くに楽 2

"日々是好日" ならいいのにね

日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十三話

2021-01-19 15:03:22 | はらだおさむ氏コーナー

なぜか、WHOか?

     

   街角から白いマスク姿が消えていった。

   もう6月だ。

夏の日差しが照り返している。

                    

 これは2014年刊の小著『徒然中国』所載のレポート「サーズのころのことなど」の、文末の一節である(09年5月31日 記)。

 当時第二次サーズと呼ばれたコロナウイルス6種のひとつ「マース」終焉間際の記録で、今回は7種目の新コロナウイルス、まだ適応薬の決定打がでていない。

 もう5月に入ったが、延長された「東京五輪」も選手・チームの選別がおぼつかなく、夏の高校野球もふくめその開催が危惧されはじめている。

 これは何もスポーツの世界だけではなく、文化・芸能のイベント取り消しや教育の分野などにも裾野をひろげ、テレビ分野でも取材・ロケなどに毀傷をきたしはじめている。

 

 NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』や朝ドラの収録は、出演者とスタッフの数が多いのでといまは中断。『麒麟・・・』は原作がなく、脚本担当の池端俊策と前山洋一、岩本摩耶の三人で話をまとめられているようだが、後半の中心は、やはり本能寺に至る信長との対峙とその人間模様の描写になるのだろう。

 ここまで書いてきて、前にたしか本能寺のことをこの「日々徒然」で記述した記憶がよみがえりスクロール。第一話に『信長焔上』と題して、藤田達生『謎とき本能寺の変』(講談社現代新書)記述の「信長包囲網」をつぎのように紹介していた。

 =6月2日の「本能寺の変」の直接の下手人は、明智光秀であるが、信長に追放された義昭の「鞆幕府」とそれに繋がる毛利輝元、光秀と同盟の長宗我部元親、光秀の筆頭家老・斎藤利三の暗躍など、「信長包囲網」が形成されていた=

 

 わたしはそこに信長台頭以前の弘治三年(一五五七)から、豊臣時代の天正一四年(一五八六)までの二九年間、在位にあった正親町(おおぎまち)天皇のことにふれておきたい。

 父・後奈良天皇崩御のあと在位に就くが、手元不如意で即位礼が行えたのは三年後の永禄三年。当時京都を含む近畿圏を抑さえていたのは阿波の三好長慶であったが、三年後の即位礼に際しての拠出額は最低、信長などの新興勢力を上回る献金者は毛利元就と本願寺法主顕如のふたりであった。

天皇には、元号の制定(改元)・官位の授与・書状(綸旨)の発給・暦(太陰暦)の改正などの職務・権限があり、戦国大名は上京し、位階(栄典)の授与を享けることでその勢威を明らかにしようとしていた。

のちに京都を支配した信長は財政的に朝廷を援助しながら天皇の権威を利用、

再三にわたり「講和勅令」の発給を求めて勢力を拡大した。その最たるものが一番手こずった、石山本願寺との最後の和平交渉であったろう。

 天皇は信長の再三の要望にも応じず、「天下布武」を掲げる安土城には向かおうとしない。

 かしずく公家たちからもいろんな情報も入っていたことであろう。

 信長に将軍のポストを剥奪され、追いやられた義昭の「鞆幕府」。それを支える毛利を中心とする「反信長」グループの動きと、・・・。

 

 最近手にした小説に面白い記述があった、家村 耕『聖戦 本能寺』(文芸社刊@八〇〇円+税)。

 光秀があのとき、在西陣の法華宗真門流本山・本隆寺八代目の、管主日岏の口利きで出会った、町衆の『ふくろう』と名乗る男。

二度目に坂本沖の屋形船で会食に応じたとき、『ふくろう』が話しかけてきた。

 「二九日に信長は都、本能寺に入りまする。それも近習百名足らずで。

  一日の夕刻、大茶会が催されまする。

  正客は筑前博多の嶋井宗室で、相客は公家衆や町衆五十名余が招かれ、このわたくしもそのうちのひとりでありまする」(P172)

 

「寺に踏み込む前に、砲術の名手三人を呼び寄せた。

 『信長の寝所は奥の御殿にある。・・・討ち入りが始まると信長自身、必ずや御殿正面に現れるだろう。その瞬間を狙うのじゃ』」(P188)左図は渡辺延一作(グーグル)

 

 信長は、天皇から町衆までにも見放されていた、「驕る□□は久しからず」である。

 

 

 本棚からさがしていた本が、やっとみつかった。

 安藤次男ほか共著『光をはこぶものー変革期の詩人たち』(昭和26年9月刊@250円)。黄ばんだこの本は、あのときわたしの“聖書”であった。

  

  おお 開花の月よ、変転の月よ、

  雲のなかった五月よ、匕首で突き刺された六月よ、

  わたしはけつして忘れまい、リラの花を、ばらの花を。

  春がそのひだのなかに守ったものたちのことを。

         (ルイ・アラゴン/安藤次男訳「リラとばら」)

 

 パリが、ドイツ軍の占領下にあった第二次世界大戦のあのとき、シュールレア

リストの詩人ルイ・アラゴンは多くの人たちと一緒にアングラのレジスタンス活動をしていた。

 

 

 今回の新コロナの、騒動の源は武漢にあった。

 すでに鎮火したところも、いま燃えさかっているところ、火が付きはじめたところもある。

 

 新コロナウイルスとのたたかいは、まだ先が見えない。

 戦犯探しは、終結のあとでも遅くはない。

 いまは勝ち抜くこと、生き抜くことが先決だ。

                   (二〇二〇年四月二七日 記)

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第四十二話

2021-01-07 16:29:41 | はらだおさむ氏コーナー

生かされて、生きる

      

 外出自粛が続いて、週二回整形リハビリに出かけるだけになった。

二日ほどはユ・チュウブで辻井伸行、加古隆、レ・フレールのピアノを聴き続けてみたが、それも疲れた。

 思い立って、二階の書棚を見つめる。

 並んでいる書冊は基本的には手に取ったはずだが、表題だけではほとんど内容は思い出せない。

 文庫本の棚から、つぎの三冊を取り出した。

 辰巳浜子『料理歳時記』(中央文庫)、平山郁夫『生かされて、生きる』(角川文庫)、安藤次男『古美術の目』(ちくま学芸文庫)。

 

 『料理歳時記』(昭和五十二年七月四版)

 なぜか、これが一番黄ばんでいる。

 裏表紙には、こう記されている。

 「いまや、まったく忘れようとしている昔ながらの食べものの知恵、お惣菜のコツを、およそ四〇〇種の材料をとりあげて四季をおってあますところなく記した、いわば“おふくろの味”総集編」

 あとがきを見ると、昭和37年から43年の七年間毎月『婦人公論』に連載、娘やお嫁さん、お手伝いさん、お友達などからガリ版でもよいからまとめてほしい、との念願がかなって、五年後「どうやら一冊の本にまとめ上がりました」。

 目次には春夏秋冬、四季折々の食材を使っての料理が満載されているが、あまり口にしたことはない。どうもこの本の黄ばみ方から見て、これは古書展などで手にして・・・戦中・戦後の食糧難の折、六人の子供を育てたおふくろの味を思い出そうとしていたのか・・・。 

 『生かされて、生きる』(平成十二年五月六版) 

これは第二部として司馬遼太郎との対談「日本文化のこころ」が掲載されていて、かなり記憶が残っている。のちに述べる。

 『古美術の目』(二〇〇一年八月初版)

 詩人安藤次男との出会いは学生時代手にしたルイ・アラゴンの訳詞が最初、以後かれの詩集や蕪村などの俳論集は書棚のどこかにあるはずだが、いまこの本に食指が伸びたのは、さて、どんな話だっけ、ということか。

 98/99頁に栞が挟んである。

 「真贋」というエッセイの数頁目、まだあと八頁ほど続く

 蕪村の俳仙画をめぐるその「真贋」のおはなしのよう、はじめから読み直すことにする。

(上図は逸翁美術館蔵)                   

真蹟を版下にして模写し、それを版木に彫る、江戸時代の印刷工程のどこで「真」「贋」の鑑定がなされるか、というムツカシイおはなし。蕪村について一家言のある安藤は「勘と経験にたよった真贋の極めというものを、私は嫌いである」と書いている。

 本文は『芸術新潮』(昭和四十五年十二月号)に「蕪村の俳仙図」と題して発表されたもの。

『生かされて、生きる』

 平山郁夫画伯は、わたしより四歳の年長者。

 15歳(旧制中学三年)広島市内で勤労動員中、被爆された。

わたしは国民学校五年の夏、縁故疎開中で教科書を墨で塗りつぶしていた。

わたしが画伯の作品に心惹かれるのは、井上靖の小説(「天平の甍」、「楼蘭」、「敦煌」)などよりずっとのちになるが、同じく西域に題材を求めても画伯には

求道のこころが貫かれている。

それはこの本のまえがきでも、つぎのように記されている。

 「私はもう一度この世に生を享けるとすれば・・・もう一度、玄奘三蔵のあとを追って仏教伝来の道を妻と二人で旅したい」

 わたしは一九五四年の春 第五福竜丸の水爆被災後平和運動に与し、のち国交未正常下の中国との「友好交流、友好貿易」に加わった。訪中は画伯より十年ほど早いが、憧れの敦煌など西域に足を入れたのは九十年代になってからである。

 画伯の生まれ故郷・生口島(現尾道市)を訪れたのはいつごろだったか。

まだ「しまなみ海道」(福山―今治)の橋が繋がっていないころ、同好の士数名とフェリーでまず無人島の「毒ガス島」へ。いまは安全性告知のため兎を放し飼いにしている・・・、が周辺海域では?大久野島(竹原市忠海町)の、その旧施設などを見学のあと、またフェリーで生口島へ。画伯の生家に展示の作品は、その何年かのちに訪問した佐川美術館(滋賀県守山市)よりは少なかったように思えた。

 先生は一九九二年から二〇〇八年まで、十六年の長きにわたって公益社団法人日本中国友好協会全国本部の会長職を全うされた。

わたしも参加した南京城壁保存修復協力事業は戦後五十年を記念する日中間の友好事業で、平山会長が先頭に立って98年までの三年間「レンガと友好を積み重ねた」。

あのレンガの重さは、さらにさかのぼるその歴史を教えていた。

 

 二階の机と書棚に、画伯の二枚の複製画(プリント)が鎮座している。

 ひとつは「日中友好協会会長 平山郁夫」の署名のある、A5大の額縁入り、

これは北京・故宮内のひとつの建物、大極殿、ではないか?と思うが、どうだろうか。

「日中国交正常化25周年 97年9月27日」との日付、あと二年でその五十周年を迎える。

 もひとつは、ガラス縁に挟まれた絵葉書大の、砂漠を行くラクダの隊列。

 「日中平和友好条約35周年記念表彰 公益社団法人日本中国友好協会」とある。調印は78年8月12日のこと、35周年を迎えたこの二〇一三年、三月の全人代で習近平国家主席、李克強総理が選出されている。

 

 この本の解説―平山郁夫の素顔―を書いた原 孝さんは、つぎのように締めくくっておられる。

 <「生かされて、生きているんですよ、私は」

平山さんがよく使うこの言葉に、氏の人生観が凝縮されている、と私は思う>。

 わたしには、まだそう言い切れない私がいる。

                                                                        (2020年4月4日 記) 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第五十話

2021-01-07 16:24:54 | はらだおさむ氏コーナー

白 鳥

      

  拙宅の近在に小さな溜池がある。

  むかしはその崖下の田畑への用水池であったが、いまは一区画を残してすべてが宅地化され、防水池に転じている。

  わが家の庭の前後には小さな溝があり、それは丘の上から池まで繋がっているが、いま池に注ぐのはほぼ雨水のみ。このところ雨期を除いて池が満杯になることはなく、えさを求めて飛来する渡り鳥も少なくなった。

  先日は鷺の一種か、一羽だけ飛来してきたが仲間を呼ぶこともできないと三日ほどで姿を消した。下水も流入していたむかしは鶴の親子も姿を見せていたが、どうだろう、池浚いで道端に放りだされた鯉などが跳ねる姿も数年はお目にかかっていない。

  いま コーラスCで『ふるさとの山に向かひて』(詩:石川啄木 作曲:新井 満)と『ひたすらな道/白鳥』(詩:高野喜久雄 作曲:高田三郎)を練習している。

  後者『ひたすらな道』は「姫」「白鳥」「弦」の三曲、同じ作詞・作曲者で組まれている。「姫」は昨秋の演奏会ですでに歌い、この作詞家:高野喜久雄の幻想的な詩にはお目見えしているが、以下に触れる「白鳥」の詩句・作風には、いまだなじめないものがある。

わたしも若いころ作詩に芽生え、その処女詩集『ふくらみ』ではつぎのような詩も書いている。

 

火 山 礫

 

     煙がきなくさく思えた。

     灰も何かいじましかった。

     あつい溶岩はまだ来なかった。

 

      死んだ火山礫を拾い集めた。

      記念は いらないと思った。

      ガラガラと くずれて 散った。

 

      おれの火山は死んだ。

      息の根をとめてやった。

      がれき(・・・)の底で何かが動いた。

                (1968年10月)

 

  自分ではそのときの思いはいまでも沸々とこみあげてくるが、これはひと様に説明するものではない、私家版残部の記念ものだ。

  しかし、いま練習しているのはプロの作詞家のもの。

  すこしネットサーフィンした。

  高野喜久雄(1927~2006)詩人、数学者(仏教徒)。

  「白鳥」はNコン昭和55年(1980)中学、高校(女声)の課題曲。

  作曲家の高田三郎氏はこの作曲集の最後に、以下のような解説をされている。

 

  激しい型の別れの詩である。

  我々は高みからの呼び声により、或いは自らの目標に従い、土地や事物や人から、また、ある精神状態からの別れをしばしば経験しなければならない。

  しかし、血みどろになって飛び去ってゆく白鳥も結局は行為の円環性から離れる事はなく、春の湖にまた戻って来る。

 

  ネットサーフィンしたら、CDでもあったのだろう、2012年投稿のユウチュウブ(山形西高校、女声)があった。

  きれいな声、そして♪切れる、切れる・・・♪の絶叫、最後の折れた足が見つかったときの嬉しそうな響き。

 

  だが、理屈で詩を捉えてはならないと頭でわかっていても、白鳥は「眠り過ぎる」ことはない、そんな鈍感な渡り鳥はいない、とわたしの直感がまたまたネットサーフィンをさせる。

  「渡り鳥は、脳の半分ずつ交互に眠る=半球睡眠」が定説、脳波測定実験で最長数分は眠ることもあるらしいが、それは飛行中。「眠り過ぎ・・・」 「両足は固い氷の中」ということはありえない。

  数学者でもある作詞家が、仏教の輪廻の教えを表現するのに渡り鳥の回帰性に着目、クリスチャンの高田先生もそれを納得されたのか・・・。

 

  歌は理屈ではないと承知しても、これは困った!

  氷ではなく、人間が仕掛けた罠にひっかかったとしたら、これは理屈に合うが、はて、さて・・・・・。

                

 白鳥は、いまでも冬になると伊丹・昆陽池に群れ集い、その美しい群舞はバレー「白鳥の湖」を連想させる。スワン、鴻・・・とたどり、ユン・チュアンの『ワイルド・スワン』に思いつく。

 二階の書棚に土屋京子訳の講談社(上・下)一九九三年四月の、第8刷単行本があった。

 上巻の帯は「『大地』をしのぐ圧倒的なスケール」、下巻には「いつか誰かが言わねばならなかった現代中国の衝撃的な真実」と大きな字が躍っている。

  著者のユン・チュアン(張 戎)はエピローグで次のように語っている。

  「私は、現在ロンドンに住んでいる。中国を離れてから十年のあいだ、過去のことはなるべく考えないようにしてきた。一九八八年になって、母がイギリスに訪ねてきた。そのときはじめて母の口から、母が生きた時代、祖母が生きた時代の話を聞いた。母が成都に帰って行ったあとで、私はひとり部屋にすわって記憶を呼びさまし、残っていた涙で心をぬらした。そして、この本を書こうと思った」(中略)「一九八〇年代の経済改革の結果、中国の人々の生活水準はかってなかったほど向上した。・・・毎日毎日、中国に投資してくれそうな外国人を招いては贅をつくした饗応がくり広げられていた。ある日、そうした宴会を終えて出てきた客人のなかに、母は見おぼえのある顔をみつけた。・・・それは、四十年前に女学生だった母を公安に通報して逮捕させた、国民党スパイの政治主任であった・・・」(一九九一年五月)。

 

  著者のあとがきは、政治の世界でもかたちを変えた「輪廻」~「回帰性」のあることを示している。

  文革の後期 古参党員の父が直訴した毛沢東への手紙が原因で「精神病者」にされ、最後は医師の手当も遅れて“心臓麻痺”で死絶する。

  昨年末 はじめて新型コロナウイルスを告知した武漢の医師は、一時当局に拘束され、かれは若い妻と幼子を残して一月末に死亡した。

 

  歌の「白鳥」に戻ろう。

  詩人高野喜久雄の「世界」に疑念を挟むのは排し、作曲者高田三郎の前掲の「演奏上の注意」に再度留意したい。

  「はげしい型の別れ」と詩人のことばをとらえた作曲者は、それまでPPで流れていた調べを、mf飛び立とうと fもがく もがく と一気に盛り上げる。しかし、それは絶叫であってはならないだろう、苦痛と悲鳴、そして恐怖(そんな声が出せるかどうかわからないが、わたしたちは女学生ではない)。以下この注意を読み返しながら、練習を重ねていきたい。

  自宅待機がいつまで続くか・・・♪春よ来い 早く来い♪である。

                  (2020年3月2日 記)

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第五十一話

2020-12-22 15:00:56 | はらだおさむ氏コーナー

すぎてみれば・・・     

                     

  歯の治療中、なぜか、なぜか“近親憎悪”という言葉が浮かんだ。

 

  こんな言葉があるのか、帰宅して電子辞書を開く。

  わたしの辞書(「岩波・電子広辞苑」)には“近親相姦”はあるが、このことばはない(30数年前購入のもので、最新版はどうか?)。

  ヤフーで検索、そのグウ辞書に「親族どうし、または階層や性質などの似た者どうしが、ひどく憎み合うこと」とあった。

 

 二月はじめ 武漢で新コロナ流行とメディアが騒ぎ始めたころ。

わたしだけではないと思うがそれはサーズや第二次サーズ(「マース」)のときのように二カ月ほど中国圏内で蔓延、そのうちに収束するものと多寡をくくっていた。

上海の友人あてのメールなどにも言葉は悪いが“高みの見物”的口調も自然と出ていたかに思うが、二月末に予定されていたコーラスの先生のリサイタルが公営の会場側からの申し出で二日前に突如中止、三月以降のコーラスの練習もとりあえずは六月末まで中止との連絡が入った(その後再々の延期で一年)。

近在の図書館も三月半ばから“当分の間休館”になり、そこを“根城”の「古文書学習」活動もストップ。逆に上海などからは、落ち着き始めてきたとの情報が入りはじめる。

 

  ここまで書いてきて、筆がとまった。

  寝ている子を起こすような、“尖閣発言”。

  それは当事者同士の会談で話し合い済み、それを敢えて共同記者会見で発  

 言された意図はなにか。メディアによる情報はさまざまだが、政府与党内だけではなくその波紋はじわじわと階層を越えてひろがり、染み込んできている。

 「お上へのおべっか」と指摘される方もある、しかし、これで“栄達”への階段は外された、“勇み足”に過ぎたとみる向きも多い。

  香港問題をどうみるのか。 

   これは“勇み足”ではない。

   習近平の強権発動である。

   イギリスと約束した「一国二制度」調印当時と、いまやアメリカと“覇権” 

  を相争うまでに国力をつけてきたいまの中国とは違うという“意思表示”であろうか、“お上”に“モノ申す”人たちを矢継早に逮捕・隔離、国旗の「五星紅旗」にある「漢族(大きな星)と少数民族(小さな四つの星)」の結合国家の“象徴”を汚すような「国語教育」の強制などは、建国の精神に反することであろう。

   いまの「中国」とは時代や背景は異なるが、安政五年(一八五八)の井伊直弼政権に擬せられはしないか。“四面楚歌”のなかで「幕政批判者」を徹底的に弾圧・逮捕した、その光景を“時を越えて”思い、至る。          

しかし、習近平体制は“桜田門外”で暗殺されるような弱いものではない。

 

「香港だけでなく、世界中の多くの人たちが中国を『敵』と捉える時代に、私たちは中国とどう向き合えばよいのか」(阿古智子『香港 あなたはどこへ向かうのか』P236)

 

いま、切り抜いた11月24日の「日経」朝刊国際版を見つめている。

紙面トップには、横二行の大見出しで「中国ネット企業 政府圧力一段と」とあり、二段下左には縦見出しの「香港活動家 当局が収監」、三段に拘留される三人の写真、四段目にやや小さく横見出しで「周庭氏ら、昨年デモ巡り」とある。

   この記事の8日後の12月2日、周庭氏ら三人は禁固刑の「有罪判決」で、直ちに収監(いまのことばづかいでは「収容」だろうが、「監獄」に対比はやはりこれか)された。

   前掲大見出しの記事は、11月23日に開催された政府主催の「インターネット大会」関連記事だが、事の発端は11月3日に香港と上海の証券市場に上場許可を与えていたアリババ傘下の金融会社アント・グループの上場が突如延期になり、政府は10日に「巨大ネット企業の独占行為を規制する試案」を作成、この大会で承認を求めさせたのであった。

昨年九月に55歳の誕生を迎えたアリババの創業者馬雲(ジャックマー)はCEOを退任、後任の張勇(ダニエルチャン)が、この日の大会で政府の規制案に賛成する発言をせざるを得ない状況に追い込まれた、といえよう(写真はウイキぺデイアに掲載のアリババグループ馬雲会長)。 

 この大型上場を政府が許可を与えておきながら、その直前にストップをかけたのは、習近平しかいないと目されている。

なにがあったのか!

消息通は上場承認の数日後、上海での馬雲・前CEOのつぎの発言を指摘する。 

「中国のリスクは金融システムの欠如だ。私たちは質屋の考え方が残る金融を変革し、信用に基づく発展をしていく必要がある」

ジャックマーにして油断があったのか、上場許可は出ているがまだ上場はされていない、そこを習近平は突いた。

ジャックマーが共産党の党員である、という消息もあるが、それはわからない。

しかし、わたしはかねてからかれの心意気に共感と尊敬の念を持っている。それは08年4月の四川大地震のとき、かれはもちろん多額の献金をしているが、その額を越える献金の国有企業や民営企業とのことをメディアに問われて、自分は個人でも会社でもきちんと納税しているが、他の多額献金企業は納税番付には出てこないですね、と皮肉った。

北京五輪を夏に控えたこの大地震、かれの発言には冷たい反応も多かったようだが、わたしはかれの正論を受け止めた。

 

11月23日の政府主催「インターネット大会」には当然のことながらアリババのほかにテンセント、バイドゥなど中国のネット企業すべてが招集されていた。そのほとんどは国有企業ではなく、民営企業が多い。

かれらがこの数年中国の消費市場を引っ張って来ていた。

そこに当局はくさびを打ち込もうとしている。

 

この記事は最後に中国当局のネット世論への統制に触れている。

「ネット上の『違法・不適切情報』として通報された2020年10月の件数は1551万件で前年同月比五割を超えた」(国家インターネット情報弁公室)

なにが「違法・不適切情報」であったか不明であるが、中国の庶民が昨年比50%増、当局から見て、違法・不適切の発言をしていることに注目したい(その件数は人口比1%強である)。

 

               (二〇二〇年十二月二十日 記)

 

新しい年まであと一旬とはいえ

            コロナ対策ワクチンが市場に出るかの矢先に、

            四川の変面ごとき早業で変種のコロナ出現の情報。

            明治のコレラや第一次大戦後のペストの流行のように

            人間世界の傲慢な振る舞いに、天罰が下されようとしているのか・・・。

            わたしたちはいま、忘年会も新年会も返上して巣ごもりで

            新年を迎えようとしています。

            お元気で! 負けないで! 新年好! 身体健康!

 

                                     はらだ  

 


日々(ひび)徒然(つれづれ) 第五十話

2020-12-15 10:27:46 | はらだおさむ氏コーナー

霧の中の赤いボール     

                           

 サッカー日本代表 今年最後のゲームは、オーストリアでの対メキシコ戦。

時差の関係で試合開始は11月17日、日本時間の午前五時、すこし早寝していてもやはり眠い。

 コロナの関係で観客無人の試合、在オーストリアの前・日本監督のオシムさんも自宅での観戦であったよう。スポニチとのインタビュー(11月28日配信)では「ちょうどメキシコ戦の前日から昼間の外出も制限され、ロックダウンが強化された。こういう状況で試合をアレンジしたサッカー協会、代表チームの選手・スタッフのみなさんは大変だったと思う。試合は無観客だったが、直前で中止になってもおかしくなかった」と話されている。

 

 ご覧になっておられない方も居られると思うので、すこし説明を加えておこう。

 終わってみれば圧倒的な力の差といえるのだろうが、前半12分にMF原口元気がカットインから強烈なミドルを放つ。同15分には原口のラストパスからFW鈴木武蔵が相手ゴールキーパーと一対一の決定機を迎える。老練な岡崎がいたら相手ゴールキーパーの動きを察して、ボールをフワッと浮かしたかもしれないが、鈴木は一直線に押し込もうとして阻まれる。こぼれ球を拾ったMF伊東純也のシュートも、相手GKに阻まれた。

 テレビに釘付けで観ている当方にとって、瞬時、瞬時の相手ゴールキーパーの神業的運動神経に、悔しさ7分だが感嘆せざるを得なかった。この間〆て十数分くらいか、終わってみればこの時間帯が眠気も冷めて、テレビにかじりついていたことになる。

 後日(19日)サッカージャーナリスト中山淳さんの談を読むと、ウ~ンとうなってしまった。

 前半の25分前後のシーン。

 伊東に激しいチャージを受けた相手15番は、ホイスッルが鳴ると、伊東の胸を手で押して威嚇、その後レフェリーは二人を呼び、特に伊東に注意をうながした。

 その2分後、今度は逆サイドで鈴木がジャンプしながらチャージした場面で、ファールを受けた相手2番が、立ち上がろうとした鈴木の背中を両手で押して威嚇。危険なチャージをした鈴木にはイエローカードが提示された。

 メキシコにとって苦しい時間帯の出来事、「親善試合では怪我の危険性のある激しいファールはするな!」のアピールで、日本側はそれから大人しい守備に一変されてしまった。

 これが、それ以降メキシコがボールを握ってリズムを取り戻した要因のひとつであり、メキシコ選手たちのしたたかさと経験値を示した、と指摘されている。          

                                           オシムさんも「前半25分以降、日本の        

チャンスが途切れたのは、メキシコがや     (写真あり)

り方を変えてきたからだ」と話されている。

 

 前半の終わりころから霧が立ちこみ始め、後半からは赤いボールが使用された。

 写真は日本サッカー協会提供のもので

後半戦の終わりに近いシーンだが、テレビの画面ではこれほどはっきりとは見えなかった。選手たちにはこの程度の感覚で見えていたのだろうか、テレビでは突然選手が現れたり、消えてしまったり。

 もちろん監督やベンチの指示も見えなかったに違いない。

 メキシコは後半12分と18分にシュートとドリブルで2-0とし、そのまま押し切った。

 

 今年の親善試合はこれで終わった。

 一勝一敗二分け、強い相手FIFA11位のメキシコとはやはり力の差が歴然としていた。

 仮に前半に得点が入っていても、後半では押し切られて負けていただろうというのが大方の見方だがオシムさんも含めいまの日本に不足するのは、選手とチームの「自主的判断力」との指摘が多い。

 オシムさんはつぎのようにアドバイスされている。

 「ベンチの指示を待たずに、選手同士が話し合い、対応できるようになってほしい。ベンチからの声は満員のスタジアムでは聞こえない。相手が変化してきた場合、選手こそが相手の最も近いところにいるのだから、自分たちで意見交換して修正しなければならない。そういう能力や習慣を身につけてもらいたい。日本人のもっとも苦手な分野であると知っているからこそ、あえて言っておきたい」

 

 霧の中から飛んでくる赤いボールは、サッカーボールだけとは限らない。

 オシムさんのアドバイスには、もっと深い意味が込められているのかもしれない。

 

         (2020年12月2日 記) 霧の中から