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くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

『古文書徒然』其之壹 

2011-10-22 20:54:13 | はらだおさむ氏コーナー
金持ち ケンカせず?

~古文書学習日記より~


2月から3月にかけて、異なる文体にも慣れるようにとの「配慮」からか、川辺郡寺本村に居住し金銀貸付業を営む前田家の「文書」3件を読むことになった(といってもわたしは先輩たちの読解力に、ひたすら羨望のまなざしを向けるばかりであったが)。

そのひとつに「掛屋敷組合持枝証文之事」がある。
前田家の当主、前田良蔵が尼崎の掛屋泉屋利兵衛宛に差し出した文書である。
この二人に山田屋市右衛門(不詳)を加えた3名の共同出資(出銀)で、堂嶋新地弐丁目の土地(表口弐拾六間奥行弐拾間)・建物(浜納屋二棟、竈数=民家四十一軒)を京都の銭屋利助(不詳)から銀百五拾貫目で購入している。
場所は現在の堂島浜一丁目、元禄十六年大坂図(教材資料)といまの区割りを見比べてもあまり大差はない。ちょうど御堂筋の大江橋北詰(大阪市役所の斜め向かい、日銀大阪支店の北)を西へ入った二区画目で、「新大ビル」が建っている一等地のおよそ一万八千四百坪を建物込みで買い取っている(先学の計算によると、銀百五拾貫は現換算値で二億三千万円相当とか。これで計算すると坪単価は11,250円となるが、金相場に比しいまの不動産価格の高騰・突出ぶりが目立つ)。

ここで取り上げたいのは、そのことではない。
ふたつめの「文書」に「出世払い」の話が出てくるのである。
買い取ったのが文化四卯年(1807)八月、それから二十八年時代が下がった天保六年(1835)未二月、明石屋喜助から前田良蔵宛にこの文書「一札之事」が差し出されている。
喜助は堂嶋新地弐丁目で家守(やもり)をしていたとあるから、上記の物件の管理をしていたのであろうか。あるときから「右家賃金取集之儀」を仰せ付けられ、節季(盆、暮)毎に取り集めたが「銀高連々ト引負仕候処実正也」、ところが「此度右御家守相退キ候二付」と退職することになり(クビか?)、調べてみると「銀四貫五百三匁六歩八厘也」が未納になっていた。無い袖は振れぬと「嘆願奉申上候処、御聞届」成し下されて、「私出世仕候迄、御猶予被成下候段難有奉存候」となる。この金額、いまの時価では七百万円ほどになるということだから、少ない「引負」額ではない。
家賃の未集金が累積したのか、年一~二度の集金残も「チリも積もれば」ということにもなるが、使い込みの疑惑も残る。

 「私儀幼年ヨリ当家二奉公二罷出」ではじまる「一札之事」は、つぎのような話である。
差出人の元祐は文政元寅年(1818)、別家を仰せ付けられ家屋敷田畑家財などを仕分けられる、とあるから奉公人のなかでは出世頭といえるだろう。前田家の幹部クラスの人間である。ところが、本人は「不情(ぶしょう)」につきと書いているが「困窮二付借財出来候」ゆえ、分けいただいた田地の過半を売り払い残る田地屋敷を「其元様江質物二差入」て、本家から銀六貫九百目を無利息で借りている。ところがである。「追々ト難渋二付」この質草を返してくれと泣きこんでいる。その言い草がこうである。「元来不調法者 心得違其上勤功モ無之候」、わたしならこんな幹部は要らない、女々しいにもホドがある、と頭にきたのであるが、ご本家前田良蔵は認めてやっている。「誠二冥加至極難有仕合奉存候」も口先だけではないか、「これはクビものですなぁ」と感想を述べたら、メンバーから「金持ち ケンカせず、ですよ」と返ってきた。
先例の家守の件といい、この時代、そんなにノンビリしていたはずではあるまいに・・・、といまだに納得がいかないのである。

(〇五年四月記)
(宝塚古文書を読む会・冊子「源右衛門蔵」八号所載)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾参

2011-10-04 16:29:44 | はらだおさむ氏コーナー

                 
瀧が涸れて来ている!








中山寺・山門






  九月下旬 在上海日系企業のお招きで三泊四日の社員旅行に参加した。
 早朝 上海郊外の工場を出発した二台の大型観光バスは、高速道路の入口付近で数名の社員をピックアップして、市内を通過せずに一路浙江省の南部に向かう。昨秋上海万博のあと紹興~杭州~烏鎮のたびに出かけたが、そのとき渡った杭州湾の海上大橋を越え、四通八達の高速路で寧波の郊外に出る。寧波には数度訪問しているが、そのほとんどが海岸近くの企業や市内の主な観光地で、この道筋ははじめて。しばらくすると台州への道路標識が目に付く。20年ほど前、中国のミシン王、飛躍集団の邱継宝菫事長との面談に上海から温州へと飛び、台州に着いたのは三日目であったなぁ~と感慨にふけっていると、バスは台州を通り過ぎてさらに先へと進んでいく。
 昼過ぎ、所要数時間のバスのたびを終え、雁蕩山のふもとに着いた。
 ここは温州市から七十キロ、その管轄下の楽清市にあり、省都杭州市とは三百キロほど離れている。

 昼食・小憩のあと、霊峰風景区に登る。
 解説によると、この山は約一億年前の火山活動によって誕生した山塊が、長い年月をかけて侵食され、奇妙な岩峰となって残ったもの。世界地質公園に認定され、中国の五A(ファイブA)級観光地である。最高峰千メートル余、南・中・北の三区域からなり、百平方キロにわたって奇峰怪石、瀧、洞窟などがある由。雁蕩山の名前は、頂上に湖があって雁が遊ぶ様子からつけられたという。
 
 山のない上海の人々にとって、雁蕩山は手ごろな山登りの対象になるのだろうか、十数年前から今回で四度目という同行の老幹部に感想を聞くと、一番の変化は旅行者が増えて旅館の数が倍以上となり、それに反比例するかのように瀧の水が少なくなってきている、むかしに比べると見所が少なくなったねぇ~とのことであった。なぜ、瀧が涸れて来ているのか、それは彼にも判断できないことであるが、山の上の湖の水量が減ってきているのが主な要因であり、これはわたしの憶測になるが、増えた観光客に対応する生活用水の増加にも関係しているのではなかろうか、とも思われる。

 ガイドの案内で「夜に観光しなければ、雁蕩山に来た甲斐がない」といわれる夜の岩峰の変化を見に再度登ったが、その登山道の足元に日本風に云えば雪洞(ぼんぼり)のともし火を点けるとか、岩峰などに演出されたライトアップの工夫があれば、もっと楽しい時間を過ごすことが出来たであろう。

 二日目は三折瀑景区などの観光。
 前日よりさらに瀧の数は増えるが、その水量はいぜん少ない。
 ガイドがこの瀧は岩壁を伝わらず、空中を舞いながら水が落ちていきますと言っていたが、それは水量が少なくてまるでミストカーテンのように舞い散ることを指しているものと思っていた。
 帰宅後ネットでこの瀧の写真を探した。
 四年前の写真があった。
 水量は比べるべくもなく豊富で、それは二条になって流れ落ちているが、岩壁が窪んでいて確かに伝い流れない構造になっている。それでもつぎのようなコメントがついている。
 「瀧とはいえ、ゴウゴウと流れ落ちるのではなく、その水は繊細なシャワーのように降り注ぎ、風によってゆらゆらと方向を変えてゆく」
 そうか、四年前はまだシャワーのようにゆらゆらと降り注いでいたのか、そして、いまはミストカーテン、空中に霧のようにたなびき岩壁を遮っているに過ぎない。
 台風や大雨で、龍神の、のたうちめくかのような日本の滝の水を運んで来たい思いに駆られたものである(龍にサンズイをつけると瀧になる)。

 夜 テレビをつけると女子バレー・アジアカップの決勝戦、日本対中国が熱闘を繰り広げていた。日本は2ゲームをすでに落として、いまは3ゲームが始まったばかり。背番号1の、やや太り目のアタッカーが日本のコートに爆弾を打ち込む。辛うじてレシーブしたボールもコートの外にはじき出される。
 久しぶりのテレビ観戦だが、わたしが知っている中国選手の名前は30年ほど前の郎平(ランピン)のみ。そう、あのときも日中の大熱戦、病室の消灯時間も過ぎて、注意しに来た看護婦さんも思わず応援に加わったあの興奮。
 しかし、いまは日本が大苦戦、この背番号1の鋭いサーブを辛うじて受け止め、日本のアタッカーが彼女の足元に厳しい球を打ち込むと、からだがのめり込んでレシーブできない。ここぞとばかり彼女を攻め立てるが、日本のミスも続いてゲームは二転三転。背番号1がレフトウイングに戻り、左右両翼のアタッカーが爆弾を打ち込むと、日本はひとたまりもない。かくして日本は1対3で完敗した。
 中国バレーボール協会の公式ホームページを見ると、背番号1は主攻手(エースアタッカー)王一梅(ワン・イーメイ)で、今大会のMVPを受賞している。さらにウイキペデイアを開くと、歴代選手名簿では郎平のつぎに紹介されている。そうだ、この顔、身長191cm、体重80kg、破壊力抜群の強烈なスパイクとジャンプサーブの「戦慄の重戦車」、21歳とあった。15歳から中国代表に
選ばれている。
 中国チームは日本に勝利したが、チームワークなどにも弱点が見られた一戦であった。

 第三日 雁蕩山を下って、蒋介石のふるさと・寧波の奉化市渓口鎮に向かう。
沿線で温州発の、例の新快速列車が追い抜いて行く。なんとなくガイドと顔を見合わせ、うなずく。
 午後は寧波の新十景-五龍譚風景区に行く。
 さすがにここは全員が初参加、瀧の水量も雁蕩山よりは豊富であるが、変化が乏しくて物足りない思いがした。これで観光客が増えるとどうなるだろうか。
 第三夜の宿泊は、寧波郊外の外資系五星(ファイブスター)ホテル。このクラスのホテルに初宿泊の人も多く、なんとなく空気が華やぐ。ホテルの向かいのアウトレットモールはウイークエンドのショッピングを楽しむ若い人たちであふれていた。

 中国の新風物を会得した三泊四日の旅であった。
 豊かさが確実に人々のものとなり、マナーも自然と身についてきていた。
 この国がこのまま成長の果実を隅々にまで行き渡らしてほしいものと痛感しているが、帰国の日に上海の地下鉄で事故があった。成長をあせらずに、ソフトランディングしてほしいものである。


水涸れて 峨峨と貌出す 渓の岩    横田須賀子
(ザ・ネット俳句歳時記/野田ゆたか編)

(2011年10月3日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾弐

2011-09-03 17:55:57 | はらだおさむ氏コーナー
                
中国人民元のこと



 為替のことは、神様でも先を見透すのは大変なことであろう。

 わたしの初訪中の一九六四年は、日本も固定相場で一ドル三百六十円の時代、
持ち出し外貨はひとり五百ドルの制限があった。これで何日かかるかわからない北京商談に持ちこたえられるかと、いただいた餞別などの日本円を腹巻に隠し持って北京で約七十日(帰途上海ー広州)、往復とももちろん香港経由でなんとか過ごしてきたが、人民元は世界通貨とリンクしない(世界一強い通貨と自称)百三十五日本円/一中国元であった(これは計算上二・七ドル/元となる)。
 そのころの中国人の平均賃金は如何ほどであったかは把握していないが、後年日本からの“帰国子女”で日本関係の仕事をしていた女史に伺うと四十元くらいだったかしらとのことであったから、当時のわたしのサラリーの数分の一ぐらいか、ホウ、大したもの、悪くはないと思ったことがある。その後彼女のサラリーは増えたが、日本円換算ではまだ一万円を越えたことはないとおっしゃっていたから、日本のバブルで大卒初任給も二十万円を超える時代での対日本円人民元レートは下がり続けていた。

 76年の文革終結後、華国鋒政権は経済再建とばかり日本などに大量のプラント契約を発注してきたが、そのほとんどが理由も・謝罪もないままに二度もキャンセルされ、わたしのチャイナビジネスにも影響があった。カネ(外貨)もなく、借款や延払いの対応もできていなかった時代のことである。
 改革開放がはじまったばかりの79年から93年末まで、中国では「一国二通貨」制度で外貨管理を強化し、外貨兌換券(FEC)を外国人に適用した。「同価値」と称されたが実際は三十%ほどの差があり、ホテルの前で“へーイ、マネー”と闇の両替屋がたむろし、“オンナ、オンナ”と道をさえぎった。通説では雲南系と新疆系の地下金融ルートがあり、偽札が多いので要注意とのことであったが、旅行社のガイドはわたしたちから兌換券を集め、観光地の支払いは人民元でとしっかりとサヤ稼ぎをしていた。
 92年から93年にかけて急激な円高となり、80円台に突入したことがあったころ、大企業は先物予約で90円台前半までをおさえていたが、百~百十円を輸出採算レートとしていた中小企業の対中投資が一挙に増えることになる。「世界の工場」― 中国への進出ブームの到来である。
そのころ、わたしも毎月のように何人かの経営者を案内して上海詣をしていたが、あるとき虹橋国際空港に近い農村で地元の幹部との商談がまとまり、仮契約金として二百万日本円ほどの人民元をすぐほしいといわれて困ったことがある。日本円はあるが人民元には両替できないし、農村の企業は、日本円や外貨兌換券も受け取れない、という。上海在住十年の日本人に相談したら、いいよ、両替屋を呼んでやる、というのでかれの事務所で待つこと一時間ほどしたころ、とある人物が部下を連れて現れ、二百万円相当の人民元を差し出した。きょうのFECレートより一割ほどまけてやろう(お互いに外為法違反・・・)とのご託宣。別の場所で待っていた農村企業の幹部と会計担当者は、わたしたち日本人がどこでこの人民元を入手したのかも聞かずに、一心不乱に札束を勘定していた。「一国二通貨」制時代の思い出である。

90年4月の「浦東開発宣言」は中国の対外開放政策を根本から転換するものであったが、その目玉はいうまでもない、「国有土地使用権の有償譲渡」であった。そのアイデアは英国領香港の「女王様」の土地使用権の売買制度であったと聞くが、この「土地使用権の有償譲渡」が“金の卵”を産むニワトリとなって、80年代では最高の年でも20億ドルしかなかった中国の外貨保有高を急ピッチで押し上げる。
「一国二通貨」制のはじまった79年の外貨保有高はわずか8億ドルに過ぎなかったが、この制度が終わった93年末は二百億ドル弱となり、「世界の工場」に進出した外資企業の投資と稼ぎ出す貿易収支の伸びで、二年後の95年にはその3・5倍、00年には8倍強となり、さらに今世紀に入って人民元の切り上げ圧力に対抗した為替介入などもあって、いまでは世界第一位の3兆2千億米ドルの外貨を保有するまでになっている(本年8月23日現在)。その70%は米ドルの保有とのことだが、もっと「非金融資産にシフトすべき」という意見が中国の専門家筋にある。
こうした意見は、外貨保有高世界第二位の日本でも多い。
米ドルは、ホントに「基軸通貨」なのか。
いずれの国の「紙幣」も、いってみれば「紙切れ」であって、国力の裏づけがあってこそその価値が認められる(日本の敗戦時に「戦時国債」などが紙切れになった)。
いまとなれば、米ドルはもう世界の「基軸通貨」とは容認できないとすれば、日本も中国もその保有する米ドルを中心とする外貨を有効に活用する必要がある。それが政治の力であり、それを見込んで企業がどういう選択をするかは、これは経営者の判断力である。急激な為替の変動はいろいろな障害をもたらすだろうが、米ドルがすでに「基軸通貨」の座を降りつつある以上、選択の方向性は決まっている。中国元が東南アジアの諸国で決済通貨のひとつになり、周辺諸国へのインフラ投資などでその影響力を強めているいま、日本も「3・11」を乗り越え、つぎの時代を切り開いていく「力の涵養」が求められる。
                    (2011年9月1日 記)
【参考】
9月1日 18時45分現在 為替レート(byサーチナ)
12.07日本円/人民元 77.04日本円/米ドル 6.38米ドル/人民元

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾壹

2011-07-16 08:49:15 | はらだおさむ氏コーナー
                 
くにのかたち

 仲間を募ってマレーシアに出かけたのは、もうひと昔ほど前になるか。
 事務所近くのランチバイキング店で知り合ったマレーシアのひと(貿易観光事務所長)とのよもや話がきっかけであった。ずいぶん前にシンガポールからマレーシアへ半日足を踏み入れたことがあるというと、是非最近のマレーシアを見てくれ、とあいなった。
 さて行くとなると、大阪の中小企業が主管しているというペナンの金型技術専門学校も見たい、クアラルンプール(KL)へはペナンからは森林鉄道に乗ってみたい、直行便はしんどいから香港トランジットにしたいと日程はどんどんとふくらむ。
 上海の伊勢丹から連絡していただいて、同KL店も訪問した。
店内を案内してもらっているとき、写真で見たとおりのマハティール首相が現れて店長に声をかけ、子供連れの買い物客へも話しかける。遠くにSPらしき男性がひとり見えるが、まったくの丸腰。店長によると気さくによく店に来ていただいて、いろいろと気にかけていただいているとか。すでに首相の座について20年余になるが、日本のメディアが伝えるような独裁者?のイメージはない。
出発前にインプットしたこの国の豆知識では、人口の三分の二を占めるマレーシア人への優遇策(ブミプトラ)は、他の華人系やインド系の国民をふくめ問題がある由であったが、店長によるとそれよりも多民族、多宗教の国民の休日や行事がバラバラのため、従業員の勤務管理のほうが現場では大変とのこと。
郊外のM電機へと向かうタクシーの運転手は、チャイニーズであった。マンダリンと英語が少し話せる。彼によるとマレー人は怠け者、優遇策は間違っているともいう、みんな同じ国民じゃないか、働かぬもの食うべからずが彼の信条。キリスト教、ヒンズー教、回教、仏教、道教などなどのしきたりと習慣、風習のほうが煩わしいという。
一日 旅行社の案内でKL周辺の観光に出かけた。
緑ゆたかな清潔な街、という印象が強い。観光コースに王宮参観があった。
事前学習にもなかったこの王宮も緑のなかにあり、門の外から王族ファミリーのたたずまいや儀仗兵の整列などが見てとれた。まったく知らなかったが、この国はイギリスの植民地から独立のとき、「連邦立憲君主制」の国家をつくりあげたのであった。そしてこの君主は九人のスルタン(首長)による実質輪番制の、五年任期で務められている、という。任期が終わると君主は王宮を離れてスルタンに戻り、別のスルタンが君主となって王宮に入る。君主はマレーシア連邦の“象徴”であり、王宮はその行宮である。
 
 中国の江蘇省常州市で「実験住宅」がはじめて設けられたと耳にして、専門家と連れ立って視察に赴いたのは87年ごろであったか。
「住宅」は本人・勤務先・常州市のそれぞれが三分の一の費用分担をして、親子二代限りの「借家権」(居住権)を取得、土地はあくまでも国(市)のものであった。帰途、隣の無錫に立ち寄ったとき同市の関係者は「私有が認められるのはテレビくらいまで、住宅なんてとんでもない」と言い放って、わたくしたちを驚かせたが、趙紫陽政権はいろんな「実験」を推し進めようとしていた。
 89年6月、天安門広場で「来るのが遅かった」と学生たちに語りかける趙紫陽主席の後ろに、温家宝秘書(現総理)の姿があった。
 事件のあと趙紫陽は解任され、翌年4月 李鵬総理が上海で「浦東開発」宣言をした。その目玉は、「国有土地の使用権有償譲渡」であった。これは上海の関係部局がそれまでに浦東の開発で上申していた案件にも含まれない、まったく画期的な、大胆な政策転換であった。この時点で改革開放は「実験」から脱却、新しい展開を見せることになる。
 事件後、いくら日本を含めた西側諸国から経済制裁、経済封鎖をされたからといって、「実験」的改革、「ハエが入らぬように網戸で囲んだ」実験的経済開発区を十年間で四つしかつくれなかった中国が、いまでも禁句の「天安門事件」から一年も経たないうちに、なぜこのような「金のタマゴ」を産み出す経済政策の転換を図ることができたのであろうか。中国のシンクタンクである中国社会科学院などの研究員のほとんどが、89年の北京でのデモ参加は黙認され、事件後も“趙紫陽なき趙紫陽路線”を推進、92年春には保守派の“抵抗勢力”に対し小平が「南巡講話」の進軍ラッパを高らかに吹き鳴らす。
 中国の、世界第二位の経済大国にいたるこの二十年の成長の原動力は、90年4月の「浦東開発宣言」にあった。歴史にイフはないが、「天安門事件」がなかったら、中国の経済政策のここまでの大胆な転換は無かったであろう。

 中国が「文革」の総括にあたって、毛沢東の業績を「功績第一 誤り第二」と評価して体制の転換を図った。これにはいろんな見解もあるだろうが、日本も敗戦時、「人間天皇」宣言で占領軍による他力の体制転換が図られており、マレーシアにおいても植民地からの脱却には斬新的な制度の移行を選択している。 
 
 文革など政治闘争に明け暮れた中国では、その反省も含め90年以降、五カ年計画の先行設定からその実施を担当する政権が一期五年で二期、2ラウンドで計二十年続き、胡錦涛・温家宝現政権も、次を担うであろう習近平・李克強コンビも地方政治から実務を積み上げて執権能力を高めてきている。その政権与党ー中国共産党は八千万人強の党員を擁する(成人人口の10%)強力な組織であり、その中で切磋琢磨、選び抜かれた人材が地方から中央へ昇る。日本では中国の権力闘争的な思わせ報道のみが話題にされるが、その政策決定にはかなり激越な論争もあり、上意下達のみではない“党内民主”もある。「浦東開発」の政策決定に至るプロセスなどはまだ明らかにされていないが、上海からの「下意上達」を上回るプランニングがシンクタンクなどから提示され、それが政権中枢の判断材料になったことであろう。

 遠藤誉『ネット大国中国―言論をめぐる攻防』(岩波新書)を読んでいて、4・5億人の「網民」の今後に期するものを感じた。
 それに引き替えというわけでもないが、いくら明治の昔から日本の新聞(メデイア)の伝統であるとはいえ、政局報道に明け暮れるその姿勢にウンザリする昨今。「バカヤロー」解散までやったあの吉田総理ですら、最後はメディアと組んだ勢力に政界から追い出されてしまった。

 先日 「次元が低すぎないか 地方から永田町を変えよう」と題するアメリカ人政治学者-ジェラルド・カーティス氏の提言を読んだ(神戸新聞6月22日朝刊「針路21」)。少し長くなるが以下その要旨を書き続ける。
 「与党も野党も政界にいる人たちは一体何を考えているのか。日本人も、日本に関心を持っている外国人もそろってあきれている様子である・・・批判ばかりが多く、国民に顔を向けていない・・・それに日本の政治報道はあまりにも政局報道が多すぎる・・・要するに、日本のマスコミも永田町の論理にはめられている」そして、筆者は数回の被災地訪問と数人の被災地首長との会談でつぎのように確信する「危機はリーダーを生む。・・・(被災地の首長には)決断力があり、ビジョンも戦略もあるリーダーがたくさんいる」そして、こうも思うのである「日本の社会がしっかりしているからこそ、政治家たちが緊張感もなく権力闘争に集中している。政治家たちは国民に許されると思って日本社会に甘えている。しかし、地方から、市民社会から日本を変える力が出てきていると思う。遠くない将来にその力が永田町の論理を変えると確信している」

 少し時間が経っているが、5月6日につぎのようなアンケートの結果が出ていた(「ダイヤモンドオンライン」)。
 設問の前提は、このようになっていた。
 「この国の政治はなぜかくも劣化したのか。『選良』たちの厚顔無恥と議院内閣制の制度疲労」、そして、以下のような設問が提示された。
 <日本でも国民が首相を選べる公選制を導入すべきだと思いますか>
 このアンケートの実施対象者は、おそらくこのネットの読者のみであろうが、
・そう思う 58.6% ・制度の内容による 30・6% ・思わない 9・5%
・わからない 1.3% の結果が出ていた。

 このくにのかたちを変えるのは、主権在民、わたしたちである。
(2011年7月11日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾

2011-06-14 00:04:06 | はらだおさむ氏コーナー
               
「知日」ということ

 「3・11」のとき、たまたま出張で東京に来ていた上海の青年の手記を読んだ(孫 震『東京での地震体験に想う』「華鐘通信 195/196号」)。

 「・・・災害の後の東京の街では、周章狼狽したり、慌てて混乱し、駆け回るような人々は見られず・・・人々が臨時に夜を過ごした場所には果物の皮、紙くず、タバコの吸殻、カップ麺の容器などのゴミが地面を覆っているような光景も見られず、道を行く人々にも沸き立つような声は無く・・・」
 そして、想うのである。
 「私は、想像を超える大災害と、想像を超える日本人の沈着冷静さに感動し、また、日本人の災難に立ち向かう態度に、民族の強さを見ました。率直に言うと、沈着で淡々と振舞う日本の人々を見て、うらやましいと思う一方で、自分に拭い去れない恥ずかしさも感じました。日本の人々を目の当たりにして、我々の学ぶべきことが何と多いことか!これは教育の積み重ねの結果であり、GDPの総量と引き換えにできるものではありません」

 95年1月17日の「阪神・淡路大震災」のあのとき、我が家は倒壊こそ免れたが、その後「全壊」と認定され、その日から1キロほど離れた小学校の体育館での「被災者」生活がはじまった。今回の「三重苦」(大地震・大津波・原発事故)の被災と異なり、そのときは地元の自治体も即日機能回復に向けて動き出し、日赤の見舞金を受けたのは10日目くらいであったか。
 二週間後にわたしたち家族は大阪府下の、木造四軒長屋の公営住宅(解体寸前)に移転、受け入れ先の自治体や住民の方々のお世話になり、酒屋さんから“避難民”と声をかけられ、販促用の品々も貰った。
 5月上旬であったか、上海の視察団一行を神戸の激震地に案内したとき、阪神間の交通機関が寸断されていたため、大阪港から船で神戸に向かった。JR三宮駅前のそごう百貨店の解体工事がはじまっていて、マスクをしていても息詰まる。元町駅から須磨までJRで行き、最激震地の長田方面へ向かって歩き出した。視察団一行はカメラを向けながら、言葉が出ない(かれらの帰国後、上海の高層建築物の耐震基準が引き上げられたという)。
 
 「阪神・淡路」から数年後の秋、関西日中関係学会が当番で学会の全国総会を震災から立ち直った神戸で開催したことがある。このときは竹内実先生(当時関西学会の会長)の発案で、NHKドラマ「大地の子」で陸一心の学生時代の恋人役・趙丹青を演じた盖麗麗さんを北京からお招きした(父親役の陸徳志を演じた「人間国宝」の朱旭さんはこのときは都合がつかず、翌年の来日となった)。そのレセプションで来日招聘を担当したYさん(在北京の日本人)と昵懇になり、そのあと彼のアレンジで北京で盖麗麗さんと再会、会食したことがある。中国映画界のはなしからなぜか化粧品に話題が飛んで、訪日時の神戸でのショッピングでは、毛丹青さんの奥さんにいろいろお世話になった、よろしくとあいなった。
 毛丹青さんとは関西学会や京都の現代中国研究会などの会合で面識があった。
 特に訪日ビザ申請などの手続きをした中国の作家・莫言さん(映画「至福のとき」、「白いブランコ」などの原作者)の、京都での講演会や交流会では毛さんが通訳やアレンジで大奮闘。
 この数年お目にかかる機会が無かったが、先日「日経」夕刊連載の「人間発見」(5月23日~27日)でその近況を知った。「作家・神戸国際大学教授」との肩書。『虫の目で見たニッポン』(文春文庫)は彼の日本での処女作だが、その瑞々しい筆致と視点はいまも読者をひきつけている。そして、この連載の最終回では「知日への扉を開く」として、「若い日本人の中国紹介のサポート」や「80后」への期待が綴られている。彼が創刊に関わった中国で発刊の雑誌『知日』などについて、こう語っている。
 「『知日』の編集長の蘇静君も、人気作家の郭敏明君も80後です。アニメでもロボットでもライトノベルでもいい。彼らは日本を知ることで、より豊かになることができるんです。ただ彼らの情報はネットで得たものばかりです。それを僕がサポートする。・・・中国は経済大国になり、ようやく精神的に余裕を持つようになってきました。なぜ日本の街はきれいなのだろう。どうして日本は古い伝統を残しつつ、新しいものも生み出すのだろう。中国は日本を知らなければならない時代に入りつつあるのです」

 たしか、小泉首相の「靖国参拝」問題で日中関係がギクシャクしているときであった。わたしは「江南のたび」のあと、寧波のホテルで夕食後足マッサージをしていたとき、彼女は一瞬振り向いて背後のテレビを見つめ、ふたたびわたしの足マッサージを続けた。「靖国参拝」のニュースであった。彼女は「小泉(シャオチュアン)」と耳にして、振り返り、その画面を見つめたのであった。
 わたしと彼女の、一問一答がはじまったのはそれからである。
 出身は江蘇省の北(「江北」)の、山東省に近い寒村。この仕事を始めて数年、オカネが貯まったらこの前テレビで見た「北海道」へ行きたい、という。ふるさとは、寒いばかりで雪が積もらない。あの雪景色の日本へ行きたいが、どのくらいかかるかなぁ?
 この雪景色のテレビ画面は、多分、毛さんが中国の若いテレビ関係者を引率して撮影したものであろう(本人には確認していないが)。

 毛丹青さんはすでに在日二十余年、日本人以上に日本と日本人を知っている。
 雑誌『知日』は、中国のこれからを背負う「80后」世代への「知日」指南書になることだろう。かれが数年前に手がけたテレビによる日本紹介は、その後の旅行ブームをうみだすきっかけとなった。それは若いテレビ関係者の感性が捉えた「日本」であって、旅行社のPRする「日本」ではない。

 冒頭のレポートは、「3・11」直後の体験記である。
この青年の知らないことだが、関東大震災(一九二三年)では戒厳令下で朝鮮人などの虐殺事件があった。地下道でやむなく一夜を過ごした大勢の人たちの脳裏にも浮かばなかったことであろうが、このことは日本の歴史の汚点である。
 そしていま、政治の世界では、選良?たちの駆け引きが続いている。
 それも、これも「日本」である。残念ではあるが・・・。
                        (2011年6月12日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之参拾九

2011-05-25 22:16:54 | はらだおさむ氏コーナー
              
後発の強み


 もう半世紀ほど前になるか、我が家に電話がついたときの嬉しさはいまでも忘れられない。携帯電話が生活の必需品化している世代には理解できないことであろうが、当時は電話の普及率が低く、電話局に申込んでから数ヵ月後に割当てがあり、10年償還の電話債券を購入して、はじめて取り付けの工事となる(街なかにはその権利の売買をする電話屋もあった)。市外電話も電話局に申し込んでからで、即通話とは行かぬ時代でもあった。
 そういう体験者が、中国ビジネスをはじめた当初の連絡手段はまずコレポンであり、火急の場合は国際電報で、それがテレックスやファックスになったのはまだ30年ほど前。メールが頻繁に使われるようになってまだ十余年に過ぎないであろう。
 90年代のはじめ、中国で自宅に電話があるのは幹部クラスのみ。はじめてのケイタイ“大哥(ダーク=兄貴)”を使って所構わず大声でしゃべりまくる海外華僑の姿に辟易したものだが、それが小型化され外資との合弁の製品が市場に出ると、アットいう間もなく中国社会に定着してしまった。これは固定電話の普及率の低い中国にとっては好適の商品で、電子レンジの普及が一家団欒の食生活を変えたように、中国の生活史上における“一大革命的商品の登場”であったといえる。
 はじめのころ事情に疎いわたしは、レンタルのケイタイを持って上海へ行き数件電話しただけなのに、帰国後ずいぶん高い電話料金になっていた。調べてもらうとそれがシンガポールの基地局経由(つまり国際電話料金)であったという、笑えぬ失敗談もあったが、これはいつごろであったろうか、蘭州から天水へ向かうバスの車内で西安から同行のガイドのケイタイが鳴った。彼女の上司からわたしにと、今回同行できなくてスミマセンでしたとのことであったが、相手はいまシルクロード、こちらは渓谷のなか、それにしてもよく聞こえる、なんでも通信衛星がケイタイの中継基地局?になっているので、どんな僻地でも通じますと聞かされて、なるほど、固定電話の無駄なインフラが省けると感心したのであった。
 これは電話だけのことではない。
 僻地における電力にもその活用が見られる。
 80年代の終わりに、ウルムチからトルファンへ行く道すがらは、西遊記のころと同じ砂漠にラクダのみの光景であったが、90年代のなかばには見渡す限りの風車になっていた。メイドイン???、色もデザインも異なる数カ国の風車が競争している光景はまさにチャイナモードで、この活学活用、臨機応変の巧みさは、融通の利かない四角四面の日本人が学ぶべきことと感心した。
 同じころであったか、大連でミシン関係の展示会や関連工場を見学したあと、見渡す限りの曠野を眺めながらハルピンまで列車の旅をしたことがある。どんな手配であったのか、太陽光発電のパネルを生産している工場も見学した。日本でもまだ住宅への適用がそれほど話題になってないときのこと、このパネルがどこで使用されるのか。わたしたちの質問に、僻地の無電化地帯への供給、無灯火村解消対策に使用されているとのことであった。おみやげにもらった野球帽は、このパネルを貼り付けて小さな風車が廻る仕掛けになっていた。酷暑のハルピンの思い出である。
 またあるとき、九賽溝へ出かけた。
成都から奥地へ進むと、日照の少ない周辺の渓谷には小さな水力発電所があり、エコバスの走るホテル沿いには塵埃焼却炉の発熱利用自家発電施設(試用)もあった。正確には知らないが高圧送電線のロス率は、その送電距離が長くなればなるほど高まるらしいので、中国のような広大な土地では適材適所の対応が必要になってくる。これまでは火力発電が主力であった沿海部の電力も、環境問題もあり、ここにきて原子力発電への転換が進んできている。

 「3・11」の巨大地震と大津波による原発事故のあと、日本は当然のこと、ドイツでは原発の廃止運動が高まり、世界各国でもその安全性と今後の対応が真剣に考えられてきている。
 『日本と中国』紙(4月25日号)のフォーカス欄に「ノーモア・フクシマ―原発見直しと中国」と題する一文が掲載されていた。筆者は久保 孝雄さん、肩書は神奈川県日中友好協会会長・アジアサイエンスパーク協会名誉会長とある。ここでわたしははじめて「トリウム」なることばを目にし、それを燃料とする溶融塩原子炉の開発を中国科学院が今年の一月に着手したことを知った。
 ネットの新語時事用語辞典によると「溶融塩炉とは、原子炉の一種で、燃料としてウランではなくトリウムなどの溶融塩を用いる仕組みのもの。次世代原子力エネルギーとして注目されている」とある。溶融塩とは、溶解させた塩。液体であるため、ウランのように燃料棒の交換がなく、臨界状態で運転されるため、安全性が高いと述べられている。
 さらにウォッチングを続けると「さよならウラン、こんにちはトリウム」なる一文を見つけた。副題は「米中印が続々参入・・・福島原発事故で浮上した未来の原発」とある(4月7日、日経BPオンライン)。筆者は谷口 正次氏。
 このなかでいくつかの外電の紹介がある。
 「中国がトリウムでリードする」(3月21日、英国の「デイリー・テレグラフ」)、「最初の鉄道ができた時、コストあるいは信頼性で運河と競争できなかった。今こそ、トリウムのポテンシャルを見出すことを始める時だ」(3月19日、「ウォール・ストリート・ジャーナル」)。
 筆者は溶融塩炉がアメリカで六十年代の後半「無事故で成功裏に実証試験を終えていた」ことを紹介、これが実用化されなかった主因は当時の米ソ対立の冷戦状況下でトリウムが原爆の原料にならないことにあったと述べ、さらに燃料棒の取替えで儲ける企業の仕組みにもふれている。
 次いで「トリウムの燃焼は溶融塩炉だけでしかできないわけではない。既存のウラン型原子炉にもトリウムを装荷が可能ということである。徐々に燃料をウランからトリウムへ転換していけばよい」とのコメントもあるが、わたしにはこの是非を判断する知識がない。

 中国の情報はどうか。
 「人民網日本語版」で「原子力」をチェックする。
 3月8日の温家宝総理の「政府活動報告」によると、現在運転中の原発は11基、設備容量は九一〇万KW。認可済み原発28基のうちすでに24基が着工中で二十年後の設備容量はいまの9倍の八千万KWに達する見通しとか。世界第二の規模に達する。
 「3・11」のあと、中国政府は稼動中の原子炉のすべてに対し安全検査を命じ、3月17日、その安全性を確認、同23日「中国原子力エネルギーの父」といわれる中国科学院の欧陽予氏は「いま建設中の中国の原発は、第二世代の福島原発より安全性の高い第三世代で、事故率は1%以下」と語る。5月23日、津波対策を10mから25mに引き上げた。
 この第三世代は溶融塩炉ではなく、加圧水型炉(AP)でフランスの検査会社と品質保証・品質管理契約が締結されているともいう。
 「サーチナ」(3月16日)に「中国、トリウム溶融塩炉と進行波炉開発に照準」(窪田秀雄・日本テビア総合研究所副所長)があった。これによると「中国科学院は1月25日、・・・戦略的先導科学技術特別プロジェクトの一環としてトリウム溶融塩炉原子力システムの研究を開始することを明らかにした」。これによると開発計画は4期に分かれ、十数年後には実験炉の臨界達成、さらに数年後に実証炉の建設、二〇四〇年までに商業利用にまでもって行きたいとのこと。中国科学院の上海応用物理研究所が担当する(「創新2020」計画)。

 日本の原子力利用エネルギー政策で、国としてこれほどの長期計画はあるのだろうか。トリウム溶融塩炉研究の第一人者―古田和男先生はすでに84歳、加速器溶融塩増殖炉AMBSを発明してからすでに31年、国際的にその業績は評価されているが、日本国内ではウラン原子炉メーカーや「御用」学者・学会に阻まれ、いまもマスメディアの話題にならない。このほど発売された「原発安全革命」(文春新書)の帯には<全く発想の違う「液体」「トリウム」「小型」    
この原発なら福島もチェルノブイリも起きなかった!>と書かれている。国際的にロシア・チェコ・フランスのエンジニアと協力関係にあり、「中国が二年来強力に接近してきた」との記述がある(P178)。

 最後にひとこと。
 先日某大学の名誉教授は講演のあと、アメリカ、フランス、日本の三大原子力大国のなかで、漏れない原子炉を作れるのは日本の三社のみと豪語し、福島原発はアメリカのWH社製だが同社もいまでは東芝の傘下になっていると、事故の原因を他に転嫁するような態度であった。さらに中国の原発について、マネージメントが心配だ、黄砂のように放射能が来ないことを祈りたいとまで発言した。なんということを!、自分の頭の上の蝿も追えないくせにと立ち上がった。こんな「御用」学者が権力と原発メーカーなどに擦り寄り、偏った情報を撒き散らすのだ。

 中国は確実に前へ向かって進みはじめている。
 日本は欧米の10倍以上の原子力予算を費やしながら「エネルギー政策に迫力を欠く事態を招いている」(前掲書P66)。
 どうするか、30年ほど前の公害反対運動のように、そう、市民が中心となって「青い空」と「魚の棲む川」を取り戻したあのときのように、政府や企業を追い詰めねばならない。もう政府や企業だけに任せておくことはできない。
 ノーモア・フクシマ!! 
♪あぁ、許すまじ、原発を!♪である。
                   (2011年5月23日 記

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之参拾八

2011-05-02 14:16:15 | はらだおさむ氏コーナー
            
危 機 常 在

 「危機常在」、わたしがこの言葉をはじめて耳にしたのは89年の7月であった。そう、あの事件の、一月後のこと。
 そのころ、わたしは中小企業事業団の海外投資アドバイザー(中国)を兼務、
名古屋から鹿児島までの西日本を担当して毎月一~二件の相談をわたしの事務所で受けていた。
わたしがそれまでの対中ビジネス(貿易)から対中投資アドバイザー(諮詢)に転じたのは83年で、すでにふたつの合弁製造業を設立・操業、この年の3月には日本料理店設立の契約調印を終えたばかりであった。
その前の年には、上海で五十数名の日本の中小企業家を集めた対中投資セミナーを上海当局と共催、中小企業事業団関西大学校(@姫路)事務局とは対中投資連続講座開催(7月)のプログラムを作成していた。
6月4日の、あのとき。
テレビの画面で戦車が学生を追いつめたとき、わたしはあぁ、これで対中ビジネスはしばらく開店休業かと、58年の「長崎国旗事件」による日中貿易中断の歴史を思い浮かべたが、翌週からも対中投資の相談は断続的に続き、7月開催の連続講座には定員を上回る応募者があった。
受講者もわたしも同大学校の宿舎に泊まりこみ、5日間の合宿講義。
最終日の最後の講座が、Sさんとわたしの対談、というよりはわたしがSさんの聞き手役を務めることになっていた。
Sさんは一部上場TE社の海外担当常務(のち代表取締役CEO、同会長を歴任)で、大阪ではお目にかかることはなかったが、上海の虹橋空港(大阪-上海は週三便しかなかった)とかホテルでは何度かお目にかかり、動物園横の同社合弁企業も見学するお付き合いがあった。

 - そのとき、どこにおられましたか
 - モスクワで商談中でした。
 - 事件の発生はなんで知りましたか
 - 本社からファックスで連絡が入り、展示会開催中の北京に電話しました 
   が通じませんでした。
 - それで・・・
 - 北京の展示会は長安街の民族宮で開催、社員たちは隣の民族飯店に宿泊していました。本社との通話でその付近が一番緊迫していることがわかりました。
 - 上海にはモスクワから電話が通じました。上海は平穏であるとのことでしたが、重要書類と貴重品は手元に置いていつでも退去できるよう準備を指示しました。
 - 上海から北京へ電話が通じたら、すぐ帰国するよう伝言を依頼。わたしはモスクワから北京へ電報で帰国命令を伝えました。
 - 結果は・・・
 - 北京の出張者(数名)は駐在員ひとりを残して即時帰国しました。
 - これは中国の事件ではありますが、経営を取りまく環境にはいろんなリスクが潜在しています。平時にあっても「危機常在」の気持ちで取り組むのが経営者として当然心がけねばならないことではないでしょうか。

    これはもう二十余年も前の話であるが、今回の地震・津波と原発事故で関係者から「想定外」の発言が繰り返されるのは、不見識ではないか。古老たちの話に耳を傾けて津波対策と避難訓練を実施していたところは、比較的人的被害が少なくすんでいる。まして、東電をはじめとする原発関係者が「想定外の津波の規模であった」とするのは、責任回避も甚だしい。
    ネットで調べたら「八六九年の大震災-貞観地震(M8.3)」なることばを見つけた(中央大学文学部教授石井正敏「情報の歴史学」<よみうり・オンライン、4月21日>)。
    「震災後がぜん注目をあびているのが、八六九年(貞観十一)に陸奥国(むつのくに)一帯を襲った大地震・津波です。年号をとって貞観(じようがん)地震あるいは貞観津波と呼ばれ、専門家の間では良く知られており、特に今回の大震災を予見させるものがあるところから注目されています」
    石井先生は六国史の『日本三代実録』貞観十一年五月二十六日条の記事を引用され、その臨場感にあふれた文章は「まさにTVに映し出される大津波の状況と重なり、胸に迫るものがあります」と述懐されている。
    さらに調べていくと、この貞観地震(津波)は歴史学者のみの常識ではなく、「理科年表」にも掲載されていて、科学を志すものならば一度は目にしている有名な地震であり、原発関係者であれば当然その建設にあたっての立地調査などでこの歴史的事実が注視されていたはずである。それをしてなお「想定外」といいえるのかどうか。
    先日ある会合でリスクマネジメントの専門家にそのことを尋ねた。
    当事者がそのことを知っていたかどうかはさておき、カネをいくらでも注ぎ込めば今回以上の津波にも対応できる原発を建設できるであろうが、そんな高コストの電力は使用できるであろうかという回答であった。安全とコストの話に振り替わったが、これはリスクマネジメントの専門家の立場をこえている。

    愛読しているブログに次のコメントがついた平安神宮の紅しだれ桜の写真集が掲載されていた。
    「今年の桜は、ひときわうつくしい。
     東日本大震災で生きとし生きるものの無常と自然の移り変わりの日々変わらない姿を私たちの目に見せてくれているからか・・・・・
できる限り、今年の桜を愛でようと思う」

      わたしは散り去っていった花にこころが移ろい、みどりにむせて日々をとまどい過ごしていたが、このブログの花を繰返し眺めているうちに、生きとし生けるものの重みにこころ打たれた。
      わたしは上海の友人・知人にこの花を送り届け、がんばっているこころを伝えたいと思い、この桜の転送許諾を求めた。
      数日後上海の知人(中国人)からメールが届いた。
      「がんばれ 日本!
4月23日朝日新聞‘天声人語’で、島田陽子の詩を感動深く拝読。
震災後の日本への励ましに思えてならない。
原田さんのお便り又然り。頑張れ 原田!!    
         岩を縫って川は再び走り始める~ 」

       わたしはこの「天声人語」を探した。
       
・・・〈滝は滝になりたくてなったのではない/落ちなければならないことなど/崖っぷちに来るまで知らなかったのだ〉▼しかし、〈まっさかさまに/落ちて落ちて落ちて/たたきつけられた奈落に/思いがけない平安が待っていた/新しい旅も用意されていた/岩を縫って川は再び走りはじめる〉(4月23日 「天声人語」)

 いまは亡き島田陽子さんに感謝したい、黙祷。
                 
     (2011年4月30日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之参拾七

2011-03-27 11:20:38 | はらだおさむ氏コーナー
          
『再会の食卓』


この中国映画を観たのは、地震の二日前であったが、筆がとれないままに、十日が過ぎ、半月が経ち・・・
そして、いま、あのユーチューブ、そう、あれでこの予告編を繰り返し観た。
子供たちの歌声は、そうだ、「旅愁」のメロディだが、「♪チャン ティーン ワァイ グーダオビエン(長亭外 古道辺)・・・」と聞こえる。数十年ぶりの「再会」を奏でる歌の調べだ。

数十年ぶりの再会。
ファーストラブは心の奥底深くにしまっておくべきものだが、これはそんな淡い初恋の物語ではない。あの別離のとき、すでに子供を身籠っていた新妻と国民党兵士であった夫との再会のおはなし。
彼女(ユィア・玉娥)の許に台湾から一通の手紙が届いた。
一九四九年五月のあの時、上海から最後に撤退した国民党軍の兵士(リゥイェンション・劉燕生)からの数十年ぶりの便り。中台の交流がはじまり、国民党軍兵士の“里帰り”訪問が認められるようになったので、仲間たちと上海へ行く。是非お会いしたいとの文面。
これは映画だから、その時代背景なり、設定はどうでもいいのだろうが、事実としての“里帰り”は九十年代の初めからはじまっている。これにはシナリオも書いたワン・チュエンアン(王全安)監督も苦労したらしいが、映画で中台交流史が描くのが目的ではない、ということで推し進めたようだ。
 玉娥にはいまの夫(ルーシャンミン・陸善民)との間に娘があり、あの人との息子もいる。
 その日がやって来た。
 上海の路地奥には隣近所の人があふれ、子供たちの歌が流れる。
 ♪チャン ティーン ワァイ グーダオビエン・・・♪
 そして、あの人が大きなボストンバッグを提げてやってきた。
 「再会の食卓」には一族郎党がすべて、娘と婿、孫と独身の息子が集い、地元街道委員会のおばさんが歓迎の杯を挙げる。
 夫の陸善民はその名の通りの好好爺。家内に寝床を用意させているから泊まっていけ、と話す。
 それからの日々、奇妙な共同生活が続く。
 孫娘(ナナ・娜娜)の案内で工事中のマンションの階段を登っていくふたり。
 いま市内の古い街並みが開発され、その立ち退き先として提供される郊外の高層マンション。この窓の向こうにも同じような高層マンションが建つのよ、と孫娘。劉は意を決して、ユィアに台湾に一緒に来てくれないか、と話しかける。やきもち焼きの妻が亡くなった、ずっと連絡したかったんだが・・・台湾に花蓮というきれいな街がある、そこに家を建てよう、どうだ、来てくれないか、もう一度やり直そうよ。ナナの携帯が鳴る。彼からだ、なによ!急に、アメリカに行くって!!

 家族会議が紛糾する。
 娘が猛反対、どうして?いまごろになって!!娘婿はどう補償するんですか、と迫る。いま手元に十万元ありますと、劉。そんな端金(はしたがね)、郊外のマンションのトイレのカネにもならない!と激昂する娘(筆者注:中国ではマンションはすべてスケルトン渡し。内装は各自の好みと費用で行う)。お父さんはどうなの、と迫る娘に、ルーはお母さんに任せる、という。

 離婚が決まった夜の、三人だけの食卓。
 酒が入り、ルーはあのとき岸壁で泣き崩れていた身重なユィアを助けて、やがて結婚したいきさつを語りはじめる。元国民党兵士の妻と産まれてきた男の子、文革中はスパイと痛みつけられ、溶接工を退職したときも息子を優先採用もしてくれなかった(筆者注:八十年代は就職難で親が早期退職すると、その子供は優先採用された)。兵隊の同僚で副将軍になったものもおり、党幹部になったものもいると、この数十年のあれこれが一挙にルーの胸中によみがえり・・・そして、倒れる。
 病室でお母さんのせいよ、と迫る娘。申し訳なさで胸が掻き毟られる思いのユィア。幸い、軽い脳卒中で、夫は退院できた。

 孫のナナに案内してもらって、ルーの栄養になりそうな食材を買い求めるリュウ。上海語はしゃべれないが、聞くことは出来る、とそれでも簡単な上海語を口にする(字幕ではわからないが、それは微笑ましい光景だ)。もうユィアを台湾へ連れて帰ることはあきらめた。いまは少しでも“兄さん”の健康回復のためにと、さらに高級な食材を求めて走り回る。
 そして、最後の晩餐。
 リュウは五十近くなっても独身の息子に、これで嫁でももらって世帯をもってくれと十万元を渡そうとするが受け取らない。
 子供たちは帰り、いまは水入らず?の老人たち三人。
 打ち解けた兄弟のように、ユィアを囲んで話が弾む。
 二人の歌に、それは俺も知ってると歌いだすルー、これまで知らなかった夫の姿に思わず家族のために犠牲になって尽くしてくれた夫の優しさに涙ぐむユィア。

 リュウは台湾に帰り、孫のナナと三人で郊外のマンション住む玉と陸の老夫婦。元の老街の家は取り壊され、隣近所の人たちもそれぞれがどこかのマンションに移っていった。人のつながりが無くなり、と・・・ナナの携帯が鳴る。二年だけよ、と念押しするナナ。彼がアメリカに行くことになった。わかった、そこへ行く。孫も出かけて、部屋には二人だけ・・・そして、ジ・エンド。

 この映画は、台湾を刺身のツマにしたシャンハイのいまの家族関係と住宅事情を描き出している。上海の人でも四十歳以下はルーが酔って話すその半生の出来事は理解できないであろう。ルー役を好演した許才根は、上海のテレビなどでもよく見かけるタレントである。ユィア役の盧燕はどこかで見たと調べたら、あの「ラストエンペラー」の西太后を演じていた。リュウ役の凌峰は青島生れだが、台湾育ちのタレント、いまは中台の架け橋として活躍している由。映画のなかでリュウが語る金門島での要塞構築の苦労話は、一昨年の春、その現場を見ているだけに身につまされる思いがした。

 この映画は昨年のベルリン国際映画祭で銀賞を獲得した話題作。中国国内でも昨年最高の興行成績を上げたといわれている。監督の王全安(ワン・チュエンアン)は、わたしの好きなジャ・ジャンクー(『長江哀歌』ほか)と同じ第六世代の監督だそうだが、これまで彼の映画は観る機会がなかった。
 この映画の、東京、大阪での上映は終わり、これから神戸、京都へと順次上映の予定である(詳しくはインターネットなどで)。是非ご覧いただきたい作品
である。

 末尾ながら今回の震災で別れ離れになられたご家族との再会と一家団欒の集いが一日でも早く実現できますよう衷心より祈念申し上げます。
                    (2011年3月26日 記)





  写真は同映画予告編ホームページより転載

◆はらだ様よりご自身の震災体験を交えながらの応援メッセージをいただきました。

  不順な天候が続き、春が待ち遠しい日々。
    いかがお過ごしですか、お伺いいたします。
    16年前の「阪神・淡路」のときは自宅が全壊、
    半月ほど小学校の体育館で避難生活のあと、
    東大阪市の府営住宅で8ヶ月過ごして
    元の場所に新築した家に戻りました。
    あのときの心身の疲れを思い浮かべると、
    それを上回る今回の被害のなかで
    これから復興に立ち向かう人々のご苦労に
    思わず胸が痛みます。
    それにしても福島原発の後処理をめぐる
    東電の対応には憤りを覚えます。
    そんな気持ちにまったくそぐわない
    『徒然中国』ですが、ご寛恕ください。


ホーチミン市の<ブルーライトヨコハマ>

2011-02-27 13:52:57 | はらだおさむ氏コーナー
 ビエンホアに通じる工業地区をバスで通り抜け、港湾を横目でにらみながら、税関近くの岸壁に乗り捨てられたまま赤さびている乗用車の墓地に、サイゴン陥落時の混乱と脱出して行った人たちの行く末に思いを馳せていた私たちは、ホーチミン市最後の夜を水上レストランで食事後、ベトナムツーリズムのアレンジしたナイトクラブ<レックス>でのショウ参観のため足を運んだ。

 解放前のサイゴンを知らない私にとって、ベトナムの夜とレジャーはこれが最初のものであったが、豪華なこのナイトクラブも今はベトナムツーリズムによって運営されているものとみえて、観客はわたしたち一行とルーマニアの観光グループの30数名のみの、文字通りの特別ショウ。歌と踊りと手品のアトラクションを演じる彼らは解放後ベトナムツーリズムによって組織・編成されたものとかで、元プロからアマを含んだ混成メンバーであったが、ショウの半ばでわれわれのために日本語で<ブルーライトヨコハマ>が歌われたとき、一瞬、驚きと喜びの交錯した不思議な感情におそわれながら、そこに我々を含めた観光客の受け入れを認めているベトナム当局の、したたかな、言葉を変えていうならば開き直りの精神を感じ、ジャングルの奥に潜みアメリカの兵器を使って祖国を解放したベトナム民族の粘り強い闘争心と根性を垣間見る思いがした。
 ルーマニアのグループにも彼らの言葉でサービスしながらやんやの喝采を浴びて退場した男女の歌手の、解放前後の生活に思いを馳せていたわたしは、次の男性バリトン歌手の<グッバイ、マイダーリン、シーユーアゲイン・アトサイゴン>という内容の、解放戦争時代ベトナムの各地で歌われていたであろう暗い調べをベースにしながら、叙情豊に歌い上げられてゆくメロディに感動を抑えることが出来なかった。

 30年に及ぶ戦争は終わった。
 しかし、それはなんという過酷な生活をベトナム人民に強い続けてきたことであろうか。
肉親が別れ離れになり、傷つけられ、殺されたこの30年。
 戦争が終わり、平和が蘇えって、まだ二年しか経たない。

ハノイで訪れた商業会議所の幹部が語っていたように、当面の経済建設は困難を極めているし障害も多いが、必ずこの第二次五カ年計画を達成して社会主義経済建設の基礎固めをしたいとする彼らの言葉を信じることからしか、この国との経済交流をはじめるほかはないだろう。
他と比較し、ウイークポイントを挙げていけばきりがない。
農業合作社と併存する自留地。
国営マーケット周辺の個人商店。
官僚主義とセクショナリズム。
経営管理能力の欠如。
白紙に近い技術力の蓄積。

言葉を拾い出せばさまざまな表現によるベトナム経済の弱体ぶりを指摘することも可能だろうが、この戦いを勝ち抜いてきたしぶとさと強固な指導部の存在こそ他の何物にも代えがたい財産であろうし、アメリカをはじめフランスや日本など、この戦争になんらかのかたちで加担してきた国々は、平和が実現し経済建設の苦しみのなかでたたかっているベトナム人民を支援していく義務と責任がある。
ベトナムとの貿易の原点はまさにここにありというのが、この夜の最終的感想といえる。 

二つのドン

2011-02-22 08:58:46 | はらだおさむ氏コーナー
 ハノイに二日滞在した翌早朝、ホーチミン市へ向けて飛び立ったベトナム航空のジェット機は海岸沿いに南下しながら、軍用ヘリコプターの立ち並ぶタンソンニュット空港に10時前に到着したが、機内で朝食時に出されたベトナムの酒で火照ったからだは30度近い暑さにネをあげて、市内に向かうバスの車窓を開け放って涼をとらざるを得なかった。

 1975年4月30日に解放されたサイゴン市は、建国の父 ホーチミン主席を偲んでホーチミン市と改称されているが、解放直前、米軍の撤退とチュ‐政権の戦意喪失により無血で開け渡されたため市内は戦火の傷跡もなく、省都の面影を伝える街並みをホンダカブに乗った若者やアオザイのすそを翻して通り過ぎてゆく女性の姿が目立つ。
友誼ホテルと改称された旧パレスホテル前の街頭マーケットには大勢の市民がたむろして一見活気を呈しているかに見えるが、年間2万人の観光客の受け入れを決めたもののツーリストの落とす外貨はしれたもので、2年前と思われる日本の電化製品が山積みされていても依然失業者が多く、インフレの昂進しているホーチミン市で市民の購買力は弱い。午後、華僑の商業地区で有名なショロン街をバスで視察に出かけたが、90パーセント以上の店がシャッターを下ろし、商業活動の停滞ぶりを物語っていた。

ハノイでは、対ドル交換レートは旅行者用で1ドル/3.78ドンであったがこちらでは2.3ドンで、ドン/ハオ/スウの貨幣単位の呼称は南北統一されているものの紙幣そのものは異なり、闇ドル相場は公定レートの5倍以上であると聞かされたが、この二つのドンが象徴する南北経済圏の統一はインフレの収拾問題もからみあって、ベトナム経済の苦境と政府関係者の苦悩を滲み出させながらかなりの時間を必要とするものと読みとれた。
短期の駆け足旅行でベトナムの経済状況を把握するのはきわめて困難であったが、ジェトロ関係の調査資料によるとベトナムの目下の国際収支は年間6億ドルから10億ドルの幅の赤字が続いているとのことである。このアナ埋めはこれまでは外国の支援(主として社会主義国)に頼っていたが、今後は資本主義国をはじめとする諸国からの借款と外資導入を受け入れながら工業の基礎固めを行って輸出産業の育成を図ることにより、農業と軽工業を基礎とした社会主義の道を歩んでいくことになる模様で、国際収支のバランスを速める最大のポイントは、トンキン湾の海底に埋蔵されている上質の石油の採掘と輸出化がアメリカとの国交正常化とからんでいつの時点で実現されるかであり、マイナス面を少なくする意味では食糧の自給がいつ達成するかにかかっているといえよう。
ハノイ上空から見たベトナムの耕地は、農業合作社による集団農業の結果整然と耕作されており、また南のメコンデルタ地帯の豊富な水資源はそのまま、かって南部が米の輸出国であったことを物語っている。ところが、ベトナム全土の四分の三は森林で占められていて耕地面積は500万ヘクタールしかなく、人口当たりの耕地面積は世界でも最低の規模に位置しており、5千万の人口と平均3%の人口増加率から見て、食糧自給のために耕地面積の倍増と労働人口の移動を含めた農業最優先策をとらざるを得ず、解放直前300万の人口であったサイゴンから既に100万人が新経済区に移動して自給自足の農村建設に励んでいるのもこうした方針の結果である。
しかしながら、<侵略戦争>には打ち勝ったが自然災害を含めた<経済戦争>には泥沼に足を踏み入れた感があり、1976年末の異常寒波、77年春の旱魃・虫害などの自然災害に加えて、特に南部のインフレ増進の結果、収支バランスのとれない農業経営に意欲を喪失した自作農たちの減産が影響して、南北を含めて米の配給量を20パーセント以上減量してもなおかつ77年中に150万トン以上の食糧を緊急輸入せざるを得ず、これがベトナムの外貨事情の悪化に輪をかけて対日貿易の面でもすでにその影響が出はじめている。