散策していたとき、

あの街角にそれはあった。上海駐在員のご夫人たちが、“あ~ぁ”とも“お~”ともため息をつき、涙ぐんだという、あの三角おにぎりが並んでいた。開店早々であったのだろう、商品の補充が追い付かず、空いた棚には植木鉢があったが、20年前のわたしの目にそれは焼き付いている。

  

 帰国が近づいてきた。

 いくら夏とはいえ、20日以上休んでいるとさすがに少し仕事が気になる。

 また2~3日 しばし別れの送別の宴が続き、疲れが出たのか空調にやられたのか、かなりの高熱を覚えた。外賓楼のフロントにも、置き薬はない。同じフロア―でよく騒いでくれた初級受講の女子学生たちは元気そのもの、だれも薬を持ってきていない。ここで病院へ行って入院でもさされたらと、最後の日の食事会はお断りして、あと一日と、フトンをかぶり続ける。

 

 やっと関空に着き、ホームドクター(先代)に電話を入れる。

 待ってるから、気を付けて来なさい。

 8時過ぎ 先生はひとりドアを開けて待っていた。

 体温計を見ている先生に、入院ですかと聞くと、そんな時間はない。

 いまから点滴をする、2時間ほどかかるから、家へ電話しときなさい。

 それから数日通院、点滴を受けた。

 

 今回の高熱もそうだが、大勢の方にご心配をおかけした。

 “柳に雪折れなし”と母は96歳の長寿を全うしたが、わたしは頭から足までメスの入っていないところのない体、大勢の方に助けられて今日がある。

多病息災と、粋がっていては天罰が下る。(了)

 

                    (2017年2月27日)

 


 日々(ひび)徒然(つれづれ) 第三話

2017-10-02 13:05:47 | はらだおさむ氏コーナー

ソウリー、タイピーオンリー

 

  先日「デモで苦境を訴える観光業者(9月14日、台北市)」の写真とその新聞記事を読んで、あのときの光景を思い出した。

 

  もう数年前のことになるか、前から計画していた「阿里山観光」のため

 雨の桃浦空港から市内へ向かう途次立ち寄った「陶磁器の町」鶯歌でのこと。陶磁のマグカップでおいしそうにコーフィーを飲んでいるカップルを

 目にして、思わず可憐なウェイトレスに「レンミンピ、クウイマ?」と声を

 かけたとき、「ソウリー、タイピーオンリー」とすまなさそうに言われた。

 もう日本でもお目にかかれない大正ロマン風―竹久夢二の描く少女の風情であった。

  国民党の馬英九総統が政権を握り、海峡両岸の交流が拡大し始めていた。

  わたしもその現場を確認しようと、その前の年にはアモイから金門島まで

 日本人団体旅行第一陣として船で渡ったが、そのとき大勢の中国人ツアーも

 船を連ねて金門島に押しかけていた。現地情報によると、大陸からの船便は一日32便、乗客九千人/日とのことであったが、今後は蒋介石のふるさと・浙江省からは三千人/月の到来が見込まれているとのこと。いまから思えばまだ政策的ツアーであったか、金門島の土産物店に群がる観光客はレンミンピー(毛沢東)を振りかざして買い物に熱中していた。

 タイペイでは、孫文か蒋介石の台幣しか使用できない商店(両替は可)で、正価販売に食って掛かる大陸のツアー客相手にウンザリして、わたしたちにウインクする店員たちの姿があった。まだ台湾観光がはしりの、大陸からのツアーであった。

 

 この記事(「日経」朝、10月17日)の見出しは、横に二本「中国との直接対話停止」「台湾、民間交流に波及」縦に「中国人客減、観光に影」とこのデモの背景を紹介している。

 たしかにこの数年の中国からの訪台者は、台湾の観光地を埋め尽くし、美術館や歴史建造物などでは、他の参観者にもお構いなしに大声で叫びあう人たちのむれは、まさに顰蹙の対象にもなっていた。

 しかし、昨15年の統計をみると中国からの訪台者414万人のうち、その80%は観光目的であるが、その4割が個人旅行に変化していた。これは注目すべき発見であったー言葉の不自由も感じない~リピーターも増えて来ているのかも知れない。

 この記事では「親中路線の馬英九・前政権下の8年間で(大陸からの訪台

者は)13倍近くに膨らんだ。だが今年5月の蔡政権発足後は減少に転じ、8月は前年同月比3割も減った」とあるが、実数で見るとそれでも25万人の中国人が台湾を訪れている。観光業者は騒ぐだろうが、この数字は見落としてはいけないだろう。

 

 わたしは数年前、ある会合で「台湾が中国を変える」と題して私見を述べたことがある。

 それは独断と偏見の私見に過ぎないが、中国の改革開放が始まって中国の保守派長老が「窓を開ければハエが入る」と反対したとき、ある人が「金網を張ればいい」と押し切った由。それでも、テレサテンの歌声はその金網を越えて中国人のこころをつかんだ。

 八十年代前半、ある経済視察団を案内して深圳に行ったとき、女性服務員(と当時呼んでいた)に当時の習慣で“同志(トンジィ)”と声をかけたら見向きもしなかったが、“小姐(シャオジエ)と呼び変えると、いそいそと用を達してくれた思い出がある(いまはまた、この小姐は禁句のようだが・・)。

 同後半、田舎の駅ではじめて中国製ラーメン(「康師傅」)を食べた。出迎えの人も同行の通訳も、これが台湾企業の、メイドインチャイナであるとは

知らなかった(たしかに中国製であるが・・・)。

 九十年代になると、対中投資がブームになる。

 上海の閔行経済開発区には台湾企業の進出が多く、そのなかには日系企業がバックアップまたはタイアップしている製造業も多かった。

 李登輝総統の民選時、中国は台湾を威嚇したが、そのころ中国のエライ人の子弟が台湾企業のトップに居座っていたと後で聞いて、驚いたことがある

 台湾企業は製造業から第三次産業も抑え、夜の社会にも食い込んでいた。

 その闇の後始末は、どうなっているか・・・。

 

 台湾の民進党政権が発足して、中国からの訪台者が減ったとデモ行進した

裏には、蔡政権を揺さぶろうとする中国の意図が感じられる。

 しかし、”爆買い”の訪日が減っても、毛丹青さん責任編集の『在日本』が

綴っている〝中国人がハマった!ニッポンのツボ″が語るように、台湾の魅力にとらわれた人たちは、同じような感動を台湾に見つけるだろう。そして

同じ「中華民族意識」のなかで、いろんな発見をしていくものと思われる。

「毛沢東」と「孫文」のことも、そしてこれからのことも・・・。

 

                  (2016年10月18日 記)