くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾参

2014-04-24 00:36:14 | はらだおさむ氏コーナー
KOKYOU

莫言さんのノーベル文学賞受賞から、もう十数ヶ月がたつ。
この授賞式に参列された吉田富夫先生が帰国後書かれた一文の最後に、つぎのようなはなしがあった。
ストックホルム最後の夜、あの事件で亡命を余儀なくされた詩人北島の仲間であった陳邁平さん(同夫人アンナさんはスウエーデンにおける莫言さん訳者の有力者のひとり)の招きで訪れた市内の店、名はKOKYOU。
 「たぶん、日本語の故郷の意味。ご主人の王紅偉さんはスウェーデン華人商工会副会長。北京大学出身というのですが、ひょっとして文革で生まれたれいの労農兵学生だったかも知れません。ハルピンから香港を経ていまスウェーデンで店を開いていらっしゃるのですが、そのどこかで春雨の加工技術のことで日本ともかかわったことがあるらしい。KOKYOUという店名はそれと関係があるらしいのですが、なにしろ一筋縄ではいかない人生です」(吉田富夫『雪の幻影―莫言氏・ノーベル賞授賞式の一週間』「こころvol.11/平凡社」)
 いつまでもこころの底にへばりつくおはなしである。

 九十年代のなかばであったか、上海都市研究会の訪中団にパリの大学で教鞭をとる日本女性の参加があった。帰国も間近に迫ったある夜、彼女からむつかしい話があった。パリにいる知り合いの中国人から、上海の友人の近況を聞いてきて欲しいと手紙を預かってきている、なんとか連絡がとれないか。
苦労して、やっと連絡がつき、ホテルまで来てもらった。旅行社の通訳は、同席しないというので、ときには筆談を交えての面談とあいなったが、いまは毛沢東肖像のデフォルメ画が日本ほかで評判になって、銀座の画廊で個展を開いたこともある、パリの友人には元気でいると伝えて欲しいということであった。誘われて彼の家と作品を見に行ったひとは、写真も撮れたのでいい土産話ができたとよろこんでくれたが、パリにはこのようなひとが大勢いると話していた。

 あの事件のあと、わたしは会員の要望で8月に二度スワトウへ出かけた。
 いずれも香港経由であったが、二度目は香港-汕頭のフライトがとれず、深圳からクルマで出かけることになった。海岸線のいたるところに非常線が張られ、パトカーに二度ほど追いかけられてパスポートの提示を求められた。もう指名中のひとたちは海外に逃れて声明を発表しているのだが、この海岸線の警備の厳しさには驚いた。汕頭の商談会場には西側の経済制裁の網をくぐって押しかけた韓国や台湾の商人であふれていた。現地の人は、あれは北京の事件だ、ここ汕頭とはまったく関係がないと、ここは「一国二制度」の地といわんばかりの誘致優遇策を披露していた。

 故郷を離れ、国を去るとはどういうことか。

 日本が戦争に敗れ、台湾が「中華民国」になったとき。
 日本に少なからぬ台湾出身の「日本人」学生がいた。
 台湾に帰り、蒋介石政権ににらまれて香港経由で日本に逃れて「株の神様」になった人もあれば、祖国建設の一助にと解放直後の中国に渡った医師や建築家も大勢居られる。
 二十数年前、はじめて海南島へ出かけたとき、わたしより十歳ほど年長の医師も一緒だった。現地でときおり通訳を介さず話しておられるのでお聞きしたところ、台湾出身とのこと。大学でインターンのころ日本の敗戦に遭遇、医師の資格をとるため日本に帰化したが、改名を迫られたことが辛かったと。日本の女性と結婚、日本で開業医を続けてきたがココロは台湾人。アメリカに留学していた甥が選挙に出るというので台湾へなんども応援に行った。国籍は日本だが、故郷は忘れ難い。故郷を捨てるというのはよほどのこと、覚悟のいることと話しておられた。

 在日の中国人女流作家の楊逸さんが08年に「時が滲む朝」で芥川賞を受賞されたとき、その受賞者インタビュ―で「中国式無神経のすすめ」と称してつぎのように語っている(『文藝春秋』08年9月号)。
 「日本人はみな真面目で、なんでも重く受け止めすぎますね。もっと楽観的で、無神経にならないと、生きていくのが難しいところもあるんじゃないでしょうか」「老後は気候のいい広東省の珠海あたりで、友達同士で暮らす老人村を作るのが夢なんです、皆さん、一緒に住みませんか(笑)」

 そうは言われても、真面目な日本人であるわたしにとって彼女の受賞作「時が滲む朝」を再読すると、結果的には学生たちを煽動して挫折させ、自分も欧州各国をさまよい、息子からの絶交文を見て帰国する元教師のKOKYOUを思う気持ちに胸が痛む。

到着ゲートの真正面に場所を構え、・・・2時間を過ぎたところで、やっとパリからのフライト到着のアナウンス。・・・あ、似ている人だ!厚手の濃紺のコートに赤いマフラーを巻いた紳士が現れた。・・・長き十年、短き十年、もろもろと何もかもが涙に溶かされ込み上げてくる。
  「先生、帰ってからどうするつもりですか?」
  「辺鄙な田舎にでも行って、小学校の先生になる覚悟だ」
  「君のお父さんを見習ってさ。長年理屈ばかりで生きてきたけど、所詮一介の書生だ。・・・林林(息子)からの手紙だ。もう大学生だよ。妻は過労とストレスで去年亡くなった」
    「父さん、昨夜母さんは息を引き取った。目尻に涙を一つ残し
    たままだった。きっと僕が責任のある父親に恵まれることがな
    いのを最後まで悔やんだ涙だと思います。妻も息子も顧みるこ
とが出来ない、そんな人は国を愛せるだろうか。これは僕から
の最後の手紙です。 林林 」

 このときから更に十数年が経ったいま、この老教師といまは中年になっている息子の林林はどうしているであろうかとの思いが募る。

 時は変わり、いま台湾で学生たちが立法院を占拠し、市民がこれを支援して「サービス業を自由化する中台貿易協定」の批准に反対している。台湾と中国の統一については、これはわれわれ第三者の口にすべきことではないかもしれぬが、一時公表されていた「一国二制度」「国旗、軍隊の現状維持」とまでいわれていたその推進策が、馬政権を巻き込む形で強引に進められてきていると台湾の市民は感じてきているようである。「クリミア」問題に敏感に反応する台湾の市民、KOKYOUを思うひとたちのこころは熱い。

                (2014年4月5日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾壱

2014-04-19 09:09:46 | はらだおさむ氏コーナー
タテマエとホンネ


 あのときも、そうであった。
 わたしの乗っていたタクシーが自転車と接触、人もろともに倒れた。
 タクシーのドライバーは、かけ下りた。
 わたしは倒れた人を助け起こすのだと思ったが、接触したボンネットの傷の有無をチェックするや、クルマを発進させた。
自転車の人はやっと立ち上がり、集まりはじめた野次馬に大声で助けを求めた。運転手は窓を開けて、どなりつけ、“逃げるが勝ち”とばかり現場を離れた。
 まだ自転車が中心の、上海の朝のラッシュ時であった。

 これは、文革の前ごろのことになるだろうか。
 北京の胡同の夫婦げんかの、はなしである。
 おかみさんが金盥(かなだらい)をたたきながら表へ飛び出して、大声で叫ぶ。ウチのヤロウが・・・・・、ジャン、ジャン、ジャン・・・。
 まるで江戸時代の、長屋の夫婦げんか、そのものであったらしい。
 まぁみんな、聞いておくれよ、というのは街のケンカでも同じである。
 群集が取り巻く。
声の大きい方が有利か、お節介野郎が仲介しようとすると、火に油を注いだように騒ぎが大きくなる。

 台湾総統の、はじめての民選のとき。
 中国は台湾海峡にミサイルを撃ち込むと威嚇した。
 アメリカの空母が出動し、騒ぎが大きくなった。
 終わってみれば、エライ人の長男が中台合弁企業の中枢に座り、工場の所在地は“タイワン特区”になっていた。
 だれが得をしたのか、中長期で見ればこの判断は、ムツカシイ。
 そのヒトが始皇帝のように泰山に登り、孔子が復活した。
 ロープウエイや入山の料金がはねあがり、ふもとに豪壮な人民政府の庁舎が出現した。
ガイドは、孔子様のおかげと片目をつぶったが、あのときの“批林批孔”は聞いたことがないという。政治は、いつもウエのヒトが操っている?のか。

 十年ひとむかしというから、二十年ほど前は大昔、中国は「一国二通貨」で、人民元と外貨兌換券(FEC)があったのだが、いまでは知らない人も多くなった。
 改革開放に入った八十年代から、外貨管理のために発行されたこの兌換券は、すべての外国人に適用された。友諠商店など、いわゆるドルショップでは、この兌換券があれば街にはない商品も手に入り、当然のことながら闇レート(50~80%アップ)が発生した。
 外国人旅行者からこの兌換券を徴収して、支払いには人民元でとサヤ稼ぎをする旅行社の添乗員もいたようだが、そこには闇ブローカーも介在する。
ホテルの前で、ヘイ、マネーチェンジと、とぐろを巻くやからもよく見かけたが、偽札の人民元もずいぶんと流通していたようである。

 ミレニアムの翌年、友人たちと西域のたびに出かけたことがある。
 トルファンからクチヤまでは夜行列車、そこからカシュガルまで砂漠のなかをクルマで走り抜けた。随所に解放軍や屯田兵の基地があり、通信ケーブルを傷つけたものは即銃殺の張り札にはキモをつぶした。カシュガルからパキスタン国境に接するカラクリ湖にも足を延ばした。
 楽しい思い出が浮かぶが、偽札事件のことを記そう。
 カシュガルのホテルで両替をして、市内の百貨店で買い物をしようとしたメンバーのひとりが、わたしのところにすっ飛んで来た。ホテルで両替したばかりの百人民元が偽札だと・・・。兌換券は数年前に廃止され、百人民元が半年前に発行されたばかり。一般の中国人にとっては持ち慣れない、見慣れない高額紙幣とあって、買い物の支払い時にはいつも透かし見された(まだ偽札発見器は普及していなかった)ものだが、このときはどうわめいても、店員の眼力に従うしかない(わたしの両替した百人民元はセーフであった)。
しからば、この落とし前をどうするか。
“目には目を!”、両替したホテルのバーで使おうと衆議一決した。
予算はオーバーしたが、“偽札”百人民元は無事酒代に消えた。

そのころ、巷では闇人民元は少数民族、とくに西域からのものが多いとささやかれていた。
しかし、のちに中国の偽札発見器製造の技術交流に参画した日本の技術者によると、昨今では深圳あたりのものが多くなっているという。
偽札発見器の性能向上とイタチゴッコであるが、人民元そのものの印刷精度も高まって、それに対応する偽札をつくるにはかなりの技術力と資力?がいるという。
これは日本人技術者の語る“ホンネ”のはなしとして信用してもいいだろうが、人民元の国際化のなかで、アジア諸国で流通しかけているそれについては保証のかぎりではないとも。タイペイで人民元を差し出すと「ソーリー、タイピー、オンリ」と断られたが、これで正解であろう。

武吉次朗(元摂南大学教授、中国研究所顧問)さんの「新語が映す中国」は
毎号「新語」からみた時評で、いつも教えられることが多い。
 今号(96)は、「官邸制」である。
 昨年11月の中国共産党・三中全会で決定されたなかに出てくる。
 本文で紹介されている汪玉凱教授のはなしにはおどろいた。
 高級幹部の住宅は地方政府の提供、転任してもその居住権があるとかで、リタイアした幹部などは安く手に入れた住宅を売却したり、親族や知人に転貸してフトコロをふやす人が後を絶たないという。「三多幹部」とは、カネと女と家を沢山持っている幹部を揶揄する言葉らしいが、摘発されたある元副省長はなんと46軒もの住宅を持っていた、という。
 これには制度としての“老幹部”への優遇措置が問題との指摘も。
 中国人記者が、村山富市元首相の大分の自宅を訪問してその質素な生活ぶりにおどろいた話も紹介されているが、「幹部の財産公開」などが制度化される見込みも無い中国では、俎上にあがったとしてもその実現は望めまい。

 ホンネとタテマエは、どちらが先でもいいが、少数民族の地区で漢族の支配が強まり、普通話(プートンフワ=標準中国語)の授業が必修科目になっていくと嘆くガイドたちに出会った。目の前には不似合いな大きな役所が並び、武装警察の駐屯地があった。彼女たちのはなしはNHKの中国語講座を聞くようであったが、その表情はさえなかった。
 謝晋監督の名作「芙容鎮」のラストシーンが、思い浮かんできた。

(2014年2月25日 記)

コインブラ

2014-04-16 09:52:31 | ポルトガルの旅
ポルトガルで一番古い大学
1143年のポルトガル建国では首都がおかれ、1255年までブルゴーニュー王朝の
中心地として栄えた。
リスボン・ポルトに次ぐ第3の都市
日本からも(東大生)20人の留学生が勉強中




コインブラ大学の広場にある王様の像




マントをはおる学生のガイドがいて、学舎内を案内してくれる















学内への階段  両側にはアールディジョのタイル絵


大学の入り口の歩道のタイル絵がきれい



大学を出て急な坂道を下る




坂道を下りきると、街中にでる







モンデーゴ川の向こうに旧市街




日本とのゆかりの「金平糖」はここが発祥の地
お味はしっかりと佐藤なのですが、日本の金平糖よりは深い味わい!!








ポルトガル 《サンチャゴ コンスポテーラ (スペイン)》

2014-04-07 15:46:38 | ポルトガルの旅
巡礼道の最終地 サンチャゴ・デ・コンスポテラ(スペイン)

星に導かれた羊飼いが、サンチャゴのでキリストの12使徒の1人のヤコブの墓を見つけた。
その後キリスト教徒の間で聖地とされ、各地から巡礼者が訪れる。
コンポステラは星降る野原の意味だそうです

スペインとは、風土も景色もポルトガルに近いように感じたが、言葉やユーロの値段が違った。



リスボンとスペインとの国境 この川を渡ればスペイン


車窓からのスペインの風景


サンチャゴを目指す巡礼が小高い山からサンチャゴを望む
この日は、嵐の丘になっていた


サンチャゴに着いた


旧市街





市民の憩いの公園 大木が並ぶ


公園からカテドラルを望む


旧市街










カテドラル



ヤコブの肩に手をまわして、願いを唱えてきたが・・・・・さて、とどくだろうか?


マリア様に抱かれたキリスト







世界遺産の証明書





徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾弐

2014-04-03 09:11:48 | はらだおさむ氏コーナー

さがしもの

いつものことだが、狭い書棚をひっくりかえしても探しものは見当たらずに、一冊の本に手が止まった。
『詩集 わたしの北京』
著者は、鹿島 龍男。
WHO?記憶が甦らない。
野間 宏の序文がある(一九八七年一月二七日)。
本に挟まれていた手紙には「・・・夫坂田輝昭の詩集を読みたいとご連絡を頂き・・・」とあった。
あぁ・・・、鹿島 龍男は坂田輝昭さんのペンネームであった。
かれの十三回忌に編まれた『峠の証言』は、最高裁まで行った「羽田事件」“被告”のドキュメンタリー風の作品であるが、この詩集は寄贈いただいた『峠の証言』への礼状で、わたしがおねだりしたものであった。
未亡人のお手紙では「・・・第三集もだしたかったようです」とある。
日中友好協会全国本部の専従役員として、日中国交回復のはるかむかしからその“活動”を支え、指導してこられた坂田輝昭さんとは、浅からぬおつきあいがあった。生前には日の目を見ることのなかった『峠の証言』の、その「証言」のいくつかには応対したこともあった。神田にあった本部の事務所で、上京の都度、よもやばなしに興じたが、文革中の広州交易会の「日中接待処(という名であったかどうか、現地での事務所)」ではピリピリした雰囲気であった。
この詩集の表題は『わたしの北京』とあるが、Ⅰ 季節外れの旅 Ⅱ わたしの北京 Ⅲ 五月、の三部作となっており、60年代の作品から85年の訪中時のものまで、20年間の作品から選び、編まれたものであろう。

野間 宏は序文で「幕あいのない舞台」をとりあげ、<怪しげに恐ろしいといってもよい詩である>と評している。
・・・・・・ 
  ひとつのドラマが終わり
  廻り舞台はどんな風景を用意しているのか
  登場するのは夜明けなのか
  それとも晩秋の季節なのか

  ・・・・・・
  今はプログラムがない時代
  今は幕あいのない時代
  新しい舞台に
  期待をかけ諦めてもいる時代

  さあドラマが始まる
  拍手をするのか席を立つのか
  静かに待っている客席を気にするな
  僕は怠惰だから何もしない


 さがしものを続けていても、やはり見当たらない。
 竹内 実先生の『中国という世界――人・風土・近代』(岩波新書)に目が留まった。表紙を開ける。「原田 修様  竹内 実 3/14 平21」と先生の自署があった。
 その序章に、例のカタカナのチュウゴクが出てくる。
 <チュウゴク>とは何か、と序章で提起された問題は、終章 <チュウゴクはどこへ>につながっていく。
 昨年の七月末に他界された竹内先生を偲ぶ会が催されたとき、わたしは先生の小品「王蒙さんのこと」を紹介・朗読した。
かねてからこの一文が先生のチュウゴク観の原点であり、また、わずか千二百字ほどの短文ながら、中国文芸史の数十年を「王蒙さんのこと」を中心に語り、まことに起承転結、さびの利いた、リズム感のあるすばらしいものと愛読していたからである。
 「新中国が成立しても、正直な話、わたしはあまりおどろかなかった。軍閥内戦時代、中国のいなか町に生まれ育ったせいで、政治的変化があるのが中国だという観念が、あたまのどこかにあったからかもしれない」と綴られていくこの一文は、先生の中国との原点であろう。
 結びは、このようになっている。
「先日、ようやく王蒙さんの自宅を訪問することができた。北京に伝統的な四号院で門は朱塗りだった。健在で、お元気だった。
 胡同(フートン=横町)についての随筆で、子供のころ父親の書斎には日本の書物があったと王蒙さんが記していたのを思いだし、質問した。東大の教育学部に留学した、よく日本人の来客があった、ただし軍人はひとりもいなかったといって、王蒙さんは微笑したのだった」
(初出『群像』1995年12月号、竹内実[中国論]自選集三<映像と文学>2009)

  さがしものは、なんだったのか。
  本をひもときながら、書き出していると忘れてしまった。
  年とはいえ、物忘れがひどくなってきている。
  そのヒントがなにか、・・・これも浮かんでこない。
  明日になれば、必要に迫られればまた思い出すことであろう(就寝)。

 
 おはようとパソコンのワードを開いている。
 もうさがしものは、どうでもいい。
 春の彼岸、中国の清明節もちかい、いまは死者との語らいのときだ。

 このところ、来日する中国の友人がすこしずつふえてきた。
現役をリタイアしたひとから、いつの間にか立派な肩書きのついた元留学生までさまざまだが、むつかしいはなしはしない。久闊を叙することしばし、アメリカで結婚した息子にこどもが出来た、ハーフだなぁ、国籍はどうなるのだろうか・・・、こどもが今年から中学生、へぇ~、いつの間に・・・、高橋真梨子の“桃色吐息”を歌っていたきみがねぇ~・・・と、はなしが回転する。
 だれも口にしないが、阪神・淡路のあの震災のとき、ひとりの女子留学生が倒壊した家の下敷きになって、不慮の死をとげた。上海出身の衛紅さん。92年の天皇訪中のとき、上海で皇后付の通訳として活躍したひと。
 あのとき、わたしの家も倒壊した。
 小学校の体育館で寝泊りし、電車がやっと開通して、事務所へ顔を出したとき、彼女の訃報を聞いた。結婚直後に単身来阪留学して、この地震に遭遇したのであった。彼女と同世代の元同僚たちは、いま、むかしばなしに興じ、中学生になろうとする子供たちのことを話し合う、“人到中年”になっている。
 かれらと同じ年ごろのとき、わたしはなにをしていたのだろうか。

 わたしも詩を書いていたときがあった。まとめたのは一集だけであった。
 これは「砂浜」と題する詩だが、なにを言いたかったのだろうか。

  砂浜に立った/波はよどんで押し寄せてきた
  砂は汗をふき出した/這いころばって逃げた

  砂浜に立った/漁船はインポテのようだった
  わずかな成果にうちふるえていた/ヘドを吐いて消えていった

  ・・・・・・
  ・・・・・・

  砂浜に立った/よどんだ波が押し寄せてきた
  足もとをくずして行った/にらみつけてやった

  砂浜に立った
                  (詩集「ふくらみ」より)

  
さがしものは、どうなったのか・・・                        
                       (2014年3月5日 記)