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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾壹

2012-05-24 15:50:07 | はらだおさむ氏コーナー
                
“あのころ”のこと      

 このところ むかしのことはよく思い出すが、いまのことはすぐ忘れる。
 老化が進行してきているということであろうが・・・

 76年の秋、ハイフォンの湾内見学で「ここは“海の桂林”といわれています。そのむかし、“封建中国”がわが国を侵略したとき、守護神の龍がまなこから火花を散らして敵を打ち破りました。そのときの“火の玉”が海に落ち込んで、このような美しい島々となりました」との説明に、わたしは思わず通訳の顔を覗き込んだ。“蒙古襲来”ということであろうが、まだベトナムが解放されて二年にもならないとき。物心両面でベトナムを支援した中国のことをそのようにいう筋合いではあるまいに、と思ったのである。
 ベトナム経済視察団に参加してタイ、ビルマ(当時)経由でハノイに着いたのは三日前。街のいたるところに空爆でえぐられた跡が残り、市内を貫流する“ホン・ホー”(紅河)の仮設橋には、中国製の“解放号”トラックが連なっていた。ハノイで貿易公司などを表敬のあと、きょうはガタガタ道を三時間かけてこのハイフォンにたどりついたのであるが・・・。
 沖合には無煙炭を引き取りに来た日本の貨物船、そして無数に散らばる“龍の火花”の岩礁、そこここでソ連や東欧圏の観光グループの歓声が上がる。

 翌日 小型機でホーチミン市と改称したばかりのサイゴンに飛ぶ。
 港はサイゴン陥落時に逃げ捨てられ、錆びついたクルマの墓場、ショロン(中華街)のシャッターは閉まったままで、関帝廟は香を焚いて膝まずくひとでごったがえしていた。ときおりアオザイのすそをひるがえして、女学生がスクーターで通り過ぎる、これはキタでは見かけない光景だ。
 昼食のあと、街なかをひとりであるいて、理髪店を見かける。
 シャンプーとひげそりのあと、二階へ上がらないかと誘われる。時間がないと丁重に断ったが、そうか、ここはまだサイゴンだと気づく。
 ホテルで夕食のあと、ショウがあった。
 ブラボー、ハラショーと歓声をあげるのは東欧圏の観光団ばかり。
 わたしたちは、三々五々と夜のサイゴンの探訪に出かけた。
 ネオンの消えた「BAR」があった。
 ドアを開けると、乳飲み子を抱えた女性が出てきた。
 ウイスキーはあるという。
 スタンドに連なって、オーダーする。
 GIがいなくなって、開店休業の由だが、英語が通じた。

 ハノイから北京に着いたとき、中国は四人組の逮捕でゆれていた。
 ベトナムでは、そのあと南部で粛清があり、ボートピープルが海外に漂流、中国がベトナムに“懲罰戦争”を仕掛ける。しかし、中国も文革終結直後で多難のとき、“専守防衛”の中国軍は、“百戦錬磨”のベトナム軍に手こずる。
 改革開放のあと、両国を結ぶ“友好関”は中国商品流入の窓口となった。


 マンダレーはミャンマーの北部、中国との国境に近い古都であり、国境貿易の拠点である。
 96年10月、住民の五分の一以上が中国系といわれるこのまちに、わたしは足を延ばしていた。
中国で「西部開発」がはじまったとき、先進地域が後進地域とタイアップして支援する方式がとられ、上海市は雲南省がその提携先となった。ことの次第は知らないが、文革のとき、上海の“紅衛兵”たちが雲南省のビルマ国境の僻地に下放されていたこととも関係があるのかもしれない。上海の知人はそのときの思い出を短編小説のいくつかにまとめているが、彼の“戦友たち”がひもじさに耐えかねてビルマ領に脱走していたという。
現地を案内してくれたのは、ラングーン大学出身の才媛。福建省出身の両親は漢方薬商を営んでいるという。
まず有名な寺院の案内、それはいい、しかし、である。門前で靴を脱いで、寺内のすべてを素足で歩くのには、正直、これには参った、庭園の砂利道などには、ほうほうの体(てい)。街なかで見かける若い僧侶はすべて素足である。これは修行のたまものであろうが、いつの日か、僧侶のすべてが靴を履いてくれたら、これは大きな商売になると、むかしどこかの講座で聞いた話を思い出していた。
マーケットでは現地のことばに、ときおり上海語らしきものがまじる。通路にまではみ出た、メイドイン・シャンハイの、テレビや自転車やTシャツ・・・の数々。
ホテルは台湾系とか、フロントではマンダリンが通じた。
一泊二日のオプションからヤンゴンに帰ると、ホテルの前を学生たちの静かな行進が続いていた。軍事政権と民衆との対立が再燃しかけていた。

ネウインのビルマ社会主義が崩壊した88年、アウンサンスーチー女史は母親の看護のために祖国に帰り、そのまま軍事政権と対峙して今日に至る。91年、スーチー女史の活動に対しノーベル平和賞が授与されたが、このころから軍事政権と中国との関係が強化され、両国首脳の交流からミャンマーの橋梁・港湾・道路建設などへの中国のプレゼンスが顕著になる。中国式市場経済を採用したミャンマーの軍事政権は、96年の雨期明けから「ビジット・ミャンマーイヤー(ミャンマー国際観光年)」を企画、外貨増収に乗り出そうとしていた。
 わたしが全日空の誘いでミャンマーを訪問したのは、この直前であった。
 日本からのアレンジでヤンゴン周辺の外資の縫製工場や観光資源などを視察したが、基本的には中国式の外貨兌換券システムが機能せず、外貨の法外な闇レートと外貨管理の複雑さには日系企業だけではとても対応しかねる市場と思えた。日本の商社や銀行の駐在員の話でもODAがらみの商談のみに関心があり、中国企業のミャンマー進出には神経を尖らしていた。
 それにもまして、わたしは民族衣装といわれる男性のロンジ、スカートまがいのその着用に疑問を感じた。極端な表現だが十メートルほど歩くたびに、このロンジを締めなおさなければならない。工場などのマネジャーのその動作を見ていると、これはとてもじゃないが日系企業にはお薦めできない市場と思えた。
 スーチー女史の自宅前を通り過ぎたとき、ジープは二台横付けされていたが、監視の兵士は所在無げに道路に座り込んでいた。外国人の立ち寄りは制限されていたが、まだ軟禁状況ではなかった。女史と軍事政権との対立がさらに強まり・・・、そして、今回の補欠選挙によるNLDの大勝で、軍事政権と西側諸国との関係が改善されようとしてきている。

 ミャンマーの人たちの大半が、仏教信者であるといわれている。
 その生活対応は、欧米でも中国でも、日本風でもない。
 スーチー女史は、「権力への反抗」について、次のように述べている。
 「私たちが権力への反抗ということで、思い描いているのは、インドの偉大な指導者マハトマ・ガンディーです。マハトマ・ガンディーは、平和的な手段で、穏やかな方法で、権力に対して反抗し、インド独立のために尽力してきた偉大な指導者です。私が言っている権力への反抗も、騒乱を起こすのではなく、穏やかに規律をもって、平和的な手段で、侵すべからざる国民の諸権利を獲得するために、不当な命令・権力に反抗していくということです」
(『アウンサンスーチー演説集』伊野憲治編訳・みすず書房1996年刊)

 あのころといまと、・・・明日と。
 「古続語(こどくがたり)」は、またまたと、次に・・・。

(2012年5月22日 記) 

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾

2012-04-19 20:10:58 | はらだおさむ氏コーナー
                
「チャイナ・ナイン」
      
 アマゾンから3月16日発売本の、先行予約受付のメールが入ったのは3月のはじめ、全人代の開幕前であった。遠藤 誉「チャイナ・ナイン-中国を動かす9人の男たち」、一瞬購入をクリックしようとしたが、待てよ、これは図書館で買ってもらって、大勢の方に読んでいただく方がいいのではと思い直した。
 地元の図書館から入手・閲覧の案内がきたのは4月上旬、第一号の閲覧者である。

 いつものクセで、まず、目次をにらむ。
 どうもこのところの悪いならいだが、推理小説をのぞいてはじめから読むことが少なくなっている。
目次の終わりに近いところに「第五章 対日対外戦略」があり、<民主党政権の失態>の文字が目に飛び込んできた。
 ページを開く。
 09年12月、来日の習 近平副主席の「天皇拝謁」の問題である。
通常一ヶ月前の申し出を「特例による会見」に持ち込んだ事件、「日本国民」の神経を逆なでし、世論は硬化した(ようにメディアは騒ぎ立てた)。
 <この「事件」により、本来ならば日本に好印象を持ったかもしれない習 近平を「日本」といえば、あの「バッシング」という連鎖反応へと導くきっかけの一つを作ったことだけはまちがいない>と筆者。
 なるほど、わたしはすっかり忘れかけていたが、「日本国民」の多くは習 近平とこの「天皇拝謁」事件は覚えているのであろう。そして、本質を捉えないで、つまらぬことに尾ひれをつけて報道しがちな日本のメディアは、まるで“いじわる婆さん”のように、機会あるごとにこの“事件”を思い出させることであろう。
 「天皇拝謁」には、悪しき前例がある。
 江沢民前国家主席の“土足でひとの家に入り込み”悪態をついた事件。
 さらに、その前の92年の「天皇訪中」のことである。
天安門事件のあと中国が世界各国から“経済封鎖”されているなかで、当時の海部政権や日中関係者が“時期尚早”の反対意見を抑えて実現したこの「天皇訪中」は、中国の関係者からも好感を持って迎えられ、これで“過去の日中関係”にピリオドを打ち、前向きの日中関係の到来かと期待したものであった。しかし、当時の外交部長・銭其琛の「回顧録」では、経済封鎖の“いちばん弱い環”である日本を打ち崩す手段のひとつとして、「天皇訪中」が利用されたことが述べられている。果たせるかな、日本の対中投資促進と同時に打ち出されたのは「愛国主義教育」であり、「愛国教育基地の建設」であった。
「天皇拝謁」には、複雑な歴史の積み重ねがある。
わたしは、民主党政権の対中政策の底の浅さを再認識したのであった。

遠藤 誉さんの本を最初に手にしたのは、数年前のこと。
「中国動漫新人類―日本のアニメと漫画が中国を動かす」(日経BP社)であった。一昨年の夏に急逝したわたしの竹馬の友は「虫プロ」創業者の一人で、テレビアニメ「鉄腕アトム」などを世に送り出した。わたしはかれに中国のアニメ動向を知らせるべくこの本を手にしたのであったが、裏扉のプロフィールを見るまで、著者は男性とばかり思い込んでいた。長春生まれの女性で、NHKの「大地の子」のあるシーンをめぐって、山崎豊子さんと裁判で争ったこともある由。わたしはアニメもさることながら、この「卡子(チャーズ)―出口なき大地」を図書館で借り出して読みふけった。以来、著者の本はほとんど目を通している。筑波大学名誉教授・理学博士、そして、中国の社会科学院や国務院関連組織の客員教授や顧問なども歴任、その中国情報には確固とした裏づけがあり、その分析には定評がある。

まえおきが長くなった。
いまあらためて、はじめからページをひもとく。
「序章 権力の構図」でこの本の表題にもなっている「チャイナ・ナイン」について、つぎのように語っている。
<実際上の「中共中央」はこの政治局常務委員会を構成している「9人の男たち」を指すと考えた方がいい。日本人が良く知っている「国家主席」あるいは「首相」も、この9人の中から選ばれる>
これは、いまのシステムである。
しかし、天安門事件直後の「中共中央」は、保守派の老幹部とそれに追随する北京閥で固められていた。これはわたしの憶測だが、小平は経済改革推進の切り札として送り込んだ胡耀邦や趙紫陽などが「6・4」で倒れ、老幹部たちの推挙する江沢民の総書記就任を阻むすべがなかったのではないかと思っている。
上海市長時代の江沢民はなにをしていたのか。
いまでも思い出すが、当時の上海市民の住宅難、交通難にたいしても江沢民は何の手も打っていない(毎週老幹部の夫人たちをお見舞いしていたと、スズメのおはなし)。のちに海峡両岸協会会長として台湾との交流推進を図った前任市長・汪道涵と江沢民の後任市長として上海の改造のために辣腕を振るった朱鎔基(のち国務院総理)の二人を称える上海市民は多いが、江沢民を良く言う人はいない。03年のサーズ発生のとき、すでに土地ころがしで疑獄事件が発生、のちの陳良宇事件や黄菊などの疑惑の黒幕は、すべて江沢民の息がかかっていると“シャンハイ・スズメ”は囀っている。
上海のひとたちは、いわゆる太子党=江沢民派閥という図式に疑問を呈している。ましてや、江沢民派閥が上海閥とひっくるめて話されることに、不快感を隠さない。
いまの広東省の汪洋書記は汪道涵の甥であるが、れっきとした“団派”であり、
胡錦涛の秘蔵子でもある。解放軍で汚職追放の先陣を切っている劉源上将は文革のとき毛沢東などに追い詰められ非業の死を遂げた劉少奇の子息である。かれも小平に可愛がられた“太子党”になるだろうが、だれもそうはとらない。

 中国はいま、「先富」の時代から「共富」を目指して動きはじめている。
 中国はアメリカに次ぐ世界第二位の経済大国になったが、ひとりあたりのGDPはまだ五千ドル程度(昨年)。一番の貧困地帯とされる青海省でも所得の向上は著しく、アフリカの貧困地帯とは異なる。しかし、“ひとはパンのみにて生くるにあらず”、所得格差の拡大は社会不安の因にもなる。いま中国の底辺でエイズ、買春、麻薬などが蔓延、妾や二号の存在が黙認されるいびつ(歪)な社会現象がみられる。これは「先富」が生み出した“負”の部分であり、汚職が蔓延する基因でもある。
 胡錦涛政権がなしえなかった「共富」実現への道は、今秋確定する次の政権にゆだねられる。
 遠藤さんはつぎの「チャイナ・ナイン」を本書で描き出している。
 10年先の、次の、次の政権を担うであろうふたりの飛び級“ナイン”入りをも予告する。もろもろの「WHO‘S WHO」は本書を繙いて見てほしい。八千万人をこえる党員のなかから選びぬかれた幹部たちが、基層の地方組織から政治経験を積み、九人のトップを目指して奮闘している。

 それに引き換えわが日本は・・・。
 一年も持たない政権、何も決まらない政治、それをバラエティ番組でけなし続けるメディア。この政治不信の助長は、戦前の日本にもあった。そして大政翼賛体制から“軍国主義日本”が生まれた歴史がある。
 遠藤さんのこの本を読みながら、こんなことを考えた。

 図書館への返却期限が迫ってきた。閲覧希望の予約が大分たまってきているようである。多くの方に読んででいただきたい本書、このへんでジ・エンドとしよう。
                  (2012年4月17日 記)

古文書徒然其之参

2012-04-05 23:23:23 | はらだおさむ氏コーナー
鳥取藩智頭宿を訪ねて



 所用で山陰へ出かけることになり、往路ははじめて智頭線を利用した鳥取経由とすることにした。
 ホームページで沿線みどころガイドを検索、智頭町が江戸時代鳥取藩の参勤交代の宿場で栄え、元大庄屋の「石谷家」には当時の文書が数多く現存することを知り、途中下車して現場を体感することにした。
 メールで町役場と連絡、教育課葉狩課長のアレンジで町誌編さん専門員の村尾康礼先生との面談が実現、3時間ほど参勤交代と智頭宿を中心にレクチャーを受け、関連史料をいただいた。以下はその報告と所感である。

 特急「はくと」は上郡から智頭までが第三セクターの智頭急行で運行され、志戸坂峠のトンネルを越えると鳥取県八頭郡智頭町に入る。さらにトンネルを4つ潜り抜けて到着した智頭駅からは因美線で鳥取、津山線で津山経由岡山につながる。大阪から特急で2時間、「みどりの風が吹くまち」(同町パンフ)に到着する。町面積の97%が森林で覆われ、その小盆地に智頭の宿場町がある。
 因幡・美作国境の志戸坂峠を越える智頭往来は、奈良時代以前から畿内と因幡地方を結ぶ幹線で、江戸時代に入り鳥取藩の参勤交代の道として初代藩主池田光仲の入国以後十二代藩主池田慶徳に至る二百十四年間に百七十八回往復されてきている。鳥取を朝9時ごろ出発した一行は千代川(せんだいがわ)に沿ってさかのぼり、用瀬で休憩(昼食)のあと三時ごろ智頭宿に到着、第一夜を過ごしている。帰路は江戸から廿余日目の最後の宿、疲れは隠せないものの四年ぶりの帰国に胸を弾ませ、眠れぬ夜を過ごしたことであろう。

 寛文十一年(一六七一)、藩主光仲は三月十四日に鳥取を出発、四月四日に江戸に到着している。その旅程と宿泊地はつぎのとおり。(鳥取県史第四巻四六五頁「お下り道中日記」)

 ①鳥取発智頭②平福③姫路④兵庫⑤郡山⑥⑦伏見(連泊)⑧草津⑨関⑩桑名⑪鳴海⑫御油⑬浜松⑭島田⑮江尻⑯沼津⑰小田原⑱戸塚⑲川崎⑳江戸着

このときは西国街道・東海道を利用しているが、木曽路も十二回ほど利用されている。いずれもが数百名に及ぶ集団行動、その手配の大変さは各藩に共通する。

智頭宿は鳥取から七里三丁(約三十キロ)、播磨・美作に通じる幹道にあり、鳥取藩主のみの参勤交代路であったため、高札場・牢・御茶屋があり目付けが常駐していた。
わたしが宿泊した河内屋旅館は江戸時代からの旅籠であるが、ご主人談では
二度の類焼で残っているのはあの階段のみと、玄関から奥へつながる廊下の先を指される。一間幅の広い階段ではあるが、手すりもなく踏み板も狭くて、初心者には滑り落ちんばかりの代物。這々の体で通された部屋の裏路地には、天保十四年(一八四三)の『智頭宿全図』によると、下ノ御茶屋があり、目付け屋敷や牢屋が付設されていたようである。
 この地図に記載の当時の智頭宿の戸数は、上町・下町・新町横町・河原町あわせて百八十三戸、同じ地区の平成十二年の戸数は河原町が八倍強に増えているほかは暫増で、それはこの下ノお茶屋の住宅化や御本陣の公民館などへの転用による変遷のみとみられる。
 この地図の五年後の嘉永元年(一八四八)、御本陣立替図と添書きのある『智頭宿御本陣之平面図』が残っている。本道筋の草津宿などと違って小ぶりではあるが、御本陣(主屋)は三拾畳座敷のほか大中小合わせて十四部屋、約六十坪(二百平方メートル)、御奉行所五部屋、約三十坪(百平方メートル)、留守居役住宅五部屋、約十坪(三十三平方メートル)計二十四部屋、約百坪の建屋があった。敷地は推測すると約二百坪、ほかに千代川沿いに約六十坪の御殿河原が描かれている(時にはここで鵜飼も催されたことがあるとか)。

 智頭街道に面して御本陣の表門があり、その斜め前に今も本・石谷家の邸宅が現存している(但し建物は明治以降改造が重ねられている)。
 前掲天保十四年の『智頭宿全図』を仔細に眺めてみると、つぎのようなことがわかる。
 表御門に面して塩屋伝四郎(本家)と塩屋喜右衛門宅がある。この表御門の左右は(東側は二軒の大工宅ほかを挟むが)塩屋直四郎、塩屋弥三左衛門宅となる。さらにその南は中御門に通じる路地まで、二軒の塩屋元左衛門(現・塩屋出店)と塩屋孫三郎宅が取り囲んでいる。ほかに往来筋に間口の狭い塩屋のへ宅もある。この御本陣を取り囲み、往来筋に軒を連ねる塩屋とは、何者か。
 パンフ「石谷家住宅」などによると、つぎのような説明がある。
 街道の中央に位置する石谷家は、古くから屋号を塩屋といい、元禄時代はじめ(一六九一)ごろに姫路から鳥取に移り住んで塩を商い、のち智頭に移住、分家を含む一族で大庄屋を勤めている。いつまで塩の商いをしていたのか不明で、地主経営や宿場問屋(一時期は酒造りも含め)を営み、幕末以降は山林地主から地場産業の代表資本家としてのプロフィールが描かれているが、私はもう少し屋号の塩屋にこだわりたい。
 鳥取県史第四巻につぎのような記述がある(五五一頁)。
 「元禄二年(一六八九)の諸運上定めの中に、他国・地塩とも一斗につき二分ずつ、ほか一文は改人が取ることとされ、領内の生産分のみでは塩不足で、領外塩、主として瀬戸内海の塩を移入していた。享保十七年(一七三二)の例では、奥地の智頭宿あたりでは、播州赤穂から陸送で塩を入れていたが、このころ塩が来なくなったため、諸口銭免除を願い出ている」
 堺屋太一の小説「峠の群像」は、赤穂浪士の討ち入りにいたる背景を良質の赤穂塩の独占販売ルートを巡る葛藤ととらえて話題を提供したが、姫路出身の「塩屋」が鳥取から赤穂藩の上郡に最も近い智頭に出店を置き、以後財を蓄え大庄屋としての地位を固めるそのサクセスストーリの根源は「赤穂塩」にあったことであろう。
 しかし、大庄屋は立場上は地方役人に過ぎない。
 年貢米の取立てから、諸役の管理まで藩と農民の間にあって務めを全うしなければならない。

 最近公表された石谷家文書の内、文化十三年(一八一六)子ノ五月十二日の御帰国をめぐる史料は、参勤交代にからむ宿場の状況を具体的に描出していて興味深い。
 まずお殿様は御本陣に宿泊の事ゆえ別格として、大庄屋に残る文書は御用人
大竹萬録以下家臣・従者の宿割りにふれている。
 御帰国御宿割帳に記載の宿屋は七軒、宿泊家臣の総数は一〇五人を数えるが、御用人宿泊の旅籠しの屋(房之助)でも上下三十四人内十八人相対払とあり、さらに若し手狭之時は近所へ下宿致させ候心得と記されている。他の旅籠においても似たような状況は生じていたに違いない。
 従者(付人)三百九十三人ほか駕篭かきなどを含む御供衆計五百七十八人は
当然のことながら「民宿」ということにあいなる。
 大庄屋石谷八左衛門は周辺の農村から調達した夜具、食器から風呂桶に至るまでを詳細に記録を残している。物資ばかりではない、人足触出し帳には往来の清掃人=安行(アンコウ)から御台所、御遠見などなど具体的な仕事を指定しての人足集めをそれぞれの村に命じている。その合計九百四十四人とある。大変な作業であった。当然それらの代償は藩から支給されているものと思うが、その記述はない。
 これらの史料を見せていただきながら不思議に感じたのは、これだけの物資と人の調達をやりながらトラブルの発生が一件も記されていない事であった。
 村尾先生のご指摘でこれらの史料をさらに注意して見ると、それぞれの項目に○とバツの印がついている、これで出し入れの帳合、確認をしていたのではないか、というのが先生のお話。四年に一度のこととはいえ、農民もさることながら、それを落ち度なくやり遂げねばならぬ大庄屋の苦労は大変なものであった。

 いただいた「古文書が語る『智頭の歴史』」史料集の第六集「『本石谷家文書』を読む」に「一、智頭宿、衰微の事」の項目があり、1、大庄屋石谷伝九郎、お嘆きの事 と 5、町屋見苦しく、お宿勤め成り難き事 の二件の文書はいずれも前述の文化十三年の御帰国にからんでいる。
 前者はこの御帰国前年の八月、作柄から判断して数年来の年貢未納分の借用銀の分割払いも難しいと返済猶予のお願いを「御格別之御評議を以御慈悲之段、
偏ニ奉願候」としている(これは翌春四月却下されている)。
 後者はまさに御帰国直前の三月のこと、智頭宿の年寄衆五人と庄屋が連名で
手元不如意にて「無拠宿並家居等茂甚見苦敷相成」と御帰国のお宿勤め難く、とした上で、「御米百五十石御救とし而被為 仰付候ハヽ難有奉存候」と大庄屋に揺さぶりをかけている。
 こうして迎えた御帰国である。
 個人的感慨は一文字も連ねず、几帳面に事実のみが記された文書の数々。

 「石谷家住宅」(国登録文化財・智頭町指定文化財)はいま因幡街道ふるさと振興財団により管理・運営されている。4号蔵(非公開)は「智頭史料館」となっており、多くの古文書が保管されている。東京大学史料編纂所の山本博文教授(講談社現代新書『参勤交代』の著者)は次のように語っておられる。
 「大庄屋という民間のまとめ役が持っていた史料というのは珍しい、幕府や藩だけではなく、民衆にとって参勤交代がどんな意味を持っていたのかと言う研究の一端になるであろう」(村尾康礼著「参勤交代と智頭宿の御接待」)。

 末尾ながらご指導いただいた村尾先生とアレンジいただいた葉狩課長に厚く御礼申し上げます。

参考図書及び史料=「鳥取県史第四巻(近世 社会・経済)」、芳賀 登ほか二名編著「天明飢饉史料・石谷家文書」(雄山閣)、村尾康礼著「参勤交代と智頭宿の御接待」(とっとり政策総合研究センター)同添付資料1~5、「古文書が語る『智頭の歴史』」第六集「『本石谷家文書』(同町教育委員会)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾九

2012-03-27 11:09:16 | はらだおさむ氏コーナー

                 
みずのわ放送局      


 みずのわ放送局。
 これは、北京在住の日本人、山田晃三さんのサイトの題名である。
 ことしは日中国交正常化四十周年のとしであるが、七二年のあのころ山田さんはまだヨチヨチと一人歩きをはじめたころであったか。いまは、中国風にいえば「人到中年」となり、初訪中が「六・四」の初春だそうだから、いまや「老北京人」(ラオ・ペイジンレン)といえる。

 わたしがはじめて山田さんにお会いしたのは、今世紀のはじめ、二千年の初秋に神戸で開催された日中関係学会の総会の席上であった。

 日中関係学会の創立にいたる経緯は詳らかには知らないが、故高橋正毅弁護士は設立発起人のひとりであった。かれとは対中投資を始めた八十年代からのつきあいで、専門家と実務家との交流を図るべく、わたしの協会で定期的に勉強会を開催していた。「六・四」のあと、困難な状況下であったが、「中国総合研究所」の設立を進め、対中投資を専門的な視野からフォローアップする体制を整えつつあった。そうした付き合いのなかで、わたしも関西日中関係学会の会員になっていたが、九六年のかれの急逝でその企画は頓挫した。その後しばらくして関西日中関係学会再建のため当座の連絡所として、わたしの方に本部役員から依頼があり、いつのまにかそれが関西事務所になっていった。
 山田さんとお会いしたそのとき、わたしは総会のパネリストのひとりになっていた。壇上には竹内実先生ほか諸先生に加え、中国からの女優さんもひとりつらなり、山田さんが通訳されていた。どういうテーマのパネルディスカッションであったのか、いまではまったく記憶が喪失しているが、そのあとのレセプションで山田さんが昆劇の荒技を披露されていたとき、わたしはこの女優さんにアタックしていた。カイ・リーリさん、NHKの「大地の子」で主人公・陸一心の恋人役を演じた女優さんである。彼女の来日には、どういう仕掛けがあったのか知らないが、同テレビドラマの時代考証をされた竹内先生の発案があったのかもしれない(陸一心の父親を演じた中国の名優・朱旭さんはこのとき都合がつかず、翌年の神戸での“道化座”公演時には来日された)。
 わたしはこの総会の直後に、日中友好協会創立五十周年祝賀訪中団に参加して 北京を訪問することになっていた。わたしはひと仕事をおえた山田さんに、北京でカイ・リーリさんと再会する約束を取り付けてもらった。
 北京で彼女に案内してもらったナイトクラブでの話は、いまも思い出すことがある。

 山田さんのこのサイトを教えていただいたのは、長年中国の貧困地区の児童や北京の民工学校で自作の絵本(日中両文)を読み続けてきているNさんである。
 「私の知るかぎりでは、中国と細く長く付き合ってきた人たちは、企業家でもなければお金持ちでもない。日本で質素な生活を送るごく普通の人たちだった。中国に深い思い入れがあり、生活費の一部を割いてボランティア活動をしてこられた人が多かった。・・・こうしたこれまで地道に交流を続けてこられた、いわゆる井戸を掘ってきた人たちは、いまの中国では歓迎されない」(第8回「ボランティア春秋」一〇年一月)と語る山田さん。
 わたしの『徒然中国』の読者でもあるNさんは、ときおりその読後感を送ってくださる。これは一昨年十一月のメール。
 「北京には『バッキャロウ』はないけれど、湖南の山奥では蔓延しています。
ホテルのTVはCCTVの限られたものだけ、老舎の『四世同堂』の日本鬼子が出てくる部分だけ。道で出会う若者は遠くから「ミシ」「ミシ」(メシ)と言ってはどっと笑う。
 二三度、不快を掃いたくて、突っかかって行って、まもなく仲良しになりました。『TVで日本人がいつも言ってるよ』、中国人の友人でもこのTVを見て不快を覚える人もいますが、実態をはっきり知りたいと思いつつ、果たせないでいます」
 昆劇の愛好家で、この二十年来のほとんど毎日、北海公園で練習してきている山田さんは、〇二年から何度か抗日映画やドラマに出演、〇四年大学院終了時には芸能事務所からもお声がかかるほどだったという。
 「『絶対に許せない』『中国に魂を売った』などと抗日映画に出演する同胞(山田など)を非難する日本人は多い。・・・建国後、中国共産党は多くの抗日映画を作ったが、そのほとんどが八路軍の兵士が遊撃戦で“日本鬼子”をやっつける勧善懲悪物だ。日本兵は背が低く、黒縁の丸眼鏡を掛け、鼻の下にちょび髭をはやし、腰抜けのように描かれ・・・映画はこれでもか、これでもかと日本軍の残虐性を暴いていく・・・抗日映画の作風に変化が生まれたのは、映画『鬼子来了』(邦題『鬼が来た』)が初めてといわれる。・・・八路軍の兵士は登場しないし、日本兵もステレオタイプではなく、生身の人間として描かれている。カンヌ映画祭でグランプリを受賞したが、中国では上映禁止となった。しかし、海賊版DVDが市中に出回り中国でも大きな反響を呼び、多くの監督がこの作品を目標に抗日映画を撮るようになった。・・・市場経済のいま、テレビや映画はエンターテイメントが主流で、視聴率と興行収入の良し悪しが最優先される。共産党軍だけが日本軍と勇敢に戦ったようなプロパガンダ作品を作ったとしても、誰も興味を示さないだろう」(中国の抗日映画➀、②、09年7月、8月)。

 わたしの訪中はすでに二百回をこえるが、駐在経験はない。一番長いのが第一回の六四年の二ヶ月余。国交正常化まではビザの関係でできるだけ長くと頑張っても、国内の業務のからみで一月が関の山。八十年代は二週間以内。九十年代は十日以内と短縮、仕事をやめたいまは三泊四日で年二回ほどに減ってきている。
 九十年代の初め、工場内の宿舎ですでに三年以上駐在していた日本人の総経理から、たまに来てなにがわかるかとケンカを売られ、同じところにじっと居るだけでは“井の中の蛙”、中国の動きがわかっているのか、と突き放した。
 このところ中国に駐在する日本人は多いが、日本人だけと付き合い、中国の人と交流の少ない人は、いくら長く中国にいても「中国理解」の乏しい人が多い。
 山田さんはすでに北京滞在二十年、中国人社会の「中国語圏」のなかで生活しておられる。この「みずのわ放送局」は一回が数千字、キチッとテーマを掘り下げて、政治の難しいテーマも双方の理解のプロセスを明らかにして説得力がある。とりわけその映画時評は、裏話も含めて興味がそそられる。
 この放送局は、今年の四月で開局満三年、すでに十九編が発表されているが、今年になってからはまだ一篇も発表されていない。最近、日本語講座の初級班と上級班の講師を担当されているとかでタイヘンだろうが、また直近のテーマで中国情報を届けてほしい。

 「みずのわ放送局」はインターネット検索で、すぐにそのホームページに到達する。是非その全文を閲覧していただきたいものである。

  ・・・みずのわ、水の輪、静かに、波紋を広げていく、みずのわ。

                   (二〇一二年三月二十五日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾八

2012-02-23 09:16:33 | はらだおさむ氏コーナー

                 
「シャンハイ」      


 封切りから半年もたったある週末の夕刻、ショッピングセンター地階のシネマで「シャンハイ」を観た。数名のシニアしかいなかった。エディングの字幕の最後にタイの会社や人たちへの感謝のことばが連なっていた。明かりがつくと、残っていたのはわたしひとり。この映画のシャンハイのセットがつくられたのはタイであった。そうだろうなぁ、いまの上海ではこの映画をロケで撮ることはできまいと思った。
 ネットで見た短評につぎのようなものがあった。
 「本作のような、多国籍の人物が登場する映画では、ステレオタイプで描きがちな人物造形を、ハストロームの演出は、偏りを感じさせない。・・・ホセイン・デアミの優れた脚本の力も無視できない。・・・五人の主役にそれぞれ見せ場が用意されている。反日レジスタンスの身を隠し続ける美女を演じるコン・リーが、凛として、魅力的。日本軍情報部を統括する大佐に扮する渡辺謙は、貫禄ある重厚な演技を披露する。上海に赴任早々、同僚が殺害され、その調査を始めるアメリカの情報部員にジョン・キューザック。日本軍と国民政府の双方に通じる青幇、三合会のボスにチョウ・ユンファ。アヘン中毒になりながらも、アメリカの機密を探ろうとするスパイ役に菊池凛子。・・・コン・リー、ジョン・キューザック、渡辺謙の絡むラストシーンが本作の白眉。エンド・クレジットでは、ラン・ランのピアノが切なく流れる。そして、エピローグで示される一節に、心が震える」(イズムコンシェルジュ)
 観た人にはわかる、うまいまとめである。

 わたしがこの映画で見たかったのは、コン・リーだったのか、シャンハイであったのか。
 「赤いコーリャン」のデビュー以来、チャン・イモウとコンビの彼女の映画はほとんど観ているが、かれと別れ、いまはシンガポールの国籍を持つ彼女のその後の主演映画は知らない。もう40をこえたであろう彼女が、この映画「シャンハイ」で主役を、それも夜の帝王の貴夫人と反日レジスタンスの地下指導者のふたつをどう演じわけるのか。彼女の醸しだす妖艶さには年輪が加わり、父を日本軍に殺されたその復讐を果たさんとする執念が画面を引き締めていた。  
そのムードは二十年ほど前の「菊豆」などにも通じるものであった。
九十年代の後半、安徽省の黄山に登頂のあと付近の民家集落を視察するツアーがあった。折角の機会なので、その近くと聞いていた「菊豆」のセットが残る地区までの旅程を組んでいたが、現地に着くとダメになったという。わたしは若いガイドに“ミサイル基地が出来たからだろう”とカマをかけたところ、“どうしてわかるんですか”とボロが出た。台湾との関係が緊張しているときであった。安徽省の山から台湾まで、それはミサイルの射程距離に適している。わたしの口から出まかせの話が、的を突いたようであった。「菊豆」にはそんな思い出も残る。

 この映画「シャンハイ」の時代背景は、一九四一年の十一月から十二月にかけて。わたしの「国民学校」一年生の冬、「大東亜戦争」勃発の直前のことである。当時の“魔都”シャンハイには、英米共同租界とフランスの租界があり、日本人は虹口付近を中心に居を構えて、軍隊を駐屯させていた。日本は紡績産業を核に多くの企業が進出、在留邦人も十万人近くとなり、日本との往来も盛んであった。芥川龍之介の勧めで上海に滞在した横光利一は、一九二五年の「五・三〇事件」を題材に小説『上海』を書いているが、いま読んでも当時のシャンハイの雰囲気を感じることができる。そのシャンハイでの、戦争勃発直前の情報合戦、スパイ活動がこの映画の主題でもある。
「米国諜報員ポール(ジョン・キューザック)は、親友の死を追いかけ、謎の男女と出会う。太平洋戦争開戦前夜、アヘン中毒のスミコ(菊池凛子)は、アメリカと日本、どちらのスパイであったのか?」
 そして、上海に集結していた日本艦隊のうち、魚雷を積み込んでいた空母が密かに上海の港を出航する、そして・・・。これは、「リメンバー・パールハーバー」七十周年の記念映画にでもなるのだろうか。

 『広場の孤独』で文壇にデビューした堀田善衛の上海滞在は、この映画より少し後の“敗戦前後”であるが、その作品『上海にて』は五七年に再訪した“いま”と“当時”の上海を観察して日本と中国という「宿命的関係」を考察したエッセイである。堀田は文革以後の上海は見ていないが、その“原点”は見据えている。
 わたしは貿易の仕事の関係で文革中も上海に出かけ、日中国交回復前には和平飯店の北楼二階に事務所を設けて社員も常駐させていたので、そのころの上海はかなり見聞きしていたが、それはまったくの“走馬看花”であった。巴金の『随想録』や元シェル石油上海支店長夫人・鄭念著の『上海の長い夜』などを八十年代後半に読んで、「四人組」の巣窟であった上海の「暗黒時代」を思い知った。

 十年ほど前になるか、東京でひとりの中国人外交官と雑談したことがある。
 文革がはじまったころ、日本のあるグループが中国との友好交流に対し、陰に陽に妨害し、サポタージュしたことがある。いまはそのグループも中国との関係を正常化させているが、そのとき被害を受けた当事者たちは釈然としない思いでいると話したところ、加害者は忘れやすいが、被害者は忘れること、許すことがなかなかできない。中国でも文革の傷跡はいまでは表面上は消え、“名誉回復”もされてはいるが、個々の人間関係となるとその修復はおそらく三世代以上かかるのではないか、とのはなしであった。
 日中や日韓の関係もそういうことなのであろう。
 日本でも“怨念”にも似たつぎのような話もある。
 幕末の戊辰戦争で“朝敵”とされた会津藩のその後。
長州藩であった山口県萩市からの姉妹都市提携の話にも、なにをいまさら、ということであったと耳にしたことがある。いまこれを書きながら、昨年の「3・11」のあとはどうであったのか気になって、ネットサーフィンした。山口県の萩市から義捐金や支援物資を届けられた会津若松市。市長がお礼に参上するとき、記者団に問われて“和解とか、仲直りではない。震災見舞いのお礼である”と答えられたということであった。<「賊軍」の汚名を着せられ、辛酸をなめさされた>この思いは、孫・子の代はおろか、ということになるのであろうか。

 映画「シャンハイ」から、はなしがずいぶん飛んでしまった。
 コン・リーが記者会見でつぎのように語っている。
 「わたしがこれに出たいと思ったのは、国際的な意味で重要性をもつ物語と思ったから。このライターは九年もかけて脚本を書いたのよ。中国人たちが戦争に直面している、その時代の物語をね。歴史を忘れてはいけない。戦争を忘れてはいけないの」(ムービーウォーカー)。
 映画は地方を巡回上映されているであろうが、最近DVDも発売された由。映画のシニア料金より高いが、公共図書館などにリクエストしてご覧になってほしい。見ごたえのある作品である。
                 (2012年2月16日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾七

2012-01-19 11:00:00 | はらだおさむ氏コーナー
                 
オンナヘンのこと

 オンナヘン・・・
 女ヘン・・・女が変・・・、そんなことを言っては叱られる。
 漢字のつくりのオンナヘン、そう、女偏のことである。
 はじめてフランス語の授業に出たとき、フランス語に男性と女性があると耳にしてオドロイタ。あのパリコンミューンを戦ったフランス人の言葉に、男女の区別があるのか、主語が男性なら述語も男性、そして女性も然り。なぜか?こんなことがアタマのなかで回転しはじめると、年老いた神父さんのフランス語が耳の外に流れる。なぜか?そんなことは、ピカピカの角帽をかぶったばかりの新入生にわかるはずがない。図書館へ行っても、これは調べようもない。突然、漢字ではどうなんだろうと漢和辞典をひもとく。あるはあるはオンナヘンには、佞、妄、妨、妖、妬、姦、怒、・・・・となぜか否定的な、蔑視の言葉が多い。わたしはなんだかエツにいって、母校(高校)の新聞へ「オンナヘンのこと」と題するエッセイを書き送った。

 「四人組」が逮捕されたとき、わたしはハノイに居た。
 初めての団体旅行、ベトナム経済視察団に参加してラングーン(当時)経由で到着、北爆でメタメタに壊された、穴ぼこだらけの街なかを歩き回っていた。
 帰路、中国民航で北京へ移動するとき、南寧空港でわたしの隣に座った人が手にする新聞に、軍服姿の妖怪変化な悪女の写真が載っていた。北京の知人の話では、数日前公衆トイレで新聞で顔を隠して用を足していると、隣の見知らぬ人から“逮捕”のニュースをささやかれた。さぁ、それからがドンちゃん騒ぎ、北京の酒はカラになってしまったよと、親指を立てた。
 日本と中国が国交を正常化してから、まだ四年目の秋のことである。

 「八十后」の親の世代なら、文革のあのとき、紅旗を押したてて農村に行った人も多いだろうが、そのころは男も女も同じ人民服、颯爽とした女性は“革命劇”映画のヒロインのみであった。
文革が終わり、操業が再開されても、元紅衛兵たちは工場の片隅でとぐろを巻き、饐えた雰囲気をかもし出していた。
 外資の委託加工の従業員もみな同じ人民服姿であったが、女性の襟元や袖口から可愛いブラウスがのぞき見られるようになってきた。まだみんなが貧しい時代であったが、春がやってきたのだ。
 そんなときのことである。
 何の用があったのか、上海の婦女聯本部へ行ったことがある。
 「中国の女性は天の半分を支える」、そんなことばが幹部の口から紹介される。幼児からの全託の保育施設も見学、なるほど女性の社会活動に万全の策がとられていると感心する。大きな工場では自前の託児所も設置され、女子労働者の便宜を図っていた。
 それはいい、しかしスローガンは「整理・整頓・清掃」など工場の3S、5S運動などと同様の目標であって、現実は未達成ということ。「天の半分を支える」ために、男も料理が上手になり、老人たちは孫の登下校をサポートする。「八十后」の青年たちにはこんな思い出もあるだろうが、「九十后」の世代はどうであろうか。コンビニでの朝食、電子レンジで暖めた夕食、そして親子三人バラバラの核家族・・・。

 日中の国交が正常化して、今年は四十年の節目の年。
 大阪万博のあと「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本は高度成長の波に乗り、アジアの経済活性化の起爆剤となった。そしていま、中国は上海万博のあと世界第二の経済大国となり、日本や世界の経済活性化に貢献しているが、そこでも日系企業が活躍している。
 中国の女性の足元をきれいに見せたいと設立されたストッキング工場、寝たきり患者の床ずれ治療のためにと請われて上海の郊外に工場を建てた医療機器メーカーなど、設立二十余年のいまも中国のユーザーに親しまれている。
 この四十年、ときおり激しい風浪にもまれることもあった日中関係だが、経済だけではない、双方の交流はあらゆる分野で根付いてきているのである。

 四年前小冊子『ひねもすちゃいな 徒然中国』を発刊したとき、竹内実先生に序文を書いていただいた。そのなかにつぎのような漢俳が織り込まれていた。

 「 せんじつ、漢俳の作句を依頼され、苦しまぎれに一句つくった。
漢字で五、七、五をならべるのが漢俳である。

      結 氷 層 層 封
      双 方 不 乏 遠 見 人
      毅 然 送 春 来
         氷結びてかさねがさね封ずるも
         双方遠見の人乏(とぼ)しからず
      毅然として春を送り来(きた)る
これは陳昊蘇(ちんこうそ)・中国人民対外友好協会会長のつぎの句をうけた。
     氷 雪 喜 消 融
     一 衣 帯 水 尽 春 風
     山 海 看 花 紅
        氷雪消融するを喜ぶ
        一衣(いちい)帯水に春風を尽くし
        山海に花紅なるを看る

陳会長のご尊父は陳毅外相である。それで拙句にお名前を入れ
させていただいた。(NHK中国語テキスト4月号に掲載) 」


 元旦に、いまは賀状も書けなくなった学友に電話した。
 死ぬほどではないが、まぁ元気や・・・もう出会ってから六十年になるのやなぁ、今年もよろしくな・・・。そう、六十年前のあのとき、のっけからつまずいたフランス語はとうとうモノにならなかったが、学友たちとのつながりは続いている。そして、歳をとるとオンナヘンにもやさしいことばがいくつもあることに気づいてきた。その一番が好、ハオ!だ。ガタガタと言う前に、まず握手をして、尓 好!(ニ ハオ!)と声を出そう。これが友好と相互理解のの出発点だ、尓 好! ニ ハオ!
                 (二〇一二年一月十四日 記) 

 



★はらだ おさむ(プロフィール)

  一九三四年、尼崎の寺町に生まれる。
  いまは宝塚の清荒神、むかしふうにいえば、摂津国川辺郡米谷村西梅垣内に住まいすること四十余年。
  高校時代、『三太郎日記』などの読み違いで、文系に理数は要らぬと勘違いして図書館にこもり読書三昧。
  高2の夏、テニス部の顧問に志望校を聞かれ、いまは新制大学、たとえ文系であろうと理数は必須科目と
  指摘されたが、ときすでに遅し。
  高望みした一期校は“サクラ チル”、二期校の大阪外大に入学するも語学は不適性。
  原爆反対など“平和運動”に明け暮れる。
  卒業後、日中ビジネスに参画。前期二十五年は貿易(輸出入)、後期は対中投資アドバイザー。
  草創期は熱中するが、成熟期になると人任せとなる性向。
  いまは七十の手習いではじめた“古文書”学習に熱中、余生を楽しむ。

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾六

2011-12-19 23:22:29 | はらだおさむ氏コーナー
                
城市(ちょんし)とシティと・・・      


 JR宝塚線の伊丹駅前に国の指定史跡・有岡城址がある。
 ご存知、荒木村重の居城であった。
 この城は城郭の周囲を「侍町」と「町家」で取り囲む、日本最古の「惣構え」の城で、この形式はのちに安土城から大阪城へと規模を拡大、日本の都市形成発展の基点となった。
 荒木村重がなぜ織田信長に「謀反」したのか、そしてこの有岡城をはじめ、尼崎城、花隈(華熊)城などがなぜ一年有余も抗戦しえたのか、いまでも研究者や物書きのテーマになっているが、いま取り上げたいのはそのことではない。この「惣構え」のことである。
 「惣構え」は“まち”を城郭で囲んで、一面住民(町民)の保護を図るものともみられるが、別の角度から見ると「一蓮托生」の運命共同体を強いるものでもあった。
 中国の「城郭都市」についてその歴史的経緯は知らないが、いまも“観光資源”として残されている山西省の平遥古城(ユネスコの世界文化遺産)を訪れるとその面影を知ることができる。高い壁で囲まれた「城内」には現在も四千軒以上の住宅が残っており、楼閣や邸宅も見ることができる。“外敵”からこの城が破壊されずに残ったのは、恐らく“内通者”の手引きか、“談合”があってのことであろうが、あの万里の長城ですら実質的には“外敵”の侵攻を防ぐ砦にはなったものの、その城門はいつも内通者により“平和的”に開門されたと耳にする。
 そして一九四九年一月北京(当時は北平)は無血開城され(そうだ、江戸も無血開城であった!)、十月一日、新政権・中華人民共和国の成立が天安門の楼閣上から高らかに宣言されたのであった。

 上海万博開幕のとき、わたしは次のようなことを書き綴っていた(『徒然中国』其之二十七「開幕で金」)。
 そのスローガンについてである。
 はじめに中国語のスローガン「城市 譲生活更美好」があり、英訳で「ベターシティ ベターライフ」になった。日本語のスローガン「より良い都市 より良い生活」は、英語の直訳である。
シティが中国語で「城市」となり、日本語で「都市」になったいきさつは知らないが、わたしの勝手な思い入れから見れば、「シティ」の言葉から城壁に囲まれた「城市」が思い浮かばない。ましてフランス革命などを戦った民衆が「♪オザールム シトワイヤン♪(市民よ 武器をとれ)」(フランス国歌「ラ・マルセイユ」)と歌う、シトワイヤン=シチズンの姿を思い浮かべることができない。「城市」はやはり権力者を中心に構成される、城壁に囲まれた街邑のイメージが濃いのである。
しかし、経済の発展は「城市」の外観も変えていく。
一部の古城を除いて、中国の「城市」のほとんどの城壁は取り払われ、城門が残されるか、地名として残るのみになった。そしていまは、城外の農民の「戸籍問題」が解決されるべき課題として残っている。

 ところで話は変わるが、日本の経済成長の発展過程をふりかえると、この「城市~国家権力」とたたかった「六十年アンポ」に思い至る。
 このときは二年前の「長崎国旗事件」が善処されずに、日中ビジネスはまだ途絶えたままであった。
 わたしは会社の企画部門に異動して、仕事も手につかぬまま「アンポ反対」のデモが国会周辺を取り巻くのを熟視していた。
 国会で「安保条約」が批准のあと、「反中国」の岸内閣が総辞職して池田内閣が発足した。日本の高度成長のスタートである。「所得倍増政策」は個々人のベースアップを直接的には謳うものではなかったが、わたしは異業種交流で耳にしていた「労働所得分配率」による社員の所得倍増と経営目標を企画立案して実行に移した。政府の目標は十年間での倍増であったが、わたしの会社では五年以内で倍増を達成した。日本の一人当たりGDP(米ドル換算)も十年後には二・四倍になっている。
 中国の経済成長のスタートをわたしは九十年の「浦東開発宣言」だとみている。「土地使用権の有償譲渡」を起爆剤に、二年後の小平の「南巡講話」を進軍ラッパにして十年後にはその一人当たりGDP(米ドル換算)は二・八倍になっている。ここからさらに中国の急成長が目立つ。〇五年には五倍、一〇年には十三倍となる。これは九十年からわずか二十年で達成の数字だが、日本では五十年かけて十倍強の達成率となっている。もちろん金額的にはまだ日本の十分の一強の水準だが、この直近五年間の中国経済の成長スピードには留意しておく必要がある。
 最近の中国のマンション価格の下落などで中国のバブル崩壊の兆候と囃し立てる向きもあるが、中国のエコノミストは日本の九十年代以降のバブル崩壊の轍を踏まぬよう国内経済の活性化に力を入れている。そのひとつが政府主導の
ベースアップの指標提示である。安い労働力に期待して進出した労働集約型の外資には厳しい措置だが、源泉徴収税率最低基準額の繰り上げもあって、中国の中間所得者数は二・三億人、都市人口の三分の一に達するといわれている(11年8月3日、中国社会科学院都市発展・環境研究所)。これは日本の中間所得者(年間所得三百万~五百万の給与所得者と同類事業所得者)人口の十倍以上になると見られている。また東京大学政策ビジョン研究センター客員研究員の田中修氏は諸データーを分析のあと「中国経済の現況は、日本の七十年代初期」とも指摘されている(「人民網日本語版」11年11月14日「日本のバブル崩壊、中国の現状とは異なる」)。中国経済の先行きについて「バブル崩壊」などと騒ぎ立てるヒマがあったら、日本の赤字まみれ財政の現状打開策に識者はもっと知恵を出すべきであろう。

 わたしは中国のこれからの問題点は、やはり庶民の「親方五星紅旗」~「城市」依存意識の払拭にあるのではないかと思っている。「所得倍増」はいつまでも政府におんぶに抱っこではなく、自分の行動で勝ち取るべきであろう(ダイジョウブさ、ポケットは二つも三つもあるよ、とカゲの声・・・ウ~ン)。
                  (二〇一一年十二月十三日 記)


  


『古文書徒然』其之貮

2011-12-06 22:30:42 | はらだおさむ氏コーナー
「岩屋村」のこと
        

 「岩屋村」にはじめて出会ったのは、宝塚古文書を読む会のテキストであった。
 灘や淡路の「岩屋」ではない「岩屋村」が、つぎの文中にあった。

  一 郷頼母子加入之面々名前并ニ歩付、御書記被成
    上村は岩屋へ下村は戸之内へ、来ル五日迄ニ無間違
    御差出可被成、右等之趣可得貴意如此御座候、 已上
       正月三十日        津田 九兵衛   
             (和田正宣氏文書・資料番号B―十二)

 「戸之内」なら尼崎だと、「尼崎市小字図」(尼崎市史第十巻 付図)を開いてみるとその詳細は出ているが、「岩屋」はない。「摂津名所大絵図」で猪名川を遡ると、田能の東にその名があった、いまは伊丹市域。田能(尼崎市域)の旧集落と猪名川をはさんで向かい合い、豊嶋郡境に接している。

 このテキストの「上村は岩屋へ下村は戸之内」の意味がわからなかったので、「読む会」のときお尋ねしたところ、飯野藩支配下の村を大庄屋が「上村」、「下村」と分担していたのであろう、とのことであったが・・・。

 「角川日本地名大辞典」(兵庫県)で「岩屋村」を調べると、冒頭の淡路、灘から神崎町、山南町、東条町にも同地名は存在するようだが、ここは伊丹市にしぼろう。
 「地名の由来は、窟があったことからとする説があるが(岩屋村紅葉紀行解説/伊丹文藝資料)、うなずけない(なぜ?=はらだ独白)。江戸期~明治二十二年の村名。摂津国川辺郡のうち。はじめ幕府領、慶安元年から上総国飯野藩領。寺院は、浄土宗福勝寺と同寺の門徒で紅葉の名所鼓流庵(明治期に廃絶)。
昭和39年、大阪国際空港の拡張工事により、旧集落西側の田地に全戸が移転した」とある。
 図書館の郷土史の書棚をいじっていたら、この「伊丹文藝資料」があった。
 その「岩屋村紅葉紀行 全」のページをひもといてみる。
 「写本。やや大形半紙本一冊、・・・・墨付八葉。窟村紅葉の庵室の画がある。
画は木村銭丸写。
 本文の筆者、作者はわからないが、銭丸・庭枝・庭雨・庭李・豊丸の五人が大阪を立って三国・新田・服部をへて岩屋村にある紅葉を見に行った紀行文。帰路は道をかえて久々知の妙見に参り神崎で遊女塚を尋ねている。・・・この紀行の年次は全く判らないが、本書の姉妹篇・・・末尾の識語にこう書いてある。
    于時文化十二歳乙亥正月中旬       」

 なるほど、岩屋村のことは少しはわかってきたが、「上村は岩屋へ」の「上村」に属する村々はどこになるのか、もう一度「名所大絵図」を眺めるが・・・???。
 あるとき、図書館の資料室で「市史研究紀要 たからづか」の目次を見ていたら、第十七号掲載の「飯野藩上方領分支配とその担い手についてー近世中後期を中心にー木村修二」なる文字が飛び込んできた。
 本書三四ページに「表3 近世中後期の大庄屋制の変遷(川辺郡)」がある。
 冒頭の御触は天明五乙已年正月三拾日(一七八五年)に津田九兵衛名義で出されている。「表3」では、この三年前の天明二年三月に「摂州川辺郡触頭 津田九兵衛・田中喜八郎」の記載がある。この時期以前、大庄屋は月番制であったが、天明九年までは津田・田中の両名義、寛政八年(一七九六年)から十二年後の文化五年まで戸之内の田中家、文化六年四月にはじめて「川辺郡触頭 岩屋村平治(早川家)」の名前が出てくる。以後川辺郡で大庄屋の二人制が定着する嘉永五年(一八五二年)まで、早川家、田中家、津田家が交代で大庄屋を務めていたが、こののち明治までは田中家(戸之内)、早川家(岩屋)の両名が、川辺郡の大庄屋を世襲している。
 飯野藩の上方領分はどうなっていたのだろうか。
 本書三拾ページの「表1」によると、摂津豊島郡(十三村)、摂津川辺郡(九村)、攝津有馬郡(六村)、摂津能勢郡(四村)、近江伊香郡(三村)の計三十五村、全石高一万一千百五石の内、川辺郡は三分の一弱の三千百七十石であった。
 川辺郡内の九村は、戸之内村、富田村之内、岩屋村、酒井村、桑津村、若王寺村之内、岡院村之内、米谷村之内、堀池村である。
 さてこの九村を上下どのように分けるか、もう一度「名所大絵図」を睨む。
 「上村」・・・岩屋村―米谷、桑津、酒井、堀池、「下村」・・・戸之内村―若王子、富田、岡院でどうだろうか、堀池の位置関係が微妙だが、これらを立証する資料にはまだお目にかからない。
 これでやっと冒頭の「御触」の疑問が解けたが、もう少し「岩屋村」を調べる。

 「伊丹市史 近世篇 5 村明細帳」(三二七ページ)に【岩屋村明細帳】(吉岡忠夫文書)があった。

   摂州川辺郡 岩屋村

   一 高三百八十石壱 斗 
           但、諸役勤高               

 以下つぎのような説明が綴られている。

右ハ文録三年九月十六日船越五郎右衛門様御検地
 御改高則御帳面御座候処、田畑持主名付・字名等
 古帳ニ而ハ難見分候ニ付、貞享二乙丑年奉願上名
 寄帳相認、殿様御役人中様御印御願奉申候処、御
 吟味之上貞享三乙寅年三月八日御印被 成下候、
 則只今ニ至右名寄帳用来申候、併当時諸役勤高并
 永荒・荒起・新開・流作場等此度書上申候通少も
 相違無御座候、                

 人口とその構成はどのようになっているのか。

  一 竈数八十軒       但、寺庵共
     内
      弐十壱軒          株 百 姓
      拾五軒           同別レ百姓
      拾弐軒           無役屋敷高持
      三拾軒           無  高  

 その所在地は・・・

  一 当村より所々え道法
     浜村御陣屋(*)え四拾七町  但、御陣屋より戌亥ニ当ル、      
    
京都え 拾弐里   大坂え 三里半    但、御城より戌亥ニ当ル、
     堺え  五里半   神崎え 壱里
     尼崎え 弐里    西宮え 三里
     昆陽え 一里半   小浜え 二里
     伊丹え 廿弐町   池田え 一里半
     多田院え二里半            」

   (*)浜村御陣屋・・・現豊中市浜三丁目付近にあった飯野藩攝津国内
藩領管理の役所(『源右衛門蔵』別冊五七ページ)
 
 その周辺の村々は、どうであったのか。

        東 勝部村 原田村  西 酒井村 森本村
  一 当村御田地領境
        南 田能村      北 桑津村 箕輪村  」

 これらの村々にとって、猪名川からの取り入れ用水は農業を営むにあたって死活問題であった。これらの「井(ゆ)」をめぐる争いは現在の周辺「市史」にも多くのページが割かれているが、この文書ではどのように記録されているのだろうか。

   猪名川表西桑津村地先
    一 九名井井堰    東郷・西郷九個村立会
     右用水分水樋或は小溝より九ヶ村え相掛り申候、
     則惣掛り高左之通ニ御座候、     
として、西郷(酒井村、森本村、田能村、岩屋村)の合計千四百三拾石、東郷(勝部村、原田村、桜塚村、岡山村)の合計弐千六十石、用水惣掛高合三千五百石と取り決めている。

 明細帳は以下の役職者の署名で締めくくられている。
   右之通此度御吟味ニ付委細帳面書記差上申候処相違
   無御座候、以上
      
岩屋根村 庄屋    幸 吉 郎
               年寄   六 兵 衛
            洞断    伊左衛門
        
“     九 兵 衛          
                  
   
                        


 秋晴れの休日、阪急川西能勢口から猪名川を下る。
 北攝の山なみが照り映えている。
 河川敷では、バーベキューを囲んでいるグループ、キャッチボールに興じる親子、行き交うジョギングのひとたち・・・。
 猪名川大橋を過ぎ、東久代の運動公園に差し掛かると川幅は狭く、ブッシュに遮られて視界から消える。
 背丈を越えるススキをかき分け、水辺にたどり着く。
 川幅は十メートルもあるか、対岸の高台では中年の夫婦が弁当を広げていた。
亀は甲羅干しに余念が無く、そのかたわらを水鳥が餌をついばんでいた。 
 そのまま川下へ十分ほど歩くと、流れが二分して前に進めない。
 茨にさかもがれ、ヒッツキムシだらけの、難行・苦行の末、やっと元の河川敷にたどりつく。外野を守っていた少年がキョトンと見つめるが、我ながらのむざんな有様。
 休憩を入れ三時間あまりで、目指す桑津橋に到着。
伊丹豊中線の西はJR伊丹駅、東は空港地下道に連なる。スカイランドHARADA(のちに猪名川流域下水道原田処理場の上部に設けられた多目的広場と知る)に沿って南折、道行く人に案内を乞い、岩屋八幡神社に到着した。裏手の墓地は、空港のフェンスに向かい合っている。

 道角に「岩屋の旧地名」という案内が建てられていた。
               「岩屋の地名の由来は窟(いわや)があったことからとする説がありますが、確かなことはわかりません。
                岩屋の集落は、もとは字下岩井にありました。氏神は八幡神社で、天正6年(1578)羽柴秀吉が伊丹城主荒木村重と戦ったとき、当時の境内に陣を布いたと伝えられています。               
         寺院は浄土真宗福勝寺があります。同寺の門徒鼓庵は紅葉の名所と知られていましたが、明治期に廃絶しました。(略)
    昭和39年(1964)に主要地方道伊丹・豊中線の南側一帯に大阪国際空港が拡張されたことにより、現在地に全戸が移転し、併せて八幡神社、福勝寺そして墓地も移転しました。そして伊丹・豊中線は地下道になりました。(略)

         ここを南下すると猪名川の堤防に突き当たる。その右手に田能遺跡、左手にごみ処理場の熱を利用したクリーンスポーツランドがある。ここから東は、わたしが独断と偏見でマイルーツと勝手に決めて繋っている「原田村」になる。
                      (平成拾九丁亥年壱月)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾五

2011-11-29 20:58:16 | はらだおさむ氏コーナー
                 
「孔子の教え」      


 夕刊の一頁広告に「映画館へ行こう!」があった。
 ふと「満足度ランキング」を見ると、その三位に「孔子の教え」があり、明日から梅田***で公開とある。
寒風のなか大阪まで出かけた。
ウイークデーの昼下がり、二十数名のシニアにご婦人がチラホラ、なんとなく盛り上がりに欠ける。

 わたしが「孔子」さまに関心を持ったのは、文革中の「上海服装交易会」のときであった。なじみの貿易公司の担当者に契約商品の生産状況を見せてほしいと話したとき、工場はいま休業中とのこと。納期が心配になったが、担当者も“メイファーズ(没法子)”とつぶやく。あとで会社の駐在員に聞くと、工場は天井からスローガンが一杯ぶら下がっていて、まるで“七夕”のよう、「批林批孔」大会が続いているとのことであった。林彪の批判はわかる、だがなぜ、孔子なのか・・・。
 七六年一月に周総理が逝去し、「批孔」が孔子になぞらえての“批周”であったことを知る。
その秋に“四人組”が逮捕され、文革は終結、改革開放への扉が開く。

 それから二十余年のあと、「孔子」は復活した。
 中国の小学校の教科書「品徳と社会」にも、孔子は偉大な思想家として復活、党校と目される中国人民大学の構内にも孔子像が建てられた。〇四年には曲阜孔子廟において政府主催の孔子生誕二千五百五十五年大祭が盛大に挙行され、全国にテレビ放映された。
 そして、五年後の建国六〇周年記念祝賀のひとつとして、この映画が制作費一・五億元(約二十億円)を投じてつくられたと知る。

 この映画(原題は「孔子」)のあらすじは、このようになる。

 紀元前五〇一年の中国。晋・斉・楚の大国三国に隣接する小国・魯の国政は、権力を握る三桓と呼ばれる三つの分家により混乱していた。君主・定公は安定した国を築くため、孔子に大司寇の位を授ける。孔子はその期待に応え、次々と改革を進める。殉葬など古い習慣の撤廃や新しい礼節の制定だけでなく、斉との同盟条約を無血で締結させ、外交でも力を発揮した。孔子の非凡な才能は各国に伝わり、他国の為政者は孔子に関心を寄せる。なかでも衛の君主・霊公の妻で実質的な権力者である絶世の美女・南子は孔子を気に入り、自国に引き込もうと画策する。衛や斉から孔子を招聘したいという書簡が次々と届き、孔子の功績は季孫斯ら三桓も認めるところとなる。
 紀元前四九八年、孔子は国相代理となる。
 孔子は三桓の影響力を弱めようとひそかに動き出す。しかし、孔子の弟子・公伯寮の密告により、そのことが三桓に知られてしまう。三桓は君主・定公を抱きこみ、孔子を魯から追い出す。孔子は家族を残し、旅に出る。顔回や子路をはじめ多くの弟子たちが合流する。孔子たち一行の諸国巡遊の旅の先には、数々の出会いと別れのドラマが待ち受けていた・・・(goo映画)。

 オーストリアとの合作映画「愛にかける橋」などを手がけた中堅女性監督(脚本も)のフーメイ(胡玫)、孔子役はハリウッドでも活躍中のチョウ・ユンファ(周 潤発)だが、わたしはどちらも初見。監督は「孔子の高貴さと内に秘めた男らしさも演じられるのは彼しかいなかった」と、チョウにベタ惚れだが、いいオトコではある。
 五年の歳月をかけ、巨額な制作費をかけたこの映画は、俳優だけではなく、戦闘シーンの壮大さや、監督の思い入れで孔子が幸せな時代は「暖色」、失意の時代は「寒色」とカラートーンにも気を配っているとあるが・・・ウ~ン、どうであったか・・・。

 わたしがこの映画でいちばん気にかかったのは、子路の死の場面。
 映画の後半、孔子たちは十数年の流浪のたびの末、祖国・魯への帰国が認められ、吹雪の湖上を渡るとき。突然氷のきしみ割れる音がして、子路は馬車ともに湖底へ落ち込む。心配げにのぞきこむ孔子たち、と、子路は木簡を抱えて浮かび上がり、そして、それを渡すとまた氷の湖底へ。両三度それを繰り返して湖底から木簡を拾い集め、そして息絶える。氷のような、その冷たい子路に取りすがり、嘆き、泣きくれる孔子とその弟子。
 こう書いてみれば、ずいぶんと感動的な場面のはずだが、木簡=論語と強調しているかのようなこのシーンの作り方には少し興ざめした(論語は後世、孔子の弟子たちがその言動を纏めたもの)。そして、その子路の描き方である。
 文革中、なにかがあると“学雷峰”というキャンペーンがあった。それは毛沢東の“為人民服務”の学習運動として、“滅私奉公”を強要するものであったが、この子路の描き方も、それに類してはいないか。
 八九年のあの事件のあと、早くも七月から“学雷峰”のキャンペーンが党内で繰り広げられた由耳にしていたが、九月になると学習会では“居眠り組”が多数を占めていたという。文革のあと、毛沢東も“誤りがあった”とされるなかで、その時代の“学雷峰”の精神を学ぶということの「阿呆らしさ」が居眠りを誘ったのであろう。
 子供たちに“愛国教育”を施しても、それは道徳律とはならない。
 シンガポールのリー・クワンユー元首相がその伝記のなかで書いているという「中国の汚職や腐敗の根源は、文革時代に起きた正常な道徳的基準の破壊である」という指摘も一理はあるだろう。そして胡錦涛政権が「和諧社会」実現の精神的バックボーンとして「孔子の復活」をとりあげたのも、理解はできる。だが、道徳律の復元には、長い期間の社会的教育が必要である。


 この映画「孔子」の中国の評判はどうであったか。
 ネットでは「聖人は庶民に勝てず?『孔子』人気の低迷、『アバダー』通常版再び映画館へ」というコラムがあった。
 官製?映画は、かなりの苦戦模様、児童の集団鑑賞、山東省の組織的動員などいろいろ、人気映画「アバダー」の春節期間の上映制限もあったようである。
 日本でも自民党議員向けの特別試写会も催され、それなりの前評判で、わたしもそれに釣られて足を運んだのだが、わたしはおかげで久しぶりに「孔子」のことを考える時間がとれた。
 そして、書棚をかき回して中島敦の文庫本を探し出し、何十年ぶりかで「弟子」を再読した。
 さらに、4月に読みかけたままになっていた竹内実先生の『さまよえる孔子、よみがえる論語』(朝日選書)を再度手にするきっかけになった。「第一章 曲阜への旅 第二章 孔子の時代 第四章 新しい国家―吹き荒れた文革の嵐」 はすでに読んでいた。未読は「第三章 列国周遊の旅・晩年」と「終章 没後の孔子評価と金言・格言・ことわざ」である。
 これらはこの映画を観た功徳といえようか。
 この映画を見ながら「孔子」と「中国」を考える機会にしていただけたら幸いである。
                   (2011年11月27日 記) 

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾四 

2011-11-07 00:25:23 | はらだおさむ氏コーナー
                 
老百姓(ラオパイシン) 老朋友(ラオ ポン ヨウ)
      


 二年ほど前 ある読書会で『日本中世の百姓と職能民』(網野善彦著・平凡社ライブラリー)を輪読した。難解な表現が多く、わたしが理解できたことはただひとつ、「百姓=農民」という概念の固定化は明治になってからであって、中世では「『百姓』の語は、一貫してその本来の語義―さまざまな多くの姓をもつふつうの人という意味で使用されていた」(本書P9)ということであった。網野さんは史実に基づいて著述されているのでその語源的説明はないが、それはおそらく中国語に起因するものであろう。いまでも中国語で“百姓(パイシン)”は、庶民~平民を指す言葉である。つまり、百の姓(かばね)を持つ人々ということになる。
 「人民」と「平民」または「庶民」とどう違うのか、わたしには説明しがたいが、学生のころからわたしは毛沢東の「人民、人民こそが世界の歴史を創る原動力である」という言葉に愛着を感じていた。
 「歴史を創る」、いい言葉ではないか。

 わたしは一九五七年に日中ビジネスに参画し、六四年にはじめて“竹のカーテン”-国交未回復の中国に香港経由で渡航した。北京で仕事を終え、帰路上海に立ち寄ったとき、“公私合営”で南京路の商店街はさびれていた。足を延ばして、むかし日本人が多く住んでいたという虹口の路地を歩いていたとき、老婆がいきなりわたしに唾を吐きかけて、なにか叫んだ。わたしが日本人の看板を背負って歩いていたわけではないが、老婆に何かいやなことを思い出させたのであろう。わたしは足早に立ち去った。
 一九七〇年は大阪万博の年である。
 まだ中国とは国交が正常化されていない。
 万博の出展は、「中華民国」であった。
 わたしたちは、中国との国交正常化を求めていろんな活動をしていた。
 百貨店などの「大中国展」は、「中国を知り、知らせる」一つのデモンストレーションであったが、関係団体などは関西財界筋などにも働きかけ、ひとつの国民運動となってきていた。
 七二年九月二九日のあのとき、百貨店の大中国展の会場でクス球が割れ、“祝 日中国交正常化”の垂れ幕が下がったとき、そうだ、わたしたちは「歴史を創った」のだと胸を熱くした。
 九二年は小平の「南巡講話」で中国が改革開放に向けて本格的に動き出した年であり、天皇訪中が実現した年である。わたしはこれで日中間の「過去」にピリオドを打ち、未来志向の両国関係が構築されるものと期待したが、「愛国教育」が立ちはだかる。
 二〇〇〇年の秋、日中友好協会設立五十周年記念の交流会が北京で開催されたとき、わたしは盧溝橋近くの「愛国教育基地」を参観して、唖然とした。そこに展示してあるさまざまな事跡に苦情を申し述べるのではない。日本人として過去の歴史的事実に向き合い、二度とこのようなことは繰り返してはならないと思う。しかし、そのとき参観に来ていた低学年の小学生たちが「七三一部隊」の“生体実験”の、カリカチュアルな模型にたわむれ、興じる姿を見て、慄然とした。この子たちの「日本観」がこれからどうなるのか、わたしは随行の北京市のひとにその懸念を述べたのであった(後日その展示は撤去されたと耳にする)。
 〇五年は「反日」が燃え上がった年だ。
 わたしたちの九賽溝ツアーは参加者が半減し、地元のガイドは「ヨーカ堂」でのショッピングを危惧したが、わたしたちは熱烈歓迎!を受けた。昼食後、雨上がりの公園を散策しているとどこからか楽器の音が聞こえる。のぞいてみると、中高年の人たちの集いであった。かれらはわたしたちを見かけると、突然、九ちゃんのあのうた♪幸せなら手をたたこう・・・を奏ではじめたのである。日本人と知っての、即興の「熱烈歓迎」であった。わたしたちも手をたたき、足を踏み鳴らしたのはいうまでもない。
 その秋、雨の降りつのる上海の浦東で立往生していたわたしに一台の空車が近寄ってきて、途中私用でちょっと寄り道するがよかったらどうぞとドアを開けてくれた。上海郊外の松江出身の運転手、上海に仕事に来て数年になるそうだが、松江の日系企業のことなどを語り合ううちに、かれは突然真剣な面持ちで聞いてきた。「お客さん、中国はホントに日本と戦争をするのだろうか」と。
 中国ではマスコミ情報を信用するのは30%くらいといわれているが、かれはそのまじめな「老百姓(ラオパイシン)」であるのかもしれない。わたしは日本と中国が戦争をすることは絶対にない、と言い切った。かれは、そうだよな、松江で働いている日本人も、タクシーに乗る日本人もいい人ばかりだからな、とつぶやいた。

 先日 湯上りにテレビをつけたら、NHKの「爆問学問」をやっていた。
 登場は中国でいま一番有名な日本人・加藤嘉一さんとか。27歳の青年であったが、わたしは初耳。「爆笑問題」の太田“総理”がどう切り込むのかと見ていると、まったくやられっぱなしである。話の筋が通っている。「暇人」の話は、ウン、そうかい、とはいえなかったが、納得、納得で30分はあっという間に過ぎた。
 翌日近在のショッピングモールの書店で、「加藤嘉一」で検索して探してもらって手にしたのが『われ日本海の橋とならん~内から見た中国、外から見た日本―そして世界』(ダイヤモンド社)である。<反日デモとは「反・自分デモ」である><チャイナリスクとジャパンリスクの関係>など鋭い指摘がある。
筆者は高卒後北京大学に国費留学、〇五年の「反日」デモの現場視察の感想を香港フェニックステレビとの対談で語り、爾来その率直な、媚びない語り口で数多くの本(中国語)を出している。いまの肩書きは、英フィナンシャルタイムズ中国語版コラムニスト、北京大学研究員、慶応義塾大学SFC研究所上席研究員と同上香港フェニックステレビコメンテーターとある(同書プロフィール)。かれのブログは三年で数千万アクセスに達し、胡錦涛国家主席も目を通しているとのこと。
 この数字は小さいものではないが、単純に計算すると中国の五億の「網民」の十人に一人が三年に一度かれのブログにアクセスしたということになる。
 これと比較対照してチェックできる数字ではないが、『国際貿易と投資』の〇八年上期の統計によると在中国の日系企業数は五万余社となっている(71号)。ここからはまったく勝手な数字の羅列になるが、一社平均の従業員数を仮に二百人とするとその総数は一千万人となり、家族数を平均三人と見ると、実に三千万人のひとが日系企業に関係してくる。これは加藤嘉一さんのブログのアクセス数以上に注目しなければならない数字であろう。さらに日本人が一企業に平均五人常駐しているとみると、二十数万人の日本人が三千万人の「老百姓」と日常的に交流しているという勘定になる。ふだんは話題にもならないこの数字をどうとらえるか。
 別の角度から見よう。
 いま在日の中国人は数十万人に達するといわれている。
 この人たちが日常的に接触している日本人をひとり平均十人とすると数百万人となる。こうして見てみると、中国と日本のそれぞれ名も知られない「老百姓」たちの交流がいかに大切であるか、おわかりいただけることであろう。
 日本人は文句タラタラであるが、それでもマスコミ情報の70%を信用しているといわれている。加藤さんも日本のメディアを利用して、中国情報をどんどん流してほしい。しかし、繰り返すが「老百姓」の日常の交流がより大事であり、その付き合いが「老朋友」の関係になったとき、お互いの国同士の関係がゆるぎなきものになることと信じたい。
 「われ日本海の橋とならん」加藤さん がんばれ、「老百姓」がんばれ!
                     (2011年11月4日 記)